エマの記憶のひだ
夜更け、エマは眠れずにいた。
窓辺に座り、淡い月明かりに照らされた畑をぼんやりと見つめる。
遠くで梟が鳴き、風が草の香りを運んできた。
薄く開いた唇から、吐息のように言葉がこぼれる。
「……清一さん……」
まるで、夢の中の名前のように。
──その名を呼ぶたび、胸の奥に沁みるようなぬくもりと、痛みが混ざり合う。
早川百合子、享年八十。
あのとき、死の間際に思ったことはひとつだけ。
「心残りがあるとすれば……あのとき、清一さんに……愛していると言えなかったこと……」
──昭和二十年、終戦間際。
出征する夫、清一さんを見送った駅のホーム。
心は張り裂けそうだった。けれど言えなかった。
はしたないと思われるのではないか、泣いてしまえば“非国民”と咎められるのではないか。
言いたかった。けれど言えなかった。
代わりに口から出たのは、ただ一言。
「……どうぞ、お国のためにご健闘くださいませ……」
そんな自分に、彼は優しく囁いた。
「百合子さん、必ず生き抜いて」
その声を、百合子は生涯、忘れなかった。
夫は帰ってこなかった。
戦後に生まれた娘、雪。
女手ひとつで育て、誇らしく送り出した雪も、海の向こうで消息を絶った。
それでも百合子は、ひとり生き続けた。
夜毎に、清一さんの写真を撫でながら。
「……死んだら、清一さんのお側に行きたい……」
そう願ったそのとき――再び、命が始まった。
今度の名は、エマ・グランフォード。




