清一の回想_契約(清一視点)
「……ここは、どこだ」
俺は息を呑み、辺りを見回した。先ほどまで炎に呑まれたはずの体は、熱さどころか傷一つない。うす暗い空間。生き物の体内にいるかのように、壁のようなものがうねり、ぼんやりとした灯りが点々と瞬いている。
そのとき、背後から声が落ちてきた。
「いらっしゃい、待ってたのよ」
振り返ると、黒いドレスをまとった女がそこにいた。長い耳を持ち、妖艶な微笑を浮かべている。美しいが、同時にぞっとするような不気味さを放っていた。
「お前は、ドラゴンか。それとも……女神か」
俺の問いかけに、女はぷっと吹き出した。
「女神だなんて! とんでもない。我が名はメフィスト……悪魔よ」
「……悪魔?」
女はにやにやと舐めるような視線を送ってくる。その眼差しに、背筋を冷たい感覚が走る。
「待ってたわ、聖騎士の坊や。大神官の祝福まで受けて、炎に飲まれずにここまで来れたのね、上出来よ。ほらこれ、早く治して頂戴」
女は、細く長い指を俺に向けて突き出した。
しなやかな美しい指先が俺に向けられるが、気になるところは無い。
「……治す?」
「これよこれ、痛くてたまらないわ!」
よくよく見れば、その指先には小さなささくれが出来ていた。女に急かされるまま、俺は手を翳す。小さな光が指先を包み、たちまち傷は癒えた。
「はぁー、やっと治ったわ!もう三百年も我慢してたのよ。お前が生まれてすぐに大神官の爺に神託を下して正解だったわ!」
女は満足そうにケタケタと笑う。
「このために、俺をこの世界に呼んだっていうのか」
「そうよ」
即答。俺の心に言い様の無い怒りが沸き上がった。
「安心して頂戴。これであんたたち人間の土地に瘴気が漏れることはなくなるわ。全く、私の可愛い魔物の子たちだって、人間の土地で散々迷子になってしまって……大変だったんだから」
冗談のような口ぶりに、俺は歯を食いしばった。
怒りを抑え、俺は静かに問いかける。
「……願いを聞いてくれるというのは、本当か」
俺はこの時をずっと待っていた。
女は俺の瞳の中を覗き込んだ。何もかも見透かされているような心地がする。しばらくして、女は口を開いた。
「お前、美しいのに孤独ね。私、そういう人間が大好きなの」
女はにっと口の端をあげた。
「いいわ。お前の願いを叶えてやろう」
心臓がドクンと跳ねた。
やっと、帰れる。
百合子さんのもとに。
「妻と子に会わせてくれ」
俺は即答した。
女はしばし面白がるように俺を見つめ、愉快そうに首を傾げる。
「私は悪魔。当然、対価が必要よ。そうね……こういうのはどう?」
女は俺の顔をじっとりと覗き込んだ。
「元の世界でのお前の居場所は、永久に消える。お前は二度と元の世界に帰れないし、名も消える。うふふ、元の世界を生きた早川清一という男は、──死ぬ!」
女は高らかに嗤い転げた。
「あははは!我ながら素晴らしい思い付きだわ!こんなに孤独なことがあるかしら!」
「……構わない」
俺は静かに告げた。
「それで良い。百合子さんにもう一度会えるなら……早川清一は死んでも構わない」
俺は揺るぎ無い決意を吐き出した。
これ以上の望みはない。
もう一度彼女に会えるなら、俺は何だってする。
百合子さんに会いたい。
恋しくてたまらない。
抱き締めたい。
最愛のあの人に、再び愛していると言えるなら。
たとえ、自分の死と引き換えにしても、構わない。
女はひとしきり嗤った後に、静かに告げた。
「契約成立ね。お前が孤独に身を震わせる姿を楽しみにしているわ」
女がそう言い終わると同時に、炎が舞い上がった。視界を覆う炎の渦に、思わず目をつぶる。けたたましい轟音と共に突風が吹き上げ、俺の体はその中に飲まれていった。
「セイル! セイル! おい、大丈夫か!」
はっと目を開けば、グランフォード公爵が覗き込んでいた。
「ここは……」
「気がついたか! 突然炎に飲まれて消えたから心配したぞ! しばらくして風が吹いたと思ったら、一気に瘴気が晴れて……そこにお前が倒れていた」
公爵はなおも狼狽の色を隠せない。
「怪我はないか!」
「……ありません」
俺はゆっくりと起き上がり、辺りを見回した。
そこには一面の美しい木々が連なり、木の隙間から青い空がのぞく。
先ほどまでの瘴気は晴れ、澄み切った空気が広がっていた。




