六・王女と虚実 11
「カナタ!」
ギュッと閉じた瞼から涙が零れそうになった時、イチの声がした。
「失われし力に祝福の風を――〈ヒーリング〉!」
次いで呪文が唱えられ、私の身体を美しい光が包んだ。顔を上げると、滲んだ視界の向こうから、イチが駆けてきた。
「イチ……?」
その後ろには、城にいるはずの風花とロイヒテン、そして初老の騎士を筆頭に、武装した兵士達の姿があった。しかし最初の爆音が轟いてから、それほど時間が経ったとは思えない。兵士達の到着はあまりに早過ぎる。
「カナタ、大丈夫!? 傷だらけじゃない!」
イチはそう言うなり、私の右腕の近くに魔法陣を描いた。
「えっ?」
見れば、右腕の皮膚が火傷でひどく爛れていた。服もボロボロに焦げているし、肌もあちこち焼けたり切れたりしていた。今指摘されるまでは全く気にしていなかったのだが、言われてみれば、身体中がズキズキと悲鳴を上げている。
「イチ、何でここに?」
尋ねた私に答えたのは、イチではなくロイヒテンだった。
「今夜は城でゆっくりするつもりだったのに、お嬢さんが『厭な気配がする』って騒ぎ出したんだよ。絶対偽ハウィンだとか言うから、仕方ない。ひとまずお嬢さんより有能な紅に意見を仰ごうと思って遣いを出してみれば、いたのは慌ててるイチだけで、カナタと紅がいない。これは何かあるだろうと思って、こうして兵を動かしてもらったのさ」
すると風花が苛立ったように眉を寄せた。
「ちょっと、私が無能みたいな言い方しないでくれる? 全く気付きもしなかった薄ら馬鹿のくせに」
「薄ら馬鹿とは失礼な! 俺はロイヒテ――」
「カナタ、その傷だって尋常じゃないわ。何があったの?」
ロイヒテンを遮って、風花が心配そうに私を覗き込んだ。途端、青い炎に呑まれた紅の不敵な笑みが蘇り、私は咄嗟に風花の肩口を掴んだ。
「竜……!」
「え?」
私は勢い良く風花を見上げた後、引き攣る息に耐え切れず、下を向いた。
「紅が竜に殺されちゃう……!」
声がひどく震えた。風花が息を呑んだ気配がした。
「私っ……私、どうしたらいいの……」
「カナタ、落ち着いて。竜ってどういうこと?」
「ハウィンが竜を……! 紅、私を逃がしてくれて……!」
「ハウィン!?」
風花は鋭い声を出すと、王立図書館の方を見遣り、スッと目を細めた。
「やっぱり、あそこにあいつがいるのね」
低く呟いて動きかけた風花だったが、その着物の帯を、ロイヒテンが無遠慮に鷲掴んだ。
「ちょっと待てお嬢さん」
「何よ、触らないで変態!」
「変態って……。言っちゃ悪いが、お嬢さんは紅より弱い。一人で突っ走るんじゃない」
「うるさいわね。さっさと行って、ハウィンを倒すわよ!」
そう言ってロイヒテンを睨んだ風花に、私は首を横に振った。
「ハウィンはもういないの。真っ黒な竜だけ……刃も、魔法も、何も効かない」
「何それ。反則じゃない」
風花は苦々しげに顔を歪めると、首を傾げた。
「そんなとんでもない竜と戦って、カナタが無事で良かったわ。紅は何か言ってた?」
「イチのところへ行けって……」
「そう」
風花は短く頷いて、イチの方を見た。イチはなぜか複雑そうな顔をしていた。ロイヒテンはそんな彼女をチラリと見遣った後、少しの間思案顔になり、兵士達を振り返った。
「あいつらには町の人の避難誘導に徹してもらった方が良さそうだな。死人が増えるだけだ」
「そうね。ロイヒテンも」
頷いた風花に、ロイヒテンは驚いたように目を見開いた。
「何言ってるんだ。ピンチにレディを守るのが、このロイヒテン・ケーラーの役目に決まっているだろう」
「そう。じゃぁ勝手にヒーロー気取ってケチャップにでもなればいいわ」
「ケチャップ?」
首を傾げたロイヒテンに、風花がニヤッと口の端を上げた。
「貴方が竜にプチッと潰される様は、まるで真っ赤なケチャ――」
「おい、そういうのやめろよマジで」
ロイヒテンは嫌そうに顔を歪めると、ショットガンを手に取った。
「ケーラー家の男子たるもの、竜を前に逃げ出すわけにはいかない。ケチャップにはならんぞ」
「不服だけど、私も薄ら馬鹿に同じくよ。竜殺しが竜を前に尻尾を巻くなんて冗談じゃない」
「だから俺は薄ら馬鹿ではなくロイヒ――」
「そういうことで、決まりね。急いで紅に加勢しましょ」
またもロイヒテンを遮って、風花は今度こそ国立図書館に向かって走って行った。
「おいお嬢さん!? くそっ……シグルド殿、そういうことだから、竜は俺達で抑える! 町の人達の避難についてはよろしく頼む!」
ロイヒテンが兵士達の方へ声を張り上げると、彼らの先頭にいる初老の騎士が右手を振って頷いた。
「わかりました! ロイヒテン殿、風花殿、お気を付けください!」
「あぁ、任せてくれたまえ!」
ロイヒテンは爽やかに応じて風花の後を追いかけたが、何歩か進んだところでふと足を止め、こちらを振り返った。
「イチ、ひとまずあんたに乗ってやる。だが……俺を失望させるなよ?」
一瞬、ロイヒテンにしては鋭く厳しい眼光がイチを貫いた――ような気がした。
「うん……」
頷いたイチは、握り締めた拳を僅かに震わせていた。ロイヒテンは踵を返すと、「じゃ、あんたもさっさと来てくれよな」と言い残して駆けて行った。