過去と現在
昨夜の重苦しい空気はどこへやら。翌朝のわが家には、おかしな活気が満ちていた。
「雅紀、見て! 見てちょうだい、この破壊力!」
リビングに降りるなり、母さんのテンションは最高潮だった。彼女がスマホのカメラを構えた先には、僕の少し古びた、サイズが二回りくらい大きなパーカーをぶかぶかに着こなした結衣ちゃんがいた。
「……おはようございます、お兄ちゃん。……あの、お義母様が、これが一番『萌える』からって……」
結衣ちゃんは、長い袖から指先だけを少し覗かせる、いわゆる「萌え袖」スタイルで、恥ずかしそうに頬を染めている。おい、不倫だの心中だのといった重低音のBGMはどこに消えた。完全にジャンルが違う。
「お兄ちゃん、似合わない、かな……?」
上目遣い。破壊的なビジュアル。僕は思わず天を仰いだ。シスコンの才能がどうとかいうレベルじゃない。これは国家予算を動かせるレベルの可愛さだ。
「……似合いすぎてて怖いよ。あと、母さん。結衣ちゃんを僕のお古で遊ぶのはやめて。せめて新しいのを買ってあげてよ」
「あら、新しいのもあるわよ? でもね、『兄のお下がりをパジャマ代わりにする妹』というシチュエーションは、人類が守るべき文化遺産だと思うの!」
「どんな文化だ。……結衣ちゃんも、嫌ならはっきり断っていいんだよ?」
「いいえ……お義母様が楽しそうですし。それに、お兄ちゃんの匂いが……あ、その、落ち着くというか……」
結衣ちゃんが俯き、パーカーの襟に顔を半分うずめる。――ズキュン。心臓に悪い。これが世に言う「義理の妹あるある」の洗礼か。僕は平静を装うために、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、一気に煽った。
「そうそう! 今日はお休みだし、二人で『兄妹水入らずショッピング』に行ってきなさい!」
母さんが、僕と結衣ちゃんの背中を強引に押し出す。
「結衣ちゃんに似合うリボンを選んであげて。あ、雅紀の『雅子』時代のセンスを活かしちゃダメよ? あれは流石に攻めすぎだったから」
「だからその過去を今出すな!」
一年前
六畳一間のアパートは、いつも安っぽいタバコの煙と、湿った薬の匂いが充満していた。お母さんは、お父様――雅紀さんのお父様――が来ない日は、決まって「あの女のせいだ」と叫びながら、私の髪を掴んで引きずり回した。
「あんたなんて、生まなきゃよかった。あんたが死ねば、あの人は私のところへ戻ってきてくれるのに!」
床に叩きつけられた私は、散らばった薬のシートを拾い集める。一、二、三……。 お母さんは、自分で自分の飲む量さえ管理できない。
ふと、スマホが震えた。画面には、雅紀さんのお母様からのメッセージ。不倫相手の娘の私にも優しくしてくれる、稀有な存在。
『結衣ちゃん。元気? いつでもうちに来ていいのよ』
翌日、僕たちは駅前のショッピングモールへ繰り出すことになった。案の定、歩いているだけで周囲の視線が痛い。「あんな美少女が、どうしてあんな適当そうな男と?」という声が物理的に聞こえてきそうだ。
「お兄ちゃん、あのお店……入ってもいいですか?」
結衣ちゃんが指差したのは、パステルカラーの雑貨屋だった。店内に入ると、彼女は珍しく少しだけ楽しそうに小走りで棚へ向かった。
「見てください、お兄ちゃん。このクマのストラップ……お兄ちゃんに似てませんか?」
「どこがだよ。こんなに目つき悪くないだろ、僕は」
「ふふ、でも……この、ちょっと頼りなさそうなところが」
彼女がクスクスと笑う。その笑顔は、昨夜の「母の遺品」を見て曇っていた時のものとは別人のように明るい。ふと、彼女が小さな鏡を手に取った。自分の顔を映し、それから僕を鏡越しに見つめる。
「お兄ちゃん。……私、今、すごく『普通』です」
鏡の中の彼女は、どこにでもいる幸せな女子高生の顔をしていた。
「普通の妹として、お兄ちゃんにワガママを言って、お義母様に甘えて……。昨日まで、そんなことが私に許されるなんて思ってなかった」
「許されるも何も、最初からそのための場所なんだから。……ほら、そのクマ、買ってやるよ。帳尻合わせにさ」
僕はあえて、彼女が使った言葉を冗談っぽく混ぜてみた。結衣ちゃんの肩が、一瞬だけピクリと反応した。鏡の中の彼女の瞳が、コンマ数秒、底知れない深淵の色を見せたような気がした。
「……はい。ありがとうございます。大切にしますね」
彼女は再び、満面の笑みを浮かべた。レジに向かう彼女の背中を見ながら、僕は自分の掌をじっと見つめる。幸せそうな妹。
「お兄ちゃん、早く!」
彼女の声に応え、軽薄な笑みを顔に貼り付けて歩き出した。この後僕は結衣ちゃんにいいところを見せようとゲーセンで小遣いを使い果たすのだった。
ショッピングモールでの出来事から数日。わが家のリビングには、結衣ちゃんが選んだ例のクマのストラップが、彼女の通学カバンの脇で所在なさげに揺れていた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。忘れ物しちゃって……図書室に置く用の、私のペンケース、リビングのテーブルにないですか?」
二階から結衣ちゃんの焦ったような声が降ってくる。僕はソファから身を乗り出し、彼女のカバンの近くを探した。
「ああ、あったよ。カバンの下に滑り込んでた」
「よかったです……。今、手が離せないので、カバンの外ポケットにでも入れておいてもらえますか?」
「了解」
僕はカバンのチャックを開け、ペンケースを滑り込ませようとした。その拍子に、カバンの内側にある、マジックテープで留められた小さな隠しポケットが目に入った。
そこには、一通の手紙のようなものと、一種類の『薬のシート』が、大切そうに、それでいて隠すように収められていた。
「……?」
僕は思わず、それを指でつまみ上げた。それが何なのかはわからないが、父さんから聞いた話が脳裏をよぎる。結衣ちゃんの母親は、精神不安定な末に、薬物の過剰摂取によって命を絶った。警察の調べでは、彼女が常用していた処方薬を一度に飲み干したことが原因だったはずだ。
だが、僕の手の中にあるのは、一錠も欠けていない、十錠入りの完全な新品のシートだった。
シートの裏面には、処方された日付が印字されていた。その日付は、結衣ちゃんの母親が亡くなる、わずか三日前のもの。父さんは言っていた。
『彼女は、手元にあった薬をすべて飲みきって、空になったシートを握りしめて倒れていたんだ』
「……お兄ちゃん?」
背後から、静かな声がした。心臓が、喉から飛び出しそうになるほど激しく打つ。 僕は反射的に薬をポケットに戻し、何事もなかったかのようにペンケースを突っ込んだ。
「あ、ああ、入れたよ。これ、結構パンパンだね。参考書とか入れすぎなんじゃない?」
振り返ると、階段の途中に結衣ちゃんが立っていた。彼女は、僕の手元をじっと見つめていた。その瞳は、いつもの儚げな光を湛えているようでいて、底の方は一切の光を通さない黒い鏡のようだった。
「……ありがとうございます。母が、いつも『整理整頓しなさい』ってうるさかったので、ついつい詰め込んじゃうんです」
彼女はゆっくりと階段を下りてきて、僕の隣でカバンを手に取った。
「母は、お薬を飲むのも、管理するのも、すごく下手な人だったから。……私がこうして、ちゃんと管理してあげないと、すぐに帳尻が合わなくなっちゃうんです」
彼女は、クマのストラップを愛おしそうに撫でた。その指先は、白く儚い。
「お兄ちゃん。……私ね、お母さんのことは、ずっと私が守っていたつもりなんです。お母さんが、一番楽になれる方法を、私がずっと考えてあげていたの」
彼女の言葉は、まるで「良いことをした子供」のように純粋だった。
「……結衣ちゃん。君は、本当に優しい子だね」
僕は、自分でも驚くほど乾いた声で言った。軽薄な兄の仮面が、内側からヒビ割れていく音が聞こえる。
「はい。私は、お兄ちゃんにも優しくしたいです。……ずっと、ずっと、この家で」
結衣ちゃんは、僕に向かって完璧な微笑みを浮かべた。それは、毒を含んだ林檎のように美しく、救いようのない甘さを湛えていた。




