02:リリ
私が異世界に転生したって気づいたのは、たぶん三歳くらいの頃だった。
正確には、もっと前だったのかもしれない。赤ん坊の頃なんて、そもそも自分が何者なのかすら分からない。ある日、ぼんやりと思ったのだ。
――ここ、知らない。
見覚えのない薄汚い天井。あちこち黒ずんだ壁。窓の外を見ても、湿気と生ごみの臭いが漂う見知らぬ街並み。何より、周りの大人たちが何を喋っているのかさっぱり分からない。
言葉は日本語じゃない。なのに、しばらくぼーっと聞いていると、不思議と意味が分かってくる。どう考えてもおかしい。
それから少しずつ言葉を覚え、泥跳ねを避けながら歩けるようになって。いろんなものを見て、ようやく確信した。ここ、異世界だ。
いや、待って。異世界転生? 私が?
だったら普通、もうちょっとこう……あるでしょ。
別に贅沢を言ってるわけじゃない。だって異世界転生ものなんだから。
ほら、よくあるじゃん。前世で普通に生きてた主人公が死んで、目を開けたらフリルだらけの天蓋付きベッドだったりするやつ。
目の前にはやたら綺麗な母親、いかにも偉そうな貴族の父親。家にはメイドや執事がいて、食事は毎回豪華な肉料理。鏡を見たら超絶美少女。おまけに魔力が桁外れとかさ。
あるいは王族、公爵令嬢、聖女、希少な治癒魔法の持ち主。
神様からぶっ壊れ性能のチート能力をもらって無双するか、気取った王子様に見初められて逆ハーレム。
そういうのが異世界転生のお約束ってやつでしょ? 違うの? 私の認識がおかしいの?
せっかくの人生二周目なんだから、前世の記憶を活かして別の世界で無双する。普通、そういうもんでしょ?
なのに、私が生まれたのは、貴族でも王族でもなかった。
もちろん聖女でもない。神託もなければ特殊能力もない。剣の才能も魔法のセンスもゼロ。
前世の知識で何か発明して大金持ちになれるかと思いきや、そもそも作り方なんてわからない。
そして何より。家が、絶妙に貧乏だった。
ネズミが這い回るスラム街ってわけじゃない。犯罪者がうろついてるわけでもないし、道端に死体が転がってるわけでもない。
みんな真面目に働いている。朝になれば起きて仕事に行く。畑を耕す奴、荷車を引く奴、店で声を張り上げる奴、内職する奴。子どもだって手伝いをする。ちゃんと社会は回ってる。
なのに、貧しい。
たとえば服。
破れてはいないけど、新しく仕立てたものなんて一着もない。何度もツギハギしてあって、擦り切れたところを縫い直してまた着る。体が大きくなったら余った布を足す。それでも無理なら下の子にお下がり。
靴だってそうだ。穴が開けば塞ぎ、底が減ったら補修する。硬い革が足に当たって痛いけど我慢だ。新しいのを買う? 冗談でしょ。必要に迫られるまでは絶対に買わない。買えるわけがない。
お風呂だって毎日入るわけじゃない。水汲みだって石けんだってタダじゃないんだから。髪だって毎朝綺麗に整える余裕なんてない。寝癖がついたまま? だから何? 働けるならどうでもいいでしょ。そんな空気感だ。
最初の頃は、これが嫌で嫌でたまらなかった。自分の髪を触ると、ごわごわして埃っぽい。服には汗と油と煙の匂いが染みついていて、洗濯したって現代日本みたいに無臭にはならない。
私は何度も心の中で叫んだ。
――こんなのイヤよ!
これ、異世界転生っていうより、ただの異世界生活苦じゃん。
食事だってそうだ。
餓死するほどじゃない。食べるものはある。毎日何かしら口にはできる。でも、腹いっぱい食べるなんて滅多にない。今日の分が食えれば御の字で、明日の余裕なんてないのだ。
肉? 脂身の少ないパサパサした奴がたまに出るくらい。甘いもの? 特別な日だけ。果物? 落ちてるやつを拾うか旬の時期だけ。
それを見ながら、私は本気で思った。これ、転生した意味あった?
普通に生きてただけなのに、二周目がこれで放り出されるってどういうことよ。人生の救済措置とかないわけ?
そんな不満を抱えたまま、私は十歳になった。
この辺の子どもには、十歳から二年間、教会に併設された手習い所へ通う道がある。文字や簡単な計算を教えてもらえるのだ。
最初、私はちょっとだけ期待した。来た。ここだ。ついに異世界転生者の知識チートが始まる。
私には前世の記憶がある。文字を覚えて本を読み、計算ができれば商売ができる。知識さえあれば、この泥臭い貧乏生活から抜け出せるんじゃない?
だから必死に頑張った。
文字を覚え、数字を叩き込み、簡単な計算もマスターした。自分の名前も書けるし、簡単な書類なら読める。お釣りをごまかされそうになったら一発で見抜ける。
それで二年間で身についたのは、自分の名前が書けて、簡単な計算ができて、日常会話ができる程度。
いや、大事だよ? 大事なのは分かってはいる。
でもさ、これでどうやって人生逆転しろっていうの?
手習い所を出た帰り道、凸凹した石畳の足元に悪態をつきながらため息をついた。
文字が読める、計算ができる。よし、じゃあどこに就職する?
商会? 無理無理。専門知識もないし、金持ちと繋がるコネもない。
王都に行く? 旅費は? 住む場所は? そもそも十二歳のガキを一人で誰が雇うっていうのさ。
「……無理じゃん」
私は道端で立ち止まり、どんよりした空を見上げた。生臭い風が通り過ぎていく。
異世界転生。人生二周目。前世の記憶あり。
「なんで私が、こんな底辺からスタートしなきゃいけないのよ……」
神様なのか転生させた誰かなのか知らないけど、一言だけ言わせてほしい。初期設定が雑すぎる。
◇
十二歳を過ぎれば、この辺のガキはみんな働き始める。
手先が器用なやつは職人に弟子入りし、要領がいいやつは商会に入る。夢のあるやつは王都の方へ出ていく。
でも、ほとんどは家の手伝いか、近所の店で働くか、畑仕事だ。で、適当な歳になったら結婚する。それがこの街の普通だ。
私まだ十三歳なんだけど。前世の感覚で言ったら中学生だよ?
それが朝から夕方まで労働?
「世間がどうであれ、私が納得できるかって話でしょ……」
結局、私は街の食堂で働くことになった。朝から夕方まで、ひたすら働く。
仕込みをして、硬い野菜を刻んで、デカくて重い鍋を洗って、注文を取って、料理を運んで、下膳して、また洗う。ギトギトした油とドブの匂いに包まれながら、ひたすら皿を洗う。
忙しい時間帯なんて息つく暇もない。客が引いたら今度は床掃除と明日の仕込み。終わる頃には足の裏が激痛でクタクタだ。
ある日、仕事終わりに自分の手を見て絶句した。
赤く腫れて、指先はガサガサ。水仕事のせいで皮膚がふやけてひび割れ、小さな切り傷だらけだ。
「あーあ、ボロボロ……」
愚痴っても誰も答えてくれない。当たり前だ、一人で呟いているだけなんだから。
給金はちゃんと出る。
だから最初は期待した。自分で稼いだお金。これで可愛い服とか靴とか、髪飾りでも買えるんじゃないかって。
甘かった。半分以上は家に入れなきゃいけない。家族で暮らしてるんだから当然だ。私だけが自由に使えるわけがない。
残った小銭を見て、私は察した。
……これ、給料っていうより労働の駄賃じゃん。一人暮らしなんて夢のまた夢。家賃も食費も払えるわけがない。
自分の部屋の硬い寝床に倒れ込み、薄汚い天井を見上げる。
「ねえ」
誰も答えない。
「私、異世界転生したんだよね?」
返事はない。
「これって転生っていうより……やり直しじゃなくて、労働の延長戦じゃないの?」
前世の記憶を持ったまま、別の世界で同じように働いて、同じように苦労して年を取る。ただ舞台が変わっただけ。意味わかんない。枕に顔をうずめた。埃っぽい匂いが鼻をつく。
「つまんない……」
異世界転生っていったら、もっとこう、キラキラしてるもんじゃないの?
動きにくそうな高級な服を着て、無駄に広いお屋敷で舞踏会に行って、イケメンの王子様や貴族と出会って……そういうのを前世でたくさん読んだのに。
現実の私は、あかぎれだらけの手でドロドロの鍋を洗っている。髪はボサボサ、服はツギハギ。お風呂も満足に入れず、お腹いっぱい食べることもできない。
せめてもうちょっとだけ、夢を見させてくれたっていいじゃん。
枕を抱えながら、まだ見ぬ王都の方角を思った。
そこにはきっと、気取った貴族様や大金持ちがいて、なんだか高そうな布地をまとって、美味しいものを腹いっぱい食べて、でっかい家に住んでるんだろう。王子様だっているかもしれない。浮浪者より目立つような派手な格好をしてるに違いない。
……いいなあ。
別に世界を救いたいわけじゃない。聖女になって崇められたいわけでもない。
ただ、もう少しだけマシな暮らしがしたい。可愛い服を着たい。美味しいものを食べたい。温かいお風呂にゆっくり浸かって、髪をサラサラにしたい。お金だって欲しい。
できれば格好よくて性格のいい男と出会って、大事にされたい。
「これくらい、普通でしょ」
明日の朝も、私はあのクソ忙しくて油臭い食堂に行かなきゃいけない。
突きつけられているのは、その生々しい現実だけだ。
「……起きたくないなぁ」
小さく呟いて、私は目を閉じた。
異世界転生。人生二周目。
チートなし、身分なし、金なし。そして明日も朝から労働。
「……ほんと、最悪」
十三歳の私は、心の底からそう毒づいていた。




