余命十日の薬草好き令嬢と、観察好きの種苗商
私の住む館は、王都からずっと南、帝国との国境に近い丘の中腹にある。
石を積んだ古い館で、まわりにはローズマリーとタイムが勝手に生い茂っている。誰も植えた覚えがないのに、年々ふえていく。うちの館でいちばん働き者なのは、たぶんこの二つだ。
王都の冬は雪に埋もれると聞くけれど、このあたりの冬は、めったに凍らない。それでも冬の終わりの風だけは、湿っていて重い。
その重い風が窓を鳴らす夕方に、医者は帽子を胸に当てて言った。
「いつ急変してもおかしくありません。もって、十日でしょう」
十日。
医者を見送って戻ってきた侍女のマーサに、私は言った。
「マーサ。十日って、パン十回ぶんね」
マーサは、私が六歳のときから仕えてくれている人だ。その顔は、風のない朝の池みたいに、いつも平らで、泣き顔は一度も見たことがない。
その平らな顔のまま、マーサは三秒だけ黙った。
「お嬢様。余命を、パンで数えないでください」
「じゃあ、何で数えるの?」
「……数えないでください」
でも、パン十回は、思っていたより、ずっと短い。
◇ ◇ ◇
「エマ、エマ……十日ももたないだなんて……」
「兄上、鼻をかんで。シーツが濡れるわ」
兄のアレンは、この館の若い当主だ。優しくて、涙もろくて、雷が苦手。いまも寝台の端につかまって、雨漏りする屋根みたいに、ぽたぽたと泣いている。
寝台の横には、『南方薬草大全』全十二巻が積んである。まだ九巻目の途中だ。
(十日で四巻。一日に半分ずつ読めば、八日で終わるわ。二日あまる)
あまった二日で何をしようかしら、と考えて、それから、あまった二日のあとは何もないのだと気がついた。
計算は合っているのに、なんだか、損をした気分だ。
「お嬢様。何か召し上がりたいものはございますか」
マーサが、いつもの無表情で聞いた。
「蜂蜜のパンケーキ。三段で」
「一口しか召し上がれませんでしょう」
「残りはマーサが食べて」
「かしこまりました」
即答だった。マーサはこういうところが頼もしい。
「エマ、何かやり残したことはないか。何でも言ってくれ」
「そうね。裏の丘の荒れ地を、果樹園にしたかったわ。苗はもう注文してあるの。届いたら、誰か植えてね」
「……注文してあるのか」
「ええ。私の形見の木にしてもらおうと思って。ちゃんと、丈夫な子をお願いしますって書いたのよ」
「エマ……!」
兄がまた泣き出した。
丈夫な子を、頼んだのに。
マーサが、小さくため息をついた。
◇ ◇ ◇
夜になって、皆に部屋を出てもらった。
灯りを消すと、窓の向こうは真っ暗になる。それでも湿った風が吹くたびに、薬草園のローズマリーが揺れているのがわかる。見えなくても、匂いでわかるのだ。
苦労して寝返りを打ち、壁のほうを向いた。冷たい石に、額をつける。
お祈りは、昔から上手ではない。司祭様のような、きれいな言葉が出てこないのだ。だから私は、いつも思ったとおりに話すことにしている。神様は全部ご存じなのだから、きっとそのほうが早い。
「神様。エマです」
とりあえず名乗った。礼儀として。
「私、これまでわりと真面目に生きてきました。嘘もつかなかったし、薬草の世話もさぼりませんでした。……だから、ここで終わりというのは、あんまりです」
祈りというより、ほとんど苦情だ。
涙が勝手に流れて、石を濡らしていく。石は、いつまでたっても温まらない。
「欲張りだとわかっています。でも、もう少しだけ、時間をください。薬草書はあと四巻あるし、兄上はたぶん、私がいなくなったら、庭の苗を全部枯らします。それから、マーサにパンケーキを二段半も食べさせてしまうのは、申し訳ないです」
言いたいことを全部言ったら、急に眠くなった。
苦情でも、最後まで聞いてもらえると、人は眠れるものらしい。
◇ ◇ ◇
翌朝、悲鳴で目が覚めた。
マーサの悲鳴だ。十三年仕えてくれて、初めて聞いた。平らな池に、石が落ちた。
「お、お嬢様、お嬢様、日時計が!」
マーサに抱えられて窓辺へ行く。外は、うそのように晴れていた。
中庭には、祖父が造らせた階段の日時計がある。神様より自分の権勢を信じていた祖父が、来客に自慢するためだけに造ったものだ。
朝日が昇れば、石段に落ちる影は短くなっていく。そのはずの影が、するすると伸びはじめている。
一段。
二段。
三段。
影は、ちょうど十段ぶん後ろへ戻って、止まった。
「まあ。影って、逆に動くこともあるのね」
「ありません!」
マーサが即答した。即答だけは、悲鳴のあとでも健在だ。
「じゃあ、今日が初めてなのね。見られてよかったわ」
「お嬢様、そういう問題では」
「マーサは、どうしてそんなに青い顔をしているの?」
「お嬢様が、どうしてそんなに平気なお顔なのか、そちらのほうがわかりません」
「だって、マーサが私の分まで驚いてくれたもの。私の分は、もう残っていないの」
「……さようでございますか」
そのとき、枕元の薬草書の山が、ばさりと崩れた。床に落ちた九巻目が、まだ読んでいない章を開いている。
『干した無花果を湯で煮て練り、温かいうちに腫れ物に当てる法』
「あら、ちょうどいいところが開いたわ。マーサ、食料庫に、去年の秋に干した無花果があったわよね」
裏庭の古い無花果の実だ。誰が植えたのか、屋敷の誰も知らない木。
「ございますが……」
「ひとつかみと、鍋と、清潔な布を持ってきて。昨日の夜、神様にお願いしたの。たぶん、これがお返事だわ」
マーサは三秒だけ私を見て、それから黙って走っていった。
マーサは私の言うとおりに無花果を煮て練り、布に包んで、腫れあがった首にそっと当ててくれた。じんわりと温かい。冬の終わりの部屋に、夏みたいな甘い匂いが広がる。
「いい匂い。少し、食べてもいいかしら」
「いけません」
「ひと口だけ」
「首に当てるものです」
「じゃあ、首に当てたあとのを」
「余計にいけません」
その匂いに包まれて、私はまた眠った。
目を覚ますと、ひと冬、燃えるようだった熱が引いていた。
次の朝には、首の腫れが半分になった。その次の朝には、自分でスープの匙を持てた。様子を見に来た医者は、私の首を三度さわって、三度首をかしげた。
「……こんなことは、ありえないのですが」
「でも、ありえたみたいです。先生、首、疲れませんか?」
マーサが、無表情のまま、小さく鼻をすすった。
それも、初めて見た。
◇ ◇ ◇
三日目の朝、私は自分の足で、薬草園の奥の古い聖堂まで歩いた。
十歩ごとに休んだ。敷石のすきまから、カモミールの若い芽がのぞいている。寝ているあいだに、春はちゃんと来ていたらしい。私が寝こんでいても、春は約束を忘れないのだ。えらい。
聖堂は、館が建つよりずっと昔からこの丘にある、小さな石の建物だ。館はもともと、この聖堂を守るために建てられたのだと聞いている。
中は、冷たい石と蜜蝋の匂いがした。高い小窓から、光が一本差している。週に一度、ふもとの村の人たちも、ここへ祈りに来る。
祭壇の上には、古い名の帳面がある。生まれた子の名前を、親がここに書きこむ。亡くなると、家の者が、その名前の横に日付を書き足す。
私は、自分の名前のページを開いた。
父の字で、エマ。その横は、まだ空いている。
空いている。それだけのことが、なんだかとても、うれしかった。
長椅子に、兄の上着が丸めて置いてあった。
「三日前の晩、旦那様がここでお祈りを。そのまま朝まで、そこでお休みに」
マーサが、ぼそりと言った。
「まあ。風邪をひくわ」
子どものころ、この聖堂の床に座りこんで、母に叱られたことがある。母は叱ったあとで、私の隣に一緒に座って、こう言った。
神様はね、いちばん低いところにいらっしゃるのよ。だから、床に座ると、近くなるの。
それなら叱らなくてもいいのに、と思ったのを、覚えている。
(そういえば)
この聖堂の古い本に、こんな話があった。死にかけた王様が壁に向かって泣いて祈ったら、日時計の影が十段戻って、十五年の命をもらった。そして王様は、その十五年が終わる年に亡くなった。
あの王様も、たしか「私は真面目に生きてきました」と言っていたはずだ。
私と同じだ。
「……じゃあ、私も十五年ね。わかりやすくていいわ」
「お嬢様、何のお話です」
「なんでもないわ、マーサ。おまけの話よ」
根拠はない。でも私は、その朝から勝手にそう決めた。一度死にかけた身には、十五年でも十分すぎるおまけだ。
どちらにしても、薬草書は読み終わる。
◇ ◇ ◇
聖堂を出ると、マーサは兄を館へ連れ戻しに行った。
私は一人で、薬草園の石のベンチに腰を下ろした。ひと冬放っておいた畝に手を伸ばして、立ち枯れたセージの茎をぽきりと折る。下から、銀色の小さな新芽がのぞいていた。
「まあ。生きていたのね。私と一緒」
セージに話しかけていたら、裏木戸のほうから声がした。
「すみません」
背の高い青年が、ブドウの苗を抱えて立っている。陽に焼けた明るい髪が、風に少し乱れていた。肩には土がつき、靴は朝露で濡れている。
「町の外れで苗畑をやっている者です。こちらのお嬢様から、苗のご注文の手紙をいただきまして。夜明け前に出て、歩いてお届けに来ました。……ご容体は、いかがですか」
声を落としている。喪のある家を訪ねるときの声だ。
「それが、すごくいいの」
「……は」
「お嬢様、とっても元気よ。さっきなんて、聖堂まで歩いたの」
青年は、ぽかんとした顔で私を見た。
「それは……よかった。手紙には、形見の木になるとあったので、てっきり」
「ええ、そう書いたわ」
「……書いた?」
「あ」
言ってしまった。
「ごめんなさい。お嬢様は、私なの。黙っているつもりはなかったのよ。言うのを忘れていただけ」
青年は、苗を抱えたまま固まった。ミモザの枝が、風に二度揺れるあいだ、ずっと。
それから苗をそっと地面に置き、手袋を外して、ベンチの前に片膝をついた。目の高さが、私と同じになる。
近くで見ると、灰色がかった緑の目をしていた。オリーブの葉の、裏側の色だ。
「あの手紙を、読みました。土の質から日当たりまで、びっしり書いてあって。熱で手が震えていたのも、字でわかりました。最後の一行まで」
あの汚い字を、最後まで。
「生きていてくださって、よかった」
お世辞でも、挨拶でもない声だった。言ってから、青年はふっと笑う。目尻に、細いしわが寄った。
(まあ。苗屋さんって、みんなこんなに親切なのかしら)
心臓が、どきどきしている。
また熱かしら。あとで、マーサにおでこをさわってもらおう。
「では、形見の木はやめにして、普通の果樹として植えましょう」
「ええ、そうしてちょうだい。それと、もっと苗を注文するわ。気の長い木がいいの」
「どのくらい、気の長い?」
「十五年くらい」
青年は少しだけ首をかしげた。何か聞きたそうな顔をして、でも、何も聞かなかった。それから、手を差し出した。
「ノアです。種苗商の」
「エマよ。お嬢様の」
その手を取って、立ち上がった。ちょうどそのとき。
「エマ! 誰だ、その男は!」
回廊の向こうから、兄が走ってきた。さっきまで泣いていたとは思えない速さだった。
雨漏りの屋根が、一瞬で砦になっていた。
◇ ◇ ◇
夕食の前に、マーサにおでこをさわってもらった。
「熱はございません」
「おかしいわね。さっき、苗屋さんが笑ったとき、胸がどきどきしたの。それに、顔も熱くなったのよ」
マーサの手が、私のおでこの上で止まった。
「……お嬢様。それは、熱ではございません」
「じゃあ、何?」
「ご自分でお考えください」
考えてみた。
「わかったわ。病み上がりで、心臓がまだ慣れていないのね。久しぶりに、知らない人とたくさんお話ししたから」
「……」
マーサは、私のおでこから、そっと手を離した。
「……そういうことに、しておきましょう」
◇ ◇ ◇
その夜の夕食は、尋問の席になった。
「名前は」
「ノアです」
「歳は」
「二十二です」
「どこの生まれだ」
「川下のほうです。今は、町の外れで苗畑を」
「川下のどこだ」
「兄上、パンが冷めるわ」
「エマ、お前は黙っていなさい」
「でも、ノアさんのパン、さっきから一口も減っていないのよ。かわいそうだわ」
兄はパンをちぎりながら、ノアをにらんでいる。にらんでいるつもりらしいが、目が赤く腫れているので、あまり怖くない。泣きはらした番犬だ。
ノアは背筋を伸ばして、落ち着いてスープを口に運んでいた。音を立てない。パンは、ひと口ぶんずつちぎる。
(きれいに食べる人ね。苗屋さんって、お行儀もいいのね)
感心して見ていたら、マーサが私の袖を、そっと引っぱった。見すぎです、という意味らしい。
「それで、妹の手を握っていた理由は」
「立ち上がるのに、手をお貸ししました」
「握っていた」
「お貸ししました」
「握っていたわよ。あったかかったわ」
兄とノアが、同時に私を見た。
ノアがむせた。
兄が、ものすごい顔をした。
マーサが、天井を見上げた。
「……庭のことは、わかるんだろうな」
兄は咳払いをして、話を変えた。
「わかります」
「雷の日はどうする。雷は、苗によくないだろう」
兄は、自分が雷を苦手なものだから、たいていの悪いことは雷のせいにする。
「雷そのものより、そのあとの雨と風がよくないんです」
ノアは、匙を置いた。
「この丘は南西に開けているので、春の嵐は、ほとんど川のほうから来ます。雷が鳴ってから大雨になるまで、記録では平均して半刻ほど。そのあいだに、若い苗に添え木をして、藁をかければ間に合います。ですから雷の日は、必ず丘に上がります」
「……記録?」
「師匠と、毎日つけていました」
「……必ず、か」
「必ず」
兄の顔が、明らかにゆるんだ。雷の日に外へ出てくれる人というだけで、兄にとっては英雄なのだ。
「よし。丘の果樹園は、お前に任せる。町から毎日通うのは無理だろう。丘のふもとの庭番小屋が、ずっと空いている。そこに住め」
(兄上、ちょろいわ)
番犬は、骨一本で尻尾を振った。
「苗畑は、ときどき町へ戻って見れば足ります。……ありがとうございます」
マーサが、ノアの前にスープのおかわりを置いた。
「では、朝と夜のお食事は、こちらでご用意いたします。お席は、お嬢様のお隣でよろしゅうございますね」
「マーサ!」
叫んだのは、兄だ。
「旦那様。何か、ご不便でも」
兄は何か言いかけて、マーサの顔を見て、黙った。この館でいちばん強いのは、たぶんマーサだ。
「まあ、いいわね。毎日一緒にごはんなんて、楽しそう」
私が言うと、マーサが今度はノアのほうを向いた。
「ノア様は、いかがです。お嬢様のお隣で、ご不便は」
あれほどすらすら雷の話をしていたノアが、スープの皿を見つめたまま、言った。
「……ありません」
耳が、少し赤かった。
(スープが、熱かったのね)
◇ ◇ ◇
開墾の初日、私も鍬を持って丘に上がった。
「エマ様、それは置いてください」
「どうして? 私の果樹園よ」
「病み上がりの方の仕事は、座って見ていることです」
ノアは私の手から、するりと鍬を取り上げた。あまりに自然で、取られたことに気づくのが一拍遅れた。手品師の手つきだ。
「すごいわ。今の、もう一回やって」
「……やりません」
それから丘のふもとの斜面に、木の椅子をひとつ置いた。館の裏口から、ちょうど十歩のところだ。
「ここで、日に当たっていてください」
「見ているだけなんて、つまらないわ」
「では、指図してください。どこに何を植えるか。エマ様の果樹園ですから」
「まあ。私、指図って、一度してみたかったの」
私は椅子に座って、丘じゅうに指図した。ブドウはこっち。アーモンドはあっち。
「アーモンドは、そこより一段上がいいです。春先、斜面のいちばん下には冷たい空気がたまって、花が霜にやられます。昨日の朝、斜面の上と下で霜の厚さを比べました。下のほうが、指一本ぶん厚かった」
「まあ、霜って、測れるの?」
「測れます」
「すごいわ。じゃあ、一段上で」
女王様になった気分だ。ただし、家来のほうが、ずっとかしこい。
ノアは腰に、小さな革の手帳を下げていた。ときどき鍬を止めて、何か書きこんでいる。
「それ、何?」
「観察帳です。土の色、霜、雲の形、苗の伸び。毎日つけています」
「毎日? 日記みたいね」
「……日記ではありません。記録です」
「どう違うの?」
「……」
ノアは少し考えて、それから、困った顔をした。
「……違わないかもしれません」
次の日、椅子は十二歩のところにあった。
「ノア。椅子、動いてない?」
「風で飛んだんでしょう」
「まあ。このあたりの風って、本当に強いのね」
「……はい。強いです」
お茶を運んできたマーサが、長いため息をついた。
その次の日は、十五歩。その次は、二十歩。椅子は人見知りの子猫みたいに、毎朝少しずつ、丘の上へ逃げていく。私は文句を言いながら、毎朝それを追いかけた。
おかげで、毎朝、少しずつ遠くまで歩けるようになった。風のおかげだ。ありがたい。
椅子の上には、毎朝なにかが置いてある。摘んだばかりのカモミールの、小さな束。すべすべの白い石。咲きはじめたアーモンドの花の枝。
「これは?」
「落ちてました」
「まあ。この丘は、いろんなものが落ちている丘なのね。いい丘を選んだわ」
「……そうですね」
「ずいぶん親切な風でございますね」
マーサが、ぼそりと言った。
「そうなの、マーサ。風が親切なのよ」
マーサが、空を見上げた。
椅子に座って、ノアが働くのを眺める。鍬をふるうたびに、背中の筋が動く。石を拾い、畝を作り、苗を一本ずつ植えていく。
ふいにノアが顔を上げて、目が合った。
ノアが、にこりと笑う。
頬が、かっと熱くなった。
(あら、また熱?)
おでこをさわってみたけれど、よくわからない。日差しのせいかもしれない。
とりあえず、空の鳶を見ることにした。鳶を見ていると、少し落ち着く。
◇ ◇ ◇
事件は、二十歩目の朝に起きた。
「メエ」
丘の上から、のんきな声がした。
見ると、植えたばかりのブドウの苗の前に、白い山羊が一頭立っている。もぐもぐと口を動かしていた。
「まあ、かわいい。こんにちは」
「エマ様、あれは苗を食べています」
「えっ、だめ! それは私の!」
椅子から立ち上がると同時に、ノアが丘を駆け上がった。山羊は苗をくわえたまま、ひょいと横に逃げる。
「メエ」
「待て、こら」
ノアが右へ回れば、山羊は左へ。左へ回れば、右へ。
「山羊は、追う相手の逆へ逃げる性質が……」
「ノア、説明はあとで! 捕まえて!」
気がついたら、私も丘を駆け上がっていた。二十歩より、ずっと先まで。
山羊が、私の目の前で急に向きを変えた。よけようとして、足がもつれる。
転ぶ、と思った。
次の瞬間、私はノアの腕の中にいた。
「……っ、大丈夫ですか」
「大丈夫。ノア、捕まえるの上手ね。山羊より、私のほうが捕まえやすいみたい」
「……そういう問題では」
ノアの胸が、すぐ目の前にある。土と、日向の匂い。
心臓が、どきどきする。走ったからだ。たぶん。
その隙に、山羊は私のショールの端をくわえて、ずるずる引っぱっていた。
「メエ」
「あなた、それも食べる気!?」
「メルー! だめでしょ、メルー!」
丘のふもとから、小さな女の子が走ってきた。隣の牧場のミナだ。八つになったばかりで、頬がりんごみたいに赤い。
ミナは山羊の首に抱きついて、それからようやく、私たちを見上げた。
私は、まだノアの腕の中にいた。
ミナの目が、まんまるになる。
「……おねえちゃんたち、こいびと?」
「違うわ。ノアは苗屋さんよ」
「……違います」
ノアの声だけ、なぜか少し小さかった。
ミナは、ふうん、と言って、首をかしげた。
「じゃあ、どうしてくっついてるの?」
「転びそうになったのを、受けとめてくれたの」
「ふうん。おにいちゃん、手、離さないね」
ノアが、ものすごい速さで私から手を離した。
「メルは、あっちにいるよ」
ミナの指の先で、山羊が二本目の苗を食べていた。
◇ ◇ ◇
山羊のメルは、ブドウの苗を二本と、ショールの房をひとつと、髪に結んでいたリボンを一本、食べてしまった。
リボンは、母の形見だった。
「……ごめんなさい、おねえちゃん」
ミナが、べそをかきながら謝る。
「いいのよ。メルも、おなかが空いていたのね。お母様のリボン、きっとおいしかったわ」
ミナが、ますます泣いた。
騒ぎを聞きつけて、マーサが丘を上がってきた。ちぎれたショールと、リボンのない私の髪を見て、それから、のんきに口を動かしているメルを見た。
「……お嬢様。あの山羊は、今晩のスープにいたしましょうか」
「だめよ、マーサ! ミナの山羊よ」
「冗談でございます」
メルが、マーサから三歩離れた。
「スープにはしませんが、よくもありません」
苗を植え直しながら、ノアが言った。
「山羊の通り道は、ふもとの垣根の三本目の杭のところです。根元が腐っていました。今日、直します。それから」
ノアは、少し間を置いた。
「明日、町へ戻ります。苗畑の様子を見て、市で苗を仕入れます。エマ様も、一緒に来てください」
「私も?」
「リボンを、探しましょう」
垣根の杭の話は、あんなにすらすら言えたのに。最後の一言だけ、声が小さかった。
「まあ、うれしい。町なんて、何年ぶりかしら。ノアの苗畑も見られるのね」
「……はい」
ノアは、植え直した苗の根元を、必要以上に念入りに踏み固めていた。
◇ ◇ ◇
町までは、馬車で二刻ほどだった。
出会った日の朝、ノアはこの道を、夜明け前から歩いて来てくれたのだ。そう思ったら、苗を届けてくれた朝の、濡れた靴を思い出した。
ノアの苗畑は、町の外れの、日当たりのいい斜面にあった。小さな小屋と、きちんと並んだ苗床。小屋の壁には、観察帳がずらりと並んでいる。
「まあ、何冊あるの?」
「三十一冊です」
「全部、日記?」
「記録です」
市は、にぎやかだった。
広場いっぱいに屋台が並び、焼き栗の匂い、吊るした香草の匂い、焼きたてのパンの匂いがまざっている。
広場を歩いていると、すれ違う娘さんたちが、二人、三人と振り返った。振り返って、ノアを見ている。
(ノアの髪、陽に透けると目立つものね。帽子をかぶればいいのに)
「お、別嬪さんだねえ」
布屋の屋台から、若い男が身を乗り出した。くるくるの金髪に、派手な刺繍のチョッキ。
「お嬢さん、見ない顔だね。町は初めて? よかったら、あとで広場を案内しようか。今夜は、踊りもあるんだ」
「こら、若旦那! また娘さんに声をかけて。親方に言いつけるよ」
隣の屋台から、おかみさんの声が飛んできた。どうやら、布屋の若旦那らしい。
「まあ、踊り? ノア、踊りですって」
「それに、うちの絹はどうだい。お嬢さんの髪の色には、この若草色がぴったりだ。なんなら、まけてもいい。なんなら、ただでも……」
「まあ、ただ? ノア、ただですって」
「リボンを、見せてください」
ノアが、私と若旦那のあいだに、すっと入った。
背の高いノアが立つと、若旦那の顔がまるごと隠れる。まるで、日よけの帆を一枚張ったみたいだ。
「……あ、ああ、リボンね。こっちだよ」
若旦那が、急に商売の顔になった。踊りの話は、もうしなかった。
「ノア、布屋さんと仲が悪いの?」
「……いいえ」
「じゃあ、どうして」
「……」
ノアは知らん顔をしている。耳が、赤い。
(布屋さんの屋台、日当たりがいいのね。暑いのかしら)
リボンは、たくさんあった。赤、青、白、金糸入り。私が迷っていると、ノアが一本を指さした。
「これは、どうですか」
淡いオリーブ色のリボンだった。光の加減で、銀色にも見える。
「まあ、きれい。ノアの目の色と、そっくりね」
ノアが、固まった。
「……そう、ですか」
「どうして、これにしたの?」
「……エマ様の髪は、陽に透けると赤みが出ます。補色に近い緑を合わせると、どちらの色も、いちばんきれいに見えるので」
「ほしょく?」
「……反対側の色、です」
「まあ、ノアは何でも知っているのね。じゃあ、これにするわ」
お代を払おうとしたら、ノアが先に払っていた。
「ノア、これは私が」
「山羊の不始末です」
「メルは、あなたの山羊じゃないでしょう」
「苗の番をしていたのは、俺です」
この人は、こういうところが頑固だ。添え木みたいにまっすぐで、曲がらない。
屋台の前で、私はリボンを差し出した。
「じゃあ、結んでくれる? 自分では、うしろが見えないの」
ノアが、また固まった。
それから、ひどくゆっくりした手つきでリボンを受け取って、私のうしろに回った。
髪にふれる指が、ほんの少し震えている。土を掘るときは、あんなに手際がいいのに。
(リボンを結ぶのは、苦手なのね)
「……できました」
「ありがとう。似合う?」
振り返ると、ノアは私の髪ではなく、地面の石畳を見ていた。
「……はい」
「ノア、そっちは石畳よ」
「知っています」
隣の屋台のおかみさんが、お腹を抱えて笑っている。
「いいねえ、若いって。新婚さんかい?」
「いいえ、苗屋さんと、そのお客よ」
私が答えると、おかみさんはノアの顔を見て、気の毒そうに肩をたたいた。
「兄さん、そんないい男なのにねえ。がんばりな」
「……はい」
何をがんばるのかしら。苗の仕入れかしら。
◇ ◇ ◇
館に帰ると、マーサが真っ先に、私の髪のリボンに気がついた。
「お嬢様。そのリボンは」
「ノアが選んでくれたの。ほしょくなんですって」
「……ほしょく」
「反対側の色のことよ。マーサは知らないでしょうけど」
「存じております」
「まあ、知ってたの。それでね、ノアが結んでくれたのよ。手が震えていたわ。リボンを結ぶのは苦手みたい」
マーサは、私の髪のリボンを、ずいぶん長いあいだ見ていた。
「……よく、お似合いでございます」
それから、窓の外の、丘のふもとの庭番小屋のほうを見て、小さくうなずいた。
「マーサ、何にうなずいたの?」
「お嬢様は、お気になさらず」
◇ ◇ ◇
二十五歩目の朝。
ノアが、裏庭の古い無花果の前で足を止めた。私の命を救ってくれた木だ。
「この木の枝を、少しいただけませんか。丘に挿し木したいんです。無花果は挿し木の根づきがとてもいい木で、記録では、十本挿せば九本は根を出します。来年には、もう実をつけます」
「来年? ずいぶん気が短い木なのね」
「気が短いのは、俺のほうです」
「まあ、そうなの? ノアって、のんびりしていると思っていたわ」
「……」
ノアは答えずに枝を切った。切り口から、白い汁がたらりと流れる。それを、素手でぬぐってしまった。
「あ、だめ!」
遅かった。夕方には、ノアの手の甲が真っ赤にかぶれていた。
「無花果の汁は肌に毒なのよ。ノアの観察帳に、書いてないの?」
「書いてあります。四ページ目に」
「じゃあ、どうして」
「ちょっと、急いでいて」
「何を急ぐことがあるの? 無花果は、逃げないわよ」
「……逃げないのは、わかっています」
薬草園の葉で軟膏を練って、ノアの手に塗った。大きな手だ。
「じっとしていて」
「……はい」
「動かないで」
「動いていません」
「指が動いたわ」
「……すみません」
包帯を巻き終わるまで、ノアはずっと窓の外を見ていた。耳が、熟れかけの無花果みたいな色になっている。
「ノア、耳もかぶれてるわ。耳にも塗りましょうか」
「……耳は、大丈夫です」
「でも、真っ赤よ」
「大丈夫です」
後ろでマーサが、壁に額をつけていた。
「ノア。丘の一番奥の、日当たりのいい場所。ひとつ空けておいてくれる?」
「何を植えます?」
「わからないの。あなたが選んで」
「……責任重大ですね」
ノアは包帯の上から、自分の手を撫でていた。
◇ ◇ ◇
三十歩目の日、私は初めて、丘のてっぺんまでのぼった。
息が切れて、ノアの腕につかまる。
「ありがとう。ノアの腕、ちょうどいい高さね」
「……そうですか」
ノアが、ふと川向こうの空を見上げた。
「あと少しで、雨が来ます」
「こんなに晴れているのに?」
「川向こうの雲の底が、平らになりました。それに、ツバメが低く飛んでいます。あの雲の速さなら、百数えるくらいで、ここまで来ます」
「百? 数えてみるわ。一、二、三……」
数えながら、空を見た。雲が、川を渡ってくる。雲の影が、ブドウの畝を一列ずつ暗くしていく。
「……四十八、四十九……ええと、次は」
「五十です」
「五十。……あら、どこまで数えたかしら」
ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
「ノア、まだ百じゃないわよ」
「八十七でした。エマ様が途中で迷子になったので、俺が数えておきました」
「まあ。ありがとう」
ノアが私の手を引いて、丘の端の古いオリーブの木の下へ走った。枝の下に入ると、雨の音だけが、急に近くなる。
ノアが上着を脱いで、私の肩にかけた。
「いいわよ、ノアが濡れるわ」
「病み上がりの人が濡れると、体が冷えて、また熱が出ます。俺は濡れても、熱は出ません」
襟を合わせてくれる指が、一瞬、私の顎にふれた。
オリーブの葉を打つ雨の音と、自分の心臓の音。どっちが大きいのか、わからない。
(あら。私の心臓、まだ慣れていないのね)
ノアの横顔を見上げる。睫毛の先で、雨のしずくがひとつ、光っていた。
「ノアの睫毛、長いのね」
「……っ」
「雨が、のってるわ。取ってあげましょうか」
「……大丈夫です」
ノアが、ものすごい速さで手の甲で目をこすった。包帯を巻いているほうの手だった。
「痛っ」
「まあ、だめよ。かぶれてるのに」
「……すぐ、上がります。雨。雲が薄いので」
ノアの言ったとおり、雨は来たときと同じくらい急に上がった。濡れたオリーブの葉が、いっせいに銀色に光る。雨に打たれたアーモンドの花の、ほんのり甘い匂いがした。
「……上着、ありがとう」
「返さなくていいです。今日は」
「明日は返すの?」
「……明日、考えます」
そのとき、ノアの腰から、革の観察帳がぱさりと落ちた。濡れた草の上で、ページが開いている。
拾おうとして、目に入ってしまった。
几帳面な字で、こう書いてあった。
『十日目。エマ様、椅子を追って二十五歩。歩幅、少し広がる。顔色よし』
『十四日目。笑うとき、左の頬にだけえくぼが出る。要観察』
「まあ。私、えくぼがあるの? 知らなかったわ」
ノアが、ものすごい速さで観察帳を拾った。
「それは、苗の記録です」
「私、苗なの?」
「……苗のようなものです」
「うれしいわ。ノア、苗のことは大事にするものね。私もちゃんと育つように、見ていてもらえるのね」
「……」
ノアは、観察帳で顔をおおった。
耳だけでなく、首まで赤い。
(ノア、雨に濡れて、熱が出たのかしら)
◇ ◇ ◇
雨上がりの丘で、マーサが持たせてくれたパンを半分に割る。
「ねえ、ノア。ノアは、どうしてそんなにお行儀がいいの? 兄上が、夕ごはんのたびに言っているわ。あの男は、きっと貴族の作法を習っているって」
ノアは、パンを持ったまま、遠くの川を見た。
「……習いました」
「まあ。苗屋さんの学校で?」
「いいえ」
ノアは、少しだけ笑った。それから、静かに話しはじめた。
「川下に、小さな領地がありました。父と兄がいて、俺は次男坊で。剣と行儀作法と古い言葉を、ひととおり習わされました。本当は、庭師のじいさんのあとをついて回って、雲や土を観察するほうが、ずっと好きだったんですけど」
川下。
さすがの私でも、胸の奥が、ひやりとした。
「三年前、帝国の兵が川を渡ってきました。父も兄も、城を守って死にました。俺は、じいさんに薬草の荷車の底に押しこまれて、夜のうちに逃がされたんです」
私は、何も言えなかった。
「それからは、じいさんの甥ってことにして、町の外れで苗畑を始めました。観察帳は、じいさんに持たされたものです。毎日書け、そうすれば、毎日ちゃんと生きていることがわかる、って。じいさんは、去年の冬に亡くなりました」
「……ロウ領、だったのね」
ノアは答えなかった。雨上がりの川が、光を返している。それが、答えだった。
「だから、あの手紙を読んだとき、放っておけなかったんです。形見の木と書いてあるのを見て、せめて、植える前に、注文した人の顔を見てから届けたかった。じいさんのときは、間に合わなかったので」
私は、パンを置いた。
それから、ノアの手を取った。包帯を巻いていないほうの手を。
「ノア。話してくれて、ありがとう」
「……」
「お師匠様の言うとおりね。ノアは、毎日ちゃんと生きているわ。観察帳を見たらわかるもの。私のえくぼまで、書いてあったし」
ノアが、私の手を見下ろした。
それから、少し笑った。今まででいちばん、困ったような顔で。
「エマ様は、ずるいです」
「まあ、どこが?」
「……全部です」
どこがずるいのか、さっぱりわからない。でも、ノアが笑ったので、まあいいことにした。
「あの手紙、まだ持ってるの?」
「持ってます。観察帳に、はさんであります」
「捨てて。字が汚いもの」
「嫌です」
即答だった。マーサみたいだ。
◇ ◇ ◇
雨の翌朝、朝ごはんの席で、私は上着を返した。
「これ、ありがとう。ちゃんと考えた? 返してもいいわよね。ラベンダーの水ですすいでおいたわ」
ノアは上着を受け取って、なぜかそのまま見下ろしている。
「……いい匂いがしますね」
「ラベンダーだもの」
「そうですね。ラベンダーです」
ノアは真面目な顔でうなずいて、上着をていねいにたたんだ。それから、なぜか一度、顔を近づけた。
「ノア、まだ濡れてた?」
「……いいえ」
向かいの席で、兄が首をかしげている。マーサが咳払いをした。
その夜の夕食で、私は兄に、ノアのことを話した。ノアが、話してもいいと言ったからだ。
兄の匙が、スープの上で止まった。
「……ロウ伯の、ご子息か」
「次男です。今は、種苗商です」
兄は匙を置いて、立ち上がった。そして、ノアに向かって、深く頭を下げた。
「最初の晩の無礼を、詫びる。名前と歳と生まれを、尋問のように聞いた」
「お気になさらず。妹君の手を握っていた男です。当然です」
「……お貸ししたんじゃなかったのか」
「……」
ノアが黙った。
スープの湯気だけが、まっすぐのぼっていった。
兄は、座りなおして、ぽつりと言った。
「ロウ領のことは、聞いていた。ひどい話だと思っていた。でも、川の向こうの話だと思っていたんだ」
兄の手が、少し震えていた。
「……川一本、なんだな」
「川一本です」
その晩、兄は、いつもよりたくさんパンを残した。
◇ ◇ ◇
帝国から手紙が届いたのは、その数日後の朝だった。
『貴領の令嬢が不思議な快復を遂げたと聞いた。祝賀を兼ねて使節を送る。ついては、それにふさわしい歓迎を期待する』
「まあ、お祝いしてくださるの? ご親切ね」
私が言うと、兄の顔が真っ青になった。ノアの顔は、真っ白になった。
「エマ様。ロウ領にも、三年前、これとそっくりの手紙が届きました」
ノアの声が、低い。
「ロウ領は『祝賀の使節』を手厚くもてなしました。使節は、城の塀の高さと、井戸の数と、兵の数を見て帰りました。半年後、帝国の兵が『国境の治安を守るため』と言って、川を渡ってきました」
「……つまり、お祝いじゃないのね」
「下見です。剣を抜く前の」
お祝いの手紙だと思って、喜んでしまった。
恥ずかしい。でも、恥ずかしがっている場合ではない。
その日の夕方、丘の上から川向こうを見ると、見張り塔に見慣れない旗が三本増えていた。河原には、天幕が白く並びはじめている。キノコみたいに、ひと晩でふえたのだ。
隣で、ノアが観察帳を開いていた。
「天幕が、二十八。ひとつに五人として、百四十人です」
「まあ。数えたの?」
「数えないと、怖さの大きさがわからないので」
「百四十人……うちのパン、足りるかしら」
「エマ様、あの人たちは、パンを食べに来るわけでは」
「わかってるわ。わかってるけど、何か考えていないと、怖いのよ」
ノアが、私を見た。
それから、観察帳に何か書いた。
「何て書いたの?」
「……内緒です」
◇ ◇ ◇
その夜、薬草園の奥の聖堂の前を通りかかると、中からガチャン、と金属のぶつかる音がした。
覗いてみると、兄が祭壇の金の燭台を両手で抱えて、うんとこしょ、と引っ張っていた。
「まあ、兄上。燭台のお掃除?」
「わっ、エマか! 脅かすなよ」
兄は汗だくで振り返った。
「使節への手土産が足りない気がしてな。この燭台を金に換えれば、向こうも機嫌よく帰るだろうと思って」
「神様のおうちのものを剥がして、どうするの」
「だって、攻め込まれたら元も子もないだろう! 河原の天幕、見たか?」
情けない声だった。兄は悪い人ではない。昔から、雷と強い相手が苦手なだけだ。怖くなると、すぐお金や物でなんとかしようとする。
そこで、気がついた。祭壇の上の燭台は、ひとつしかない。
「兄上。もう片方は?」
「……昼すぎに、商人に」
「売ったの?」
「……売った」
額を押さえた。止める間もなかった。
「わかったわ。そっちは戻ってこないとして、こっちだけは置いていってちょうだい。それと、その手紙を私に」
兄の懐から、書状を抜き取る。
夜の聖堂は、昼とはまるで別の場所だ。石の壁が、ろうそくの光の届くところだけぼうっと浮かび、祭壇の上の名の帳面が、白く浮かんでいる。片方だけの燭台が、祭壇の上を半分だけ照らしていた。
私は羊皮紙を持って、祭壇の前の床に座った。石の床に、羊皮紙を両手でぱりっと広げる。
「エマ、そんなところに座りこんで、何をしてるんだ?」
「見せてるの」
「誰に」
「ここの持ち主の方に。だって、私が読んでも、よくわからなかったもの。お祝いだと思っちゃったし」
兄がぽかんとした。私は気にせず、目を閉じる。
(神様。こういう手紙が来ました。読んでいただけますか。私は最初、お祝いの手紙だと思いました。違ったみたいです。河原には、ノアが数えたところによると、百四十人いるそうです。うちには兵もお金もありません。兄はご覧のとおり腰が引けていますし、私も正直、どうしたらいいのかわかりません。それと、燭台のことはごめんなさい。片方、売れてしまいました)
何も起きない。
ただ、どこからか、百合の匂いがした。聖堂に花は飾っていないし、この季節に、百合は咲かない。
両手でぎゅっと握りしめていた重い荷物を、ひとまず、誰かの前に置けた気がした。
「行きましょう、兄上。考えるのは、明日。今日はもう、眠いもの」
◇ ◇ ◇
手紙が届いた翌朝の朝ごはんは、誰もあまりしゃべらなかった。兄は目の下にくまを作っているし、私も、ほとんど眠れなかった。
ノアが、匙を置いて言った。
「帝国の国境の町で、熱腫れが流行りはじめているそうです。苗の仕入れに行った先で聞きました。喉と首が腫れて、三日で高熱になるとか」
「まあ、たいへん。私が死にかけた病気だわ。国境の町の人たち、つらいでしょうね」
「それから、これ。修道院から分けてもらってきました。喉にいいそうです」
テーブルの麻袋から、乾いたセージの匂いがした。
その匂いで、思い出した。
「ノア。私、この前、薬草大全を全部読み終わったの」
「おめでとうございます」
「ありがとう。それでね、九巻目の、干し無花果の湿布の章。あの続きに、読んでいなかったページがあったの。干し無花果を煮出して飲む法。喉の腫れには、セージを足すこと。香りづけに、メリッサ」
あの朝は、湿布の行だけ読んで、眠ってしまったのだ。
「熱腫れの初めのうちなら、よく効くって書いてあったわ。私ったら、自分の病気の薬を、半分しか読んでいなかったのね」
言ってから、首をかしげた。
「……あら?」
「どうしました」
「使節の人たちって、国境の町を通って来るのよね」
ノアが、匙を止めた。
「通って来ます。国境の町からこの館まで、馬車で二日。熱腫れの潜伏は、三日から五日」
「せんぷく?」
「病気がうつってから、症状が出るまでの日数です。使節の誰かが、ちょうど熱の出はじめにここへ着く見こみは、かなり高いと思います」
「まあ。じゃあ、お茶を出してあげなくちゃ。きっと喉が痛いもの」
兄が、パンを落とした。
「エマ、相手は、うちを攻めに来る連中だぞ」
「でも、喉が痛いのは、敵でも味方でも、痛いでしょう?」
兄は口を開けたまま、何も言わなかった。
ノアが、私を見ていた。それから観察帳を開いて、何か書いた。
「ノア、また内緒?」
「……はい」
そのとき、ふと、昨夜のことを思い出した。
聖堂の床に座って、神様に、どうしたらいいのかわかりません、と言ったのだ。
そうしたら、今朝。読み終えたばかりの薬草大全の、読み残していたページ。修道院から、ちょうど届いたセージ。国境の町で流行りはじめた、私と同じ病気。
(まあ)
ひとつずつなら、ただの偶然だ。でも、こんなに一度に、朝ごはんのテーブルに並ぶものかしら。
「神様って、お返事が早いのね」
「エマ、何の話だ」
「ゆうべ、お願いしたの。どうしたらいいかわかりませんって。そうしたら、今朝、ちゃんと材料がそろったわ」
兄は、また口を開けた。
ノアは観察帳を閉じて、少し考えてから言った。
「喉の腫れが引けば、使節の機嫌は少しよくなります。それに、熱腫れに効くお茶を淹れられるのがエマ様だけだとわかれば、向こうは、この館に手を出しにくくなる」
「まあ、そうなの? 私はただ、喉が痛い人は怒りっぽくなるから、楽にしてあげたら、少しは優しくなるかしらと思っただけよ」
「……結論は、同じです」
答えというには、ずいぶん地味だ。でも、ちょうどいい。足りない鍋に、ちょうどいい蓋が届いたみたいに。
私は、兄のほうに向きなおった。
「兄上。使節の方々には、金貨ではなく、お茶をお出ししましょう。とびきりのを」
◇ ◇ ◇
それからの十日間、館の台所は、薬草の匂いで満ちていた。
ノアは毎夕、丘の仕事を終えると台所に寄って、味見係をした。観察帳に、配合と味を一回ずつ書いていく。
「……苦いです。セージが、昨日より一割多い」
「まあ、わかるの? 私、量ってないのに」
「……量ってないんですか」
「いつも、目分量よ。手が覚えているの」
ノアの匙が、鍋の上で止まった。
「エマ様。配合を、書き残してください。お願いですから」
「どうして?」
「エマ様にしか作れないお茶になってしまいます」
「いいじゃない。私が作るんだもの」
ノアは、観察帳に何か書いて、その横に、大きなため息のような線を引いた。
「でも、飲めなくはないでしょう?」
「嫌いじゃないです」
「味見係が、それじゃ困るのよ」
次の日。鍋をすすったノアが、湯気の向こうで瞬きをする。
「昨日より、好きです」
「よかった! 今日は、無花果を一個多くしたの」
「……そうですか。無花果、ですか」
ノアは観察帳に何か書きこんで、それから、その行を指でこすって消そうとしていた。インクだから、消えないのに。
「お嬢様。もう少し、無花果を多めに」
マーサは最初こそ「台所が薬屋になりました」と顔をしかめていたけれど、三日目からは自分で味見をしている。
「甘すぎない?」
「甘いほうが、人は気を許すものです」
マーサは、ときどき恐ろしいことを言う。それからノアと私を交互に見て、もう一度言った。
「本当に、気を許すものです」
なぜか、ノアがむせた。
◇ ◇ ◇
使節団が来る朝。マーサは私を鏡の前に座らせて、一時間かけて髪を結った。最後に、あのオリーブ色のリボンを結ぶ。
「……お嬢様は、亡くなった奥様によく似ておいでです」
「そう?」
「黙っていらっしゃれば、国一番の美人です」
「黙っていれば?」
「黙っていらっしゃれば」
「じゃあ今日は、なるべく黙っているわね」
「無理でございましょう」
淡い若草色のドレスで中庭に出ると、テーブルの花を直していたノアの手が、ぴたりと止まった。
何か言うかと思ったら、何も言わない。
「ノア、手が止まってるわ。手も、かぶれたの?」
「……いいえ」
ノアは、自分の首のうしろをこすった。
「今日は、薬草園のお嬢様じゃないんですね」
「いつもの泥だらけのほうがいい?」
「……どっちも、困ります」
「まあ、困らせてごめんなさい。どっちがいいか、決めておいてね」
「……決められません」
ノアの視線が、一度だけ、私の髪のリボンに止まった。
耳が、また赤い。
(今日は、ノアの耳、ずっと赤いわね。日焼けかしら)
「何かあったら、呼んでください。すぐ下りてきます。丘の上から、中庭はよく見えるので」
◇ ◇ ◇
使節団は、昼前にやってきた。
長のバルド卿は大柄な武官で、笑顔のわりに目が笑っていない。砂糖をまぶした石みたいな笑顔だ。
使節にしては、護衛が多すぎる。三十人はいる。皆、祝いの席には不似合いな、使いこまれた剣を下げていた。部下のひとりは館の塀の高さを目で測り、別の男は帳面を手に、門から井戸までの歩数を数えている。
(ノアが言っていたとおりだわ。塀と、井戸と、兵の数)
さすがの私でも、わかった。この人たちは、お祝いに来たのではない。
それから、もうひとつ気がついた。
バルド卿は、馬車を降りるとき、左の首筋に手を当てた。歩きながら、つばを飲みこむたびに、ほんの少し眉をしかめている。
(まあ、痛そう)
帳面の男は、そのまま薬草園に踏みこんだ。咲きはじめたカモミールを、ざくざくと踏んでいく。
「あの、そこは」
声をかけた私の腕を、男がつかんだ。
「お嬢さん、ちょうどいい。この井戸、深さはどのくらいだ。夏に涸れたことは?」
指が食いこんで、痛い。
次の瞬間、その手首を、横から伸びてきた大きな手がつかんでいた。
「そこは薬草園です」
ノアだった。丘の上から中庭はよく見える、と言っていたのは、本当だったらしい。
声は穏やかなのに、目が笑っていない。オリーブの葉の裏の色が、冬の川みたいに冷えている。ノアが男の手首をゆっくりと外すと、力を入れているようには見えないのに、男の顔がゆがんだ。
「歩くなら、畝のあいだをどうぞ。それと、ご令嬢に触れるなら、先に名乗るのが礼儀でしょう」
男は舌打ちして手を振りほどき、そそくさと中庭へ戻っていった。
ノアは、踏まれたカモミールの前にしゃがみこんで、折れた茎を一本ずつ起こしはじめた。
「……痛くなかったですか」
こちらを見ないまま、聞く。
「ちょっと痛かったわ。でも、ノアの手のほうが熱かったから、そっちのほうが気になっちゃった」
ノアの手が、止まった。
カモミールの茎が、一本、くたりと折れ曲がった。
「あ」
「……すみません」
「ノア、さっきの人の手首、つかむとき、すごくかっこよかったわ」
ノアが、カモミールの畝に顔をうずめそうになった。
「ノアも見た? あの大きな人、首が痛そうだったわ」
「……見ました」
ノアが、深く息を吸って、顔を上げた。
「左の首筋に、三回手を当てています。それから、護衛のうち七人が、首を気にしています。帳面の男は、声がかすれていました」
「まあ、そんなに! みんな、喉が痛いのね。お茶、たくさん淹れなくちゃ」
「……そうですね」
ノアが、ほんの少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
中庭でお茶を出すと、空気が変わった。
「これは……香りがいい」
「甘いのに、くどくないな」
「喉が、楽になる気がする」
「さすが、歴史あるご領地だ」
口々に褒められて、兄の顔がみるみる赤くなる。十日前には燭台を抱えて震えていたのに、おだてられるとすぐこれだ。兄の機嫌は、春の空よりよく変わる。
お茶の席が中休みになって回廊に出ると、兄が宝物庫の前に立っていた。鍵束を、じゃらりと鳴らしている。
「兄上、宝物庫のお掃除?」
「おお、エマ。お茶、大好評だぞ! それでな、今から使節殿に、うちの宝物庫と武具庫を見てもらおうと思って」
「この前と、言っていることが正反対よ」
「これだけ友好的なんだ。富と備えを見せれば、対等な同盟相手として認めてくれるさ」
私は、首をかしげた。
「でも兄上。ノアが言っていたわ。あの人たちは、塀の高さと、井戸と、兵の数を見に来たんでしょう? 宝物庫と武具庫を見せたら、それも全部、教えてあげることになるわ」
「……」
「泥棒さんに、うちの間取りを教えてあげるみたいね」
「泥棒とは失礼だな」
「そうね、言い直すわ。とても礼儀正しい泥棒さんよ。お茶もおかわりしてくれたし」
兄は何か言い返しかけて、口を閉じた。回廊の柱の向こうに、使節の護衛たちの剣が、ちらりと光ったのだ。
兄は、鍵束を握りしめていた。よく見ると、その手が震えている。
「……エマ。俺だって、わかっているんだ。あの護衛の数を見ただろう。三十人だぞ。河原には、その何倍もいる」
「ええ」
「怒らせたら、明日にでも川を渡ってくる。ロウ領みたいに。だったら、見せられるものは見せて、少しでも機嫌を取っておいたほうがいい。そうすれば、すぐには来ないかもしれない。せめて、俺たちが生きているあいだくらいは……」
兄の声が、だんだん小さくなっていく。
「その後は?」
「その後は、その後の者が考えればいい」
私は、籠から干し無花果をひとつ取って、鍵束を握る兄の手の上に、ぽんと載せた。
「なんだ、これは」
「裏庭の無花果よ。誰が植えたのか、誰も知らない木。でも私、その人のおかげで生きているの」
兄が黙った。
「その人が、自分が生きている間だけ実がなればいいって思っていたら、私、今ここにいないわ」
回廊を、薔薇の匂いの風が抜けていく。
「兄上は、次の誰かに、何を残すの?」
兄は、手のひらの無花果と鍵を見比べて、長いため息をついた。それから、鍵束を懐にしまった。
「……お前は、ときどき、とんでもなく正しいことを言うな」
「ときどき?」
「ときどきだ」
◇ ◇ ◇
中庭に戻ると、バルド卿が指でテーブルを叩いていた。さっきまで薔薇のまわりを飛んでいた蜂が、いなくなっている。風が止んで、空気が重たく淀んでいた。
「アレン殿。茶はもう十分にいただいた。そろそろ本題だ。お宅の宝物庫と武具庫を、拝見したい」
兄の肩が、ぴくりと揺れた。それでも兄は、懐の鍵束を服の上からぎゅっと握った。
「せっかくですが、バルド卿。宝物庫はお見せできません。うちにあるのは、領民が今日を暮らすための蓄えと、子どもたちに渡す土地だけです」
(兄上、言えるじゃない)
テーブルの下で、こっそり拍手した。
バルド卿の顔から、砂糖が落ちた。残ったのは、石だけだ。
卿が片手を上げると、後ろの三十人の護衛が、いっせいに剣の柄に手をかけた。かちり、と鍔の鳴る音が、中庭のあちこちで重なる。
卿は、自分のカップを指先でぱちんと弾いた。カップが倒れて、琥珀色のお茶が、白いクロスに広がっていく。
(あ、もったいない)
「若き当主殿。日が沈むまでに、鍵を持ってこい。持ってこなければ、明日の朝、河原の兵が川を渡る。――ロウ領と、同じようにな」
兄の顔から、血の気が引いた。
卿の目が、ゆっくりと私に移る。
「それに、お嬢さん。死の床から起きたばかりだそうだな。裏の丘に果樹を植えているそうだが、実がなるまで、生きていられるのかね」
「貴様……!」
立ち上がりかけた兄の前に、護衛がふたり、無言で立ちふさがった。
そのとき、中庭の脇を、ノアが荷車を押してやってきた。荷台には、麻布で根を包んだ細い苗が一本だけ乗っている。丘の上から中庭を見ていて、苗を運ぶふりをして下りてきてくれたのだと、あとで知った。
「なんだ、その貧相な枝は。金貨のかわりに、木の枝でも貢ぐ気か」
「梨です」
ノアが、静かに答えた。
「種から育てました。根は、どの木よりも深く張ります」
ノアは荷車を置いて、こちらへ歩いてくる。護衛のひとりが、腕を突き出して道をふさいだ。もう片方の手は、剣の柄にかかっている。
「通してください」
苗の植え場所を相談するときと、同じ声だった。
「お嬢様の後ろが、空いているので」
(私の後ろに、梨を植えるのかしら)
そう思ったけれど、違った。
突き出された腕に、ノアが手を添えて、そっと下ろす。枝の向きを直すときと、同じ手つきで。
護衛が、思わずといったふうに一歩下がった。
卿が、面白そうに片眉を上げる。止めはしなかった。
ノアは私の椅子の斜め後ろに、黙って立った。剣も持っていない。ただ、そこにいる。
ノアの影が、私の肩にかかった。それだけで、こわばっていた背中から、すうっと力が抜けていく。
(大丈夫。ノアがいる)
不思議と、怖くない。
それより、気になってしかたがなかった。卿が、さっきから何度も、首をさわっている。
私は、卿の新しいカップにお茶を注いだ。これで、三杯目だ。
「あの、バルド卿。首、痛いんですか?」
卿の手が、首元で止まった。
「……何?」
「さっきから、左の首を三回さわっていらっしゃるもの。つばを飲みこむときも、痛そうだわ。それ、熱腫れの始まりですよ。私、同じ病気で死にかけたから、よくわかるの。喉と首が腫れて、三日目には熱で起き上がれなくなるのよ。たいへん」
中庭が、しんとした。
剣の柄に手をかけたまま、護衛たちが顔を見合わせている。
「あ、そちらの帳面の方も、声がかすれていますね。そちらの方も、首を掻いてる。かわいそうに。河原のテントの方たちも、きっと今ごろ、熱が出はじめているわ」
後ろから、ノアの声が静かに続いた。
「護衛の方のうち、七人が同じ症状です。国境の町からここまで馬車で二日。熱腫れは、うつってから三日から五日で熱が出ます。河原の天幕では、今夜あたりから、倒れる人がふえるはずです」
帳面の男が、思わず自分の喉に手を当てた。
卿が、ゆっくりと立ち上がった。大きな影が、テーブルごと私を覆う。
「……ならば、薬を作れる娘ごと、連れて帰ればよいだけのことだ」
兄が何か叫んだ。護衛の背中に阻まれて、声だけが届く。
私は、カップを置いて、卿を見上げた。
「連れて行かれても、お茶は淹れますわ。喉が痛いのは、かわいそうだもの。でも」
「でも?」
「私、お茶の配合を、書いたことがないの。毎回、目分量なのよ。その日の気分で、ちょっとずつ変わるの」
卿の眉が、ぴくりと動いた。
「だから、無理に連れて行かれて、すごく腹が立っていたら……うっかり、ものすごく苦いのを淹れてしまうかもしれません。わざとじゃないのよ。うっかりよ」
中庭が、さっきより、もっとしんとした。
後ろで、ノアが小さく咳をした。
「……本当です」
ノアが言った。
「何度も、配合を書き残してくれと頼みました。一度も書いてくれません。あのお茶は、この方の頭の中と、この方の機嫌の中にしかありません」
卿が、私を見た。
それから、ノアを見た。
もう一度、私を見た。
「三日目には、剣も持てなくなりますわ」
私は、心配だったので、もう一度言った。
「お座りになったほうがいいですよ。ほら、手も震えてる」
卿が、自分の手を見る。テーブルについた大きな手が、細かく震えていた。
倒れたカップから、お茶のしずくが一滴、クロスの端から落ちる。
卿は椅子に腰を落とし、三杯目のお茶を、ゆっくりと飲み干した。
「……参ったな」
卿が片手を振ると、護衛たちの手が剣の柄から離れた。
止んでいた風が、ふっと戻ってくる。薔薇の枝が揺れて、どこからか蜂が一匹、テーブルのカモミールの束にとまった。
「敵の喉の心配をする娘など、初めて見た」
卿は、苦い顔で笑った。
「兵が熱で倒れては、川を渡るどころではないからな。アレン殿。お宅には、ずいぶん恐ろしい宝物庫があるじゃないか。帰って皇帝陛下に申し上げよう。あの領地とは、喧嘩をするより、薬を買ったほうが得だとな。お嬢さん、河原の兵の分も、茶葉を分けてもらえるか。代金は金貨で払う」
「まあ、喜んで。ご機嫌よく包みますわ。あの梨に実がなる頃には、もっとよく効くお薬ができていると思います。それまで、どうかお大事に」
卿は踵を返した。去り際に、ノアの肩を軽く叩いていく。
「いい護衛だな。その立ち方は、剣を習った者のものだ。それに、わしの部下の首を数えるとは、いい斥候にもなる」
「種苗商です」
ノアは、にこりともせずに言った。
それから卿は、ノアにだけ聞こえるような声で、言い足した。
「あの娘は、たいへんだぞ」
「知っています」
何がたいへんなのかしら。お茶の配合のことかしら。
◇ ◇ ◇
使節団の馬車が、並木道の向こうに消えた。
見えなくなったとたん、膝から力が抜けた。
倒れる、と思ったときには、ノアの腕の中にいた。
「……すみません。あんな目にあった人を、立たせておくべきじゃなかった」
「平気よ。ちょっと、足がびっくりしただけ」
「びっくりしたのは、足だけですか」
「……ううん。全部、びっくりしたわ」
ノアの声が、少しだけ震えている。
「ノアは、怖くなかったの? あの護衛の前に出たとき」
「怖かったですよ」
私を支えたまま、ノアが言った。
「でも、あの人があなたを連れて帰ると言ったときのほうが、何倍も怖かった」
「何倍?」
「数えられませんでした。初めてです。数えられないほど怖かったのは」
(まあ)
数えるのが得意なノアが、数えられなかった。
それは、とても、たいへんなことなのではないかしら。
ノアの胸から、土と日向の匂いがした。心臓の音が聞こえる。ずいぶん速い。
「ノア、心臓、どきどきしてるわ。熱?」
「……熱じゃありません」
「じゃあ、何?」
「……」
後ろで、兄がわざとらしく咳払いをする。マーサが無言で兄の袖を引っぱって、館の中へ連れていった。
◇ ◇ ◇
翌日、兄は卿の金貨を握りしめて、商人のところへ走った。
売ってしまった燭台を、自分の手で買い戻してきたのだ。祭壇の上に、燭台がまた二本そろった。兄はそれを、誰にも頼まず、夜遅くまで自分で磨いていた。
「兄上、手伝いましょうか」
「いい。これは、俺がやる」
兄の横顔が、少しだけ、父に似て見えた。
三日後。丘の上から川向こうを見ると、見張り塔に増えていた旗は下ろされ、河原の天幕も、ひとつ残らず消えていた。ひと晩でふえたキノコは、ひと晩で消えるものらしい。
ノアは観察帳に、『天幕、ゼロ』と書いて、その下に線を引いた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、裏の丘へのぼった。もう、椅子を追いかけなくても、てっぺんまで歩ける。
丘の上は、すっかり様子が変わっていた。荒れ地だった斜面にブドウの列が並び、挿し木の無花果が、小さな葉を広げている。風が吹くたびに、丘のふもとで咲きはじめた野ばらの、甘い匂いが上ってくる。
ノアは丘の一番奥で、あの梨の苗のための穴を掘っていた。
「ここが、空けておいてもらった場所ね」
「はい。この丘でいちばん日当たりがよくて、いちばん水はけのいい場所です。三十日、毎日調べました」
「まあ、三十日も。ご苦労さま」
ノアが苗の麻布をほどくと、白い根が、思ったよりずっと長く伸びていた。
「果樹はふつう、実のなる木の枝を、別の木の根に継いで育てるんです。親の木の続きから始めるので、数年で実がなる。でもこの梨は、種から育てました。根を作るところから全部、自分で始めるので、時間がかかるんです」
「どのくらい?」
「最初の実がなるまで、十五年」
「まあ。ちょうど十五年なのね」
うれしくなって、手を叩いた。
「私も、十五年なの。おそろいだわ」
ノアの手が、止まった。
「……おそろい、ですか」
「ええ。この子が初めて実をつけるころ、私のおまけの十五年が、ちょうど終わるの。だから、最後の年に、この子の実を見られるわ。ぴったりね。ノア、すごくいい木を選んでくれたのね」
私は、本気でそう思っていた。
十五年後には、大きな木陰になる。誰かの子どもたちがここを走り回って、私のかわりに、実を食べてくれる。最初の実を、ひと目だけ見られたら、それで十分だ。
そう言ったら、ノアが、鍬を置いた。
「エマ様」
「なあに?」
「その十五年は、誰が決めたんですか」
「聖堂の古い本よ。王様の話があるの。死にかけた王様が壁に向かって泣いたら、日時計の影が十段戻って、十五年の命をもらったの。私と同じでしょう。それで、その王様は、十五年目に亡くなったの。だから、私も十五年」
「……」
「わかりやすいでしょう?」
風が止んだ。丘の草が、しんと動かなくなる。
「エマ様。その十五年は、神様がおっしゃったんですか」
「……え?」
「聖堂の名の帳面に、誰かが、十五年後の日付を書きましたか」
名の帳面を思い出す。父の字で書かれた、エマ。その横は。
空いていた。
「……言われてみれば、空いていたわ。兄上が、ひと晩じゅう見張っていてくれたし」
「でも、影は十段戻ったのよ。王様と同じ、十段。だったら、十五年も同じでしょう?」
「影が十段戻ったのは、王様と同じです。でも、エマ様が何年もらえるかは、どこにも書いてありません」
「王様の本には、書いてあるわ」
「それは、王様の本です。エマ様の本じゃない」
言われてみれば、そうだ。
「王様と同じだと、誰かに言われましたか」
「……言われてないわ。神様にも。私が、そう思っただけ」
「なら、それは、決まっていません」
ノアは、土のついた手のまま、私の手をつかんだ。
「十五年かかる木を選んだのは、十五年目に、あなたがここでこの実を食べるところを見たかったからです。最後の年なんかじゃない。それに、十六年目も、三十年目も、見たいです」
「……ノア?」
「王様の話の続きを、あなたがなぞる必要はない」
ノアの手に、少しだけ力がこもった。
「その実は、一緒に食べよう」
敬語が、消えていた。
「最初の実を半分に割って、ここで並んで食べる。それから、その種を十六年目の春に、また蒔くんだ。三十年目も、その先も」
私は、ノアの顔を見上げた。
いつもは、植物と天気の話ばかりしている人だ。根拠のない話はしない人だ。
その人が、根拠もないのに、三十年先の話をしている。
私と、一緒に。
「……ノア」
「はい」
「それって、もしかして」
自分でも信じられないことを、聞いた。
「ノアは、私のことが、好きなの?」
ノアが、固まった。
それから、ゆっくりと、長いため息をついた。
「……今、気づいたんですか」
「今、気づいたわ」
「椅子は、風で飛んだんじゃありません」
「えっ」
「贈り物は、落ちていません。一つも」
「えっ」
「耳が赤かったのは、日焼けでも、かぶれでも、熱でもありません」
「……えっ」
ノアは、観察帳を取り出して、最初のほうのページを開いた。
几帳面な字で、こう書いてあった。
『一日目。注文の手紙の主に会う。生きていた。セージに話しかけていた。……かわいい』
顔から、火が出た。
今度こそ、心臓が慣れていないのかもしれない。いいえ、違う。
わかってしまった。
出会った日の、うるさい心臓。雨宿りのときの、どきどき。ノアの手が熱かったことばかり思い出してしまったことも。全部、熱なんかじゃなかった。
「……私、ずっと、病み上がりで心臓が慣れていないんだと思ってたわ」
「知っています。マーサさんから聞きました」
「マーサ!」
丘のふもとに向かって叫んだけれど、もちろん返事はなかった。
鼻の奥が、つんとした。
慌てて下を向いて、苗の根元の土をぎゅうぎゅう押し固める。苗が、少し傾いた。
「エマ様、押しすぎです」
「……エマ、でいいわ」
ノアが、手を止めた。
「……エマ。押しすぎ」
「わかってるわ」
ノアが笑いながら、傾きを直す。私も笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。
涙がひと粒、苗の根元の土に落ちて、すぐに吸いこまれていった。
(神様)
十五年は、誰も言っていなかったんですね。王様の本も、名の帳面も、あなたも。
私が、自分で書いた数字だったんですね。
あの夜、壁の前で苦情を言っていた私を。
干し無花果の甘い匂いの中で、眠っていた私を。
震える字で、形見の木の手紙を書いた私を。
あなたは、ずっと見ていてくださった。
そして、その手紙を最後の一行まで読む人のところへ、ちゃんと届けてくださった。
私が鈍いことまで、たぶん、ご存じだったのでしょう。だから、こんなにわかりやすい人を、選んでくださったのですね。
風が、また吹きはじめた。梨の小さな葉が三枚、さっきよりしっかりと揺れる。
見下ろすと、館の中庭で、階段の日時計の影が、長く長く伸びていた。
「お嬢様ぁ。ノア様ぁ」
丘のふもとから、マーサの声がした。
「夕ごはんでございます。スープが冷めます。それから、ようやくお気づきになったのでしたら、手は離してからお下りください」
「マーサ、どうして知ってるの!?」
「館じゅう、とっくに知っております」
ノアの耳が、夕陽より赤くなった。
今度は、理由がわかる。
◇ ◇ ◇
聖堂の小さな窓からは、丘の梨の木が見える。まだ私の背丈にも届かない。それでも毎朝、新しい葉の数を数えてしまう。数えるのは、ノアにうつされた癖だ。
ある朝、聖堂の掃除をしていて、床に座りこんだ。床を拭いていたら、なんとなく、そこに座りたくなったのだ。母が言っていた、いちばん低いところに。
どこからか、百合の匂いがした。この丘では、この季節に百合は咲かない。
エマ、と。
呼ばれた気がした。
誰の声だったのかは、わからない。ノアにも、マーサにも内緒だ。言ったら、ノアはきっと観察帳を出してくる。
ただ、それは数字ではなかった。
私の名前だった。
名の帳面の、私の名前の横は、今も空いている。
◇ ◇ ◇
翌年の夏、丘の無花果が、初めて実をつけた。
ノアが一番大きな実をもいで、半分に割って、私にくれた。中は、とろりとした赤い蜜でいっぱいだ。
「十五年も待てなかった人の実ね」
「待てませんでした。記録上、最短です」
ノアは、少しも悪びれない。
丘のふもとから、ミナがメルを連れて上がってきた。メルの首には、今日はちゃんと縄がついている。
「おねえちゃん、おにいちゃん。やっぱり、こいびとでしょ」
「ええ、そうよ」
私が答えると、ノアが無花果を落としそうになった。
「おにいちゃん、顔まっか」
「……知っています」
(おわり)
――――――――――
【あとがき】
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
「その実は、一緒に食べよう」
十五年を期限だと思いこんでいたエマに、ノアが手渡したのは、期限の先の約束でした。
ノアとエマは、『落ちこぼれ聖女と氷竜辺境伯』に出てくる見習いのノアくんの、百五十年ほど前のご先祖さまのお話です。もちろん、この短編だけでもお楽しみいただけます。
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