【おまけ】魅了の香水
穏やかな午後のひととき。
エマと雪がお茶を楽しんでいると、ルーナがずいっと割り入ってきた。
「大変なものを手に入れてしまいました……」
その面持ちは実に真剣。
そして彼女がテーブルの上に置いたのは、ハート型の小瓶だった。瓶の中で、ピンク色の液体がとろりと揺れている。
「……なにこれ」
雪が顔をしかめる。エマも思わず小瓶に視線を奪われ、言葉を失っていた。
ルーナは咳払いをひとつして、声を張る。
「これは──殿方を魅了する香水だそうです!」
「はぁ……?」
「まぁ……」
二人の声が重なった。
ルーナは意気揚々と説明を続ける。
「洗濯室担当のメイドから譲り受けた貴重品! ひとたびこの香りを嗅げば、殿方はたちまち夢中になってしまうとか!」
鼻息荒く拳を握るルーナに、雪は「なんじゃそりゃ」と苦笑した。
一方のエマは、真剣な顔をしながらも頬を赤らめていた。
「いいですか、奥様!」
ルーナは小瓶をエマの目の前に差し出す。
「あの旦那様が、これ以上魅了されたらどうなるのか……見てみたくはありませんか!」
「……え」
「ルーナは気になるのです! 奥様ラブの旦那様が、香水の力でどれほど骨抜きになるのか!」
瞳をキラリと光らせ、口元を釣り上げるルーナ。
エマはみるみる耳まで真っ赤に染まり、慌てて両手で顔を覆った。
「も、もう……! ルーナったら、雪ちゃんの前でやめてよ……もう!」
娘の前での赤裸々な話に耐えられず、エマは恥ずかしさで身を縮める。
雪はというと、げんなりした様子で「……全くだ」と思いながらお茶をすすっていた。
だがルーナは懲りない。
今度は唐突に、雪の前へともうひとつ小瓶を突き出した。
「実は同じものをふたつ手に入れておいたのです! お嬢様にもぜひ!」
ウインクを飛ばすルーナ。
雪は思わず口に含んだお茶をこぼしそうになりながら、頬を赤く染めつつ小瓶を受け取った。
「……まぁ、お試しだけ」
なんだかんだで乗り気な雪に、エマは小さく「まぁ……」と声をあげる。
自分の手のひらにあるハート型の瓶を見つめながら、胸がきゅっと締めつけられた。
──もしこの香りを纏ったら、セイル様はどんな顔をするかしら。
エマは熱の宿る瞳でルーナを見上げる。
「……どこにつけるのが、一番いいかしら」
その問いに、ルーナはふふんと鼻を鳴らした。
「おすすめは──うなじです」
*
その夜。
エマはそっと小瓶の栓を抜き、手首に香水を一滴落とした。
甘いお菓子のような香りがふわりと広がる。彼女はその手首をうなじに当て、香りを纏う。
エマはベッドの縁に腰掛けながら、いつもと違う自分の香りに、少しときめいていた。
やがて、寝室の扉が開く。
疲れた面持ちの夫は、エマの姿を見た途端、表情をやわらげた。
「……エマ」
セイルは嬉しそうにエマの傍にやってきた。
迷いなく、エマを後ろから抱き締める。
「セイル様」
「今日は一日会えなくて寂しかったです……百合子さんと呼んでも良いですか」
「ふふ、はい」
セイルは満足げにエマを抱き締めたまま、彼女の髪に顔を埋めた。きっと香りがダイレクトに届いたはず。エマは緊張で身体をこわばらせた。
「今日は、いつもと違う香りがします」
セイルはすぐに言い当てた。エマの心臓が跳ねる。
「ルーナが新しい香水をくれました。……清一さんは、この香りがお好きですか」
エマが恐る恐る尋ねると、セイルはふっと息を漏らした。
「貴女が身に纏うものは全て愛おしいです」
耳元で囁かれ、途端にエマは耳まで赤く染まる。
「そ、そうですか……それなら、良かったです……」
エマは恥ずかしくなり、目線を下げてぎこちなく答えた。その反応を見て、セイルの眼差しは熱を帯びる。
「……女性が纏う香りを変えるのは、何か意味があるのですか」
セイルはわざとエマの耳元で低く囁いた。
吐息が耳をかすめ、エマの身体が揺れる。
「ただ、気分を変えてみたくて」
「……僕のためじゃないんですか?」
「……え」
セイルの揺さぶるような声音に、エマは目線を彼に向けた。セイルはエマの瞳の揺れを確認して、少し寂しげに眉を下げた。
「百合子さんが僕を誘ってくださったのかと、期待してしまいました……」
「そ、そんな……!」
「エマ……どんな貴女も可愛いです」
セイルはエマのうなじにそっと触れるような口づけを落とす。そのくすぐったさに、エマは小さな声を漏らした。
「もう……! 清一さんとセイル様を、使い分けているでしょう!」
「貴女はどちらが好きですか?」
セイルはエマが恥じらうのが嬉しくて、くすくすと笑う。セイルの問いに、しばし黙したあと、エマは観念したように呟いた。
「どちらも大好きな貴方だから。……二人とも、私には刺激が強いのです……」
エマはちらっとセイルの瞳を確認する。その潤んだ上目遣いが、セイルの心を容易く攫ってしまった。
セイルはエマの後ろから、エマの弱いところにそっと触れていく。
「エマ……可愛い……私のどこが好きですか」
「え……」
「声? 顔?」
「セイル様……」
「僕は全部、貴女のものです」
「……清一さん……」
セイルはエマのうなじに、今度は這うようにキスをする。やがて二人は正面から抱き合い、唇を重ねた。
求め合うキスに紛れ、それ以上、二人の言葉が続くことはなかった。
*
穏やかな午後のサロン。
エマと雪が和やかにお茶を楽しんでいると、勢いよく扉が開き、ルーナがずいっと入ってきた。
「それで、どうでしたか?」
開口一番の言葉に、エマはカップを持つ手を止めた。
昨夜のことが一気に蘇り、頬が瞬く間に熱くなった。
「ど、どうって……ほら、いつも通り……ね」
しどろもどろに答える彼女をじっと見つめ、ルーナは頬を膨らませた。
「なーんだ、効果なしですか。てっきり甘い夜になったかと思ったのに、残念です!」
「えっと……でも」
エマは唇を寄せ、雪に聞こえないようにと小声で囁く。
「……いつもより、甘えていらしたわ」
その一言でルーナの目は輝き、思わずエマの両手をぎゅっと掴む。
「やった! やりましたね奥様!!」
エマは慌てて手を引っ込めたが、頬の赤みはごまかせない。
一部始終を聞いてしまった雪は、ため息をひとつこぼすしかなかった。
「……全部聞こえてますから」
ぼやく雪に、ルーナはキラリと視線を向ける。
「では――お嬢様はいかがでしたか?」
思わぬ矛先に雪は言葉に詰まらせ、視線を逸らす。
そして、仕方なさそうに頬を掻きながらぼそりと返した。
「……まぁ、それなりに」
そのわずかな照れを目撃した瞬間、エマもルーナも胸を撃ち抜かれる。
いつもクールで動じない雪の、不意に見せた恥じらう仕草。
「……可愛い!!」
二人は同時に呟き、思わず顔を見合わせて笑った。
その午後のひとときは、香水以上に甘やかな空気に満ちていた。