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エッセイ

自分の作品に呪われている

作者: ちりあくた
掲載日:2026/02/01

 ……結局のところ、私は成功体験に縛られているだけなのかもしれない。


「小説家になろう」で書き続ける理由の話だ。ここ最近、小説の評価が伸びなくなってきたので、ある種の病み期に入りつつある……そんな言い方は大袈裟か。


 とはいえ、私は変にメンヘラぶるつもりはない。それは評価を貰えない理由がはっきりしているからであり、評価を貰えない姿勢を変える気がないからである。だからこのエッセイは、単なる私の駄々である。呆れた方はブラウザバックをお勧めしよう。


 前者について説明(弁解と言うべきか)させてもらうと、私の創作姿勢は「やりたいことをやる」のが第一であり、畢竟、作品で読者を「楽しませよう・喜ばせよう」という気がまるでないのだ。


 つまりは、作家性がない。あるときは賢しらぶって論述文()を書いてみたり、あるときはカフカやカミュもどきに手を出してみたり、あるときは西尾維新ぶって劣化版ラノベを書いてみたりする。そのトレースが完璧であれば無問題モーマンタイなのだろうが、私のは猿真似である。


 やりたいからやってみた。ただそれだけで満足してしまい、後の部分はおざなりになってしまう。やりたいことがプロットを組むことならまだしも、「ただただ文体を真似したい」作品の場合は悲惨だ。謎に文豪ぶった読みづらい文章で、理不尽かつ不可解な展開が続くこととなる。


 一番の問題は、この姿勢を「ヨシ!」としていることである。私の執筆のモチベーションは、そうでなければ保てない。結局のところ、私にとって執筆とは、真摯に向き合う行為というより、単なる「ごっこ遊び」に過ぎないだろう。……問題とは言ったが、問題意識のない事実をそう形容しているのは、深層心理の反映なのか?


 続いて後者について弁解しよう。私が本エッセイを書き出した理由は「評価が得にくくなったから」が主であるが、だからといって何を変える気もないのだ。


 方法はいくつか思いついている。まず、純文学ジャンルへの投稿をやめるべきだ。現在の私は、基本的に純文学・エッセイジャンルに棲みついている。稀に他ジャンルへ出張することはあれど、作品群を見てもらえば数作品程度だと分かるだろう。


 エッセイと純文学作品では、その出来を度外視しても、前者の方が圧倒的に評価を得やすい。読み手の人口の問題もあるだろうが、それよりも。人の考えた物語より、人の体験した事実の方が、面白さが担保されやすいのだと思う。


 されど私は、まるでジャンルをガラッと変える気がない。先述の通り、「やりたいことをやる」姿勢なのである。だから、ホラーを書きたくなったら気まぐれにホラージャンルへ行くし、ローファンタジーなら然りだ。そんな風にして、書きたい作品の大多数が、評価を得にくい純文学ジャンルへ入ってしまう。それだけのことである。


 あるいは、何かしらの企画に参加すべきかもしれない。「ネトコン」やら「なろラジ」やらは参加経験があるが、それはハードルが低いからだ。タグさえ付けておけば、後は誰かが読んでくれる。評価したい人間はするし、しない人間はしない。その母数が勝手に増えて、私は何もしなくていい。


 自分で書いていて情けなくはあるが、不労所得が欲しいのは皆、同じではないのか?


 しかし、書き手の一部はそこに留まらない。SNSで宣伝活動をしたり、他の作家へと感想を書きに行ったり、あるいは個人企画を立案・参加して、他ユーザーと交流を深めたりする。これらのモチベーションは、当然私には浮かばない。おそらく、対人関係への嫌厭ゆえか、あるいは自作への愛が足りていないからだろう。


 もちろん、上記の行いが評価目的だなんて言うつもりはまるでない。私自身、感想をいただくたびに執筆へのモチベーションが上がるし、宣伝活動を行えるバイタリティには羨ましさを覚えている。特に個人企画は、純文学ジャンルにおいて欠かせない盛り上げ役となっているだろう。あれによって私も面白い作品に触れられるし、悪感情は一切ないという点を明確にしておきたい。


(……少し前に「馴れ合いはしない」というエッセイが色々言われていたのを目にしたし、「なろう」をTwitterもどきにはしたくないのだ。悪意の代弁者にはなりたくない。長ったらしい前段落だったかもしれないが、ご了承いただきたい。)


 ただ、そういったアクティビティには「「「()()()()」」」評価を得やすいという側面がある。もちろん、それを主目的にするのは不純だろうが、私がどうしても評価を得たいなら、踏み切るべき行動なのかもしれない。だが、それを為す気が全くない。


 やりたいようにやる。

 その前提に反する行為だからだろう。


 ……ここまで書いてきて、「じゃあ私は何のために執筆してるんだ?」という疑問は自然と浮かぶだろう。


 やりたいようにやると言いながら、評価が得られなければ、こんなエッセイを書き始める。評価を得た場合でも、「読者へ媚びてしまったな」と愚かな考えを浮かべた例もある。果たして私は、棚から牡丹餅が落ちるのを待っているだけなのか?


 まあ、多分そうだ。第一文で書いた通りのことが、それらの疑問に対する解答である。


 私は成功体験に縛られているのだ。


 その体験こそが、「王国に栄光あれ」という名の拙作である。二、三年前に投稿した作品だが、454ptをいただき、一時は純文学ジャンルで日間1位を取った。「なろう」全体では些細な数字かもしれないが、当時の自分にとっては成功体験だったのだ。


 ……このことが、呪いへと転じたのかもしれない。かの作品が生まれた経緯、投稿された環境が、今の停滞した私を生み出しているのだと思う。


 まず、ジャンルの話だ。「純文学」が比較的下火なジャンルであると認識していながら、多数の評価を得てしまった。だから私は、今もどこかで信じているのだ。「純文学」でも面白い作品は順当に評価をもらえるよね、と。その信仰の真偽はともかく、足枷と化している現状は不健全だろう。


 次に、執筆姿勢の話だ。「王国に栄光あれ」は、ある夜、深夜テンションのまま、プロットすら作らないで書き上げた代物なのだ。その間、全く読者のことなど考えず、自分の趣味嗜好をありったけ詰め込んだ。確認してみたら、投稿時間は午前6時10分だった。あまりにも徹夜明けである。それが評価されたものだから、心のどこかでプロットの存在を舐めている。


 そして、宣伝効果の話。当時の私にSNSアカウントはなく、「王国に栄光あれ」を世間へ喧伝することはなかった。記憶では、活動報告すら書かなかったと思う。他作家との交流などはまるでなかったものの、偶然、親切な方が、親切にも感想を書いてくださった。運任せが成功してしまった訳である。


 こうして振り返ってみると、「王国に栄光あれ」の454ptは、おおよそ偶然の産物であることが分かる。もちろん作品自体のクオリティは、拙作の中では高水準だろう。しかし、それを差し引いても、ラッキーな要素があまりに多かった。


 このことが、今の私を縛る鎖となっている。一度の成功が、停滞と無為を正当化しているのだ。書き続ける理由も、やめない理由も、きっとここにある。


 ……これからも私は書くだろう。あるときはプロットを練らず、あるときは読者の反応を意識することもなく、ただ書く。やりたいように、やれる範囲で、書きたいだけ書く。それ以外の動機は、今は存在しない。


 ただ、もし運が巡ってくるなら。

 純粋な作品のクオリティだけで、私らしい作品内容で、高評価を得てみたい。その場が何であろうと、だ。


 私自身、日常的に誰かから評価されるような人間ではない。だからこそ、趣味である執筆に、こんな穢らわしい祈りを捧げてしまうのだろう。


 まあ、たとえ鎖に繋がれたままでもいい。それでも手を動かすことこそが、私にとって唯一確かな自由であり、希望なのだ。


 ──つまりは、牡丹餅を食わせてくれという話でした。駄々はこれにて。

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