妹ができた
人生には、三つの坂があるという。「上り坂」「下り坂」、そして「まさか」だ。
今日、僕の目の前に現れたのは、そのどれでもない。強いて言うなら「ラノベの導入部」という名の、断崖絶壁だった。
「……というわけでだ、雅紀。今日から、その……この子、結衣ちゃんをこの家で引き取ることになった」
「よろしくお願いいたします」
リビングのソファで、セーラー服を着た絶世の美少女の隣に座っている父さんが、今にも消え入りそうな声を出した。土下座こそしていないが、その背中の丸まり方は、芸能人の謝罪会見でもお目にかかれないほどの悲壮感を漂わせている。無理もない。父さんが語ったのは、実にテンプレ通り、かつ救いようのない「不倫」の末路だった。
過去に関係を持った不倫相手の女性が、先日命を絶ったこと。そして、一人残された高校生の娘――僕の異母妹にあたる、結衣ちゃんを、身寄りがないという理由でうちが引き受けるということ。
「まじか。妹ができる……不倫相手の娘……何そのラノベ設定。しかも同い年だっけ? 同級生の妹とか、シスコンになる予感しかないんだけど」
僕は努めて軽薄なノリで、後頭部を掻きながら答えた。そうでもしないと、この場に充満している「ドロドロの愛憎劇」の重力に、僕のメンタルが押し潰されそうだったからだ。しかし、僕のこの懸念を、瞬時にして無効化した人物がいた。
「やだ、雅紀。シスコンなんて、気が早いわねぇ。でも楽しみだわ、とうとう娘ができるなんて!」
母さんだ。過去とはいえ、不倫をされた当事者であり、本来なら包丁を振り回して父さんを追い詰めてもおかしくない立場のはずが、彼女は驚くほど能天気だった。
「だって、かわいいじゃない。女の子。私はずっと娘が欲しかったのよ。雅紀が小さい頃、無理やり女の子の格好をさせたりしたけど……やっぱり本物には敵わないわよねぇ」
「母さん、その忌まわしい黒歴史を今掘り返すのはやめてくれる? 雅子(当時の僕のあだ名)のフリフリ姿、網膜からは一生消えない呪いなんだから」
「ふふ、あの時の雅紀、本当にかわいかったのよ? でも結衣ちゃんはもっとかわいい。髪は綺麗だし、お洋服は何が似合うかしら。私と全然違うタイプの子だったら、コーディネートのしがいがあるわ!」
母さんは、まるで週末に届く高級お取り寄せグルメを見るような顔で、うきうきと両手を頬に当てている。その横で、父さんは「……すまない、本当にすまない……」と壊れたスピーカーのように呟き続けていた。
不倫相手の死。悲劇のヒロイン。そして、それを受け入れる準備が万端すぎる、能天気な正妻。カオスだ。これからの僕の生活は、間違いなくかき混ぜられた泥水のようになるだろう。
リビングでのカオスな対面式が終わった後、母さんは
「さあ、まずはファッションチェックからよ!」
と、結衣ちゃんを連れて二階の客間へ消えていった。一人残された僕と父さんの間には、通夜の席でももうちょっとマシだろうというレベルの、重苦しい沈黙が流れた。
「……雅紀。本当に、その……申し訳ない」
「父さん、そのセリフ今日だけで二十回目。いいよ、決まったことなんだし。それより、あの子……結衣ちゃんだっけ。あんなに綺麗なのに、よく今まであんなボロ屋……失礼、大変な環境で暮らしてたね」
事前に父さんから見せられた写真では、結衣ちゃんが母子家庭で暮らしていたアパートは、お世辞にも「家」と呼べるような代物じゃなかった。父さんは力なく首を振った。
「彼女の母親が……非常にプライドが高く、かつ精神が不安定でね。昔はそうじゃなかったんだが。私からの支援も、娘を渡すことも頑なに拒んでいたんだ。最期は精神科の薬やら、他にもよくない薬も……手元にあるものをすべて飲んで自分から命を絶ったって聞いてる。結衣ちゃんには、辛い思いをさせた。今日からは、普通の女の子として生きてほしいんだ」
普通の女の子、か。二階から聞こえてくる「まあ! このワンピースも似合うわ!」という母さんの黄色い歓声を聞く限り、うちの家で「普通」を維持するのは結構難しそうだが。
その日の夜。母さんの「着せ替え人形遊び」からようやく解放された結衣ちゃんは、僕が貸した大きめのTシャツを着て、借りてきた猫……いや、捨てられた仔犬のような顔で僕の前に現れた。
「雅子時代の服じゃなくて良かった」
「……あ、はい。雅紀さん。お部屋、ありがとうございます。本当なら私がリビングで寝るべきなのに」
結衣ちゃんの声は、静かな夜の空気に溶けてしまいそうなほど細かった。廊下の電球の光に透ける肌は、病的なまでに白い。不倫。母親の自殺。そして、知らない男の家への同居。本来なら、叫び出してもおかしくない状況のはずなのに、彼女の瞳には感情の波一つ立っていなかった。ただ、深い、深い闇が沈んでいるだけ。
「いいよ。大した部屋じゃないし、明日には物置部屋を空けるから、問題ないよ……寝れる? 枕、高くない?」
「はい。……あの、雅紀さん」
「ん?」
「私……ここにいて、いいんでしょうか。奥様、あんなに優しくしてくださるけど、私……本当に、お父様を苦しめた人の……」
結衣ちゃんがうつむく。長い黒髪が、その横顔を隠した。震える指先。消え入りそうな謝罪。僕は、彼女に視線を合わせた。
「いいんだよ。母さんは、ああ見えて、というか、あの通り本気で喜んでるから。あんな天然記念物、世界に二人といないよ。だから、君が気にする必要なんて一ミリもない」
結衣ちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。その時、彼女がふとこぼした「……ごめんなさい。私が、いなくなれば良かったのに」という言葉。その、あまりにも完璧すぎる「被害者」の顔に、僕は一瞬だけ背筋が凍るような違和感を覚えた。けれど、次の瞬間に彼女が見せた、泣き出しそうな微笑みに、僕の脳は勝手に「シスコン」のスイッチを入れられた。
「……ありがとうございます。転校も楽しみです。お兄ちゃんと一緒の学校に通えるなんて」
お兄ちゃん。その言葉の響きは、甘くて、少しだけ不自然に鋭かった。
リビングに戻った後、僕はソファに倒れ込んだ。結衣ちゃんの、あの寂しげな微笑みが網膜に焼き付いている。
窓の外では、月が冷たく光っていた。




