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29. 聖都の使者 (1)

# 第八章 聖都の使者


 西方海域の外縁へ、白布を高く掲げた二隻の船が現れた朝、風は弱かった。


 海盟の船より幅広い船体。船首には人物像ではなく翼を抽象化した紋。中央マストに白地へ金の放射文様。海自の監視線へ入っても弓を上げず、だが護衛の手元は完全には緩まない。


 アルシアが、その旗を見た瞬間だけ表情を曇らせた。


「聖アルヴェン教会」


 榊原遼が問う。


「帝国より厄介か」


 アルシアは少し考えてから首を横に振った。


「違う種類で」


 その言い方が一番正確だった。帝国は武力と税で押す。教会は治療と救済と意味づけで入ってくる。どちらも境界を越えるが、教会のほうが人の内側へ席を作るのが早い。


 使者は高位修道司祭ラウレンティウス・ヴェル・アデラ。痩せた顔、白銀の刺繍の長衣、印章指輪、落ち着いた歩幅。日本側の記録では「宗教組織の高位外交使節」と仮置きされたが、それだけでは足りない。教会圏では宗教と教育と医療と法の一部が結びついている。つまり彼は司祭であると同時に、学者であり、病院長であり、外交官でもあった。


 東郷真尋は、佐世保でその報告を受けながら、帝国や海盟とは違う面倒さを感じていた。軍事・外交・通商だけでも複雑なのに、ここへ“意味を与える勢力”が正面から来る。しかも日本が何かを語らなければ、その空白へ先に教会が座る。


 会談は受けるしかなかった。無視すれば、人道と学術交流の名で後からもっと深く入られる。


     ◆


 ラウレンティウスが佐世保へ上陸した日の空は、薄く晴れていた。


 検疫導線、記録卓、金属探知、待機車列、案内板、入域許可証。日本側が敷いた一連の手順を、彼は足を止めずに見ていた。同行書記へ向けて、ごく低く呟く。


「この国は信仰を持たぬふりをして、手続きに信仰している」


 皮肉だけではない。本気の観察だった。


 夜を退ける灯、誰も神名を唱えないのに揃う足並み、扉の向こうで次の扉がもう準備されている導線。王権とも教義とも違うものが、人を同じ順番で動かしている。ラウレンティウスには、それが目に見えぬ典礼のように映っていた。


 同行書記が小声で訊いた。


「本当に、神なき国なのでしょうか」


 ラウレンティウスは前を向いたまま答える。


「神なき国などない」


「では」


「自らの神を、神と呼ばぬ国なのだろう」


 傲慢さも、分析も、その両方が入った声音だった。理解しようとする宗教は、理解した瞬間に支配へ手を伸ばす。その手つきが彼には備わっていた。


 最初の会談には東郷、真田圭吾、アルシア、厚労省医系技官、自衛隊医官、文化庁の宗教行政担当、通訳班が同席した。アルシアを入れるかは議論になったが、教会と海盟の距離感、航路、現地言語を考えれば外せない。


 ラウレンティウスは席に着くなり、日本式の一礼を真似た。角度は浅い。だが浅くしすぎない。相手の作法を借りながら、自分が取り込まれない線を守る一礼だった。


「東海より現れしニホンの方々へ、聖アルヴェンの平安があらんことを」


 人間通訳と辞書端末が重なって意味を運ぶ。声は柔らかいが、卓へ置いた指は一度も遊ばない。


 議題は人道支援と医療協力から始まった。教会圏は広域の治癒院網を持ち、止血、鎮痛、感染抑制に強みがある。日本は外科、抗生剤、集中治療、検査体制を持つ。相性は悪くない。だからこそ危ない。


「あなた方の医療は、祈らずに死を押し戻す」


 ラウレンティウスが言う。


「驚嘆に値します」


 厚労省技官の肩がわずかに固くなる。


「我々は手技と科学に基づいています」


「ええ。ですが患者にとって、押し戻された死は奇跡と似た顔をします」


 東郷は返事を急がなかった。アルシアの指先が卓上で止まり、真田はメモを取るふりで時間を作る。相手の価値観を正面から否定せず、その上から別の意味で包む。教会は最初からその運び方で来ていた。


 ラウレンティウスは提案書を出した。


 一、感染症と寄生虫に関する観察情報の交換。


 二、遭難者と難民に対する共同医療観察。


 三、巡礼路上の日本船・日本人遭難者への救護。


 四、日本管理区域内での教会施療院設置の検討。


 最後の一項で、真田の指が紙の端を押さえた。


「常設施設は認められません」


 ラウレンティウスは目を上げる。


「なぜです」


「主権、公衆衛生、教育、記録の線引きが崩れる」


「病床もまた境界線ですか」


 問いは静かだった。だが室温が少し下がった気がした。


「この国では、誰が人の痛みを引き受けるかが、そのまま制度の責任になります」


 東郷が答える。


「治すことだけでは足りない。記録し、説明し、責任を負うところまで含めて公的な医療です」


 ラウレンティウスは一度だけ頷いた。


「興味深い。こちらでは、痛みは共同体と神意の両方へ属します。だから施療は救済と切り離しにくい」


 文化庁の担当者が、メモを閉じるふりで息を整えた。理念の話ではない。病床に誰の言葉を入れるかの話だと、その一往復だけでよく分かった。


 その時、アルシアが口を開く。


「海盟南部の港で、教会の施療院が開いた冬があった」


 通訳が追いつくのを待たず、彼女は続ける。


「最初は熱病だけ治した。次に、施療院へ来た家から先に水を配った。最後は、祈りの順番で債務を書いた」


 ラウレンティウスの微笑は崩れない。ただ、指先だけが一度ゆっくり重なった。


「雑な教会もあるのでしょう」


「海盟は、雑な教会に港を取られる」


 アルシアの声は平坦だった。怒鳴らないぶん、長く残る声音だった。


 ラウレンティウスは彼女の顔を見た。怒りより先に、見たことのある損失を数え直している顔だと分かる。教会と海盟の摩擦が抽象論で済まないことを、彼はその沈黙で受け取った。


毎日21:00更新です。合いそうでしたらブックマークで追ってください。

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