20 リオ様、吐きそうになる
私とリオ様は顔を見合わせたあと、悲鳴が聞こえた方にできている人垣に近づいていく。その中心では、仮面をつけた女性と仮面をつけていない黒髪の女性が言い争っていた。
「なっ、なんてことをしてくれたのよ!?」
そう叫ぶ仮面をつけた女性のドレスには、ひどいシミ汚れができていた。向かい合っている女性が片手にグラスを持っているので、ぶつかった際に誤って飲み物をかけてしまったのかもしれない。
でも、グラスを持っていた仮面をつけていない女性が、少しも悪びれることなくクスクスと笑った瞬間、会場の空気が変わった。
「あ~ら、ごめんなさぁい」
そう言いながら、波打つ豊かな黒髪を堂々とした態度でかき上げる。彼女が着ているドレスの胸元は大きく開いていて、体のラインにピッタリと沿っていた。
意地の悪そうな笑みを浮かべているその様子は、まるで、毒婦と呼ばれていた過去の自分を見ているようで……。私の心に、なんとも言えない気持ちが湧き上がってくる。
私と異母妹マリンのときと違うのは、誰も揉めている彼女たちの間に割って入らないということ。周囲の人たちは、まるで余興を見るように楽しんでいる。
もしかして、本当にパーティーの余興なの?
そう思った私の耳に、他の招待客のヒソヒソ話が聞こえてきた。
「また、あの女か」
そう呟いた男性のパートナーの女性は、「誰なの?」と不思議そうだ。
「ドーラとかいうヘイン公爵の愛人だよ。さっきも主催者気取りで、堂々と公爵の隣に座っていただろう?」
オークション会場でヘイン公爵の隣に座っていた黒髪の女性は、夫人ではなかったのね。
「横暴な女だから、かかわらないほうがいい」
他の見物人からも「品がない」やら「見苦しい」と呆れるような声が聞こえてくる。
私に顔を近づけたリオ様が「ドーラは、サンドラ夫人の偽名だ」と教えてくれた。
「では、あの方が……」
モーリスさんのお母様?
でも、礼儀正しいモーリスさんとは、少しも似ていない。髪色だって、ライトブラウンのモーリスさんとは違い、ドーラさんは艶やかな黒髪だった。
「似ていませんね」
「もしかしたら、髪を染めて別人の振りをしているのかもな」
そういえば、アイリーン様のもとには『サンドラ夫人は、事故で死亡した』という報告がいっていた。
私はリオ様に囁いた。
「これから、どうしましょうか?」
「あのドーラが、本当にモーリスの母であるかどうか確かめたいな」
「周囲の人たちから話しを聞きますか?」
「それもいいが、手っ取り早く本人に聞いてしまおう。何か問題が起こったらカルロスがなんとかするだろ」
近くにいたカルロス様からは「無茶を言うな!」と小声で苦情が入ったけど、リオ様はまったく気にしていない。
そうしているうちに、ワインをかけられた女性がドーラに向かって右手を振り上げた。
すぐにドーラの護衛たちが前に出たが、それより早くリオ様が動いた。振り上げた右手を、突然現れたリオ様に掴まれた女性は驚いている。
「やめたほうがいい。あそこにいる騎士たちは、おそらくドーラの護衛だ」
その言葉で女性は冷静になったのか、リオ様の手を振り払うと慌ててパーティー会場から出ていってしまった。
それを見たドーラさんの瞳がスッと細くなる。
「邪魔が入ったわね。これからもっと面白くなりそうだったのに」
リオ様は、ここからどうやってモーリスさんのことを尋ねるのかしら? と思っていたら単刀直入だった。
「モーリスという男を知っているか?」
そのとたんに、ドーラさんが不機嫌そうに顔を歪める。
「知らないわ」
「モーリスの母であるサンドラ夫人を捜している。急ぎ重要な話があるんだが」
「……」
ドーラさんは、狼の仮面をつけたリオ様を値踏みするように上から下まで眺めてから、真っ赤な唇をニヤリと歪めた。
「着いてきなさい。別室で話しましょう」
そう言いながら、ドーラはリオ様に向かって手を差し出した。リオ様にエスコートするように求めている。
でも、リオ様はその手を取らなかった。代わりに「うぷっ」とえずくような音が聞こえてきた。
え?
見ると、リオ様の顔が真っ青になっていた。
もしかして、リオ様、吐きそうになっているの!? どうして?
リオ様が自分の手で鼻と口を抑えたので、何かしらの匂いのせいで吐き気をもよおしているのかもしれない。いくら鼻がよくても、こんなこと今まで一度もなかったのに……。
私は、慌てて「ちょっと待ちなさい!」と声を張り上げた。
ドーラさんが「今度は何よ!?」と鋭く睨みつけてきたけど、今はそれどころじゃないわ。どうにかしてリオ様の体調不良を誤魔化さないといけない。
そのときふと、先ほど聞いたエディ様の声が脳裏をよぎった。
――いやもう、どう見ても猛獣を従えた猛獣使い様だろ、これ!
そうだわ。私たちの格好は、猛獣とそれを従える猛獣使いに見えるらしいから、それを利用しましょう。
でも、よく考えたら猛獣使いって何かしら? 分からないけど、猛獣を従えている毒婦っぽい演技をすればいいわよね?
私は意地の悪い笑みを作ると、「悪い子ね」と言いながら、リオ様の首に巻かれているクラバットを引っ張った。
クラバットを掴むというこの行為は、紳士にとって、最大の侮辱だと聞いたことがある。だからこそ、リオ様が私の下僕なのだと伝えるためにあえてやってみた。
心の中で、『リオ様、ごめんなさい。あとからどのようなお叱りも受けます』と謝っておく。
そうして、無理やり顔を近づけさせたリオ様に、私が「大丈夫ですか?」と囁くと、具合が悪そうなリオ様から「すまない」と小声が返ってくる。
これは重症だわ。
私はリオ様に「下がりなさい」と命令してから、ドーラさんと向き合った。視界の端でリオ様とカルロス様が何か話している。
そちらに注意がいかないように、私はできるだけ偉そうな態度で大げさな声を上げた。
「私のものを勝手に持っていかれたら困るわ」
ハッと鼻で笑ったドーラさんは、「誘ってきたのはそっちの狼さんよ?」と呆れている。
「あなたに話があるのは、この私。さっきの狼はお・ま・け」
わざとリオ様を小馬鹿にするような視線を送る。
「ふーん?」
ドーラさんは、片眉を上げながら、私に近づいてきた。彼女のまとう香水の香りがきつすぎて私はわずかに眉をしかめてしまう。その様子にドーラさんは、気がついていない。
「まぁ、さっきの無礼な小娘よりはましね。いいわ、話を聞かせてもらおうじゃない。つまらない話だったら……分かっているわね?」
近くで見たドーラさんの瞳は、エメラルドのように美しい緑色だった。それは、アイリーン様やモーリス様と同じ色だ。
私は何も答えず笑みだけを返した。それでドーラさんは、満足したようだ。
「着いてきなさい」
そう告げるとさっさと歩いていってしまう。




