7.自分だけの特別な場所
佳詩奈が部屋に戻ると、お付きのメイドが湯あみの支度をしてくれていた。せっかくなのでご相伴に与ることにした。魔族の軍勢との戦いからずっと野営が続いていた。毎晩、濡らした布で身体を拭いていたが、そろそろさっぱりしておきたかった。
念のため入浴中も『聖なるオーラ』を纏っておいた。暗殺者が差し向けられることも考えられたが、今のところその気配はない。
湯船に入って気持ちが落ち着くと、これまでのことを思い返した。
王国は軍事力として利用するために聖女召喚を繰り返し、『親愛による縛鎖』で心を縛り、何人もの少女の未来を奪った。
軍事利用のために聖女召喚を繰り返さなければこんなことにならなかった。聖女としての教育を受けていなければ、佳詩奈だってこんなことはできなかったはずだ。
起きたことだけ並べてみれば、これは王家の自業自得だ。
王家の犯した罪は、女神の力を濫用したことと、何人もの少女の人生を歪めたこと。
王家の受けた罰は、国王軍の主力と王都の人々を失ったこと。
罪と罰が釣り合っているか、佳詩奈にはいまいち判断がつかなかった。
実のところ、そんなことはどうでもよかった。女神から後押しを受けたこともただの免罪符に過ぎない。
自分の望みが誰もいない街を手に入れることだと気づいた。そのための手段があって、王都という魅力的な街があった。ただそれだけだ。
共に戦った王国の騎士たちを消滅させた。王都の人々を消し去った。それなのに、罪悪感が湧かない。後悔もない。残された王家と重臣たちに大して憐憫の情すら湧かず、邪魔だとしか思えない。
佳詩奈の心を大きく占めるのは、もうすぐ王都を『自分だけの特別な場所』にできるという喜びだった。
自分はどこか壊れてしまったのかもしれない。そんなふうに考えても、恐怖はなかった。
「壊れてよかった……」
佳詩奈の口からそんな言葉が零れ落ちた。
壊れたからこそ、彼女は夢を手にすることができる。
湯あみを終えると専属のメイドがいつものように着替えと食事を用意してくれた。メイドにおびえた様子はなかった。王都の異変は知っていても、まだその真相については知らされていないようだった。
新品のように綺麗な聖女の装束を纏うと、とてもさっぱりした気分になった。
王都で一人になると、こんな風に色々お世話してもらうこともなくなる。そう思うとなんだか感慨深いものがあった。
念のために対毒魔法をかけてから食事を摂った。一口目は慎重に食べたが、特に毒が入っている様子もなかったので、あとは普通に食事を楽しんだ。
食事を終えて一息ついたころ、お呼びがかかった。王子の準備ができたらしい。
エスインダル王子に案内され、王都の名所を巡った。人のいなくなった王都は想像以上に楽しくて、佳詩奈は柄にもなくはしゃいでしまった。
劇場や美術館は無人のはずだったが、明かりがともっていた。王子が人を手配し用意させたらしい。この異常事態を前にして実にきめ細やかな対応だ。
魔力探知すると一定の距離を置いて騎士たちがついてきているのが分かった。少々うっとおしく思えたが、王家からすれば警戒するのも当然だろう。いちいち相手するのも面倒なので、気にしないことにした。
王都の名所にはかつての聖女の遺したものがいくつもあった。どの聖女も元の世界を恋しがっていた。『親愛による縛鎖』に縛られ、子供ができて、元の世界に帰ることを諦めた聖女たち。彼女たちはどんな想いだったのだろうか。この世界で夢をかなえ、永住すると心に決めた佳詩奈には想像しがたいものがあった。
そうして過ごすうちに日も暮れてきたので、王城へと戻った。
エスインダル王子と二人での食事となった。他の王族や貴族はいなかった。少し奇妙に思えたが、考えてみたら人間を消滅させる聖女と食事を摂りたい者などいないだろう。
そして食事を終えたところでエスインダル王子の態度が豹変した。
「よくやってくれた……本当に、よくもやってくれたな、聖女カシナ! いいや、なにが聖女なものか! 貴様のような邪悪なバケモノは、とっとと元の世界に帰ってしまえ!」
そして佳詩奈の足元に魔法陣が浮かび上がった。普通の魔法とは思えない精緻にして複雑な様式の魔法陣が、煌々と光を放っていた。
全てはこのためだった。魔法陣を用意する時間を稼ぐ。佳詩奈を油断させ確実に罠にはめる。そのために王子は自ら王都の案内を買って出たのだ。
いくら『親愛による縛鎖』があるとはいえ、『浄化の光』で簡単に人間を消滅させる聖女と過ごすのは相当な恐怖があったはずだ。しかしエスインダル王子は恐れをほとんど表に出さず、こうして最後までやりとげた。
ここまで見事に罠にはめられては感服するしかない。糾弾の言葉も、王子の立場を考えれば正当なものだった。
だから佳詩奈は返す言葉も思い浮かばず、ただ肩をすくめることしかできなかった。
「聖女カシナ……よくやってくださいました」
気がつくと佳詩奈は白だけが占める世界にいた。日本から召喚されたときに来た場所だ。
そこには温かな微笑みを浮かべた女神アインフィラーヴェがいて、賞賛の言葉をくれた。
「わたしの行動は間違っていなかったようですね。細かい説明をしてくれなかったから少し心配していました」
女神から「あなたが本当に望むことを見出したのなら、ためらわずに進んでください」と言われた。だから王都を浄化することが正しいのだと確信した。
それでも、もしかしたら違ったかもしれない。佳詩奈の中にはその懸念が少しだけあった。
「ごめんなさい。『約定』で私の行動は制限されているのです。あの時はあの説明をするだけで精一杯でした」
「召喚されたときも言っていましたけど、その『約定』と言うのはなんなんですか? 神様ってもっと自由なものかと思っていました」
佳詩奈の問いかけに、女神アインフィラーヴェは重いため息を吐いた。
「私は人間のことを愛していました。かつて、愛するあまり人々に多くの力を与えすぎてしまいました。その結果……世界が壊れてしまいそうになりました。他の神々の協力によってその危機は回避しましたが、私は咎を問われ、『約定』を結ばされました。それによって力の行使を大きく制限されてしまったのです」
佳詩奈は驚きに息を呑んだ。イラウサージュ王国では女神アインフィラーヴェだけを信仰していた。てっきりあの世界は神様が一人しかいないのかと思っていたが、どうやら違っていたらしい。しかも人間に力を与えすぎて世界を壊しかけるなんて、この女神は大丈夫なのかと思った。
「召喚された聖女たちが心の底で苦しんでいることは分かっていました。それでも王家が『約定』に従った聖女召喚の儀式をする限り、拒むことはできませんでした。だから『親愛による縛鎖』に流されず、王国の身勝手を正すことのできる、強い意志を持つ乙女たちを送ることにしたのです。でもそんな彼女たちでも、聖女の召喚をやめさせるには至りませんでした」
そう言われて、佳詩奈は王都めぐりをしたときのことを思い出した。劇場で歌った聖女。木彫りの鶴を彫った聖女。公園に木を植えた聖女がいた。彼女たちは故郷への想いを忘れていなかった。
彼女たちは、聖女を魔物討伐の兵器として運用し続ける王国を糾弾したのかもしれない。しかし王家は方針を変えず、聖女を召喚し続けた。
「だから、考え方を変えました。王国は罪を重ねすぎました。考えを改めてくれないなら罰を与えるしかありません。だから王都を滅ぼし得る乙女を送ることにしたのです。それがあなたなのです」
「……よくわたしがあんなことをするなんてわかりましたね」
街一つから人を消し去り、『自分だけの特別な場所』にする――それは佳詩奈自身すら気づかなかった大それた夢だ。日本で暮らす限り死ぬまで気づくかなかったと思う。それなのに、女神アインフィラーヴェはそれを見抜き、聖女として送り込んだと言うのだ。
「私は人間を愛していますから……心の奥の奥まで、見ることができるのです」
女神アインフィラーヴェはニコリとほほ笑んだ。屈託のない柔らかな微笑みだった。
それなのに、佳詩奈の肌が粟立った。
「で、でもあなたは、王都を滅ぼさせたじゃないですか。人間に愛想が尽きたんじゃないですか?」
「いいえ、それは違います。幼子が間違いを犯せば、母親はしかるでしょう? 私にとってあの世界の全ての人間が子供のように愛おしいのです。王国が間違えたのなら、それに相応しい罰を与えなければなりません。優しくするばかりが愛ではありません。時には厳しくすることも、大切なことなんです」
王都の人間を消滅させた佳詩奈は、もう自分には怖いものなどないのではないかと思い始めていた。
しかしそれがただの思い上がりに過ぎないと、心の底から思い知った。
女神アインフィラーヴェは笑っていた。とろけるような笑みだった。情欲に潤んだ瞳から感じられる、煮詰めすぎたハチミツのように熱くどろりとした濃厚な愛情。
それが王国だけでなく、自分にも向けられている。その認識は佳詩奈の背筋を凍らせた。
「まあ、なんていうか、お役に立てたのならよかったです。でもそれも終わりました。わたしは元の世界に帰ることになるんですね……」
せっかく『自分だけの特別な場所』になった、あの素晴らしい王都。惜しくて惜しくてたまらない。でも仕方ない。あれはやっぱり過ぎた夢だと諦めるしかない。元の世界にも、まだまだ行ったことのない廃墟がある。それで気もまぎれるだろう。佳詩奈はそう、自分を無理やり納得させようとしていた。
しかし女神アインフィラーヴェは静かに首を横に振った。
「いいえ。あなたは元の世界には戻れません」
「え? でも、王家に強制帰還の魔法をかけられてしまったんですよ? 『約定』には逆らえないのでしょう?」
「通常ならばそうです。ですが、あなたはあまりに多くの人を殺しました。あの世界で死に、あの世界で裁かれるまで、その魂は元の世界に戻ることを許されません。これは『約定』以前の世界の決まりごとなのです。
私の都合であなたを送り込み、元の世界に帰すことができなくなりました。ごめんなさい」
女神アインフィラーヴェは深々と頭を下げた。
佳詩奈は震えた。喜びに打ち震えた。諦めるしかないとわかった夢。それ手に入ると言われたのだ。
女神はどうして頭を下げているのだろう。全然意味が分からない。
喜びがあふれる。嬉しすぎて何を言えばこの気持ちを言い表せるかわからない。過剰な幸せは人から語彙力を奪ってしまうのだと知った。
「ありがとうございます!」
佳詩奈が口にできたのは、感謝の言葉だけだった。
そして、佳詩奈は戻ってきた。イラウサージュ王国の王城。そのダイニングルームへと戻ってきた。
食卓のテーブルがある。向かいの席にはエスインダル王子が立っている。強制帰還の魔法をかけられてからほとんど時間が経過していないようだった。
「バ、バカな!? 強制帰還の魔法は確かに発動したはずだ! なぜここにいる!? どうやって戻ってきた!?」
「女神様に帰すことができないと言われました」
「なんだと!? どどど、どいうことだっ!?」
エスインダル王子は普段の優雅さを失い、慌てふためいている。それも当然だろう。佳詩奈自身もこんなことになるとは思わなかった。
事情を説明するためにはいろいろと説明しなければならない。佳詩奈にはそれがひどく面倒くさく思えた。
そして、気づいた。エスインダル王子に感じていたあの親しみが無くなっている。
試しにエスインダル王子に『浄化の光』を放ってみた。狙いが外れることも、威力が弱まることもなかった。
「は?」
あっけにとられた間の抜けた顔と、気の抜けた驚きの声を残して、エスインダル王子は消滅した。
なんの精神的な抵抗も感じない。『親愛による縛鎖』の効果が消えている。元々は召喚の時に組み込まれた術式だった。おそらくは強制帰還の魔法をかけられた時に効力を失っていたのだ。
魔力探知で他の人間の場所を探る。ほとんどが会議室の周辺に集まっているようだ。おそらく今後のことについて話し合いでもしているのだろう。これなら『大規模浄化魔法』を使うまでもない。
佳詩奈は聖なる力を練り上げた。そして放った広範囲かつ長射程の『浄化の光』は壁も床も貫通し、一撃で王城に残った人間の大半を消滅させた。
まだ城には騎士や使用人が、城の各所に残っている。広範囲の『浄化の光』を考えなしに連発すれば異常に気づくかもしれない。逃げ回ったり立て籠もったりされたら面倒だ。かと言って『大規模浄化結界』は準備に時間がかかりすぎる。
一人ずつ確実に消滅させなければならない。残った人間の数はそう多くないが、王城は広い。手間も時間もかかるだろう。だが佳詩奈は魔物討伐でそうしたことには慣れていた。彼女にとってはちょっと手のかかる残業に過ぎないことだった。
「夢をかなえるための最後のお仕事です。焦らず慌てず丁寧にやりますか!」
まずは城の外に逃げられないように結界を張らなくてはならない。
佳詩奈は軽い足取りで、最後の仕事にとりかかるのだった。
「さて。じゃあそろそろ火をつけますか」
王城の人間を全て浄化した後。佳詩奈は王城の書庫から本を持ちだし、王城内の野外訓練場まで運び出した。うずたかく積み上げた本は、全て聖女の召喚に関するものだ。王家は誰もいなくなった。しかしこれらの本がこの世界に残れば、同じ過ちを犯す人間がいるかもしれない。処分しなければならなかった。
漏れを無く焼失させるため、書庫ごと燃やしてしまうことも考えた。しかし今、この王都にいるのは佳詩奈だけだ。もし延焼したら消火する術がない。火災がどこまで拡大するか予想がつかない。
焼け落ちた廃墟と言うのも趣があるが、佳詩奈としては時間経過で朽ちていく建物の方が好みだった。
だから可燃物の少ないこの野外訓練場で燃やすのが一番だった。
火の魔法を放つと、本は勢いよく燃え上がった。キャンプファイアーのようで、なんだか楽しい気分になった。
夜はすっかり更けていた。王都は静かだった。周囲に明かり一つない。満天の星空と、目の前の炎だけが王都を照らしている。ひそやかで穏やかな夜だった。
明日から何を佳詩奈はしようかと考えた。まずは王都に結界を張ろう。固い結界を何重にも張って、誰も入り込めないようにしよう。
そうしたら、気の向くままに王都を散策しよう。
当面は食べ物の心配はない。保存のきく食料は王都内にいくらでもある。もし食べられるものが無くなったら、近くの町や村に買いに行こう。少し時間はかかるが、隣の国に買いに行ってもいいかもしれない。お金は王都の中にいくらでもある。一生かけても使い切れないだろう。
むしろ腐敗の方が心配だ。この世界には残飯を処理してくれるスライムがいるらしいので、早めに入手しておいた方がいいかもしれない。
これから王国はどうなるだろうか。王国軍の主力は消滅した。統制すべき王家はなくなってしまった。この王国はもともと魔物が発生しやすい場所だ。各地の領主は自前の兵力である程度耐えられるかもしれないが、いずれは限界が来るだろう。そして領土拡張を求める周辺諸国の進出を許すことになる。
そうなったら他国が王都に侵入を試みるかもしれない。だがそれは、早くても数年後のことだ。今は考えなくてもいいかと思う。
いずれ王都を放棄せざるを得ない時が来るかもしれない。そうしたら、旅に出よう。この世界はまだまだ未知にあふれている。失われた太古の都が、世界のどこかにあるに違いない。そうした場所を見つけるために、冒険者になるのもいいかもしれない。
でも、今は王都を楽しみたい。『自分だけの特別な場所』になったこの都を、飽きるまで楽しもうと思う。
佳詩奈は聖女だ。王都を浄化して、王国史上かつてない完璧な平穏をもたらした。それが女神の導きだとしても、あまりに多くの命を奪いすぎた。死んだら地獄に落ちることになるだろう。
それでもかまわないと思った。
だって今いるのは、『自分だけの特別な場所』。佳詩奈にとって、天国よりも素敵な場所なのだから。
終わり
「召喚した聖女を酷使する王家は、女神から見たら穢れているに違いない」なんてことを思いつきました。
それで聖女が浄化の力で復讐する話を書いてみようと思いました。
でも、わざわざ召喚した聖女をぞんざいに扱う王家というのも違和感があります。
そんなことを考えながら設定やお話を作っていったら、最終的にヒロインがとてもヤバイキャラになってしまいました。
相変わらずお話づくりはままなりません。
2025/5/29、5/30
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。
2025/6/1、6/9
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!