35. 列島は境界になる (2)
対馬北部の臨時保護区では、黒田宗一郎が受け入れ表と泥だらけの通路を見比べていた。
寝台は足りず、毛布は薄く、医療班は二徹目に入り、通訳班は同じ説明を別の列へ繰り返すたび声を枯らしていく。県側からは、これ以上体育館を開ければ冬向け備蓄と住民避難計画が崩れるという連絡も来ていた。
「第四区画が埋まります」
自治体職員が言う。
「医療班は」
「仮眠一回飛ばしています」
黒田は頷き、列の先へ歩いた。毛布にくるまった子どもが、木札を握ったまま立っている。白枝領から来た少年で、名前はエダと訳された。母親は別区画で熱を出している。
「母は」
少年が訊く。
「診てもらってる」
黒田は膝を折って答えた。
「朝までここにいろ。移さない」
嘘ではない。だが約束できるのは朝までだった。国家が守ると決めた人間を、曖昧な身分のままでも朝まで落とさない。それが今の黒田の任務だった。
通信員が駆け込む。
「西方海域で接敵。海盟避難船にも被害」
黒田は顔を上げる。海へ兵を回したい。だが回せない。今ここで陸の受け皿が崩れれば、海で拾った命がそのまま零れる。
「輸送ヘリの予備便、全部こちらに寄越せ」
「前線後送の枠が減ります」
「承知の上だ。今日の地上任務は、穴を空けないことに変わった」
◆
会談当日。西方海域外縁の海上プラットフォーム。
空は低く曇り、海は鉛色だった。周囲には日本側艦艇が距離を取り、その外縁に海盟の小型船が点在し、さらに高空を無人観測機が回る。誰もこれを平和の儀式だとは思っていない。撃ち合いの合間に置かれた、不安定な一点だった。
東郷と真田、日本側通訳、記録官。向こうにはセルディンと数名の書記。武装護衛は最小限。中立ではない。ただ、全面的な敵意を演じないための配置にすぎない。
「このような場でも、話す価値があると信じたい」
セルディンが一礼する。
「話す価値はあります」
真田が返す。
「ただし海が静かでないことも承知しています」
最初の議題は海難救助と接触規律だった。帝国側は、遭難船と病者の無差別救護を共同で宣言しようと提案する。聞こえは良い。だが日本がそこを明文化した瞬間、帝国はさらに難民偽装と工作を流し込みやすくなる。
「救護はします」
東郷が言う。
「ただし、検査、武装解除、隔離の権限は各自が持つ」
「相互不信ですね」
「現実的です」
次に帝国側は海盟沿岸の一部港を暫定中立港として共同監視下へ置く案を出した。つまり日本と帝国が監視権を持ち、海盟は席のない当事者になる。
「受けられません」
東郷は即答した。
「秩序は、そこに住む者抜きには作れない」
セルディンが目を細める。
「東海鋼国は、自らを征服者でなく調停者と定義したいわけだ」
「少なくとも、席のない相手の上へ秩序を置く管理者になる気はありません」
東郷が答えた、その時だった。
イヤーピースへ切迫した声が飛び込む。
「西方外海、帝国船団確認。竜騎多数。海獣誘導反応。長崎西方護衛線、接敵見込み十分」
空気が一瞬で凍る。セルディンは表情を崩さない。だが机下へ置いた左手だけが、一度だけ固く閉じた。
「会談は継続しますか」
真田が冷たく訊く。
「ここで席を立てば、皆が損をする」
セルディンの声は低い。
「継続します」
東郷は言った。
「ただし、その間、現場の反撃は止まらない」
◆
長崎西方海域では、榊原の艦隊がすでに動いていた。
今回の帝国側は、これまでより明らかに規模が大きい。木造大型船群、その背後の補助船、海獣誘導艇、再編された竜騎兵隊。しかも正面から一直線ではない。海盟協力港への航路と日本側護衛線の中間へ、楔を打ち込むように展開してくる。
「狙いは航路切断と港外混乱、両方です」
副長が言う。
「なら、向こうの統制を切る」
榊原は即答した。
日本側には射程と精度の優位がある。だが木造船を無差別に沈めれば、本物の難民や徴発された船員まで海へ落ちる。だから船そのものではなく、統制の節を狙う。旗艦格。海獣誘導艇。竜騎の集合高度。補助船。
「第一射、誘導艇」
長射程精密砲撃が海面を裂く。海獣誘導艇の一隻が折れ、黒い液が波へ広がる。次いで補助船、旗艦のマスト。上空には対空ドローンが散り、竜騎の隊形を崩す。
帝国側も応じた。魔導砲の光弾が海面近くを跳ね、センサーとデコイを乱す。低空の竜騎が発火物と血餌を撒き、避難船団を散らそうとする。
「左舷後方、海盟輸送船炎上」
報告と同時に、榊原は窓越しに火を見た。炎は索具から帆へ回り、人影が甲板を走る。
「救助艇は」
「海獣影接近」
非情に聞こえると分かっていた。それでも順番を間違えれば救助艇が餌になる。
「無人艇前へ。対空を一段上げろ。上を落としてから救う」
「海盟側先導艇から信号」
通信員が叫ぶ。
「アルシア船、導潮術を実施。炎上船右舷に流路を一本こじ開けます」
榊原は双眼鏡を上げた。燃える索具の向こう、海盟の細い艇が波頭へ食い込み、その先で不自然なうねりが一筋だけ生まれている。海面そのものを持ち上げるほどではない。ただ、燃えた木片と油膜が寄る向きを、ほんのわずか変える。それだけで救助艇一隻が通れる筋になる。
「救助艇二番、その筋へ入れ」
艦橋の床が震える。焦げた金属と油の匂いが換気を抜けて入る。誰かが吐き気をこらえ、誰かが短く復唱し、誰かが転んで立て直す。戦記の一行になれば整うのだろうが、その瞬間の現場にあるのは角度と匂いと時間だけだった。
別艇上では、アルシアが濡れた欄干へ片手をつき、もう片手で水面の流れを読む。導潮術は海そのものを従わせる術ではない。潮と風と燃えた破片の重み、その場にあるものを少しだけずらす術だ。万能ではないし、遅れれば一人も救えない。それでも彼女は、焼ける船腹と小舟の間に、あと数十人ぶんの細い道をこじ開け続けていた。
鋼鉄の艦と、木造船と、魔法と、救助艇。
不格好な同盟の形が、火の中で辛うじてつながっていた。
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