言葉の稽古
第7章
義彰の城で、パオロと名乗る南蛮人と文字を教え合うということをして以来、伊都は月に三回くらいの頻度で城に来て、この稽古を続けるように、と義彰から下命されていたのでした。伊都は小さいながらも城下町に自分の屋敷を構え、数名の使用人と住んでいたのですが、義彰に頼まれた書状を書くなど仕事のある日は屋敷から徒で城まで通っていたのです。
通辞を介して、まずは簡単な挨拶を学んだ後、まずはいろいろな単語を教え合い、その単語の文字を書いて見せ合う、ということを繰り返し、お互い少しずつ知識を積み上げていました。
まずは交易品のである銀、鉛、鉄砲、銃弾、絹、漆器といった名前から、数の数え方といった基本的なことから学んでいたのですが、そんな中で、パオロは筆を走らせる伊都の手に、痛々しいあかぎれがあるのに気づいたのです。
『きっと寒いなか、彼女は水仕事もしているのかもしれない…。そうだ、今度、あれを贈りものとして持ってこよう。きっと喜ぶに違いない。』
そうして、少しずつ言葉をつなげて、簡単な会話ができるようになりはじめた伊都とパオロの二人でしたが、二人の関係が大きく変わることが起きてしまったのです。
その日、伊都はいつも通り、自分の屋敷で小間使いのとよに出かける旨を話していました。
「御方様、今日は朝から雲行きが怪しいですが、登城されるのですか?」
「ええ、とよ。南蛮人のかたに字を教える日ですから、支度をお願いします。でもあまり遅くならないようにするわね。これだけ冷え込んでいるから、雪になってしまうかもしれないわ。」
「畏まりました。特に暖かいお召し物をご用意いたします。」
パオロとの稽古は、通辞を介して寅の刻から学習することを予定していたのですが、城に着いてみると、通辞が風邪を引いてしまい、大変申し訳ないが参上できない、という詫びの連絡が入っていました。
いまさら予定変更の連絡の伝令を飛ばしても間に合わないと思った伊都が、そのままいつも使う客間を準備するために香を焚いていると、パオロが一揖しながら入ってきました。
「ようこそ、パオロ殿。ご機嫌いかがでしたか? お寒くございませんでしたか。」
「伊都様もご機嫌麗しく。」
型どおりの挨拶ならば、パオロもこの東の国の言葉で交わすことができるくらいには習熟していました。
パオロが通辞の存在を探してあたりを見回したので、伊都は「今日は、通辞が風邪をひいてしまい…」と言いかけたのですが、もちろん通じることはなく、早速紙を取り出して、前回までに教えあった文字の記載した帳面を取り出し、一覧から
Intérprete【通辞】
Resfriado【風邪】
の二文字を書き出してパオロに渡したのでした。
パオロは了解しました、という意味でうなずき、机の前に座って筆記用具を取り出すと、前回の続きである身体の部位の単語について、指し示しながら、お互い単語を教え合い、紙に淡々と書き始めました。
「うなじ、肩、腕、・・・・」
「ここは、何というのですか?」
「手、手のひら、手の甲、指・・・」
そのとき、突然パオロは持ってきた荷物から、あの、ラベンダーのクリームが入ったガラス製の容器を取り出したのです。
「これを、あなたへ。贈りものです。」
驚いた顔で、これは何?という表情でパオロを見上げる伊都。
パオロはガラスの蓋を開けながら、
「ほら、よい香でしょう? 伊都様が好きな香だと良いのですが。これは、荒れた肌を治してくれる塗り薬なんです。いつも香る部屋を用意して待っていてくださる伊都様ならきっと気に入ってくださるとお持ちしました。」
ついイタリア語で話してしまったパオロでしたが、香にうっとりしている伊都の顔に嬉しくなり、つい彼女の手をとって、クリームを塗ってしまったのです。
一瞬びくりと驚いた様子の伊都でしたが、そのまま手を振りほどくこともなく、しばらくの間、パオロがクリームを塗るに任せていました。
言葉もなく見つめ合う二人。
外はいつの間にか激しく降り始めた雪が、すでに積もり始めていました。
そこへ、義彰の近侍に一人が、客間の障子の向こうから声をかけてきました。
「伊都殿、稽古中に失礼いたします。外は雪吹雪で、パオロ殿はしばらく城に留まられた方がよろしいようでございます。本日は私が宿直のお役目でございますが、御屋形様からも、雪が積もるようなことになればパオロ殿は今晩こちらでお休みいただけるよう万事整えるように申し付かっておりますが、いかがいたしましょうか?」
「わかりました。そうしていただきましょう。今日はここまでにしますので、お支度をお願いいたします。道具を片付けましたら、私も帰りますので。」
「伊都殿、今は酷い吹雪でご無理かと。いつもお泊まりになっている奥の間にも寝具を用意させておりますので、よろしければそちらに。」
「お気遣いいただき、恐縮でございます。」
パオロは伊都が何と言っているのかわらず戸惑っていたのですが、「パオロ殿、雪、激しい、今夜は、ここで」と言って、紙や筆を片付けはじめた伊都の様子に、今日はここで終わりなのだな、と察しました。
義彰の近侍が、寝床の用意をするために入ってきたのと入れ替えに伊都は出て行こうとしたので、パオロは慌ててクリームの入ったガラスの容器を持って、慌てて伊都に手渡したのです。
そのとき伊都は小声で、パオロに囁きました。
「あとでまたお礼に伺います。」




