8
「ごめん、やっぱり思い出せないや。ぼくにあるのは、ここ五年間分の記憶だけ」
ニコルは項垂れる。握りしめているアランの手、それは為す術もないままどんどん温かさが失われてゆく。彼が生きている確かさが消えようとしているみたいに思えて、ぞっとする。
「そう……そうやってぼくらのかずは、へっていくんだ。わすれて、ひとをかばって、しんで。ほとんど、えいえんのいのちとも――うたわれる、そんなルーチェのぼくらがどうしてしぬのか……きみは、わかる?」
「……分からないし、どうでもいいよ」
ちょっと考えてはみたものの、どうやっても目の前のアランの一部始終に吸い寄せられてしまって、そのこと以外の何もかもがどうでもよくなる。投げやりの気分が膨らんで正直にそう返すと、子どものような相手は声をたてて笑った。氷みたいな、ぞっとする笑い。
(この子とぼくが同じものだなんて、嫌だな。ぼくがこんなふうに笑ったこともあるのかな……)
胸の裏側がざわざわして、何だか落ち着かない。
「けんで、さされたって! くすりを、もられたって! てあしを、ちぎられたって! ルーチェは、しなないんだ! くるしいのに、しねないんだ……!」
くるくるとせわしなくまわりながら、満面の笑顔で空に向かって叫ぶ。悲痛な声色なのに、たのしそうに笑っている。たのしそうにしないと、やってられない。笑顔をやめたら、たちまち泣いてしまう。そんなふうにも思える。
「しぬのは、じぶんのこころが……もろくなったとき」
最後にぽつりと発すると、俯いて足許の雪を蹴り上げはじめた。ニコルが今少し落ち着いていないように、向こうも落ち着かないのだろう。
「もろくなったとき」
心がもろくなるときなんて、無限にある気もする。ずっと、もろくならないことなんてあるのだろうか。ちっとも永遠のいのちではないような。むしろ、ちょっと弱くて情けないような。
「もろくなった……っていうのは、どういうときなの」
「じぶんいがいのだれかに、あまえて、たよって、ゆるしてしまうとき。そうやって、おのれをゆるしてしまったら……だれかのふりかぶった、みえないつるぎにつらぬかれて……しぬんだよ」
雪蹴りをやめて、サク……サク……とニコルの方へ三歩ほど踏み出すと、そこで見えない剣を振りかぶる真似をした。ニコルは避けなかった。「それって」相手の顔を覗きこむように、少しだけ距離を近づける。
「……あいじょー、ってやつでしょ。別にもろくなんてならないよ。それで強くなれる人もいるんだよ」
以前、アランがニコルに話してくれた言葉たちを思い出しながら、反発する。相手は腹を抱え、また笑ったようだった。
「だから! ぼくらは、『ひと』じゃないんだよ!? ぼく、ぼくらはね、ひとをあいせないの。あいすることは、いきのこれないということ……わかる? ぼくのいっていること。
ぼくたちは、ひとをころして、ちをみるのが……すきだろう。きみだって、それはかんじていたはずさ。ちがすきじゃないやつは、ぼくらとおなじじゃない。ひとをあいするやつも、ろんがいだ! こころがよわって、ひとをころせないんじゃあ、ねくびをかかれてしまう……」
血。
アランが死んで、触れているその身体は冷たくなって、悲しみとも呼べそうな何かがニコルの喉を詰まらせている。けれど、首から途切れ途切れに流れる血に、うっすら高揚が湧き上がりそうな感覚があることも、否定しようのない事実なのだった。
「……わかったなら、そんなニンゲンほうって、どこかへいってよ。ここからどかないと、きみもころすよ。どうぞくだからって、ようしゃはしないんだからな」
手が震えている。強めに言う割に、そこには躊躇いがある。ニコルはそっと笑った。それは、きみがさっき言った、心がもろくなるというやつではないのか。あいを持っていないのに、もろいなんて。もろさにあいは無関係と公言しているようなものじゃないか。
「……すればいいじゃないの。さっさと殺したら」
「!?」
「同族殺しは、いくらきみが冷たく恐ろしくあっても、無理だと思うよ。ぼくは、きみが殺したくてそれで殺されるなら、抵抗なんてしない」
さあ、殺すんでしょ?
「そんなに、ひとに…………はじさらしだ、きみは! おのぞみどおり、ころしてあげるよ!」
(抵抗はしない。約束したこと、覚えてる……武器は持たない、殺しはしないって。アラン…………)
ニコルはふっと懐かしむように薄笑い、静かに目を閉じた――ずぶ、り…………何度も腹を刺されている。相手は冷静じゃないらしい。首はやらないのかと思っているうちに、色も音も消えた。
*
――……遠くで水音がする。ちゃぷん、ちゃぷん、ひっきりなしに。
(ああ……これは、水じゃなくって、血だ)
深々と息を吸い込めば、甘い甘い香りが鼻腔をくすぐり、身体という身体がじんわりと熱を持つ。我知らず心が躍る。血。
目の前にある、てらてらと赤黒い血肉の塊。どきどきの原因。その血肉に手を伸ばして掴んだ。心地良い。心地良い。
そして、塊の顔の部分を見て。
「あ…………かあさ、まっ」
そういうつもりではなかった。血が見たいわけじゃなかった。なのに、どうして。
母を愛しているのか確かめたかった、ただそれだけなのに。殺してしまったら、もう分からないじゃないか。
ほんとうの母ではないけれど、ニコルにとっては安心できる人だった。父も召使いも、その知人も、皆皆ニコルを奇妙なものを見るみたいに冷たい目だった。彼女は違った。絵本の中の母子のような頭を撫でて貰ったりなどはないけれど、母の部屋をこっそり訪ねたニコルに微笑んでくれた。まるで花びらが陽に綻ぶようだった。優しい、優しい、人だった。
家出したあの朝、ニコルはいつものように母の部屋へ向かった。おはようの挨拶をしたくて。笑顔を見たくて。
扉を開けたら、先客がいた。普段なら確認してから扉を開けていたが、その日はうっかりしていた。
父がいた。
召使いたちはいなかった。ノックもせず侵入した、こちらを見る父の目は怖かった。いつにもまして、虚ろで暗くて怖かった。手元が、カーテンのすき間から零れた光でギラリ、不気味に輝いた。
何か分かったときにはもう遅かった。
父が、母の胸にそれを刺したのだ。召使いたちがよく切れるよく切れると言う肉を断つときに使う包丁。
泣いて泣いて泣いて泣いて…………混乱し、言葉に出来ず、わあわあと喚いていると、母の大事なものが詰まった引き出しからいくつか何か取り出して、それを抱えて父はどこかへ行ってしまった。取り乱しているニコルに、声掛けひとつなかった。
なんで? あいしていたから、いっしょにいるんじゃなかったの。
ここ五年で一番悲しかった。苦しかった。狂おしかった。人形同然だったはずのニコルはどうしたんだろう。はじめてこんなに内側が揺れたような気がした。
「母、さま……い、たい?」
母は放心してしまっている。痛みもそうだが、きっとショックだったのだ。ニコルの声は届かない。
「母さま、ぼくがいるよ。ねぇ、ぼくのこと…………」
言い淀む。母はぼくのことを愛してくれているのだろうか。くれているってなんだ。あんなに微笑んでくれた彼女は、やっぱり父を愛しているのだろうか。もしくは、誰にでもそう微笑んでいる?
分からない、分からない、分からない。あいってなんだっけ? どういうのが、あい、だっけ?
頭の中がぐちゃぐちゃで、思考が上手くまとまらない。そうだ、殺したら、母がいなくなれば、分かるのかもしれない。あいしてるかどうか。
「母さま、今楽にしてあげるね」
母さまのうずくまっているベッドは、真っ白でふわふわ。高さが少しある分、登るのに一苦労いる。
母の胸に突き刺さった包丁は全然抜けなかった。苦戦するうちに、イライラしてくる。逆に押し込んでみる。不思議不思議。呼吸に合わせて力を込めると、面白いくらい沈んでゆく気がした。
甘い、匂いが濃くなる。
変だ。その匂いを嗅ぐほどに気分が高揚してゆく。脳みそがとけちゃいそう。気持ちのいい、眩暈。
夢中で母の胸に刃を沈めた。父が引き出しから散らかしていった道具の中に、園庭用か何かの、先の鋭い鋏があった。それもつかんで勢いよく振りかぶり、突き刺すように腕を降ろす。
「は、ははっ…………」
楽しい。声をあげると部屋によく響いて驚いた。抑えようとしても、くすくす笑みが零れる。
(そう、頭が朦朧としていて)
(ぼくは……殺しちゃったんだ)
殺したら自分の気持ちを理解できると思った。だけど、分かったことといえば、血を見るのは楽しいということだけだった。母に愛されていたのかは、分からない。ぼくが母を愛していたのかは、分からない。
自分のあの目から零れている水は、嬉し涙なのかもしれない。興奮しすぎて、笑いすぎて出たものなのかもしれない。かなしい涙とは言えない。かなしくなんてなかった。底に残ったかなしみの雫の形跡すら見つけられない。
あいせないんだ。
ぼくはきっとそういう感情は、持ちあわせていない。
*
(――――少し、思い出した。まだ全部は思い出せていないけど)
「! なんでいきているの!? ひとをあいして、もろくなって、もういきることなんて、できないはずなのに……!」
子どもの激しい奥底の叫びが鼓膜を震わせている。リチャルドのやけくそな声もどこか遠くから。
肌に伝わるじわり、とした温かなそれはきっと降り落ちる雪。自分が腕に抱きかかえているはずの身体は、ひんやり冷たいままだから。
ふ、と微笑って目を細く開ける。意識を失ってからまだそんなに経っていない気がした。それくらい青い空と混じった雪雲、照らしている陽の位置が記憶からずれていなかった。
傷を負ったはずの箇所を確認しても、かすり傷ひとつ見つけられない――ふさがったのか。
「……ぼくだって。ぼくだって、ほんとうに愛しているのかは分かんないよ。ぼくはずっとずっと人形だったんだから」
先刻再生された記憶。それはニコルが屋敷を飛び出すより前のものだった。つまり真相だ。ようやく不安がひとつなくなった。ついでで別のことも思い出しもした。それはまだ秘密だけれども。
「愛することと愛そうと思うことって違う気がする……今のぼくは、多分、愛そうと思ってるんだよ」
ニコルの笑みが一段とやわらかくあたたかいものになる。子どもはぐっとなにか堪えるように唇を引き締めた。
「……むりだよ、あいせやしない。二コラは、二コラはたしかにあいせたけれど、かれはたくさん…………くるしんだ」
「生きていて、苦しんだり悲しんだりするのって、ちっとも悪いことじゃないよ。助けてくれるひとだっている」
「それは! それはっ……たよってるじゃないか。ぼくはそんなことできない」
かなしそうに言う子どものまなじりになにか一瞬ひかって、消えた。彼が瞬きをした時には平静の面に戻っていた。無理して取り繕ったみたいなそんな顔だった。
「……はあ。わかった。きみはかってにあいしてかってにしぬといいよ。ぼくはもうきみとはなすことはやめた」
あっとニコルが言葉を返す間もなく、鼻息荒く、子どもは森の奥へと消えていった。突発の風にまかせるように、消えていった。
残されたニコルと冷たいアランの身体。ぎゅうう、とその凍えた身体にしがみついて、届きもしない想いをこぼす。
「――おいて、いかないで…………アラン」
そこにリチャルドがやってきた。子どもが消えたと同時にあの忌々しい壁も消失したらしく、走ってここまできたようだった。息を乱していた。
「もういくぞ、ニコル」
その声はやさしかった。
(アラン、ぼく約束きちんと守って――…………)
もしかしたら、違うかもしれない。だけど、そうしたら今ニコルの目尻に浮かぶものはなんなのだろう。涙じゃないか? 友人が死んでかなしいと思っているんじゃないのか? それは、それもひとつの愛なんじゃないだろうか。
「ぼく、君のことが……好きだと思うよ」
声を震わせて、ぽつり、呟く。この状況でのこの気持ちをなんと言い表せばいいのか、知っているもののどれにもうまく当てはまらない気がした。だから、好きとしか言えなかった。
(せめて、安らかに)
安らかに、眠ってほしい。抱きしめていた身体を草地に寝かせ、黙って亡骸を見つめていると色んな思いで胸がいっぱいになる。ここにくるまで短いようで長かった、その期間の思い出がひとつひとつ流れ出すようだった。ニコルが眠る時は必ず一緒に寝てくれた。辛い過去を思い出すことのないように。おまじないのキスをして。そうして不安に震える身体を抱きしめてくれた。ひとりで闇を抱えないように、闇を直視することのないように。少しでも忘れるように。優しい微笑みと声とともに。
――もう、人形なんかじゃない。精霊なんてしらない。血の通った、みんなと同じ人間なんだ。
今までのすべての感謝をこめて、ニコルはキスした。もう動くことのない、アランの額に。
(どうか、どうか、ゆっくり休めますように)
なにかへ祈りを捧げるように。
ふわり、口づけを落とした瞬間、あたたかくてまばゆい光が二人を包みこんだ。涼しげなつむじ風が勢いよく吹き上がり、彼らの服の裾という裾を弄んで去っていった。真冬の大地に、緑の葉が幾つもひらひらと落ちる。それを拾ってリチャルドは青ざめた。
「おい、ちび…………これは一体――」
「……」
「ニコル、おい、きこえてるか?」
「ねえリチャルド……あったかいよ」
風が吹き抜けた瞬間に友人の凍えた頬はほんのり薔薇色を取り戻していた。ニコルは、彼が温度を取り戻したことに目を輝かせ、顔をあげた。
「生きてる。アランが、戻ってきたよ」
歓びの声。固く、きつく閉ざされていたまぶたがゆっくりゆっくりあがっていく。
――天空の瞳。
「――ん……ニコル? あれ、僕…………」
目を覚まし、超接近のニコルの顔を目撃したアランは、混乱している。まるで夢でも見たようにねぼすけの様子で、何事かと瞬きを繰り返す。彼につけられていた傷は、なにもかもなくなっていた。不思議そうに首を捻って記憶を手繰り寄せようとしているアランに、ニコルはにこっと笑った。心の底からの笑みだった。
「さあ、旅の続きをしよう。アラン」




