リン・カーネン
頑固なバリヌール人と最高峰麻薬コルック・ムスとの闘いです
三の章
白い部屋のベッドの上で、ライルは裸体のまま両手両足を固定されていた。
その傍らには、せむしで身の丈は大人の三分の二ほどしかなく、歪な頭の下のほうだけ薄く髪を残した、藪睨みの眼と胡坐をかいた平べったい鼻、大きすぎる口、あごには山羊のような髭をつけた……要するに、今では貴重なほど珍しいくらいのひどい醜男が、度を越す関心を以って彼の様子を観察していた。
幼少の頃にひどい病気を患ったらしいと思えるが、整形も受けずわざとその風貌を残しているようだ。
その目は、冷徹で残忍な観察者と、夢見るような憧れの眼差しの入り混じったものだった。
その男に比して、ベッドの青年は美の化身だった。
栗色の髪と紫の瞳の彼は、古い古いバリヌール人の進化の果てでなくては得られぬ、完璧な配列の容貌と、均整の取れた肢体を持っていた。
ミス・ギャラクシスも顔色を失うような美貌を、しかし、彼は強張らせ、紫の目を見開き、肢体を硬直させて汗を噴き出していた。
その瞳は何も見ず、焦点を結んでいない。
有機セラミック化した身体の紫の輝きが、不安定に明減している。
彼は、今、コルック・ムスと闘っていた。麻薬の力に屈することはバリヌール人としての誇りと体質が許さなかった。
彼の体の中には、通常量の2.3倍、二百三十単位の量が入っていた。傍らで観察を続けるリン・カーネンが、これだけの量を必要と考えたのだ。
通常人なら、致死量である。
狂いだすほどの高揚感、悦楽の極地の連続の果てに心身の全てを消耗し尽し、緊張が破れると泥屑のように崩壊して萎びた皮と骨になって死んでしまう。
地球人より体力の劣るバリヌール人にとって、その量は破滅的である。
既に全神経は、一つ残らず弓の弦のように張り詰められ、僅かな刺激で砕けてしまいそうだったし、体細胞は瀕死の状態で喘いでいた。
しかし、彼の強情な意思は、それでも薬が引き起こそうとするあらゆる快楽、絶頂感を頑として拒んだ。
肉体の要求に逆らい、それを圧しようと努力し続けていた。
その為に、心身がすっかり参ってしまい、回復不能になることさえ、いや、死ぬことさえ厭わなかった。
麻薬に負けその奴隷に成り果てるくらいなら、バリヌール人は死を選ぶのだ。
衰弱がはなはだしくなってきたため、リン・カーネンは強壮剤を打った。じっと容態を診、もう一本高圧注射器を手にとって逡巡した。
顔に不安の表情が表れる。どんな生物でもこれだけのコルック・ムスに抵抗できるはずがないのだ。彼は、とっくに麻薬の効果に身を委ねていなくてはならなかった。陶酔と幻覚の世界にぐったりと浸り、無力な虚脱状態になっているはずなのだ。
それなのに、彼は信じられぬ忍耐を示し、不可能なはずの抵抗を全身全霊の力を振り絞って続けている。
「強情な生物だ」
呟くと、医師は決心したように注射器を再度打った。これを多用すると、心臓に負担をかけ重大な支障を生じさせる。まして、このように衰弱しきった体に用いる場合は、殊のほか注意を要する。
「死ぬかもしれんな」
上層部から激しい叱責を受けるのは構わない。それよりも、貴重な標本が損なわれるのが残念だった。
だが、ライルは持ちこたえた。細胞の一つ一つが機能を取り戻し、再び体細胞調整が可能になるに従って、麻薬の効果を消化していき、徐々に硬直状態が弛緩されてきた。
瞼が閉じられ胸が規則正しく上下を始め、昏睡に入る。紫の光も安定し、穏やかに輝く。
リン・カーネンは彼の生理状態をつぶさに調べ上げ、その結果に満足して頷いた。全ての代謝機能が驚くべき速やかさで正常に回復しつつあった。
地球人には考えられぬことである。
「真の進化とはこうあらねばならぬのじゃわい」
声に出して、頷く。
バリヌール人は己の知力ばかりではなく、身体機能もまた効率的な理想的機能へと進化させることに努力してきた。
その結果、全組織、全細胞に至るまで意志の介入ができ、微細な調整をまで可能にした。それによって、こうした激しい疲労や衰弱の回復を早めるばかりではなく、物理的科学的要因に対しても柔軟な対応ができる。麻薬に対する処置能力がその好例と言えるだろう。
他にも、重力や気圧等の急激な変化にも優れた適応力がある。外的条件の変化や刺激を素早く感知できるように、彼の皮膚細胞――今は、地球人型皮膚皮膜の下にある――は、極めて敏感な感覚器官でもあった。
多くの世界を単独で訪ね廻るのが好きな彼らには身を守る為の当然必要な機能だが、チャーリィに言わせると、『感じやすい体質』ということになる。
ライルはバリヌール人種の進化の極の結実なので、彼を調べれば、彼らがどんな生体を理想として努力し続けていたか解るというもの。
リン・カーネンにとって、これほど魅惑的な素材は他にない。
もちろん、バリヌール人の本質的目標は、理想的身体状態のコンスタントな維持にある。彼らの生涯の仕事である研究活動を最も効率良く行うために、それは必要不可欠であったのだ。
宇宙の中には、身体機能の劣化が進歩の証だなどど本気で思いこんでいる種族がいる。困ったことに、地球人の中にも、そう考える人間がけっこう多いのだ、と医者は残念がった。それは、退化にほかならないのだと、彼は固く信じている。
医者はライルの目覚めを揉み手をせんばかりに、喜々として待った。麻薬の後遺症と、禁断症状を見たいのだ。
深く眠り込んでいる彼の裸体を無遠慮に眺め回す。彼の人体標本を作製する時を思い描いて、嬉しげににたにた笑った。待ちきれないように舌なめずりをする。
リン・カーネンは自分の知識欲のために、魂を悪魔に売ったような男だった。その為には、手段を選ばない。さらに、彼には身の毛もよだつ収集趣味があった。
気に入った生物体を標本にして保存するのである。それも、生きた状態で。しかも、彼は医者だから、人間やその器官を集めるのだ。
無論、製作に当たって、然るべき管轄に断ったりしないし、当の本人の意向も一切無視する。
当然、法に触れる。以前から、彼の研究手段が著しく学会から嫌悪され、しかも法的にも問題があったので、ついに学会から放逐され、警察に追われて行方をくらませていた。
この研究所の一角に、彼のこれまでの収集が集められていた。赤子から老人まで、男女種族の別を問わず、内臓器官からそっくり人体まで、様々な生きた標本が並んでいる。彼の命の次に大事な宝である。
このところ、興味深い標本が手に入らずに苛立っていた彼は、一生に一度の素晴らしい獲物を手に入れて有頂天になっていた。美しい標本になることだろう。
神の寵愛を受けた種族に長い年代の重みをかけて初めて成し得る、造化の神が自らを満足させるために作り出した逸品。
しかも、その美しい肢体には熱い血が流れ、心臓は脈打ち、触れれば反応する生きた身体なのだ。その体内にはどんな器官が隠されどんな機能の秘密があることだろう。
メスを取って陶器のように滑らかな白い肌を切り裂きたいと言う衝動を抑えるには、たいそうな努力が要った。
麻薬の影響を克服したライルの身体から有機セラミック化が解かれ、やがて眠りから覚めた。それと同時に目にしたリン・カーネンの顔を見て、混沌に沈む前に思い出しかけていた記憶が蘇る。
「リン・カーネン……。なるほど、予想してしかるべきだった。ここより他に、隠れるのに都合の良い場所は多くないだろう」
「ほう。わしの名をご存知とは、光栄なことですな。博士」
ライルは顔をしかめた。その名に付随いて伝わっている情報は、好ましいとはとても言えないことばかりである。
「あなたは、自分で思っている以上に有名だよ。悪い意味でね。どこまで、真実なのか疑うが……」
リン・カーネンはほうほうと笑った。フクロウが鳴いているような笑い声で感じが悪い。
「多分、全部真実でしょうなあ。わしは、自分の好奇心に正直なだけじゃがね」
「そのために、罪もない家族に作成した劇薬を与え、挙句にその遺体を細切れに分解したのか? それどころか、一地方に、改悪した病原菌をばらまき、死と奇形をもたらせて破滅させたと言うではないか」
ライルが非難する。
これが、両手両足を固定されたままなのだから、この青年も常軌を逸している。
リン・カーネンは気弱な老人であるかのように首を振った。
「どうなるか試してみたかったのじゃよ。シミュレーションを何度やってみたところで、何が解る? 事実には勝てんよ。そして、事実が全てなんじゃよ。科学を志す者なら、誰でも一度や二度は、その誘惑を覚えるはずじゃ。おかげで、いろいろなことを発見したわい」
ライルは嫌悪を覚えて視線を逸らした。
リン・カーネンは別に機嫌を悪くした様子もなく、ほくほく顔で時計を見た。
「そろそろ現れても、良い頃じゃな」
その意味はライルにも明白だった。表情が強張る。今の凪のような状態が、実は一時的なものであることは、彼も良く知っていた。それは、嵐のようにくるだろう。あれだけの量の麻薬を打たれたのだから……。
それは、いきなりきた。
連続して注入された大量の薬が切れると、その反動で激しい渇望が生じた。細胞の一つ一つが、大きな口を開けて禁断の薬を求めるのだ。
一瞬、彼は我を忘れて、手足を固定している枷を外そうともがいた。
だが、激しく高まっていく欲望が彼を圧しきる前に、彼の強靭な意志がそれを押さえにかかった。ひたすらに薬を求める身体の欲求が凄惨なまでに強いので、それに抗するのは麻薬の効果に対するよりもなお辛い。
果てしもなく続くと思える苦悶の中にある彼の側にへ、支部長が再びやってきた。
苦しそうな彼の様子を満足げに眺めている。
投入後と禁断症状の出る間は十分活発な精神活動が保証できると、医者から報告を受け、満心の笑みを浮かべた。九分通り、思い通りにいくだろうと確信している。
しばらく楽しげに眺めていたが、やがておもむろにライルを誘うように話しかけた。
「苦しいかね? 博士。ここに薬がある。直ぐに楽になれるよ」
「要らぬ!」
ライルは嫌悪を込めて睨み返した。その抵抗力にぎょっと驚いた支部長は、しかし、再び優しげな笑みを浮かべてみせた。
「そうかね? ま、急ぐことは無い。やがて、欲しくなる。さあ、薬はここに置いておくよ」
テーブルの上に、これ見よがしに百三十単位の薬が入った注射器を置くと、彼の手足の枷を外させ、彼を一人にして出て行った。
手足の枷を外された彼は、ベッドに横になったまま薬から目を背けていた。
細胞は再び、彼のコントロールを離れ、ひたすらに薬を求めて喘いでいる。それは激しい苦痛となって彼に襲いかかった。
まるで、陸に揚げられた魚が水を求めるように、窒息しかかった者が必死に空気を求めるように、彼の身体は麻薬を求めた。
だが、一度、その欲求に屈したら、もう二度とそれに耐えることはできなくなるのだ。
『この次こそ』は決してあり得ない。一度目より二度目のほうが、そして、三度目にはよりいっそう、薬への渇望は強くなり、反して抗する意思は弱くなっていくのだから。
けれども、時間が経てば経つほどに薬への渇望は強くなり、忍耐の限界を越えてくる。両の心臓が激しく波打ち呼吸はできず手足が震えて止まらない。
彼の身体は彼を裏切ってベッドから降り、テーブルの方へと歩んでいた。そこに、冷たく光る注射器を見た彼はそのまま動きを止めた。
激しい葛藤が彼の全身を駆け巡る。震える手を注射器に伸ばした彼は、ぐっと掴むと手を高く振り上げて、それを床に投げつけた。
ガラスが砕け、薬が飛散する。
両手をテーブルについて肩で息をしていた彼は、そのままゆっくりと床に崩折れた。
だが、彼の顔からは苦悶の色が消え、穏やかな表情に変わっている。彼の意思は激しい禁断症状を克服したのだ。
一部始終を隣の部屋から、驚愕と賛嘆と満足の入り混じった表情で観ていたリン・カーネンは、改めて注射器に薬を入れると、ぐったりと床に座り込んでいる彼のところへ行った。
支部長の命令でもあったが、彼自身も、バリヌール人の代謝機能がどこまで麻薬に抵抗できるものか、興味があるのだ。
医者の手に注射器が光るのを見て、ライルははっと顔色を変えた。一度麻薬の味を覚えた彼の身体は、次には貪るようにそれを受け入れてしまうだろう。
まだぐらぐらする身体で立ち上がった彼は、近づく医者に身体ごとぶつかっていく。不意を突かれた男が床に尻餅をつくのも見ずに、扉のほうへ走る。
麻薬の影響を過信したリン・カーネンが油断して、扉に鍵も掛けずに入ってきたのを見ていたのだ。
隣の部屋に飛び込んだ彼は、必死で出口を求めた。衰弱しきった身体は思うように動けず、めまいがしてくらくらする。部屋がゆがみながら回転しているようだった。
背後からはリン・カーネンが毒づきながら近づいてくる。
絶望感を感じながら、それでも扉を認めた彼はドアを開けて外へと出た。
細長い通路が延びている。肩で重い息を継ぎ、よろめく足で逃げた。何処でもいい。どこか隠れて休めるところを。
その頭上で、警報ベルがけたたましく鳴り響く。四方八方から走る足音が聞こえてくる。
足音が近づく度に横の通路へと逃れて行くうちに、彼は方向を失ってしまった。
照明の薄暗い通路に入った時には、もう一歩も歩けなくなっていた。奥の扉を開けるので精一杯。
中へ倒れ込むように入り、背中でどうにか扉を閉め、そして顔を上げた彼はその場に凍りついた。
目の前に剥きだされた内臓があった。その横には脳を摘出した胎児。首だけのトレア人がにんまりと笑う。体の右半分だけ内臓を露出している緑色人の秋期体。脈打つ心臓。蠕動する腸塊。生きているコレクション。狂気と悪意の作為。
顔を顰めたライルは、急速に力が抜けていくのを感じた。精根尽き疲れ果てて、標本ケースの列の間に崩れていく。
その脇に人影が立った。手に注射器がきらめく。
彼が意識の最後に覚えているのは、始まった幻覚の為に歪んだ醜い笑いを浮かべたリン・カーネンの顔だった。




