第1話 女王様は、ぐうたらでした
「……ん」
頬から伝わる石の冷たさに、私はゆっくりとまぶたを開けた。
身を起こして辺りを見渡すと、そこは長く続く石造りの廊下だった。片側に等間隔で並ぶ窓からは、青白い光だけが静かに差し込んでいる。壁際に置かれた古びた大時計は、その針を完全に止めていた。
手をついて痛む体をなんとか立ち上がらせるが、周囲に人の気配はまったくない。
(ここはどこ?……)
手がかりを求めて最も近い窓へと歩み寄る。
ガラスには、一人の少女が映っていた。年は18歳ぐらいだろうか。首筋で切り揃えた黒髪のショートヘア。涼しげな切れ長の目。動きやすそうなシンプルなシャツとズボン。
おそるおそる、右手を持ち上げてみる。ガラスの中の少女も、同じように手を上げた。指先で自分の頬に触れると、少女もまた、頬に触れる。
(……これが、私……?)
名前を思い出そうとするが、何も浮かばない。年齢も、住んでいた場所も、好きな食べ物すら。それなのに、言葉の意味だけは、不思議なほどはっきりと分かる。「窓」も「廊下」も。
(おかしいわね。自分のことは何も分からないのに、世の中のことは分かるなんて)
私は窓の外へ視線を向けた。
そこには荒れ果てた庭園が広がっていた。花壇は枯れ果て、枝は折れ、噴水は水を失っている。
その上の空に、満月が浮かんでいた。
(……綺麗な月)
視線を横へずらすと、もうひとつ、満月があった。
(……え? どういうこと?)
目をこすって、もう一度見る。変わらない。
(ここは、私の知っている場所じゃない?)
そのとき、頭の片隅に、ひとつの言葉が浮かんだ。
(……いや、まさか。そんな、ゲームみたいなこと)
浮かんだ言葉を、馬鹿らしいと打ち消そうとする。けれど、それ以外に思いつく手がかりもなかった。
人気のない廊下の真ん中で、小さく咳払いをする。
「……ステータス」
何も起きない。
(……恥ずかしい。誰も見てないからまあいいけど)
ため息をついて、窓から離れようとした、その瞬間。
目の前に、半透明の青い画面が、浮かび上がった。
┌──────────────────
│ 【名前】 (未命名)
│ 【種族】 人種(異界)
│ 【職業】 未設定
│ 【スキル】 異界の知識
└──────────────────
「ほんとに出た……! ていうか『異界』って何よ?」
答えてくれる人は、周りに誰もいない。
静まり返った廊下に、私の声だけが小さく反響して消えた。
(本当に誰もいないのかしら……)
画面が薄れて消えるのを見届けてから、私は廊下を奥へ向かって歩き出した。
ほこりを踏む足音だけが響く。並んだ扉の取っ手を試しに引いてみたが、どれも固く閉ざされていた。
そうして進んでいくと、廊下の突き当たりに、ひときわ大きく豪華な扉が現れた。
両開きの、彫刻の施された扉だ。他の扉とは、明らかに格が違う。
ギィ……と重い音を立てて、扉を押し開ける。
そこは、豪華な寝室だった。
大きな窓から二つの月の光が差し込み、部屋の中央にある巨大なふかふかのベッドを照らしている。
その上で、一人の少女が抱き枕を抱きしめて丸くなっていた。
扉の前に立ったまま、私は息をひそめた。廃墟のような城の中で、ここだけに人の気配がある。
私はそろそろと、ベッドへ近づいていった。
銀色の髪に、透き通るほどの白い肌。思わず息をのむほど美しい寝顔だった。
その時、少女が私の足音に気づいたのか、ふあぁ、と小さく可憐なあくびをした。
「……んん……なに?」
億劫そうに、片目だけが開く。真っ赤なルビーのような瞳が、まっすぐに私を映した。
「なぁに、君……? どこから入ってきたの……? 誰でもいいけど、私は寝るから…………」
「誰でもいいって何よ!」
思わず声を上げると、少女は抱き枕に顔を半分埋めたまま、面倒くさそうにこちらを見上げた。
「……まあいいや。おやすみ……」
「寝るなーっ! ちょっと、お願いだから起きてよ! 私だって、目が覚めたら自分が誰かも分からなくて困ってるのよ!」
「ん?……誰かも、分からない……?」
銀髪の少女が、ぴくりと片目を開けた。
「名前も、ないの?」
「ええ。ないのよ。……で、あなたこそ誰なの?」
「私はルーナ。この城の女王で、吸血鬼だよ〜」
「……は?」
唐突に出てきた名詞に、私の思考が一瞬フリーズした。
きょとんとした顔でこちらを見る少女の肌は、確かに太陽を知らないように白く、唇の隙間から小さな尖った八重歯が覗いている。
(吸血鬼の女王……? いやいや、冗談でしょ……? ていうかここ、城なの!?)
情報量が多すぎて頭がパンクしそうだ。だがルーナは、そんな私の混乱など意に介した様子もなく、抱き枕に顎を乗せてぼんやりとこちらを見つめている。
「ふーん……名前も、行くあてもないんだ」
「……まあ、そうなるわね。今のところは」
「じゃあさ、ここに住めば? 部屋はいっぱい余ってるし、お布団もふかふかだよ〜」
「……ちょっと待って。いきなり何よ。怪しすぎるでしょ」
見知らぬ相手に無条件で部屋を提供するなんて、いくらなんでも話がうますぎる。警戒して一歩身を引くと、ルーナは面倒そうにベッドの上で寝返りを打った。
「怪しくないよ〜。……ちょっとだけ、お願いがあるだけで」
「はぁ。やっぱりなにかあるんじゃない」
「たいしたことじゃないよ〜。お風呂を沸かしてくれたり、髪を乾かしてくれたり、ご飯を用意してくれたり……とか」
こてんと首をかしげながら、ルーナは言った。
「それ、全部あなたのお世話じゃない!」
「うん! お世話してほしいの!」
開き直ったように、ルーナは胸を張った。
(……なんなのこの吸血鬼。頭が痛くなってきたわ……)
こめかみを押さえて、ふと窓の外を思い出す。荒れ果てた庭園。記憶もお金も行くあてもない私が、今ここを追い出されたら、行き倒れ確定だ。
選択肢なんて、最初から存在しないのだ。
「……はぁ。分かったわよ。でも『お世話係』は嫌。あくまで『家賃代わりの手伝い』としてならかまわないわ」
「ほんと!? 」
ぱっと顔を輝かせ、ルーナは勢いよくベッドの上に起き上がった。
──が。
「あ、クラクラする……」
次の瞬間、ぐにゃりと力なくベッドの中へ沈没していった。
(……本当に吸血鬼なの? 体力なさすぎでしょ……)
どこまでも怠惰な女王だ。それでも、布団の中から覗く顔は嬉しそうに緩んでいた。
仕方のないやつ、と肩をすくめる。
ひとまず居場所は確保できた。なら、次は一番重要な「現状把握」だ。
「よし、じゃあルーナ。お互い納得したところで、まずは確認から行きましょうか」
私はベッドの上のルーナを見下ろした。
「ここは何という場所で、城には何人暮らしているの?」
「あ、そうだ。思い出したから言っておくね〜」
私の質問に答えるどころか、ルーナは抱き枕をぎゅっと抱き直し、思い出したように軽いノリで──とんでもない言葉を口にした。
「近いうちにここ、攻め込まれるっぽいから、対応よろしくね〜」
「……………………え?」




