第6話 師匠、おかえりなさい
【エリアナ視点】
「魚はあるか。できれば、骨の少ねえやつ」
その声を聞いたとき、私は盆の上の杯を数えていた。
一つ、二つ、三つ。
四つ目へ伸ばした手が、止まった。
潮風亭の入口に、男が立っている。灰色の髪をひもでくくり、無精ひげを生やした、くたびれた旅人。肩のかばんからは、包みきれなかった何かの干物が、尾びれを出していた。
セヴラン師匠だった。
「……師匠?」
口にすると、あの人の目がこちらを向いた。
「おう」
いつもの返事だった。
林で木剣を抱えて待っていたときも、遅れて来た師匠は、そう言って片手を上げた。まるで昨日も会ったように。
けれど、今日はその手が途中で止まった。
「お前、なんでここに――」
私は盆をカウンターへ置いた。
ちゃんと置けたことだけは、覚えている。その次には、もう師匠の上着をつかんでいた。
「師匠」
厚い布に顔を押しつける。潮の匂いがした。革と、煙と、知らない町の土の匂いも。
「……おい」
かばんが、床へ下ろされる音がした。
大きな手が、私の背中へ回った。
「師匠……」
ほかの言葉が、出てこなかった。
話したいことなら、たくさんあったはずなのに。王宮を出たことも、海を見たことも、初めて自分の剣でお金を稼いだことも。
どれも喉の奥へつかえて、名前を呼ぶことしかできなかった。
「おう。聞こえてる」
頭に、手が載った。
いつものように乱暴に髪をかき回されるのかと思った。その手は、少し迷うように止まってから、ゆっくり私の後頭部をなでた。
膝から、力が抜けた。
「……会いたかったです」
「そうか」
「海を渡ったって、聞いて」
「渡ったぞ。今しがた、帰ってきた」
「私も、行こうと……」
「喋るのは、息が戻ってからにしろ」
師匠の手が、もう一度、頭をなでた。
私はうなずき、そのまま上着を握っていた。
後ろで、ハンナさんが客に何か言っている。誰かが席を移り、窓際で椅子を引く音がした。
いつもなら私が運ぶ杯を、ハンナさんが運んでくれた。
◇◆◇
水を飲んで落ち着くまで、師匠は隣に座って待っていた。ハンナさんが先に出してくれたパンをちぎり、時々、口へ運んでいる。
卓の下では、私の指がまだ上着の裾をつかんでいた。気づいていないはずはないのに、師匠は何も言わなかった。
「それで。ここで働いてんのか」
「はい。給仕と、用心棒を」
「木剣でか」
「師匠がくださった剣ですから」
腰から外して差し出すと、師匠は握りを確かめ、木目に沿って指を滑らせた。
私の知らない傷まで、見ているようだった。
「使ってるな」
「はい」
「よし」
それだけで、鼻の奥がまた熱くなる。
私は木剣を受け取り、膝に置いた。
「師匠。私、王子をやめました」
声を落とすと、師匠も少し身を寄せた。酒場では昼の客が食事を続けている。皿の触れる音が、私たちの卓を包んでいた。
弟が生まれたこと。仕事を取り上げられたこと。北の離宮へ移り、許された人としか会えなくなるはずだったこと。
私は、一つずつ話した。
途中で言葉が詰まっても、師匠は続きを急がせなかった。
「だから、出てきました」
「自分で決めたんだな」
「はい」
師匠は短くうなずいた。
「そうか」
なぜもっと我慢しなかったのかとは、聞かれなかった。
私は卓の上で、杯を両手で包んだ。冷たい水が、手の熱を少しずつ奪っていく。
「本当の名前は、エリアナといいます」
「エリアナ、か」
「これからは、その名前で呼んでいただけますか」
師匠は私の顔を見た。
「ああ。分かった」
胸の奥へ、息が通った。
「それで、エリアナ。飯は食えてるか」
「……はい」
「寝床は」
「ここの二階です」
「今の暮らしは、どうだ」
「楽しいです」
今度は、つかえずに答えられた。
「知らなかったことが、たくさんあります。仕事をするとお腹がすくし、足も痛くなるし。お客さんは、酔うと同じ話を何度もします」
「そいつは、どこへ行っても変わらねえな」
「でも、楽しいです。私の名前を呼んでくれる人も、増えました」
師匠は口元をゆるめた。
「なら、よかった」
私はうなずいた。それから、上着の裾をつかむ指へ、少し力を込めた。
「でも、ときどき、師匠に話したくなりました」
「今、話してるだろ」
「……はい」
「まだあるなら、聞くぞ」
私は隣へ、ほんの少し寄った。
◇◆◇
昼の休みに靴屋から戻ったリュカは、窓際の私たちを見て、入口で足を止めた。
それから師匠の顔を確かめ、背筋を伸ばした。
「勇者セヴラン様。リュカと申します」
「こいつの連れか」
「はい」
リュカが、私を見た。
目元はもう乾いていたが、師匠の袖をつかんだままなのは、見えてしまっただろう。彼は笑ったりせず、空いた椅子を引いた。
「ご無事に戻られて、よかったです。エリアナ様と、海の向こうまで伺おうとしていたところでした」
「私が、師匠に会いたくて。リュカも、一緒に行ってくれることになっていたんです」
師匠はリュカの腰にある剣を見た。次に、革を縫う道具の入った袋へ目を移す。
「剣も、針も使うのか」
「剣は、まだ教わっている途中です」
「靴を直すのは、すごく上手なんですよ」
私が付け足すと、リュカは少し照れたように笑った。
「靴は、任せてください」
師匠は自分の長靴を見下ろした。
「なら、あとでこいつも見てくれ。船の中で底が浮いた」
「承知しました」
「金は払う」
「はい。きちんと直します」
私は、ようやく少し笑えた。
会わせたかった二人が、まず靴の話をしている。
そこへハンナさんが、大きな皿を運んできた。魚の煮込みから、香草の湯気が立ち上っている。
「お待たせ。骨は取ってあるよ」
「ありがてえ」
「あんたが勇者様だったとはね。うちの看板娘が、あんな顔をするわけだ」
私は、師匠の袖から手を離した。
遅かった気もする。
「ハンナさん」
「何も言ってないよ」
十分に言っていた。
師匠は煮込みをひと口食べ、パンを手に取った。
「部屋は空いてるか」
「二階に一つ。泊まっていくのかい」
「ああ。しばらく世話になる」
「師匠、本当に?」
思ったより大きな声が出た。
師匠はパンを持ったまま、私を見る。
「なんだ。追い出すのか」
「出しません」
「じゃあ、いる」
「明日も?」
「一泊だけなら、しばらくとは言わねえだろ」
私は口元を押さえた。隠そうとしても、頬が勝手にゆるんでしまう。
リュカが、静かに笑った。
「次の船は、見送りますか」
私は彼へ向き直った。
「いいの?」
「僕も、まだ靴屋で教わりたいことがあります。急ぐ旅ではありませんから」
海の向こうを、見たくなくなったわけではない。
けれど、明日の朝、この人におはようと言える。そのことを、今は選びたかった。
「うん。少し、出発を延ばしたい」
「では、そうしましょう」
ハンナさんにも向き直り、部屋と仕事の約束を延ばせるか尋ねた。
「こっちは助かるよ。子どもたちも喜ぶだろうさ」
「子ども?」
師匠の眉が上がった。
「最近、剣を教えているんです。まだ、立ち方とか、振り方だけですけど」
「お前が?」
私は少し身構えた。
師匠は、ふっと笑った。
「そうか。お前がな」
それ以上は何も言わず、煮込みを食べた。私は、その横顔をしばらく見ていた。
◇◆◇
ハンナさんは、その日の残りを休みにしてくれた。
「再会した日くらい、ゆっくりおし」
そう言われて、私はエプロンを外した。
夕方の光が、窓際の卓を蜂蜜色に染めている。港の向こうでは帆が下り、波止場の呼び声が、少しずつ遠くなっていた。
師匠は海の向こうで見たものを話してくれた。
乗り継ぐ船を間違えたこと。見たこともない色の果物を食べたこと。魚の煮込みを目当てに入った店で、三日続けて肉しか出なかったこと。
「魚が獲れなかったんですか」
「店を間違えてた」
「三日も?」
「肉がうまかったからな」
笑うと、師匠も少し笑った。
私は椅子を寄せ、その肩へ額を預けた。
師匠の話が止まる。
「眠いのか」
「少し」
「部屋へ行け」
「もう少し、ここにいたいです」
師匠は何も言わなかった。
私は上着の袖を、またつかんだ。
「……頭も」
「あ?」
「もう少し、なでてください」
言ってから、顔が熱くなった。
十八歳にもなって、何を頼んでいるのだろう。子どもたちには先生と呼ばれ、酒場では用心棒までしているのに。
けれど、取り消したくはなかった。
大きな手が、頭に載った。
今度は少し乱暴で、短い髪がくしゃくしゃになる。六年間、何度も知っている手つきだった。
「これでいいか」
「はい」
私は目を閉じた。
窓の外で、船の鐘が鳴った。卓の向こうでは、仕事を終えて戻ったリュカが師匠の長靴を調べている。厨房から聞こえるハンナさんの声も、いつもより遠く、やわらかかった。
「師匠」
「今度は何だ」
「おかえりなさい」
頭の上で、手が一度止まった。
「……おう。ただいま」
私は小さくうなずいて、師匠の肩に頬を寄せた。
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