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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第5章:「一人しか知らない」

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第6節:後始末と教訓

 数日後、ペトルが意識を取り戻したと、クラウスから連絡が入った。


 城塞区の北端にある連邦行政施療院。行政局の職員が入院する際に使う、古い石造りの建物だ。廊下は清潔で、薬草の匂いが薄く漂っていた。


 案内された部屋のドアをノックすると、かすれた声が返ってきた。


「……どうぞ」


 ベッドに上半身を起こしたペトルは、マルクスの顔を見て、一瞬目を細めた。それから、すぐに分かったという顔になった。


「アッシュベルク殿か」


「ペトル・コヴァーチ。——顔色は戻ってきているな」


「まあ、何とか」


 マルクスは椅子を引いて座った。ペトルは五十五歳。思っていたより細い。二十年間、地下の管理室で一人で仕事をしてきた人間の、その二十年が顔と体に刻まれている。


 ペトルがゆっくりと口を開いた。


「……私のシステムに、手を入れたのか」


「入札を止めるわけにはいかなかった。応急処理だけだ。君のシステムは壊していない」


 ペトルは目を閉じ、短い息を吐いた。


「……入札は」


「通った。黒岩の迷宮群の探索権は正式に落札された」


「そうか」


 しばらく沈黙があった。


「……すまない」


 ペトルが言った。


「自分しかいないと、分かっていたのに」


「分かっていた、か」


 マルクスは静かに繰り返した。


「分かっていた。だが、自分のほうが早いし正確だ。だから任せられない——そういうことか」


 ペトルが、わずかに顔をしかめた。図星を突かれた顔だ。


「……そう言われると、否定できないな」


「否定しなくていい。俺も同じタイプだから、分かる」


 ペトルが、マルクスを見た。


「同じか……。あんたも、一人で抱えているのか」


「……俺は中堅ギルドの顧問だ。俺が倒れれば困る人間は限られている」


 マルクスははっきりと言った。


「だが、君のシステムが止まれば、連邦中の遺跡探索が止まる。同じ話じゃない」


「……規模の、問題か」


「規模は言い訳にならない。だが——規模が大きいほど、一人で抱えることの罪は重い。それだけだ」


 ペトルは黙っていた。窓の外で、初夏の風が木の葉を揺らしている。やがて、ゆっくりと頷いた。


「……もっともだ」


「引き継ぎ書を書いてくれ」


 マルクスは、そのまま続けた。


「全部じゃなくていい。緊急時に他の人間が動ける最低限の文書だけでいい。俺が読んだシステムの構造と、君の頭の中にある設計の意図——その二つを突き合わせれば、骨格は作れる」


「……今度こそ、書く」


 静かな声だった。言い訳のない、ただの言葉だ。


 マルクスは立ち上がった。


「回復を待っている。——あのシステムを継ぐ者が育つまでは、君にしか頼めないことがある」


 ペトルが、かすかに表情を緩めた。


「……はじめて、そんなことを言われた」


「事実だからだ」


 マルクスが部屋を出ようとしたとき、ペトルが思い出したように声をかけた。


「そういえば——」


 足が止まった。


「倒れる前の晩のことなんだが。……誰かが部屋に来た気がするんだ。記憶がはっきりしない」


「……誰かが?」


「夢だったかもしれない。ただ——見知らぬ顔だった、とは思う。書物商の配達人とは別の、誰か。そこから記憶が途切れていて」


 マルクスは何も言わなかった。


「気のせいかな。過労で倒れる前の夜なんて、頭もおかしくなるか」


「……そうかもしれないな」


 静かに返して、ドアを閉めた。


 廊下を歩きながら——マルクスの頭から、ペトルの言葉が離れなかった。


 (入札前夜という絶妙なタイミング。「過労」という診断。書物商を偽装した配達人の小包。そして、見知らぬ来訪者)


 確証はない。


 (だが——偶然と片付けるには、引っかかりが多すぎる)



 翌日。行政局。


 マルクスはクラウスに報告書を渡した。


 技術報告は一通り。認証の突破手順、予備認証の所在、入札処理術式群の構造概要、今後の保守に必要な最低限の知識。しかしその後半に、マルクスが自分で書き加えた項目があった。


「……組織への提言ですか」


 クラウスが、報告書の後半をめくりながら言った。


「ペトルの技術は一級品だ。だが、一人に依存する体制が問題だった。代行要員の育成、文書整備、定期的な引き継ぎ訓練——最低限、この三つが必要だ」


「……」


「技術的負債は技術の問題ではなく、組織の問題だ。技術者を責めても解決しない。体制を変えなければ、ペトルの次のペトルが生まれるだけだ」


 クラウスは報告書を閉じ、深く息を吐いた。


「……耳が痛い話だが、もっともです」


「もっともと思うなら、動いてくれ。俺が言えるのはここまでだ」


「承知しました」


 クラウスは立ち上がり、頭を下げた。


「今回は——本当に助かりました。アッシュベルク殿、それとダルジェント殿にも、改めてお礼を申し上げます」


「ギルドを通じて依頼料を送ってくれれば充分だ」


「……律儀な方だ」


「実務の話だ」


 マルクスは短く笑い、行政局を後にした。



 夕刻。旧市街。


 白狐亭ウ・ビーレー・リシュキの扉を開けると、煮込み料理の匂いが出迎えた。夕食時の混む前の、落ち着いた時間帯だ。


 エリカが、入口の前で待っていた。


 白狐亭に来るのは初めてらしく、店の外観をぐるりと見回している。石造り三階建て、飴色に磨かれた木の扉。古いが手入れが行き届いた、旧市街らしい建物だ。


「……思ったより落ち着いた店ですね」


「飲み屋だが」


「もっとにぎやかな場所かと思っていました」


「朝から晩まで騒がしい店には行かない」


 扉を開けて中へ入った。カウンターの奥から、女の声が掛かった。


「あら、マルクス。今夜は早いわね」


 ヤンの女房、ハナだ。丸い顔に明るい目。カウンターから身を乗り出して、エリカを見た。


「あら——カレルかと思ったら、今日は若い子連れかい。珍しいねえ」


「弟子だ」


「へえ!」


 ハナが目を丸くした。


「弟子がいたんだ。知らなかったわ。ねえヤン、聞いた?」


「聞こえてる」


 カウンターの奥から、ヤンの低い声が返ってきた。ぶっきらぼうだが、それがこの男の挨拶だと知っているから、エリカも驚かなかった。


「ダルジェントと申します。はじめまして」


「ハナよ。よく来てくれたわ。——で、何にする?」


 マルクスがカウンター席に座り、エリカも隣に腰を下ろした。


「金の泡を二つ。あとはハナに任せる」


「任されたわ。今夜は焼きソーセージがいいのが入ってるから」



 程なく、皿が並んだ。


 金の泡——ピルスナービールだ。注ぎたての黄金色の液体に、白い泡が厚く乗っている。エリカがグラスを受け取り、一口飲んだ。


「……すっきりしてますね」


「ここのは上等だ」


 焼きソーセージの盛り合わせが続いて来た。皮がはちきれんばかりにパリッと焼かれており、切ると中から肉汁が滲み出てくる。芥子からしとホースラディッシュが添えられている。チーズとハムの盛り合わせも、厚めに切り分けられたものが皿いっぱいに並んでいた。


 エリカはソーセージを一本取り、芥子をつけて口に運んだ。


「……おいしい」


「白狐亭に外れはない」


「先生がよく来る理由が分かりました」


「仕事の話をするには向いている店だ」


「今日は仕事の話ですか」


「打ち上げだ」


 エリカが、少し驚いた顔をした。それから、小さく笑った。


「先生が打ち上げという言葉を使うとは思いませんでした」


「……たまには言う」


「……先生と一緒に仕事するのは、初めてでしたね」


 エリカはビールを一口飲んでから、静かに言った。


「……楽しかったです」


「楽しいと言うな」


 マルクスは即座に返した。


「徹夜だったんだ」


「でも——」


 エリカは少し笑いながら、続けた。


「ペトルさんのシステムを見て、思ったことがあります。一人で二十年間、あれだけのものを作り続けた。すごいことだと思うし、同時に、誰も引き継がなかったことで何が起きたかも、今回よく分かりました」


「ああ」


「一人で頑張り続けることの限界と、それでも一人で頑張ってきた人への敬意——両方が大事なんですね」


 マルクスはビールを傾けながら、少し間を置いた。


「……そうだな」


「仕組みを批判するのは簡単だ。だが、その仕組みを支えてきた人間がいる。そこを忘れるな」


「忘れません」


 エリカは静かに頷いた。


 ハナが厨房から顔を出した。


「エリカちゃん、デザートは何かいる? うちは菓子はあんまりないんだけど」


「あ、えっと——トゥルデルニークはありますか」


「うちには置いてないわ。でも——隣の菓子屋にあるわよ。買ってきてあげましょうか」


「え、いいんですか?」


「お客さんの頼みだもの」


 ハナが割烹着のまま表に出ていった。しばらくして、紙袋を提げて戻ってきた。


「はい。焼きたてだって」


 袋から取り出されたのは、筒状に焼かれたパンだ。棒に巻いた生地を回しながら焼き、シナモン砂糖がたっぷりとまぶされている。端から手で割ると、ほわりと甘い蒸気が上がった。


 エリカが一口かじった。


「……! おいしい。先生、食べますか」


「いい」


「遠慮しないでください」


 ハナがカウンター越しに、面白そうに見ていた。マルクスは視線に気づかないふりをして、ビールを飲んだ。


「……一口だけだ」



 エリカが帰ったのは、夜が深まってからだった。


 店の入口で「ありがとうございました」と頭を下げ、明るい足取りで路地を出ていく。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、マルクスは扉のそばに立っていた。


 カウンターに戻り、ヤンに目を向けた。


「アイル島の琥珀酒を一杯」


「分かった」


 ヤンが黙って杯を差し出した。


 マルクスは一口、含んだ。潮の香りと燻煙の刺激が順番に来て、長い余韻がのどを下りていく。喧噪の中の、静かな一杯だ。


 懐から、通信石を取り出した。


 連邦首席代表府の紋章が刻まれた、小さな石。手のひらで転がす。冷たく、重い。


「政治家に借りを作るのは好みじゃない」


 独り言が漏れた。


 ヤンは黙っていた。聞こえていても、答えない男だと分かっている。


 (——だが)


 あの老紳士の目を思い出した。鋭い。しかし、品がある。技術には疎いと自分で言いながら、マルクスとエリカの仕事を正確に評価した。「技術者にしては珍しい」——正直さを即座に見抜いた。


 (あの男は——技術の価値を分かる人間かもしれない)


 確信ではない。政治家というのは、見せたいものを見せる人種だ。信頼は、積み重ねてからするものだ。


 それでも。


 マルクスは通信石を、そっと懐に戻した。


 琥珀酒を飲み干した。


 白狐亭の窓の外、旧市街の石畳に、夜風が吹いていた。


(第6節 了)


---


### 解説:ピルスナービール「金の泡」


連邦の居酒屋で最も広く飲まれているビールだ。淡い黄金色の液体に、白い泡が厚く乗る。明るく澄んだ色と、すっきりした苦みが特徴で、料理を選ばない。白狐亭ではこれを「金の泡」と呼んでいる——ハナが注ぎ立てにこだわっており、泡の状態が悪ければ注ぎ直す。


**味わい:** 軽快でキレがある。炭酸が程よく、飲み飽きない。重い煮込み料理にも、軽い盛り合わせにも合う。最初の一杯として、あるいは何杯飲んでも飽きない酒として、連邦中の食卓に根付いている。


---


### 解説:トゥルデルニーク(Trdelník)


棒に巻いた生地を回転させながら炭火で焼き上げた、連邦の伝統的な焼き菓子だ。焼き上がったら棒を抜き、筒状のパンにシナモン砂糖をたっぷりまぶす。街角の屋台や菓子屋で売られており、焼きたてが一番旨い。


**外見と食感:** 外側はカリッと香ばしく、内側はふわりと柔らかい。シナモン砂糖の甘みが、焼き目の香ばしさと混ざり合う。手で割ると蒸気が上がり、温かい甘い香りが広がる。


**文化:** 祭りや市場でよく見かけ、子供から大人まで好まれる。宿場や居酒屋では扱いがないことも多いが、近くの菓子屋に走れば大抵手に入る。ハナが迷わず買いに行ったのも、そういう習慣からだ。白狐亭の「お客さんの頼みなら隣まで走る」という流儀を体現している。


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