第51話 幸せにおなり
橙色の美しい夕暮れ。
大地には稲畑が、にぎにぎと実を実らせて揺らいでいた。
涼しい風が私の長い髪を弄ぶ。
夢を媒体に「集合無意識」に私は佇んでいた。人の想いや魂が具現化する場所。私をここに呼んだのは──。
「やあ、結月」
「刀夜」
刀夜は昔と変わらぬ笑みで、微笑んだ。その姿は下界で会った時とは異なり、数百年前の──陽兄が生きていたころの、穏やかな青年の姿だった。
彼が変わってしまったのは、兄様の死からだ。
「本当に自分から望んで堕天したっていうの?」
「そうだよ。それぐらい、僕は人間も龍神族も──許せなかった。陽善を見殺しにしたすべてが憎い」
彼の気持ちが、分からなくない。
龍神族の──同胞に嫌われていたのは辛いというよりも、悲しい。
人間に対する負の感情は今もある。けれど、それだけじゃない。
「僕が死のうと、人間の魂が黒く染まっていけば魔物は生まれ続ける」
「……わかっている」
魔物という存在はなくならない。脅威があることには変わりがないのだ。
「君は、こうなるんじゃない。結月は──幸せになるんだ」
ぽん、と刀夜は私の頭に手を置いた。撫で方は昔と変わらない。それが無性に悲しくて、顔を見ようと顔を上げる。
一陣の風が私の体をすり抜けていった。
「刀夜?」
いつの間にか私は水面下に立っていた。空は桃色の夕焼けなのか朝焼けなのか分からない。けれど、この場所はよく知っている。
昼でも夜でもない──あやふやな時間。
ここに来ると、寂しくて泣きそうになる。
誰かの声が聞こえるのに、霧散して消えてしまう。
あれは全て幻だったのだろうか。
戻りたい場所があるのに、どうやって戻ればいいのか分からない。
早く戻りたいのに、帰り方がわからない。
そもそも戻る場所など私にあるのだろうか?
誰かが待っているはずなのに、思い出すのが怖くてしょうがない。それほどまでに甘く、幸せで、触れたら溶けてしまいそうな夢だった。
愛されて、私も愛した──そんな幻想など現実ではないのでないか。
不安で私は歩き出すことが出来ずに、足踏みしている。
こんなに私は──弱かっただろうか? 悩んでいただろうか?
「結月」
私の前に白銀色の長い髪の壮年の男が立っていた。水面下にまで長い髪が垂れている。しかし男は毛ほども気にせず、ずっと留まっている私を抱き上げた。私を見つめる酸漿色の双眸は、とても優しい。
「いつまで眠っているのですか?」
「と、父様!?」
「現実世界では、かなり時間が経っていますよ」
「え? ……でも、帰り方が分からなくて。それに私に帰る場所があるのかな……って思うと怖くて……」
「おや、結月は忘れてしまったのですか。彼の事を」
父様は私を下ろすと、水平線の向こうを指さした。
人影がぼんやりと見える。
「帰る場所をお前は、もう見つけたのでしょう? ほら、彼も待っている」
「あ」
人影は徐々にその輪郭を表し、私は息をのんだ。
そう私はダリウスと一緒に居たくて──彼と生きていく道を選んだ。
「ダリウス。……どうしてこの場所に?」
「一度は死にかけて、ここに来ているのですから──。それに「刻龍印」の結びつきが形となって現れたのでしょう」
(あ──。そっか。ダリウスが死にかけていた時、ここで父様が彼の魂を留めていてくれたから)
「結月。私はもうしばらく彼女と共に眠っているので、大丈夫ですよ。もう涙も出ませんし」
母様の肉体と魂は、父様の元で眠っている。父様が死ぬその瞬間まで眠る事で、添い遂げることを選んだ。人間である母様の想いが今なら少しだけ理解できる。
大切な人を置いていくのも、置いて行かれるのも辛い。たとえ寿命が違っても、思い合う者たちの間には、些細なものだと気づかせてくれた。
「父様」
「なんです?」
「本当に一人で泣きません?」
私の言葉に父様は口角を僅かに吊り上げた。
「ではもし泣きそうになったら、結月の幸せぶりを見に行くとしましょう」
「はい!」
私は父様を抱きしめる。父様は「今日の抱きしめ方は満点ですね」と、母様がよく言ってくれた言葉をかけてくれた。頭を撫でる手はとても優しい。
「父様、ダリウスを繋ぎ止めていてくれ、私を大切に育ててくれて──ありがとう」
「私はお前の父親なのだから、当然ですよ」
私はそう呟くと、その場を離れた。父様は小さく手を振る。
「結月、幸せにおなり」
「はい。……行ってきます」
ふと父の傍で手を振る青年の姿を見つけた。
白銀色の長い髪、龍神──父様に外見は似ていたが、目を細めて柔らかく微笑む仕草が出来るのは陽兄だけだ。真っ白な神官に似た服に白い外套を羽織っていた。それは結月と同じものだ。
「陽兄……」
幻だったかもしれないけれど、兄と父に背を押して貰って私は現実に戻る。
大好きな人の元へ。
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最終話まであと少しです。
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