ライル身食い反応に陥る
七の章
麻薬に対し正気を保ち、完全な抵抗を示すライルを前に、リン・カーネンは信じられない思いで嘆息した。
これまでのテストに次ぐテスト、あらゆる計測で、全ての麻薬は彼にとって単なる有害物質として処理されることを確認したのである。
神経や諸分泌腺を冒されても中枢に影響は無く、脳内に搬入しても思考活動への影響は遮断されて昏睡し、幻覚すら起こせないのだ。
その結果、麻薬の投入はライルの体力を奪い衰弱させるだけとなることを、医者は嫌々ながら認めねばならなかった。
一時、完全に麻薬の支配下にあったデータがあるだけに、リン・カーネンには彼の代謝機能が理解できない。
医者の持つ装置や機器がどれほど悪魔的に優秀でも、バリヌール人の心の中までは覗けないのだ。ライルにどれほどに激しい嫌悪を与えたかも、決して測定することはできなかった。
ついに、リン・カーネンは自分の技術と天才的な能力をもってしても、このバリヌール人を従わせることは不可能であると結論せざるを得なかった。
報告を受け取った総帥は、ライル・フォンベルトを総帥のもとに連行するよう命じた。
総帥の命令しか応じない堅固な武装ロボットが二体、引き取りに現れる。一緒についていこうとした医者は同行を許されなかった。
手放すのを渋るリン・カーネンの手から強引にもぎ取って、武装ロボットはライルを間に挟んで連れ去ってしまう。
「必ず取り戻してやる」
ロボット兵の後姿を藪睨みの眼で睨みながら、リン・カーネンは自らに呪詛するように呟いた。
***
武装ロボットは迷路のような回廊を、圧倒的な威圧感を発しながらずんずん進む。リン・カーネンによってさんざん痛めつけられていたライルは、引き摺られるまま抵抗する気力も無い。
出くわす人々が、中枢ロボットへの恐怖と引っ立てられる青年の美貌への賛嘆で、思わず足を止めて見守っていることもライルは気づかなかった。
彼の心は、未だ絶望的なほどに傷ついたままだった。
全てを掌握し命令を発する指令室でもある総帥の執務室への扉が、ライルの前で開かれた。
中の人物を見た瞬間、ライルが驚いたとしてもその痕跡は何も無かった。彼の感情レベルは最低ラインに落ちていて、従って抑制も完璧だった。
ライルは全くの無表情で冷静に立っていた。
一方、ライルを迎えた人物も、まるで感情を示さなかった。かつての親友、近藤勇の面影は一つとして存在していない。
勇は全能の権力者に相応しく威厳に満ちた姿で、大きな操作卓を前にした椅子にゆったりと寛ぎ、不遜な科学者を眺めていた。
元来、勇の資質は大様であったので、客の態度の無作法には気を払わない。
この未知数の可能性を持つ知識の宝庫を、いかに従わせようかと考えながら弱点を捜すように検分する。
ライルは操作卓を前に座る勇を通り越して、その背後に屹立し数十メートルにまで達する巨大な像を凝視した。
実体を持つ物質でありながら、構成する質量に複次元の波動が感じられる。ライルの全身に張り巡らされている感覚網が、部屋の空気を微かに振動させている波動を感知し分析していた。
即ち、素粒子レベルでスピンされているということ。従って、実体でありながら、質量が変動し、形状が可動的なのだ。おそらく、これを視る者の視覚によってそれは異なる姿として映るに違いない。
固定観念を持たないライルには、それは固形化されず、なおも物質的特性を持った振動する実体として視えた。
勇が自分の意思で行動していないことは明白であったから、友を支配している存在がその像であるとするのは、極めて論理的な結論だった。
勇を解放すべく、像の力を破壊するために何を為すべきかライルは考えていた。
そこへいきなり、勇から精神による激しい攻撃が来た。
常識的にいって信じられないことだが、ライルは自分の思考に集中していたので、全く無防備状態だった。それで、精神による衝撃波はほとんど物理的な力を発揮した。
身体が強張り、したたかに床に打ち付けられる。
ショックと苦痛に意識が空白化した一瞬を狙って、強烈な思考波がライルの脳髄に襲いかかる。
それはライルを打ちのめしたが、決定的ではなかった。心の表面に傷さえも残せなかった。
彼の心の障壁は自身も知り得ないほど強固だった。
勇を介して発せられる『悪魔』の精神波は、悪そのものの強さを持っていたが、それでもその強固な心の障壁を打ち砕くには骨が折れた。
精神の格闘は、両者の間の空間を沸騰させる凄絶なものだったが、両者の決着はつきそうにない。
総帥は自らの前の操作卓に手を触れた。力場が発生し、ライルの身体が空中に持ち上げられて固定された。そして、彼を包むようにフィールドカバーが出現した。
激烈な麻薬が体細胞を不必要に燃焼させて消耗させるように、そのフィールドは生命力を消費させ枯渇させるものだった。
さらに外界との連絡を完全に絶つ。空気中の微細な分子すらも通さない。
ライルが呼吸できる酸素は急激に減少していき、身体からは生命力が逃げていく。
フィールドの外では、『悪魔』から発する物欲しげな思考が舌舐めずりをして、ライルの抵抗力が最後のラインにまで落ちていくのを待っていた。
ライルには死か服従のどちらかの選択しかない。そして、バリヌール人がその意志を曲げて服従を選ぶことは決してありえなかった。
フィールドの中で弱っていく生命体を見つめていた勇の深い深い心の奥で、何かが痛むのを感じた。
やがて、その緩慢だった痛みは次第に速度を増して心の中に拡がり、同時に耐え難いまでに強く激しくなってきた。
勇は何故苦しまねばならないのか解らない。だが、抱え込んだ頭の奥深くから、一つの認識がもがき浮かびあがってきた。残酷な圧力を押し分け、抵抗し、やっと這い上がった認識だった。
「ライ……ル……」
初めは、しかし、勇にとってその単語は何の意味も成さなかった。
「ライル……」
「ライル」
「ライル!」
認識は徐々に高まり、耳を聾するばかりとなった。
「ライル! ライル・フォンベルト! ……俺の……俺の親友だ!」
一つの認識が触発となって、勇自身の意志が頭をもたげ始めた。自分を支配する『悪魔』の凄まじい圧力と圧制を跳ね返そうと身悶えた。
それは少なからず、『悪魔』を驚かせた。あれほどに彼の意思を吸い尽くしたというのに、いまだ勇の本質が存在していた事実は、それをして驚愕させるに十分だった。
何と強固な意志であるか……。だからこそ、彼は選ばれたのだ。
勇はもがき、目の前のスイッチを切ろうと手をコントロールするために絶大な努力を払っていた。
額に汗が湧き出し首筋に流れていく。腕の筋肉は硬く盛り上がり、手の甲から指にかけて血管が浮き上がった。指の先から全身に痙攣が走る。
『悪魔』は再び彼を完全制御下に置こうと攻撃を開始した。勇の頭は割れんばかりの激痛を覚えた。
その中で、彼はただ一つの目的だけを追った。
「スイッチを切るんだ」
「スイッチを切れ!」
「切れ!!」
勇は気づいていなかったが、それは精神攻撃に対して最も有効な手段だった。単純でただ一つの目標に思考を集中すればするほど、その精神は他者に対し強固に対抗できる。
その為、『悪魔』は前回より彼を征服するのに手間取った。
しかし、勇が己の心の中で激しい闘いを行っているうちにも、フィールドカバーの中のライルはどんどん弱っていく。閉ざされた空間の酸素はとうに消費され、肺が酸素を取り込めなくなって幾十分か過ぎていた。
ライルは肺の機能を止めて、体内の酸素を極力保持しようとしたが、血中内の酸素濃度はみるみる低下し、細胞の命を保つためのエネルギーすら確保できなくなっていた。
それで、主要細胞を守るために、体細胞を構成している物質を分解して酸素を取り出し、それでエネルギーを作るという身喰い反応が続けられた。
これは、無論、自滅式の遣り方である。彼は、刻一刻と自分の身体を喰み続け、そうしてやっと得た命さえ、フィールドに吸い取られていく。
それでもなお、ライルの意思は『悪魔』の巨大な精神波攻撃を拒んでいた。
彼は決して服従しない。既に、死を選んでいた。
その身体は、細く薄く、消滅への過程を確実に進んでいく。
そして、勇はいまだ、自分の指を一ミリも動かせずにいた。
その時、ただならぬ喧騒と轟音が接近してきて、破壊音と共に厚い扉が煙をあげて溶解した。
直後、可動式分子破壊砲を操るチャーリィとその一隊が飛び込んできた。
皮肉なことに、勇がそれに一瞬気を取られた隙に、『悪魔』の意志が再び彼を支配した。
勇は装置のスイッチを切る努力を止めると、別のボタンに手を伸ばした。侵入者を阻むために設けられたビーム砲の作動スイッチだ。
だが、一度目覚めた彼の潜在意識はまだしぶとく抵抗を続けていたので、動作が必然的に鈍くなり、事実上、一秒もの遅れを生んだ。
そして、チャーリィが相手の場合はその遅滞は決定的に致命傷だった。
集束された分子破壊砲の射線が操作卓を一舐めした。操作卓は熱い煙となって蒸散する。
フィールドカバーを切られて、ライルの身体がどさりと人形のように床に落ちた。そのままぴくりとも動かない。
勇はぱっと跳び離れながら、携帯の銃を取って撃とうとした。が、指が引き金を引く前に、チャーリィのニードルビームがそれを弾き飛ばした。
次の瞬間、勇の体が硬直する。顔に著しい苦悶の色が浮かび、汗が吹き出した。彼の精神が自由を取り戻そうと必死に闘っているのだ。
チャーリィの叱咤で、茫然と足を竦ませていたならず者の仲間達は気を取り直し、敵から分捕ってきた十二門の分子破壊砲を『悪魔』に向けて撃ち始めた。
破壊的な威力のエネルギーは、しかし、『悪魔』の五メートル手前でまばゆい光輝を撒き散らした。
チャーリィは、十二門の射線を一点に集中させる。最大出力で、一点に!
その前には、宇宙船の厚い装甲でさえ一秒も持ちこたえることもできない壮絶なエネルギーの集束は、見えない壁を一センチ、一センチと後退させていく。
勇がぐったりと床に倒れた。チャーリィが銃を構えながら駆け寄った。
勇の表情を見て銃を下ろす。そこには解放された安らぎが浮かんでいた。
全力を尽くして闘っている最中に急に解放されたショックで、一時的に気を失っているだけだ。直ぐ正気に戻るはず。
仲間に勇を頼んで、チャーリィはライルの所へ急いだ。覗き込んだ彼の目から不覚にも涙があふれてくる。
この短い間に、ライルは頬もこけ、手足もやせ細り、まるで別人のようにやつれ果てていた。
肺は停止し、心拍は緩慢で、今にも止まりそうだった。まだ、身喰い反応を続けている。呼吸式代謝機能へ転換させる意識も機能力も失われているのだ。
分子破壊砲のエネルギー備蓄量も尽きかけてきたと判断したチャーリィは、仲間に前後を守らせ、彼自身はライルを抱えて走り出した。そのぴったり後ろを、正気に戻った勇が追く。勇は始終無言だった。
船のところまで、一行は抵抗らしい抵抗を受けることなく進んだ。重装備の連中を周りに配して、素早く乗り込む。
驚いたことに、停泊している他の船にも、基地の組員が続々と乗り込んでいる。どうやら、この要塞を見限って脱出する気らしい。
彼らが撤退時に抵抗を受けなかったのも、ここに理由があるようだった。
チャーリィ達は直ちに船を発進させる。心配なのは、基地の周りを固めている遊撃衛星群だったが、外へ出て頷く。
防衛衛星はチャーリィどころではなかった。要塞をぐるりと囲んで、銀河連盟の艦隊が幾万と押し迫っていたのだ。
チャーリィはすぐに回線を開き、ライルと勇の救出に成功したことを告げる。
報告を受けた艦隊は、それを合図に攻撃を開始した。
***
自分の役目を終了したチャーリィはライルを顧みて青くなった。床に簡易マットを敷いてそのまま寝かせていたライルはいっそう痩せ細り、影すらも薄くなっている。内臓までも崩壊し始めているかもしれない。
一刻も早く呼吸を再開させなければ、彼は永久に回復できなくなってしまう。
プルートにライルの胸を押してもらい、チャーリィは口を重ねると肺一杯の息を送り始めた。ライルの肺はそれでも動かない。
長い時間が経った。プリートはシャーリーと交替し、シャーリーは別の仲間と替わった。
だが、チャーリィは自分の部署を他の誰とも交替しようとしなかった。
ライルは呼吸をしない。美しい人形のように、冷たくそこに横たわっているだけだった。血液が循環する意味もなくなっているので、両の心臓すら動きが止まりかけている。
誰もがもう諦めていた。
この美しい科学者の肺は二度と酸素を取り込むことはないのだ。
深い紫の瞳が開かれることは、もう決してないのだ。
それでも、チャーリィだけは頑として諦めようとしなかった。ライルを失うなんて考えられない。彼は力一杯、呼気を送り続ける。
いつしか、胸を押す者はいなくなった。
プリートがチャーリィの肩に手を置く。チャーリィはその手を振り払って叫んだ。
「彼の……ライルの胸を押し続けるんだ! 止めないでくれ!」
プリートは黙って、再びライルの動かない胸を押し始めた。
だが、ライルの唇があまりにも冷たいままなので、チャーリィの意志におかまいなく、涙がこみ上げてきて流れ落ちる。胸が波打ち、涙の雫がライルの頬に落ちて濡らした。
しかし、やがて、ついに、かすかに、かすかにと、チャーリィの震える唇に風が返ってきた。
はっとして見守るチャーリィの目の前で、ゆっくりとライルの胸が上下を始めた。初めは判らないくらい微かなものだったが、次第にそれははっきりとした動きになっていく。
呼吸が再開されたのだ。
チャーリィは目を細め、唇を強く噛み締めた。歓喜のあまり大声で泣き喚きだしてしまいそうだった。
シャーリーとプリートが左右から、彼の肩を優しく叩いてくる。チャーリィは無言で頷いた。




