忘年会帰りに死にましたが、うちの子たちを置いていく気はありません
冷たい。
いや、冷たいなんてもんじゃない。
肺が焼ける。
(あ、これ死ぬやつだ)
忘年会帰り。雪道で足を滑らせた。そこまでは覚えている。視界がひっくり返って、気づけば川の中だった。
氷みたいな水が全身を刺す。コートもスーツも水を吸って重い。腕を動かしても、足を動かしても、身体が沈んでいく。
(いやいやいや、待て待て待て)
まだ帰ってない。家に。帰らないと。
独身。一人暮らし。この時間、家で俺を待っている人間はいない。
でも、いる。
白いふわふわと、小さなもふもふが。
(ここちゃん)
白いうさぎ。ふわふわで、撫でると頭を押しつけてきて。頬を寄せれば、少しだけ干し草の匂いがする。
(むぎちゃん)
小さなハムスター。手のひらに乗るくらいの身体で、夜になるとこっちの睡眠なんてお構いなしに回し車を爆走する。
今日の世話。まだだ。
ここちゃんの牧草は朝に入れた分だけ。むぎの水も替えてない。
(帰らないと)
腕を伸ばす。何も掴めない。水だけが指の間を抜けていく。
(待ってる)
たぶん、ここちゃんはいつもの場所で。むぎは、まだ寝てるかもしれない。
俺が帰れば、いつも通り。今日も。
(まだ撫でてない)
ここちゃんの白い毛。むぎの小さな手。
(こんなところで死ねるかよ)
もがく。それでも、身体は沈んでいく。息が続かない。
(俺が帰らなかったら)
誰が、あの子たちの世話をする。
(やだ)
最後に浮かんだのは、仕事でも、酒でも、今日一緒に飲んでいた連中でもなかった。
白いうさぎと、小さなハムスター。
(帰らせろよ)
息が尽きた。
――暗転。
⸻
次に目を開けた時、真っ白だった。
「……本当に、すまぬ」
「は?」
知らない老人が、いきなり俺に頭を下げていた。
白髪。白髭。白い服。背景まで白い。
白すぎる。
「おぬしは、本来今日死ぬはずではなかった」
「……はい?」
理解が追いつかない。老人は頭を上げた。
「管理領域の誤差。わしの責任じゃ」
「ちょっと待ってください」
死ぬはずじゃなかった。誤差。責任。
一個ずつ聞きたい。でも、そんなことより先に出た言葉は決まっていた。
「戻してください」
老人が黙る。
「俺、帰らないといけないんです」
「……時間は巻き戻せぬ」
「いや、そこを何とか」
「肉体は既に崩壊した」
「何とかならないんですか」
「神界の理は、神であろうと破れぬ」
神。さらっと言った。
(マジか)
普通なら、もうちょっと驚くところなのかもしれない。でも今はどうでもいい。
「じゃあ俺は?」
「補償はする」
神が右手を上げる。手のひらの上に、青く光る小さな星が浮かんだ。
「異世界メギドへ転生させる」
「異世界」
「剣と魔法があり、魔物もいる。だが、美しい星じゃ」
「記憶は保持する」
「はあ」
「加護も与えよう」
「……はあ」
「さらに、生活に困らぬよう管理用の補助も――」
「ペットは?」
神の言葉が止まった。
「……何?」
「俺が飼ってた子たちです」
一歩詰める。
「ここちゃんと、むぎちゃん」
神の眉がわずかに動いた。
「魂の転移は原則一体じゃ」
嫌な予感がした。
「ペットは生きておるのであろう」
「生きてます」
「ならば、連れていくのは難しい」
「じゃあ行きません」
「……何?」
「転生しません」
今度は神が固まった。
「待て」
「嫌です」
「能力は手厚くする」
「いりません」
「強くなれるぞ」
「興味ありません」
「管理用の補助も――」
「いりません」
神が完全に黙った。
知らない世界。すごい能力。第二の人生。
たぶん、ものすごく魅力的な話なんだと思う。でも、そんなものと比べる話じゃない。
「俺、独身で一人暮らしなんです」
声が少し震えた。
「家族は、ここちゃんとむぎちゃんだけです」
神は何も言わない。
「今日の世話もまだなんです」
白い毛並みが浮かぶ。小さな身体が浮かぶ。
「ここちゃん、俺が帰らなかったら待ちます」
「むぎだって、水を替えてやらないと」
喉が詰まる。
「俺だけ別の世界で好き勝手生きろって言われても、無理です」
それだけは、絶対に嫌だった。
「あの子たちを置いていくくらいなら」
神を見る。
「転生なんて、いりません」
白い空間が静まり返った。
しばらくして、神が長く息を吐く。
「……能力より、家族を選ぶか」
「当然です」
即答した。
神は目を閉じた。何かを考えている。
やがて。
「ならば」
目を開く。
「特例を通そう」
「え?」
空中に、光る文字が次々と浮かんだ。
《魂三体同時転移》
《加護枠調整》
《管理補助付与》
三体。
俺は、その文字だけを見た。
「……一緒に行けるんですか」
「ああ」
神が頷く。
「おぬしと、その二匹」
胸の奥に詰まっていたものが、一気に抜ける。
「お願いします」
「まだ条件を説明しておらんぞ」
「一緒なら何でもいいです」
「……即答か」
「はい」
神が、初めて少しだけ笑った。
「面白い」
「何がですか」
「いや」
神は首を振る。
「合理だけで世界は回らぬ、ということじゃ」
意味は分からなかった。でも、どうでもよかった。
ここちゃんがいる。むぎもいる。それだけでいい。
「では、行くぞ」
白い空間に光が満ちる。意識が沈んでいく。
最後に、一つだけ思った。
(頼むから)
(今度はちゃんと、一緒にいさせてくれ)
そして。
俺たち三匹――じゃない。
一人と二匹の異世界生活が、始まった。




