納豆外交
「納豆を巡って、外交会議を開きます」
王国の宰相がそう宣言したとき。
リリアーナは、思わず聞き返した。
「……何の会議ですか?」
「納豆外交会議です」
「そんな名前の会議、聞いたことがありません」
「私もありません」
宰相は疲れ切った顔をしていた。
「しかし、両国の首脳が納豆について意見を交わす以上、正式な外交会議として扱う必要があります」
「そもそも、なぜ首脳が納豆について話す必要があるんですか?」
「それが……」
宰相は一枚の報告書を差し出した。
「隣国グランディアで、納豆の生産量が急増しています」
「……アルベルト殿下のせいですね」
「おそらく」
リリアーナはため息をついた。
数日前まで、アルベルト王子は納豆を毛嫌いしていた。
それが今では、自国の料理人に納豆を作らせ、朝食には三パック。
昼食にも一パック。
夜には「発酵食品の研究だ」と言いながら二パック。
すでに立派な納豆中毒者である。
ただし本人は認めていない。
『私は納豆が好きなのではない』
『納豆の可能性を研究しているだけだ』
『王子として、他国の食文化を理解しているにすぎない』
その言い訳を、侍従は毎日聞かされていた。
そして今日。
アルベルト王子が王国へやって来た。
「久しぶりですね、聖女リリアーナ」
「お久しぶりです、アルベルト殿下」
「本日は重要な外交のために参りました」
「納豆ですね」
「……違います」
「納豆でしょう?」
「違います」
「ちなみに今日は何パック食べました?」
「三パックです」
即答だった。
「……」
「…………」
アルベルトの顔が赤くなる。
「違う!」
「何がですか?」
「今のは、その……」
「三パック食べたことですか?」
「そうだ!」
「事実ですよね?」
「事実だが!」
「では問題ないのでは?」
アルベルトは頭を抱えた。
「あなたと話していると、どうしても調子が狂う……」
その様子を見ていた両国の宰相たちは、ひそひそと話していた。
「殿下は完全に聖女様に心を許しておられる」
「そうだな」
「これは政略結婚の可能性も……」
「待て」
アルベルトが聞き逃さなかった。
「なぜ結婚の話になっている?」
「いえ、何でもありません」
「絶対に何でもなくないだろう!」
会議室に着く。
両国の代表が席に着いた。
机の中央には、一本の瓶が置かれている。
アルベルトが眉をひそめた。
「これは?」
「納豆です」
「なぜ外交会議に納豆が?」
リリアーナが答える。
「今回の議題だからです」
「…………」
アルベルトはしばらく瓶を見つめた。
そして小声で言った。
「……いい匂いだ」
「殿下」
「何でもない」
「今、いい匂いと言いましたよね?」
「言っていない」
「言いました」
「言っていない!」
「では、この納豆をどうぞ」
リリアーナが瓶を差し出す。
アルベルトは一瞬で手を伸ばしかけた。
しかし、寸前で止める。
「私は王子だ」
「はい」
「外交の場だ」
「はい」
「ここで納豆を食べるわけにはいかない」
「そうですね」
「……そうだ」
アルベルトは安心したように頷いた。
その直後。
グゥゥゥゥゥ。
会議室に腹の音が響いた。
全員がアルベルトを見る。
「…………」
「…………」
「…………」
「違う」
誰も何も言っていない。
それなのにアルベルトは弁明した。
「これは私ではない」
リリアーナが隣を見る。
王国宰相も隣を見る。
グランディアの宰相も隣を見る。
誰も口を開かない。
アルベルトは苦しそうに言った。
「……私だ」
リリアーナが納豆を混ぜ始める。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
アルベルトの視線が箸を追う。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
「…………」
「殿下?」
「何でもない」
「視線が納豆から離れていませんよ」
「外交に集中している」
「納豆外交ですからね」
「そうだ!」
アルベルトは勢いよく立ち上がった。
「我が国は!」
全員が注目する。
「我が国は、今後も納豆の研究を続ける!」
「はい」
「生産量を増やす!」
「はい」
「品質も向上させる!」
「はい」
「そして!」
アルベルトは拳を握った。
「世界中に納豆を広める!」
会議室が静まり返る。
リリアーナが拍手した。
ぱち、ぱち、ぱち。
続いて王国宰相も拍手する。
さらにグランディアの宰相も拍手する。
いつの間にか、全員が拍手していた。
アルベルトは満足そうに頷いた。
「これで両国の未来は――」
「ところで殿下」
リリアーナが口を挟む。
「はい?」
「納豆を食べますか?」
「……食べる」
即答だった。
その日の午後。
両国は正式に条約を締結した。
条約の名前は――。
『友好と納豆に関する協定』
内容はいたって単純だった。
第一条。
両国は納豆の自由な輸出入を認める。
第二条。
納豆の製造技術を共有する。
第三条。
納豆を理由として戦争をしてはならない。
第四条。
聖女リリアーナに納豆を優先的に供給する。
そして第五条。
「アルベルト王子が納豆を一日三パック以上食べる場合、医師に相談すること」
「これは必要ない!」
アルベルトが叫んだ。
しかし、誰も反対しなかった。
こうして歴史上初めて。
納豆によって結ばれた国際条約が誕生した。
……ただし。
この条約には、一つだけ大きな問題があった。
魔族代表からの参加申請が届いていたのである。
その書状には、こう書かれていた。
『我々魔族も、納豆の輸入を希望する』
リリアーナは書状を読み終えた。
そして呟いた。
「……魔族も納豆を食べるんですね」
宰相が首を振る。
「問題はそこではありません」
「では何ですか?」
「魔族の代表として、誰が来ると思いますか?」
リリアーナは嫌な予感がした。
その夜。
王宮の上空に、巨大な黒い魔法陣が出現した。
そして。
そこから一人の男が降り立った。
漆黒の髪。
赤い瞳。
漆黒のマント。
誰もが恐れる魔族の王。
魔王。
その男は、王宮の屋根に立つと高らかに叫んだ。
「聖女よ!」
リリアーナが窓を開ける。
「何ですか?」
「我が名は魔王ゼルガ!」
「はい」
「世界を恐怖に陥れた最強の魔族の王だ!」
「はい」
魔王は胸を張る。
「貴様に一つ要求がある!」
「何でしょう?」
魔王は真剣な顔で言った。
「納豆を……」
「はい」
「一箱分けてくれ」
「…………」
魔王は小声で付け加えた。
「できれば、からし多めで」




