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36. 列島は境界になる (3)

会談場では、砲声を遠くに聞きながら、東郷とセルディンが言葉を削っていた。


「海盟を席のない対象として扱う提案には応じません」


 東郷が先に言った。


「便利だからと席を外せば、次はこちらが同じ理屈で外される」


「その原則のために、何を払うつもりです」


 セルディンの声は穏やかだった。だが値札を置く時の響きだった。


「まだ決めきれていないものもあります」


 東郷は砲声の間を待ってから答えた。


「それでも、席を消した分は後で別の形で海へ落ちる。そこだけは、もう分かっています」


「日本は、海難と病者に関する限定停戦には応じうる」


 真田が置く。


「条件付きで」


「条件とは」


「海盟港、白枝領保護民、教会巡礼民を含む非戦闘民の通行と避難の確認。帝国が彼らを一括して反税民や漂泊民扱いしないこと」


 重い条件だった。帝国にとって、徴税と身分秩序は国家そのものだ。


 セルディンがすぐに答えず、横の書記から一枚の紙片を受け取った。彼は視線を落とし、そこで初めてほんのわずかに瞼を重くした。


 東征補助船レヴィス号沈没。


 沿岸徴税監戦死。


 竜騎損耗多数。


 数行の戦況だった。セルディンは紙片を伏せ、何事もなかったように顔を上げる。


 紙片を伏せた指先だけが、ほんの少し白くなっていた。帝国側の損耗をここで顔へ出せば、交渉相手に値引きを教えることになる。だから彼は伏せる。伏せたまま、損失を次の一文へ組み替える。


「安い譲歩ではありません」


「こちらもです」


 真田が返す。


「簡単な停戦のために、長期の秩序を売る気はない」


 セルディンが東郷を見た。


「あなたは、帝国の官僚になれたでしょう」


「遠慮しておきます」


「残念だ」


 短い沈黙のあと、セルディンが言った。


「帝国は海盟全体を交渉主体として認めるとは言わない。だが、海難救助と港湾維持に責任を持つ諸港の代表を、限定会議の席へ加えることは検討できる」


 ゼロではない。約束でもない。だがここで引き出せる最初の穴としては十分だった。


「白枝領系保護民については」


 東郷が問う。


「非戦闘民の一括返還要求は当面行わない」


 セルディンが答える。


「ただし帝国法上の身分整理は将来的争点として残る」


 穴だらけの文だ。抜け道も多い。だが戦争は、たいてい穴だらけの文からしか止まり始めない。


     ◆


 夜、戦闘はようやく収束へ向かった。


 帝国側船団は大きな損害を受けつつ後退し、海獣誘導は切れ、竜騎兵は雲の向こうへ消えていく。海面には焼けた木材、破れた帆、油膜、浮標、そして助けきれなかったものが残った。


 榊原は一次集計を受け取る。撃破推定、損傷艦、救助人数、行方不明、海盟側船舶損失、弾薬消耗、次回出撃可能率。


 副長の声が低くなる。


「司令。救助艇二番、久住三曹が」


 榊原は目を閉じなかった。


「戦死」


「はい」


 彼は詳報の端を押さえた。海図より軽いはずの紙が、ひどく重い。


「名前を先に遺族対応班へ。海盟側行方不明者名簿も、向こうの代表へ回せ。国籍で順番を変えるな」


 同じ頃、東郷は官邸の簡易端末で戦闘詳報に紐づく名簿を開いていた。救助艇二番艇長、海盟側行方不明者、民間避難船乗員、白枝領保護民、氏名不詳、照合待ち。その途中で指が止まる。


 ナル河口船、未着。


 短い一行だった。昨日、自分が守れないと認めた水域が、今日にはこういう形で戻ってくる。海図の外縁だった場所が、名簿の上では未着になる。会ったことのない船頭の名も、乗っていた誰かの呼び名も、この短い表示の向こうに沈んでいるはずだった。


 隣室では予算資料の紙が鳴り、別窓では交代表が更新される。負傷していなくても、人は削れる。眠れないまま正しい判断だけを出し続けることはできない。それでも国家は次の一文でまた任務を落とす。


 首相が最終的に選んだ会見文は、美しい文ではない。だが、ほとんど嘘がなかった。


 横浜では沙月がKIZUNAの更新画面を見ていた。限定停戦海域、海難共同観察点、海盟協力港代表会議候補地、白枝領保護民の暫定地位更新、北方商人ルート。壊れた線の代わりに新しい細い線が引かれていく。その一方で、照合待ちの灰色表示も消えない。線は世界をつなぐ。だが引かなかった場所の責任まで消してはくれない。


 東京の編集室では、小早川が夜の速報映像を一本だけ差し替えていた。燃える船だけではなく、火の脇で不自然に開く水面の筋を残す。見出しは「奇跡」ではなく「導潮術で避難路確保」。強い絵をそのまま意味へ明け渡さない。それが彼女の最後の仕事だった。


 佐世保ではアルシアが議会向け書板を伏せ、別の小さな紙片へ名だけを刻んだ。ナル河口船の名。戻らなかった船頭の名。積み荷ではなく、人として数えるための名。


     ◆


 夜明け前の佐世保埠頭で、アルシアは海を見ていた。髪には塩が残り、足は重い。それでも立っていられるのは、戻った船があり、焼けずに済んだ港があり、帝国が今日すぐには飲み込めなかったからだ。


 東郷が隣へ来る。


「終わった、とは言えませんね」


「言えば、殴る」


 東郷は少しだけ笑った。


「海盟は、これで助かったと思いますか」


 アルシアは首を横に振る。


「助かった、ではない。まだ消えていないだけ」


「日本も同じです」


「知ってる」


 彼女は少し間を置いてから続けた。


「でも、今日わかった。ニホンは、帝国になりたいわけではない」


 東郷はすぐには返せなかった。なりたいわけではない。だがならないとも断言できない。


「なりたくない、だけでは足りないですけどね」


「ええ。だから、見ている」


 アルシアは視線を海から外さない。


「昨日、ナル河口から来た船が一つ、遅れた」


 東郷の胸の奥が、鈍く縮む。


「……聞いています」


「あなたが昨日、守れないと言った場所」


 責める声ではなかった。だからこそ逃げ場がない。


「名簿で見ました」


 東郷は言う。


「昨日は海図の外縁として見ていた場所が、今日は未着船で戻ってきた」


「忘れないなら、まだ話せる」


 アルシアが言った。


「海盟は、全部を覚える。忘れた相手とは、別の形で向き合う」


「日本も、覚えるべきです」


 東郷は答える。


「でないと、次はもっと綺麗な言葉で切り捨てる」


 アルシアは静かに頷いた。


 信頼ではない。監視だ。だが少なくとも、消えたものを都合のいい言葉で拭い合う関係ではない。


「見ていてください」


 東郷は最後にそう言った。


「こちらも、自分たちが何を消しそうになるのか、見失いたくない」


 海はまだ暗い。完全な平和も、完全な勝利もどこにもない。


 それでも、交渉と救難と交易と法の細い線だけは残った。


 列島は、境界になる。


お読みいただきありがとうございました。

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