雪
早川雪は、生まれたときから、不思議な力を持っていた。
掌をかざせば擦り傷が塞がり、痛みが和らいでいく。子ども心に、自分ならどんなものでも癒せるのだと信じていた。
だが、現実は違う。
物心がついた頃、愛してやまない祖父母が、相次いで病に倒れた。必死に手を握り、幾度も力を込めたが――癒やせなかった。
「奇跡」を願うほど、無力さが突きつけられた。
父はとうに戦死していた。残された母は、幼い雪を養うためにやつれた顔で夜遅くに帰ってきた。
母の寂しい背中に寄り添うことしかできない自分が、雪は悔しくてたまらなかった。
どうして癒せないの。
傷は塞がっても、病は救えない。
愛する人の命を前に、手のひらの力など、あまりに無力だった。
――こんなのは、絶対におかしい。
声にならない叫びを胸の奥に沈め、雪は思った。
癒すだけでは駄目だ。
人を生かすには、もっと知らなければ。
魔法のような力に縋るのではなく、確かな知識を。
人の生きる力を引き出す術を。
そうして雪は、ひたむきに学び始めた。
眠る時間を削り、書物をむさぼり読み、時に母の前で鉛筆を走らせながら。
医者になりたい。
人を救いたい。
それが、この力を持って生まれた自分の使命だと、彼女は信じていた。
*
雪は、伯爵夫人に向かって医師としての礼を尽くした。
白衣の裾を正し、深く一礼する。
「お初にお目にかかります。医師のユキと申しま──」
「雪ちゃん!!」
唐突な呼び声に、雪の言葉は途切れた。
目の前の伯爵夫人は、いきなり大きな声を上げたことで激しく咳き込み、細い肩が震える。慌ててリーリエ伯爵がその背を擦り、必死に庇っていた。
「……はい、ユキという名には違いありませんが──」
「けほっ……雪ちゃん……あぁ雪ちゃん……」
ぽろぽろと、まるで水があふれるように涙をこぼしながら、夫人が言った。
雪が困惑しているのも構わず、伯爵夫人はその名を呼び続けた。
「エマ……落ち着いて」
「ねぇ清一さん、雪ちゃんなの、雪ちゃんがいるわ……あぁ、こんなところに……生きていてくれた……」
「雪が……?」
「えぇ……あの子は雪ちゃんなの……」
伯爵夫人は、子どもが泣くようにしゃくりあげながら、繰り返しそう言った。
戸惑っていたのはリーリエ伯爵も同じだった。彼は夫人の肩を優しく抱き寄せ、雪に頭を下げた。
「……失礼を……妻は目覚めたばかりで混乱しているようです。どうか一度、席を外していただけますか」
雪は静かにうなずき、部屋を辞した。
廊下に控えていた執事が案内し、雪を貴賓室へ通す。扉が閉まると同時に、雪は大きく息を吐き出した。
──これは……なに?
自分よりも若い伯爵夫人が、泣きながら何度も名前を呼ぶ。その目には、真実を信じ切った人間にしか出せない熱が宿っていた。
彼女の口振りは、まるで生き別れた母のようだった。
雪の胸に、ざらつく違和感が残る。
元の世界に置いてきてしまった、独りの母。
心配性で誰よりも優しい人。
母は今も、私の帰りを待っているだろうか。
この世界に来てしまい、帰れないと悟ったときには真っ先に母を想った。
せめて、元気でやってるよって、伝えることができたら──
雪はバッグからカルテを取り出し、伯爵夫人の状態を整理して書き込み始めた。
『興奮・不穏。発言に一貫性あり。記憶関連の影響による精神的乖離の可能性』
ときおり手を止めながら、雪は思い出していた。
母と過ごした日々。
朝食を作ってくれた手のぬくもり。
庭の梅の木を眺める横顔。
心配性で、お人好しで、困っている人を放っておけない、少し不器用な……そんな母。
──お母さん……会いたいな
ペンに力が篭る。
カルテの文字が滲んでいった。




