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1. 一枚の絵画

「あの絵はまるでテレパシーのように、目の前の人間が自分の見たものを認識するよりも早く、精神に直接訴えかけるのです。

 つまりそれは光よりも早く伝播するのであって、「それ」は無限に近い速度で空間を跳躍する。

 人間の脳が微弱な電流を用いて運動する有機体である以上、精神の動きもまた有限の速度を持つはずですが、「それ」はまるで脳髄に新たな回路を転写するかのように、対象の精神を観測不可能な速度で変容させるのです。

 それを啓示と呼ぶものもいれば、洗脳であるというものもいます。

 恐れるものがいて、崇めるものがいます。

 どのような反応が正しいのか私たちにはまだわかりませんが、ひとつ言えることがあるとすれば、あの絵は間違いなく人類史に残る偉大な絵であるということです」

 一枚の絵画がある。

 シンプルな色彩とパターンを持つ、なんということのない抽象画だ。

 美術館よりは街の家具屋で飾られている方が似合うような絵だが、「それ」はただの絵画ではなかった。

 そのことに最初に気がついたのはそれを描いた絵描きと、彼の絵を安く買い叩きに来た美術商だった。


 その絵を一目見た美術商はまるで何かに取り憑かれたようにその絵を喧伝して周り、やがてその絵は多くの人間の目に止まることとなった。

 絵は多くの人々を虜にし、人々は狂気的なまでにその絵を賛美した。

 人が噂し、メディアが注目し、それを見た人々がさらにふれまわり、驚嘆の渦は瞬く間に世界中に広がっていった。

 地球との国交が悪化して久しいと言われる月のコロニーにすらその名声が届くほどだった。



「それ」を見たものは、まず強い喜びを感じた。

 その強い喜びあるいは快楽は次に幸福感となり、人々を「それ」の前に可能な限り長く留まらせた。

 幸福感の津波が収まっていくにつれ、次は反動のように恐れがやってくる。

「それ」の持つ影響力、あるいは「それ」が伝えようとする情報量のあまりの膨大さに、人々は自らの存在のちっぽけさを体感した。

 あまりにも小さく脆弱な存在である自分に対し「それ」がもつ力と存在感はあまりに強大で、その力によって自分というものが全て書き換えられてしまうのではないかと思わずにはいられない。

 いや、そうした恐れすらも結局は自分が認識できる範囲・スケールで受け取っている情報に過ぎない。

 こうしている間にも既に自分は書き換えられ、「それ」の影響下に、もっと言えば「それ」の一部として取り込まれているのではないか。

 その恐れすら、やがては諦念や悟りのようなものに変わる。

 これほどまでに大きな力を前にして一人の人間がとりうる抵抗などたかが知れているのだ。

「それ」を前にしてしまった以上、もはやなす術などない。

 自らの変容を認める以外、ちっぽけな自分という存在に許されることなど無いのだ。


 そのようにしてその絵はそれを見るものを絵の前に釘付けにした。

 その絵を買い取ろうと莫大な金額を提示するものが何人も現れたため、混乱を防ぐために絵は一時的に美術館に収蔵された。

 絵をこの目で見たいという人々が雪崩のように押しかけ、あるいは絵を盗もうとするものが大勢捕まり、贋作を作ろうとするものが現れては顰蹙を買った。

 その様相はまさしく狂乱と呼ぶ他はなく、驚くべきことにそれは確かにたった一枚の絵画によって引き起こされていたのだった。


 当然多くの芸術家や批評家や研究者たちが、「それ」がなぜ人々にそこまで強大な影響を与えるのかについて分析を試みたが、芳しい成果は出なかった。

 ひとつはっきりしているのは、「それ」の影響はどんな人間にも現れうるということだった。

 その絵を見るものは、それが子供でも老人でも、男でも女でも、悪人でも善人でも、言語、国籍、文化、宗教、あらゆる文化的背景を超越して多大な影響を受けるのだった。

 狂喜するものがいて、怒り出すものがいた。

 笑うものがいて、涙するものがいた。

 はっと目を見張るものの横で、気を失うものがいた。

 寿命の尽きかけた老人が驚愕し、生まれて数時間の赤子が見入った。

 一度行われた実験では、盲目の者までもが「それ」の存在を感じ取ったとされた。

 平静でいられるものは皆無だったのだ。


 あまりにも強大な力を持つがゆえに、政府の手によって「それ」は人々から隠されることになった。

「それ」の偉大さを訴える人々からは暴動にも近い反対運動が巻き起こったが、政府は安全保証上の特例措置として、主に武力によってそうした反対の声を叩き潰した。

 もはや誰もが「それ」が持つ影響力と危険性に気づき、人間の手には管理しきれない代物なのではないかと思い始めていた。


 そうした経緯で、その絵を描いた男——マイク・アイゼンバーグは、月の地下二〇〇メートルに作られた極秘研究施設に、半ば囚人のような形で幽閉されているのだった。



 枕元から鳥の声が聞こえてマイクは目を覚ました。

 目を閉じたまま手を伸ばして目覚まし用アラームのスイッチを乱暴に叩く。

 ややあってスピーカーから流れていた鳥の声はふつりと止んだ。

 うめき声をあげながら上体を起こし、顔をごしごしとこすった。

 この月の施設で寝起きするようになって二年以上が過ぎているが、いまだに気持ち良く目覚めるということがない。

 子供の頃から低血圧気味で朝は苦手だったが、少なくともあの頃は本物の鳥の声と太陽の日差しがあった。


 ベッドから出てコーヒーメーカーのスイッチを入れ、服を着替える。

 コーヒーメーカーは自宅から持ってきた古いタイプのものをいまだに使っている。

 地球においてすら骨董品に近いこれをわがままを言って持ち込んだのは、最新技術とオートメーションが詰め込まれたこの施設に放り込まれたことに対する、せめてもの当て付けだった。

 それが全くの無駄な行為であることは分かっていたが、そうでもせずにはいられなかったのだ。


 あの絵を描き上げた時、自分が何か大変なことをしでかしてしまったのだという予感は既にあった。

 それを描いたマイク自身、いったい自分のどこからこんなものを作る力が出てきたのか分からなかったが、目の前のそれが傑作という言葉では表しきれない圧倒的な何かを持っているということは疑いようもなかった。

 そしてそれがやがては人々の間に大きな波紋を生むであろうことも予想がついた。

 それを見越してマイクは早々にそれまで住んでいたアパートを引き払い、親しい友人と画商にのみ隠れ家の住所を伝えて世間から身を隠したのだった。

 それは自分でも驚くほど迅速な決断だと思っていたのだが、事態はマイクの想像を大きく超えて展開していった。

 結果としてあっという間にマスコミがマイクの部屋を囲むようになり、同じ画家や画家志望の学生や画商やファンや批評家や大学やテレビや新聞や銀行や慈善団体や怪しげな宗教団体などからひっきりなしに訪ねられるようになってしまった。

 もう限界だと思った矢先、月政府のエージェントを名乗る男たちに連れ出され、彼は住み慣れた町からこの暗く寒い月の研究所へ移り住むことになったのだった。


 そこは単に研究所とだけ聞かされていた。

 その場所でマイクは地球にいた時と同じように絵を描くことを許された。

 実際は許されたというよりも求められたという方が近かった。

 マイクがここに連れてこられたのは、彼を匿うためというより研究するためであるのは明白だった。

 それほどのセンセーションを彼の絵は起こしていたのだ。


 彼は研究所の外に出ることを許されなかった。

 その代わりなのか、古いコーヒーメーカーを持ち込むことに始まり、食事や衣服、仕事に用いる画材や資料の調達など、彼が望むことは可能な限り叶えられた。

 驚くべきことに彼の仕事場はもと住んでいた場所と寸分違わず再現されており、仕事に支障をきたすことはほとんどなかった。

 政治や経済などにそれほど明るくないマイクから見ても、この研究所にはまだ一般に出回っていないような最新の技術が使われ、かつそれを可能にする潤沢な予算がかけられているのは明白だった。


 ほとぼりが冷めるまでは隠れていた方が良いという研究所の人間の話を鵜呑みにしているかのように振る舞いながら、マイクは自分が絵を描く様子が監視されていることに気が付いていた。

 当然、この場所がホテルや別荘地などでなく研究所である以上、世界にあれほどまでの衝撃を与えた彼の能力を研究しようとしているに違いない。

 彼はそれに気付きながらも、あえて抗おうとは思わなかった。

 こんな地の底にいては自力で逃げ出すことなど不可能だし、また彼自身、自分の中に眠る力の正体を知りたかった。



 彼はコーヒーとトーストとベーコンエッグの簡単な朝食を済ませた(トーストとベーコンエッグは研究所のサービス係と彼が呼んでいる人々に頼んで用意してもらった。

 トースターやフライパンに対しては、コーヒーメーカーほど愛着がなかったのだ)。

 ここに来てから四枚目の絵の仕上げに取り掛かろうとしているところだった。

 彼は毎日仕事の時間をきっちり決め、残業は極力しないように心がけていた。

 就寝時間と起床時間を必ず守り、食事のバランスに気をかけた。

 そうしたサイクルを守り体調を万全に保つことが仕事には重要だと彼は考えていた。

 幸い、食事の準備や洗濯や掃除といった家事は研究所の世話になっていたため、そうした雑務に時間を割かれることのない今の環境は彼の仕事にとって非常にありがたいものではあった。


 部屋の隅のドアを開けると、そこはもう仕事場になっている。

 タイマーをセットし、前日の仕事の続きに入る。

 彼は世界と彼自身に大きな影響を与えたあの絵に匹敵するようなものを今一度作り上げようとしていた。

 だがそんなことが可能なのか、彼にも分からなかった。


 彼は、自分はいわゆる天才ではないと理解していた。

 例えば今まで描いて来た絵のうちで言えば、一〇〇年先まで残っているようなものはないだろうと思われた。

 美術史に名を残すなど夢のまた夢で、せいぜい中流階級の買う新興住宅のインテリアとして消費されるのが関の山だと思っていたのだ。

 そんな自分がどうやってあの絵を描いたのか、描いたマイク本人にすら全く見当もつかなかった。


 彼に残された道はひたすらに次の作品を描くことのみだった。

 どうやって描いたかはわからないが、確かにあの絵を描いたのは自分なのだ。

 それも彼が自覚している範囲では、あの絵を描いている時の自分は常識的でまともだったはずだ。

 少なくとも、霊媒師のようなトランス状態や催眠状態ではなかったはずだし、精神に影響をもたらすような薬物の類も一切やっていない。

 彼は考えられる限りまともに、常識的に、真摯にあの絵を描き上げたのだった。


 すでに描いた三枚も悪くない出来だった。

 自分の中にこれほどの力が眠っていたのかと感心するほどだったし、通常の基準で言えば傑作と言っても良かった。

 しかしながら、あの絵には遠く及ばなかった。

 あの力をどうすればもう一度具現できるのか、彼は頭を悩ませていた。



 タイマーが鳴り、マイクは仕事の手を止め自室に戻った。

 昼食は普段ならば自室でとるようにしているが、その日は約束があった。


 部屋を出て長い廊下を歩く。

 この研究所に来た時にこのあたりは居住区であると説明されていたが、突き当たりにあるドア以外は全て物置になっているようで、少なくともこの区画の部屋で生活しているのは彼だけのようだった。

 廊下の突き当たりにあるドアにセキュリティカードをかざすと、重厚な扉が音もなく開いた。

 その先のロビーで約束の相手が待っていた。


「ミスター・アイゼンバーグ、こちらです」

 声をかけたのは顔見知りの職員だった。

 傍らにこれも顔見知りの研究員と、初めて会うスーツ姿の体の大きな男が立っていた。

 マイクが彼らのもとに行くとスーツの男が手を差し出した。


「アイゼンバーグさん、お会いできて光栄です。

 私はグレゴリー・ブラウンです。

 詳しいことはお話しできませんが、月政府の人間であるとお考えください」

 儀礼的な挨拶を済ませ、四人は施設内のレストランへ向かった。


 予約していた席に着き注文を済ませると、ブラウン氏はにこやかに笑いながら口を開いた。

「こうしてお時間を頂けたこと、実にありがたく思います。

 アイゼンバーグさん、いえ、先生が非常にご多忙であることは我々も重々承知しております」

「先生なんて呼び方はやめてください。

 私は教師でもなければ政治家でもない。

 しがない絵描きです。

 それもそれほど才能豊かではない方のね」

「いやいやご謙遜なさらず。

 先生の描かれたあの絵の評判を知らぬものはいません。

 あれはまさにこの世に具現した奇跡と呼ぶにふさわしい。

 そしてあの絵が奇跡であるならば、先生はまさに地上に奇跡をもたらす救世主といって良いでしょうな」

「ミスター・ブラウン。

 どうか今日の目的を率直に仰ってください」

 マイクがそう言うと、ブラウン氏は不意に笑顔の九割方を引っ込めた。

 口のはしあたりにまだ微笑の残滓のようなものを引っ掛けてはいたが、その目は冷たいロボットのようにマイクには見えた。


「では率直に申し上げましょう。

 時間も無いことですしね。

 私たち——というのは月の政府ですが——私たちは、先生の描いた絵を買い取らせていただきたいと思っているのです」

「絵というのはあの例の絵のことですか」

「いえいえ、まさか。

 あの絵を買うことなどできません。

 仮に先生が許されても地球の人々が許さないでしょう。

 現在は地球の連邦政府が管理しているようですが、国連が取り上げようとしているという話も聞きます。

 なんにせよ月に回ってくる可能性は限りなく低い」

「では、私がこちらに来てから描いた絵ということですか」

「そのとおり」

 ブラウン氏は身を乗り出した。

 給仕が料理を運んで来たが誰も手をつけなかった。


「唐突ですが、先生は月の人口をご存知ですか。

 ここ最近は増加傾向も落ち着いて来ましたが、それでも来年には二千万を超えると予想されています。

 それほどまでに大きな共同体でありながら、月政府は未だ国連の下部組織であり、いわば地球の管理下にあるのです。

 月への入植時には現在ほど人口が増えることは考慮されていなかったわけですから無理もないでしょう。

 ですが、いつまでもそのままである必要はない。

 今や月には月の文化があり、法があり、仮とはいえ政府がある。

 地球の属国であり続ける理由などどこにもない」

「話がよく見えませんが、その月の現状と私の絵になんの関わりがあるのですか」

「月の独立を阻む壁の一つが、産業の弱さ、有り体に言ってしまえば、金をいかに稼ぐかということなのですよ。

 国家として独立する以上、これは避けられない問題だ。

 月は今、従来の第二次産業に加えて観光業に力を入れ始めていることは先生もお聞き及びでしょう。

 地球からのインバウンドこそ、我々が今開拓すべき新たな鉱脈なのです。

 四〇年ほど前に月入植が始まった頃の時代には観光も盛んだったのですが、今は飽きられ寂れてしまっています。

 それを先生の絵の力で盛り返していけるのではないかと私たちは考えています」

 マイクはため息をつくと料理に手をつけた。

 同席している研究員と職員も食べ始めた。

 ブラウン氏は料理を脇に押しやって話を続けた。


「無論、金額に関しては極力先生のご希望に添えるよう努力いたします。

 公開の仕方やタイミングについてもご希望を言っていただいて結構です。

 もちろん先生の新しい作品が月で公開されるとなれば、先生ご自身の身の安全に関しても考えなければならなくなるとは思いますが、それに関してはここ以上の場所はないでしょう。

 少なくとも地球に比べればずっと安全で落ち着ける場所だと思いますが」

「まあ、場所については良いです。

 選択肢はありませんからね」

 マイクは再びため息をついた。

 憤りや呆れや失望など、彼が感じている感情は様々だったが、その中で最も強いものは不安、そして疑念だった。


「私が気になるのは、そもそも私の絵にそれほどの価値があるのかということですよ。

 確かに私が描いたあの絵はある種のセンセーションのようなものを巻き起こしたのかもしれない。

 しかしそれと同じことがまた起こるという保証はないし、仮にできたとしてそれが月という国家を支えることができるとは思えません」

 ブラウン氏は笑って首を振った。


「そのようなご心配は無用です。

 先生の絵は必ずや人々を惹きつけます。

 今や先生の絵であるという時点で、他の画家たちが束になってもかなわないほどの価値がつくのですよ。

 それにまさか私たちも先生の肩に月の経済の全てを任せてしまおうなどとは思っておりません。

 あくまで独立のためのひと押しが欲しいのです。

 それに」

 ブラウン氏は一旦言葉を切ると、真面目な目をしてマイクを見た。

 マイクは不意にこれがこの男の今日のうちで最も正直な発言なのだろうと感じた。


「先生のあの絵が起こしたのはセンセーションなどというレベルではない。

 あれは狂乱、時代の転換とも呼ぶべきもの、言うなれば革命です。

 馬車が主流だった時代にスポーツカーで乗り付けるようなものですよ。

 理解できず恐れるものもいましたが、大抵はその力の虜になる。

 抗うことなどできないのです。

 そして我々はその力が欲しい。

 せめてその一端だけでも」


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