目に入れても痛くないほど可愛い娘の婚約者はとんでもない愚か者だった。
ボルディア侯爵家はイスマ王国で語られる魔王討伐を果たしたのち、勇者が魔族の国から和平の証として連れ帰った獣人が開祖とされる一族である。
代を重ねた結果獣人の血は薄まってはいるが、獣人由来の剛力や嗅覚、直感の鋭さは普通の人間よりも遥かに高い。
「わたくしは、氷の様に冷たい人間なのかしら?」
当代のボルディア侯爵の愛娘、ルクレツィアは婚約者としてゴーテル伯爵家嫡男フェルディナントと顔合わせから帰宅すると小首を傾げてそう言った。
曰く、顔合わせの茶会で終始落ち着きがない伯爵令息に事情を聞いたところ、きょうだい同然に育ったセティア子爵令嬢が新薬を試す事に不安を覚えているのだと言う。
ゴーテル伯爵領を含めた地域を襲った、蝙蝠から始まったとされるノーラ熱。
罹患者や、後遺症に苦しむ者、母子感染した者達への希望とも呼べる生み出されたばかりの特効薬を服用しなければならない子爵令嬢が可哀想で、と伯爵令息は語ったそうだ。
当代のゴーテル伯爵の3番目の弟であり、医学の権威であるハンネ医師の生み出したその特効薬は効果絶大ではあるが、その分、副作用も大きい。
伯爵令息やルクレツィアのふたつ歳下の子爵令嬢がその副作用に耐えられるのかを心配しての発言だと伯爵夫人は捉えた様だが、ルクレツィアと愛するアンジェリーナは違った様だ。
「まるで、セティア嬢が快復して欲しくないと考えていらっしゃる様に感じましたの」
既にセティア子爵夫人は特効薬の服用を経て、機能回復に励めば歩ける様になるだろうと言われている快復している。
子爵家の侍医であり、ハンネ医師の弟子であるカルツォーネ医師もいるのだ、気を揉まずとも良いのでは、と口にしたところ、君は病人の看病をした事がないからそう言える、なんて心の冷たい女の子なんだ、まるで氷だ、と言われたそうだ。
「御蔭様でギルベールが屋敷の隅から隅まで磨き上げ、雑草と言う雑草を抜いておりますわ」
「あんの糞ガキ!」と憤慨しながら作業に勤しむ、ルクレツィアが誕生した時からボルディア侯爵家に従僕として仕えるボルディア侯爵分家筋で先祖返りで蛇の獣人としての特徴を持つギルベールが伯爵令息に手を出さなかった事だけは褒めておこう、とボルディア侯爵は考えた。
それから数年、ボルディア侯爵はルクレツィアに嫡男が生まれるまでの、或いは分家筋から優秀な養子を貰うまでの中継ぎとしての役割の勉強と並行して、貴族令息として常識を教鞭する事となった。
どうも、セティア子爵令嬢の看病を理由に勉強を録にしていなかった様だ。
「現王家の18人は分かるか?」
伯爵令息が挙げた名は、国王陛下と王妃陛下、そして王太子殿下の名前だけだった。
ルクレツィアにも同じ問いかけをした。
「国内にいらっしゃる王族の方々はアーサー13世陛下、カトリーヌ王妃陛下、シャルル王太子殿下、マリーナ王女殿下、王弟のモール伯、ヌーヴォ伯、リッツ伯の7名。
ポロン王弟殿下はイスマの隣国イールに婿入りし、テミス王妹殿下はイールの筆頭公爵アルテン家に、アテナイ王妹殿下はアルヴァン帝国の皇妃陛下の3名が国外にいらっしゃいますわ。
そして、離宮に住まわれるアーサー13世陛下の側妃メリン様、メリン様との間に誕生したヴィクトル様、セドリック様、マティルダ様、イメリア様、ロナルド様の6名。
生前退位していらっしゃるリチャード5世陛下とマルグリート元王妃陛下の2名。
現王家の18人、と言えば一般的にこの御歴々ですわ」
高位貴族でもないのだから、王家の人間を全て空で言える訳がない、と言う伯爵令息に、では、イスマ国民ならば誰もが知る勇者を支えた者達を開祖とする五大貴族ならばどうかと聞けば、口ごもった。
「和平の証である我がボルディア侯爵家、戦士の系譜であるウォーリア侯爵家、魔術師の系譜であるメイガス伯爵家、賢者の系譜であるラクスル公爵家、そして、治癒術士の系譜であるフロラリア子爵家」
平民の子供でも名前だけであれば知っている五大貴族を、伯爵令息はひとつとして答える事は出来なかった。
侯爵家の中継ぎとして、王家や五大貴族とは必ず接点を持つ事となるのだから王家の18人と五大貴族に属する貴族の名前、領地でどの様な政策を立てていて、どの様な商品が流通しているのか、と侯爵が手配した家庭教師や侯爵直々に教鞭を振るったものの、セティア子爵令嬢が寝込んだと聞けば看病を理由に侯爵家に足を運ぶ回数も、ルクレツィアと交流する機会も減少した。
伯爵令息曰く、セティア子爵令嬢には長年の治療で特効薬も効き目が薄く、対症療法しかないのだと言う。
「同じ条件のセティア子爵夫人が快復したのは何だって言うんすか、あの糞ガキ!」
「曰く、セティア子爵夫人は成人した女性であるからだ、そうだ」
ボルディア侯爵家としては、ゴーテル伯爵令息とルクレツィアの婚約を継続する理由は皆無に等しいのだが、未だに、獣人の血が色濃かった時代は数百年以上前にも関わらず、「獣の血筋」と悪感情を向けられるボルディア侯爵家に婿入りしてもよい、と言う貴族は皆無に等しい。
ルクレツィアと同年代の貴族令息の多くは既に婚約者を得ている。
ゴーテル伯爵が本来嫡男である伯爵令息をルクレツィアの婿候補として推薦したのは、既に当主候補としては見限り、次男と三男の教育に心血を注いでいるからだろう、と侯爵は納得した。
それでも、いつかは誠意に誠意を返すだろう。
そう考えていた時期もあった。
15歳のデビュタント以降の、勇者の出現を祝う光輪祭では貴族として生まれた人間は婚約者と揃いの、互いの瞳の色の貴石を嵌め込んだ装飾品を身に付ける事で家同士の結び付きや、勇者と乙女に準えた永遠の愛を表す。
「なんだ、これは」
ルクレツィアが光輪祭に身に付ける装飾品は髪留めだった。
それは別に問題はないが、―――問題は、本来貴石を嵌め込むべき場所に何も収まっていない事だった。
「3年、ですわね」
王国で婚姻の許される年齢である18歳。
3年、貴石無しの装飾品を身に付けた貴族は
「婚約関係無効の証明」
となる事を、未だに理解していないのか、とボルディア侯爵は頭を抱えた。
「マルグリート・セティア子爵令嬢についての報告書だぜー」
ぶっきらぼうに、ギルベールが報告書を侯爵に渡す。
・セティア子爵令嬢は魔力詰まり由来の魔力炎の可能性が高い。
・セティア子爵令嬢の平熱は37.7℃。
・セティア子爵家にボルディア侯爵家に対する叛意は無く、ゴーテル伯爵令息には再三セティア子爵令嬢への接近禁止及び、ルクレツィア様の対話を大切にする様に忠告している
他にも、様々な事柄が記されていた。
「セティア嬢の侍医がカルツォーネ氏からエルドラン氏に変わった理由は何だろうね?」
エルドランと言う医者は確かに王国一と謳われているが、それは悪名の方である。
健康な人間を病人に仕立て上げて金銭を毟り取る、と言った。
「詐欺行為がバレて王立医術会から追放された後は、故郷に帰って無償奉仕に従事していた筈なんですが、セティア嬢がノーラ熱の特効薬を試した頃にあの糞ガキが個人的に伯爵領に招いて子爵家に侍医として派遣していますね」
難癖を付けてカルツォーネ氏を子爵家から追い出し、悪名高いエルドラン氏を侍医としてセティア子爵令嬢に付けた。
子爵夫妻はノーラ熱感染以降領地で長期療養をしており、エルドラン氏の悪名を知らない。
治癒術士として子爵家に出入りしている者がひと月で数人以上入れ変わるのは恐らく、本来完治する筈の人間を見捨てる様な医療行為に対する良心の呵責からだろう。
ルクレツィアと妻の直感の正しさに、侯爵は流石ボルディアの血筋だと唸った。
「さて、証拠は揃ってはいるがあの子供は口が上手い。決定的な何かが無ければならない」
ルクレツィアが光輪祭の装飾品として見せた髪飾りを脳裏に浮かべる。
これからも、貴石が無い装飾品を光輪祭で身に付ける事となるのならば、滞りなく婚約は白紙となる。
後3年、ルクレツィアに苦労を強いなければならないのは心苦しいが、あの伯爵令息だ。
これからも光輪祭の度に貴石が無い装飾品を身に付ける事となるだろう。
「ギルベール。確か、お前の息子は婚約者が無かったな」
「気が早いですよ、旦那様。まあ、アレは婿入りの覚悟はとうの昔に終えてますから、それとなく伝えておきましょう」
ルクレツィアは治癒術士と医師としての勉学に励んでいる。
「救う為ですわ」
ルクレツィアとの婚約が白紙となれば、伯爵令息は妥協としてセティア子爵令嬢と婚姻するかもしれない。
そうなれば、セティア子爵令嬢は一生病弱なまま、或いは、婚姻後直ぐに消されてしまうかもしれない。
伯爵令息の犯罪行為の証を自分の手で掴むのだと意気込む愛娘を侯爵は頼もしく思うのだった。
そうして迎えた3年後、ルクレツィアと侯爵の思惑通り伯爵令息との婚約は白紙に戻った。
ルクレツィアが治癒術士と医師としての所見を纏めた報告書は、誰が見てもセティア子爵令嬢は伯爵令息の短慮かつ浅慮な思い付きで10年にわたり病弱な幼馴染に仕立て上げられていた事が明らかとなった。
「カルツォーネ氏を排し、エルドラン氏を子爵家に送り込むに当たって兄上が動かした800万フィランは、どこから捻出されたものですか?」
ゴーテル伯爵位を継いだディートリヒは廃嫡された元兄に詰め寄った。
個人資産80万フィランの元伯爵令息がそれだけの大金をどう用意したのか、借金をしたのか、或いは、―――伯爵家の財産を横領したか。
査問の場で何も返せなかった元伯爵令息は弟の情けで働き口を示された。
ルクレツィアはギルベールの息子であり3歳歳下の、アルベール・フェレー伯爵令息と新たな婚約を結び、アルベールの成人を待って婚姻する運びとなった。
医師カルツォーネとアルベールの治癒術で快復したセティア子爵令嬢は、ルクレツィア様への恩を返したいとボルディア侯爵家のルクレツィア付きの侍女のひとりとして働いている。
「マルグリートが誰かと結ばれる事があれば、決してマルグリートを不幸にしない殿方であるのか、わたくしが見極めますわ」
ルクレツィアはそう言って穏やかに微笑むのだった。




