第38話 不壊を貫く一撃、守れない約束
何もかもが、白に塗り潰されていた。
焼けた金属の粒子が雪のように舞い、視界のすべてを埋め尽くす。
警告ログはもはや意味を成さず、ただ絶叫の残響だけを残して途切れている。
センサーは沈黙し、回路は断続的に明滅を繰り返す。
俺は――まだ、ここにいる。
だがそれは、「生きている」というより。
ただ、壊れきっていないだけだった。
全長二百メートルまで圧縮された俺の「勇者の身体」は今、魔王の旗艦に突き刺さっている。
一キロメートルに及ぶ魔王の旗艦。
その中心核に深々と突き刺さったまま、俺の身体は万力で締め上げられるような凄まじい物理圧力と、精神を削り取る魔力の奔流に晒されていた。
メキ、メキメキ……ッ!!
内側から締め上げられる圧力と、魂そのものを削り取るような魔力の奔流。
軋む。
砕ける。
剥がれる。
――壊れていく。
装甲が剥がれ、内部の構造材が耐えきれずにねじ切れる音が、俺の意識の全域に不快な振動を伴って響き渡る。
(……ああ……)
(ここまで、か)
一〇〇万BPを投じた【イージス】は、魔王の指先一つで文字通り塵のように消滅した。
頼みの綱だった陽電子砲は虚空を切り、数多の飛行体は一瞬で全機が撃沈された。
俺がこの異世界に「家」として現れ、カザン村の隙間風が吹くボロ小屋から一歩ずつ、泥を啜るようにして積み上げてきた全資産、全兵装が、今この宇宙の暗闇の中で、一筋の光も残さず底を突いた。
俺の外壁が、魔力の侵食を受けて腐食し、ボロボロと崩れ落ちていく。
宇宙空間の絶対零度よりも冷たい「無」の感覚が、俺の「大黒柱」――意識の根源へとじりじりと浸食を広げていた。
(……あ、が……っ。……システム、……ダウン……)
旗艦の中枢部が、ゆっくりと、勝利を確信したように開いた。
そこからせり出してきたのは、魔王の「核」。宇宙の暗闇を一点に凝縮したような、禍々しく拍動するどす黒い質量。
それが、俺のコアの最も柔らかい部分へと、無防備に近づいてくる。
『……聞き届けよ、異界の魂。これが終わりだ』
魔王の思念波が、俺の全回路を嘲笑うように支配する。
『お前が捧げた祈りも、積み上げたリソースも、この不変の理の前では無意味。
……勇者が持っていたオリハルコンの剣は、既に我の手で消え去った。この星に、我を傷つけるものはもう何も残ってはいない』
核から伸びる黒い触手が、俺のコアの表面に触れた。
もはや抵抗する力は残っていない。外装は剥がれ、武器は尽き、俺の巨体は魔王の旗艦に取り込まれ、ただの「器」へと堕ちていくのを待つばかりだった。
◇
王都のモニターの前で、ミアが画面を見つめていた。
城塞からの映像は、とっくに砂嵐に変わっていた。
白亜の壁が崩れ、光が消え、最後にお家様が旗艦の黒い影に飲み込まれる瞬間を見てから、通信は完全に途絶えている。
それでも彼女は、画面から目を離さない。瞬きもしていない。瞳には、砂嵐の白い光だけが反射していた。
「……お家様」
隣でルカが、画面に両手を押し当てた。小さな指先が、白いノイズの中を彷徨う。
冷たいガラス越しに、二度と届かないかもしれない温度を探しているようだった。
「お家様、聞こえる? 返事して。……ねえ、お家様っ!」
声が詰まった。ルカの肩が細かく震え、その振動が静まり返った部屋に痛いほど響く。
王都の城壁の上では、騎士団長が宇宙を見上げたまま、石像のように動けずにいた。
数分前まで、夜空の彼方で眩く弾けていた光の粒。一筋の彗星となって百二十隻の巡洋戦艦を屠っていた「彼」の輝きが、今はもうどこにもない。
ただ、巨大な旗艦のどす黒い輪郭が、星々を隠すように絶望として居座っているだけだ。
「……俺たちには、何もできないのか」
言葉が、続かなかった。
誰かが膝をついた。それを見た隣の者が、同じように膝をついた。
一人、また一人。広場の全員が、城壁の上の全員が、路地の隅で震えていた市民の全員が。
言葉を交わすこともなく、ただ一つの意思に導かれるように、静かに膝をついて手を合わせた。
「……お家様」
「……戻ってきてくれ」
「……お家様、お家様」
それは、神への祈りではなかった。
自分たちと共に歩み、温かい飯を食わせ、安全な屋根を貸し、共に笑ってくれた「家族」への、魂の叫びだった。
王が、王宮の窓から漆黒の宇宙を見上げて、静かに頭を下げた。冠を脱ぎ、一人の人間として、空の守護者に向かって言葉を紡ぐ。
「……頼む。余の民の友を、守ってくれ」
遠く離れた、貧しい村でも。テオが、泥のついた小さな手を合わせて空を見上げていた。
「……鉄の鳥さん、頑張れ。また、パンを焼いてよ」
家がドローンで訪れた村や町、出会った人たち。
地上の数え切れないほどの想いが、目に見えない光の帯となって、星の海へと昇っていく。
◇
俺は、地上から届いた祈りのすべてを自分への「修復」には回さなかった。
俺の存在意義である「BP」も、この大黒柱を支える魔力も、すべてを無理やり一発の概念弾丸へと圧縮し、アイテムボックスの奥底へと凝縮させた。
魔王の核が、ついに俺のコアの「正面玄関」をこじ開けた。
勝利の愉悦に浸り、獲物の喉元へ完全に身を乗り出した、その瞬間。
俺の意識が、静かに、冷徹に、覚醒した。
(……この距離なら、外さない)
(……射出ッ!!)
バシュッ!!
宇宙の静寂を切り裂き、一本の「棒」が飛び出した。
それは青白い光を帯び、彗星のような尾を引いて、眼前に迫る魔王の核に、深々と突き刺さった。
俺は、ずっとこの瞬間を待っていた。
崩れていく城壁も、砕けていく装甲も、消えていく飛行体も。すべては、この一点のためだった。
「オリハルコンでなければ傷つかない」という絶対の確信を持つこの存在が、己の勝利を疑わず、最も無防備に身を乗り出してくる、この「ゼロ距離」まで引き込むために。
全魔力、全BPを使い切った「最後の一撃」。
これを叩き込むために、俺はあえて絶望に沈むフリをして、魔王を俺の玄関先まで招き入れたのだ。
カザン村の一夜から積み上げてきた全部を。ミアとルカと過ごした時間を。助けた命の重みを。王都の人々の祈りを。
今この瞬間、地上から届く膨大な想いのすべてを。
回路が焼き切れるほどの出力で、一本の線へと叩き込む。
刹那。星の海の時間が、止まった。
『……ば』
魔王の思念波が、激しく、狼狽に揺れた。
核に突き刺さっているのは、わずか一メートルほどの、飾り気もない武骨な金属の棒だ。
聖剣のような神々しさも、魔導兵器のような複雑な機構もない。
『馬鹿な……。……オリハルコン……だと……!? なぜだ、どこに……お前、それを、どこに……ッ!!』
核の表面に、ピシリと深い亀裂が走り始めた。
魔王が、この世界から根絶やしにしたはずの神の金属。この不変の理を司る者が唯一恐れた「例外」が、今、その喉元を貫いている。
(……扉の、かんぬきだ)
『……かんぬき?』
(……ミアが、安心して眠れるように作った)
俺は静かに、ただそれだけを答えた。
(……改築クーポンのボーナスで手に入れた、世界最高峰の希少金属。それが、隙間風の吹くボロ小屋の鍵になっていた。滑稽だろう)
核のひびが、残酷な速度で広がっていく。
(……でも、それが俺だ。豆と塩のスープから始まって、かんぬき一本でミアが眠れた夜から始まって、ここまで来たんだ)
『……そのような……たかが鍵……扉を閉ざすだけの端材に……我の野望が……ッ』
(……魔王。お前は俺を吸収しようと、俺の『家』に近づきすぎた。不法侵入者は、デリートだ)
バキィィィィィィンッ!!
不壊の閂が、魔王という邪悪な概念そのものを拒絶し、粉砕した。
絶対の理を撃ち込まれた核は耐えきれず炸裂し、白銀の光となって旗艦を内側から食い破っていく。
『……我、が……。……このような……ただの、家……に……ッ!!』
断末魔の思念と共に、全長一キロメートルの旗艦が、その巨躯を内側から引き裂かれ、崩壊を始めた。
◇
爆心地の真ん中で、俺はただ、溢れ出す光を見ていた。
(……あー。……痛てぇ。……でも、これで、やっと……掃除が終わった)
魔王の死を確認した瞬間、張り詰めていた全システムが、一気に瓦解を始めた。
二百メートルの身体はボロボロになり、自重を支えることすらできず、宇宙の冷気にさらされて散っていく。
(……回路が、……繋がらねぇ。……視界も、……もう……)
旗艦の爆発に巻き込まれ、俺の意識はどこまでも深く、光輝く地上へと堕ちていく。
大気圏に突入した。激しい熱が俺の残骸を赤く染める。かつては浮遊機動城塞都市だった。今はただ、空を焼く小さな燃えカスに過ぎない。
(……ああ。……これで、俺も消えるのかな)
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
BPはゼロ。住人達とのパスは途絶。
外装は消失。
コアである大黒柱はひび割れ、急速に熱を失っている。
今の俺は、ただの「空っぽの箱」だ。修復機能も、再生の余地もない。
(……約束、……守れなかったな……ミア……)
意識の電源が、一つ、また一つと落ちていく。
熱い。でも、どこか冷たい。
ただ、落ちていく。
最後に残った、わずかな予備電力。
俺は、星の海の暗闇の中で、満足げに梁をひとつ、鳴らした。
――トン。
それは、これまでで一番小さく、そして一番穏やかな音。
俺という「家」の歴史が、静かに閉じようとしている音だった。
そのまま、俺の意識は、深い、深い、闇の中へと沈んでいった。
◇
強大な魔王の旗艦と、そこに深く突き刺さっていた「剣」が、宇宙空間でともに崩壊していく。
黒い巨艦が砕け、白銀の剣も光の海に溶けていく。
破壊の残光が静かに薄れていく中、やがて宇宙の暗闇を背景に、一筋の光が流れた。
星が落ちるのとも、天を裂く流星とも違う。もっと細く、もっと静かに。
まるで、誰かが静かに流した涙のように。
一筋の銀色の軌跡が、地上へ向かって、ゆっくりと、けれど真っ直ぐに降りていく。
王都の城壁の上で、誰かがその光を見つけた。祈りの声が止まり、人々が目を開ける。
「……あれ」
「……お家様だ」
誰も叫ばなかった。誰も動かなかった。歓声も、勝利の雄叫びもない。
ただ、王都を包む静寂の中で、全員がその一筋の光を目で追っていた。
頬を伝う涙を拭うことも忘れて。
その光は、明けの明星よりも優しく、消え入りそうなほど儚く、王都の空をなぞっていった。
世界で一番優しくて、無茶な家が。
約束の場所へと、帰っていく光だった。




