六・王女と虚実 13
「やああああっ!」
叫びながらありったけの力を込めて、私は目前に迫っていたシグルドの剣を打ち上げた。まさか私が剣を弾くとは思っていなかったのだろう。彼が怯んだ一瞬の隙に身を起こし、素早くシグルドの懐へ潜り込んだ。
「ごめんなさい、シグルドさん」
シグルドの胸へ突き立てた二本の刃が、皮膚を貫き骨の間を抜け、肉を裂いてその奥へ届いた。彼から溢れた血が私の手を伝い、腕へと流れていく。
ブワァッ!
「きゃっ!?」
倒れ行く彼の傷口から不意に大量の闇が溢れたかと思うと、シャドウを倒した時のようないつもの黒い靄など比較にならないほどの勢いで、闇が渦を巻いて私に襲い掛かってきた。
「――っ!」
思わず身を守るような格好で硬直してしまったが、どうやらそれは、私に攻撃を加えようとしたわけではないらしい。闇はまるで私の中に吸い込まれるようにして消えて行き、そこにはシグルドの遺体だけが残った。
「え……?」
口元を血で汚しているシグルドの表情は、なぜか安堵したように穏やかだった。つい先刻まで哄笑を上げながら仲間を斬り殺していた男だとは、とても思えない程に。
思わず私は、血の付いた短剣と、倒れているシグルドをじっと見比べていた。手のひらに残っている感触は、確かに人の身体を突き刺した時の、鈍くて重い感触だった。
ただ、あまりにも呆気ない。
おまけに、彼が魔族であるが為に理性を蝕まれたというのなら、なぜ一度も魔法が展開されなかったのだろう。
「…………」
急に底知れぬ不安感に襲われ、私は短剣の血をサッと払って鞘へ戻し、ゾクリと震えた自分の身体をさすった。
するとその時、後ろで若い女の悲鳴が上がった。
「人殺し!」
驚いて振り返ると、女は夫らしき男に縋るようにしながら、私の方を指差して震えていた。辺りには、いつの間にか多くの人々の姿があった。
「シグルド様が……シグルド様が!」
「兵士達も皆殺しにされてるぞ!」
「じゃぁ、さっきの爆音もあいつが?」
一斉に向けられた敵意に、私は目を見開いた。
「待って、違っ……」
言いかけた私を、誰かの声が遮った。
「おい、こいつ見覚えがあるぞ!」
その一言で息が詰まり、指先が急速に冷えたのを感じた。
「昔金持ちに殺されかけた奴隷の女だ! あの時憲兵に助けてもらったくせに、騎士様や兵士に襲い掛かるなんて……!」
ざわざわと人々がどよめき、彼らの視線が私に突き刺さった。憤怒と恐怖、そして軽蔑――一歩向こうで私に敵意を向けられることを恐れていながら、「奴隷の分際で」という感情がしっかりと透けて見えている。
多分私が動いたら、その瞬間、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げるのだろう。しかし他の者達が私を罵っている今この瞬間、既に怯えて逃げ出している者は、きっと臆病で優しく、賢いのだと思う。
「……どいて」
私は冷たくなった指を拳の中に握り締め、彼らを睨んだ。彼らはビクリと身を震わせて怯んだが、私を責めようとする姿勢を崩さない。それが私を僅かに苛立たせ、脳の奥が僅かに熱を帯びたのを感じた。私は右手を持ち上げ、魔法陣を描いた。
「そこをどいてって言ってるの……!」
言い放った声は、自分で思った以上に低くなった。同時に、目の前に大きく描いた魔法陣が、緑の光を放った。
「来るぞ! 逃げろ!」
彼らにはきっと、これが攻撃の魔法陣に見えたのだろう。怯えたように大きく顔を引き攣らせた。
「大地の鎖よ、我が枷を緩め、解き放て――〈フリーゲン〉!」
風の魔法で私は空へと跳躍し、どよめく人々の頭上を飛び越えた。少しだけ近付いた白い月の光が眩しくて、私は目を細めた。
紅のところへ私が戻っても、恐らくできることはそれほど無い。精々、後方で魔法を使いながら戦闘のフォローをするくらいだろう。しかしだからと言って、私に竜を倒す力が目覚めるまで、ふらふらと遊んでいる場合ではないのだ。
街路の上に着地して、私は彼らを振り返ることはせず、再び王立図書館を目指した。