第一四話
帝国の皇族を下手に拘束しては、戦争の火種にされかねない。
事情は判明し、双方謝罪すべき部分は謝罪し合った。
そういったわけで、後はその身柄を丁重に帝国に送り返されるだけと決まったルフィナ、パーヴェル、クレールの三名は、ここで退出となる。
クレール側のソファに唯一残るのはベルナール・ダルデンヌ。
指摘は全て的外れで、婚約者には嫌われていると判明した。敬愛する主と信じていたアレクシスには見限られ、優秀ではないとまで断じられ、最後の悪あがきも不快に思われるだけで終わってしまった。そんな彼は、もはや呆然としているだけだ。
ルフィナに手をひかれたクレールは、そんな【お兄ちゃん】を少し憐れんだ目で見たものの、声をかけたりすることはなく去って行く。
姉ルフィナ、妹クレールの後ろに続いたのはパーヴェル。彼は最後にどこか余裕ありげな微笑みを浮かべ、どこまでも堂々たる一礼を見せてから、部屋を退出して行った。
この長い長い話し合いの間、話を振られない限りは意味深に沈黙を守っていた彼は、いったい何を考えていたのか。
まだ何か企んでいるのか、まだリュシエンヌを諦めていないのか。
リュシエンヌとアレクシスはそんなわずかな不安を感じて、どちらからともなくぎゅっと手を握り合っていた。
――――
クレールの母の形見の指輪の返還手続き、ルフィナの退職にあたっての事務処理・引継ぎ等々。
学園でしなければならない事の残っていた三名は、先ほどの部屋とは別室を借り受け、そこで主にルフィナが書類を裁いている。
時折署名を求められる以外は暇そうなクレールとパーヴェルは、ソファに座ったり立ち上がって窓の外を見たりと、どこか落ち着きがない。
椅子に浅く腰掛け机上の書類にペンを走らせるルフィナが、ふいに手元の書類から視線も上げずにポツリと呟く。
「……そういえば、愚弟パーヴェル。さっきの場で静かにしていられたことだけはほめておいてあげるわ」
「姉上がなんとかしようとしている場を、私が乱すわけにはいきませんからね」
ふふ、と美しい微笑みを浮かべた、整い過ぎていて妙な迫力のある弟の顔面を、ルフィナはじっと見上げた。
それから、ペンを置きため息を一つ。
「いや本当、黙っていてくれてよかったわよ。……あなたってば、顔が整ってるから頭が良さそうに見えるだけで、ただただ普通に馬鹿なのだもの。下手に喋られていたら、事態が悪化していた可能性もあるわ」
「えっ!? ……えっ? に、兄様も、ばかなのっ!?」
クレールから驚きの声が上がった。
ルフィナは当たり前のような表情でそれを認める。
「そうよクレール。これから長い付き合いになるでしょうから教えておくけど、愚弟パーヴェルは、びっくりするほど頭が悪いのよ」
「そうだクレール、私は、頭が悪い! 姉上の多大な努力と助力とちょうきょ……教育のおかげで、多少外面だけは整えられるようになっただけだ! クレールも、今後頼るとしたらもう全面的に姉上だけを頼れ。姉上を信じろ。私は役に立たないぞ」
ふんす、とパーヴェルは胸を張った。
クレールはそれをぱかんと口を開けて眺め、ルフィナはため息を吐く。
「開き直らないでちょうだい、愚弟。……逆に、見た目やしゃべり方からしていかにも馬鹿なままにしておいた方が良かったのかしらとも思うわ。愚弟はなまじ顔と体格が良いばっかりに、ちゃんと振る舞わせるだけでどうもなにかを企んでいそうに見えてしまうのよね」
「あっはっはっ、そうなんだよな! ……さっきだって普通に挨拶したつもりだったのに、リュシエンヌ嬢にもアレクシス殿にもすっごい目で見られちゃったよ。泣きそう」
堂々と胸を張ったかと思えば、急に哀愁を漂わせて、パーヴェルは泣き言を漏らした。
「え、えええ……。そうなんだ……兄様もあたしといっしょでばかなんだ……。ってか、ばかでもルフィナお母様にちゃんと従ってれば、これだけそうじゃないっぽくなれるんだ……。あたしもがんばろ……」
小さな声で決意を固めるクレールに、ルフィナはフッと鼻で笑って見せる。
「そうよ、愚弟はそう見えないだけの馬鹿なの。馬鹿じゃなければ、他国の王太子の婚約者に、その婚約が実際どうなるかも確定していない段階でプロポーズなんかしないわよ。愚弟のアレを見た瞬間に、私はもう素直に出頭しよう、全力で詫びようって決めたもの」
「申し訳ありません、姉上。多大なるご迷惑をおかけしました。このように穏便な着地としてくださったことにも、心より感謝申し上げます」
パーヴェルはびしり、と頭を下げた。
その声も表情も姿勢も、どこまでも恰好だけは良い。
それをじとりと見て、ルフィナは嫌味を放つ。
「本当よ。もっと感謝なさい。あーあ、やーっと手にした他国での職だったのに! この地に骨を埋めたかったのに! ……帰りたくない。帰るけど。この国にこれ以上迷惑はかけられないから帰るけども。あのエロ親父の顔色を国中で伺う国になんて、心底帰りたくない……」
「え、エロおやじって、パパ様……? のこと……?」
クレールはそろりと問いかけた。
「そうよ。あいつまーた妻増やすんですって。それもあなたとそう変わらない、自分の孫くらいの年の子。気持ち悪い。いい加減に誰かあいつから帝位奪い取りなさいよ。いつまで好き勝手させておくつもりよ」
嫌そうに零したルフィナに、気まずそうに頭をあげたパーヴェルが告げる。
「……リュシエンヌ嬢のような方が妻となってくれればあるいは私が、と思ったのですが」
「んんん、まあねえ。あの方なら頭が良いししっかりしているし、気が強い、というか意志が強いところも良いわよね。愚弟が馬鹿でもしっかり手綱を握ってどうにかしてくれそう、ではあるけれど。能力がある事と実際にしてくれるかは別問題なのよ、愚弟」
「はい……」
「あの方は同性の私でも見惚れるくらいの美人だし、魅力的よね。思わず結婚を申し込みたくなる気持ちはわからないでもないわ。でも、実際にしてしまうのはやっぱり馬鹿のすることよ。今度からは、行動に移す前に私に相談なさい、愚弟」
「はい。今回のことで身に沁みました。何事も、まず姉上の意見を聞きます」
「だいたい、あなたあのプロポーズの瞬間、何を考えていたわけ? なにも考えていなかったでしょう? クレールたちの策を利用した、みたいな雰囲気になっていたけれど。クレールたちといっしょに考えた策であれば、あそこで冤罪ではと指摘するのも変な話よね?」
「その、……リュシエンヌ嬢が美人だなと。こんなにステキな人がフリーなことなんて、もう二度とないだろう考えていました。……それしか考えていませんでした。事前には単にクレールがアレクシス殿と結婚するとだけ聞いていたので、あのように衆目の場であのような糾弾をするとは知らず、ついカッとなった部分もあります……」
「ははあ、『リュシエンヌ嬢捨てられるみたいだし、もらってきちゃえ』みたいなことを吹き込まれていたのね? どうせあの人の側近辺りにでしょ? ああやっぱり。あいつらはどう転んでも良いと考えていたのでしょうね。それで愚弟は、実際見たあの方があまりに魅力的だったから、ついああしたのね?」
「はい……。全て姉上のおっしゃる通りです……。リュシエンヌ嬢に策士のように見られたのも、考えの足りない馬鹿だと看破されるよりはかっこいいかな? と思いまして否定もせず……」
「やっぱり愚弟は馬鹿だわ。それでよく帝位を狙おうなんて思ったものね」
「え、えっとその、兄様って、八番目の皇子様……なんだよね? それで帝位なんて狙えるもんなの?」
まだまだ続きそうだったルフィナの説教とパーヴェルの反省に、クレールが話を逸らすように割って入った。
それに仕方なさそうにひとつため息を吐いてから、ルフィナは答える。
「私たちの母の実家が、比較的力が強くてね。父自身が武功で継承順位をひっくり返した人だし、八番目でもなくはないでしょう。……実は、まだそんな事を言えてしまう程、配偶者まで考慮に入れる余地があるくらい、これといって他の候補者を圧倒できる皇子がいないの」
「後ろ盾が心もとない、体が弱い、学が足りない、人付き合いの面で不安がある、能力は十分だがやる気がない……、私の場合は頭が悪いだな。そういった感じで残念ながら、帝国にはどこか残念な皇子しかいないんだ」
「それでもあの人が早期に後継を指名してくれていれば、どうにかなったはずなのに。いつまでも自分が大きな顔をしていたくて、引き延ばしているのかしらね。……ああ、帰国したくない……。するけど……」
「ええ……、そうなんだぁ……」
暗い表情で説明してくれた兄と姉に、クレールはどこか引いた様子でそう漏らした。
※以下本文ではなくパーヴェルの解説です。
・ほう、と、まるで恋をしている男のような顔で←本当に恋をしている男の顔だった。
・切なげに表情を曇らせて←切なくて表情が曇っていた。
・フッと照れくさそうに笑いながら←本当に照れていた。
・意外なほどにかわいらしい笑み←内面が本当に子どもっぽいだけである。
・「本当に少しも考えていなかったとしたら、皇族たる資質と教育があまりにも足りておりませんわね」←少しも考えていなかった。事実足りていない。
・とうとう気まず気に目を逸らしたパーヴェル皇子←策を看破されて、ではなく、ただの馬鹿であることを好きな子に明かすことなんてできなくて。
・その顔面は蒼白で、固く組まれた彼の指先は、堪えきれない恐怖を感じているかのように震えてまでいる。←恐怖を感じているので顔面蒼白で震えていた。
・演技ならば大した役者だが、この様子はまさか、本当に気がついていなかった……?←本当に気が付いていなかった。大した役者ではない。
・パーヴェル皇子が悪辣な策士だろうとそうでなかろうと、その策を考えていたのが帝国の誰であろうと。←策士ではない。クレールが生きて王妃になっても、死んで戦争の口実になっても、いずれにせよリュシエンヌの身柄が帝国にあれば有利に事が進むと考えた【誰か】は別にいる。
・この長い長い話し合いの間、話を振られない限りは意味深に沈黙を守っていた彼は、いったい何を考えていたのか。←『姉上なら……! 姉上ならなんとかしてくださる……! 自分は馬鹿なので、これ以上傷を広げたくないので、正解は沈黙……! 頼むからこっちに話を振らないでくれ……! 正直ちょいちょい意味が分かっていない箇所がある……!!』と考えていた。
・どこか余裕ありげな微笑み←姉仕込みの皇子らしい振る舞い。TPOまで考える頭はパーヴェルにはない。
・どこまでも堂々たる一礼←姉仕込みの皇子らしい振る舞い。TPOまで考える頭はパーヴェルにはない。
・まだ何か企んでいるのか、まだリュシエンヌを諦めていないのか。←何も企んでいない。リュシエンヌの事は好きだけど、素直に引き下がるつもり。視線と表情に隠し切れない恋心が乗った結果なんか意味深になってしまった。