【おまけ】雨の日の午後
雨音が静かに響く。
セイルは今日も仕事を終え、いつものように執務室の奥の私室で独り、百合子の絵画を眺めていた。
──百合子さんには二度と会えない。
エマは逝ってしまった。
また独りになってしまった。
何もかも夢だった。
もうこれ以上何も考えたくない。
早く二人のもとへ行きたい。
胸をかき毟る虚しさに、セイルは短剣を手に取る。
躊躇いはない。
喉元に冷たい刃を押し当てる。
今すぐ死──
「清一さん!!」
体を揺さぶられた衝撃で意識が揺れ、重い瞼を開ける。目の前には、エマが心配そうにセイルの顔を覗き込んでいた。
「……エマ」
「とてもうなされていました。汗をたくさんかいて……大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
エマの声に、セイルは深く息を吐いた。今しがたの悪夢が霧のように遠のき、現実にいる彼女の温もりが全身を包んでいく。
「……すみません、眠ってしまっていました」
雨の日の午後。セイルとエマは、久しぶりに仕事を休んで、二人きりの穏やかな時間を過ごしていた。
セイルはエマの膝にもたれて休むうち、眠り込んでいたらしい。
「あまりに可愛らしいのでそのまま眠っていて欲しかったのだけど、急に苦しそうにうなされて……心配しました」
「可愛……?」
「怖い夢でも見てしまったの?」
エマは幼い子どもをあやすような口ぶりで問いかけてくる。
セイルは身を起こし、エマの隣に座り直した。
「貴女がいなくなる夢を見ました……とても、怖かったです」
セイルはちょっと大袈裟に、悲しそうな口調で言ってみた。その言葉に、エマはおろおろと視線をさまよわせる。そんな彼女の反応に、セイルの胸は温かく満たされていく。
「百合子さんは本当に、心配性ですね」
「だって……こんなに可愛い貴方が悲しそうにしているのに、放っておけないわ」
エマがしゅんとしながら、セイルを見上げる。
セイルには、エマが先程からしきりに「可愛い」と形容することが妙に引っ掛かった。
「……百合子さんは、僕をまだ弟のように思っていますか?」
セイルが問いかける。
エマはきょとんとし、しばし考えるように首をかしげる。
「弟……ではないけれど。年が離れているから、つい可愛く思ってしまうのかも」
「今は僕の方が年上なのに、ですか?」
「あら、私の方がうんと年上よ!」
エマは目を輝かせた。
「だって百合子はおばあちゃんになるまで生きたのよ。それにエマの年を合わせたら、もう百歳にもなるわ! だから私は、貴方よりずっとお姉さんなの」
その得意気な声に、セイルはしばし言葉を失った。
ずっと感じていた年齢差への引け目が、たちまち霧散していく。彼女はそんなことを気にも留めず、むしろ誇らしげに受け止めていたのだ。
ふっと笑みがこぼれる。
「そうでしたね、百合子さんは僕よりお姉さんでしたね」
くすくす笑うセイルに、エマは頬を染めながら微笑む。エマには、彼の幸せそうな姿が何より嬉しかった。
「今日は、まだ時間がたっぷりあります。二人でゆっくり過ごしましょう」
「ええ」
二人は肩を寄せ合い、互いの温もりを確かめ合う。
雨の午後。
穏やかで、静かな、二人だけの時間の中に、幸せが満ちていた。




