第59話 望郷の念と幸福な記憶
「伯爵殿、研究施設に到着しました。お身体は大丈夫ですか?」
「ううぬ……至る所が痛むぞ……」
猫の紳士は苦痛に顔をゆがめて呻きながら、どろどろになった白のスーツの泥を払うことも出来ず、足を庇うようにして立ち上がった。
それを見かねた従士は猫の紳士に肩を貸し、幌馬車の荷台から降りるのを助けた。
「すまぬ……な」
「いえ、この程度の事。私めは伯爵にお仕えする身でありながら、かような形でお助けする事しか出来ず……むしろ申し訳ないのは私の方で――」
「――いや、田園の事だ。わたしが不甲斐ないばかりに……出稼ぎのような真似事をさせている状況なのだ。すまないと思っている」
従士の猫は眼を潤ませながら、唇を噛み締める。
猫の紳士はその従士の猫の肩から、離れるようにして俯く。
「いつか――」
猫の紳士はその表情を見て、従士の肩にぽんと手を置いて言った。
「いつか――我が田園は復興させてみせる。その時までどうか――」
「もちろんです伯爵殿! 私は貴方へ永遠の忠誠を誓った従士。こんなことで音を上げたりなどしません。必ずや復興させましょう!」
従士の猫はそう言うと、猫の紳士の前で跪いてみせた。
猫の紳士も思わず眼を潤ませる。
「では暫しの別れ。ここまでの案内ご苦労だった、礼を言う。そして君は、君のやるべきことをするのだ――」
「はっ!」
従士の猫は猫の紳士に敬礼をしてみせ、幌馬車に乗り込み馬を走らせた。
猫の紳士はその様子を見届けると、足を引きずりながら研究施設の入り口へと歩いた。 入り口には数人の甲冑の猫が立っていたが、猫の紳士を見て敬礼を行った。
「大丈夫ですか?」
甲冑の猫は心配そうに声を掛ける。
「触るでない。身体が痛むだけだ」
「はっ! 失礼致しました! 大臣達は中でお待ちです」
それを聞くと猫の紳士は、足を引きずりながら研究施設の中へ入っていった。
――突然、研究施設の扉が開く音がした。
辺りの開きっぱなしの書物のページが、その風圧でぱらぱらと音を立ててめくれ、無造作に置いてあった紙が数枚、ひらひらと落ちていった。
僕らは顔を見合わせた。
使いの兵士の猫が弟を無事保護し、連れてきたのだろうか。
それとも猫の紳士が猫の王を無事シェルターへと送り届け、こちらに追い付いたのだろうか。
「私、見てきますね」
そう言うと助手の猫は、メモ帳を机に置き丸眼鏡をくいっと上げて、机の下の書物のトンネルにもぞもぞと入っていった。
「きっと伯爵だろう」
大臣の言葉を聞いて博士は、チラッと僕を見て言った。
「今日は来客が多いな。キミ、またコーヒーを淹れてくれないか?」
「ええ、構いませんよ」
僕はコーヒーを淹れるのは、とても好きだ。
そしてもちろん自分の淹れたコーヒーを、他人に美味しいと言ってもらえるのは何よりも嬉しい。
だから猫の紳士にも飲ませてやりたいと思っていた。
訪れたのがもし弟なら尚更だ。
これがコピ・ルアクの豆だと言えば、弟はきっと歓喜するに違いない。
記憶さえ失っていなければ――。
僕はそんなことを思いながら、先ほど使用したサイフォンを用意する。
確かに博士の言う通り、僕にとってこの想いを抱くことは幸福なことなのだろうか。
「きゃあッ!」
しばらくして助手の悲鳴が聞こえた。
「どうした? 黒き者か!?」
大臣は重い腰を上げて立ち上がり、机の下の書物のトンネルに飛び込む。
だがなにぶん豊満なその肉体はつっかえ、しばらく尻だけをうねうねと動かしていた。 僕は少し慌てた様子で、コーヒーを淹れ始めようとした手を止めた。
大臣がトンネルに入りきったのを確認して、僕も身を屈ませてトンネルに入る。
トンネルを抜けるとそこには、まるでぼろ雑巾のように泥にまみれた猫の紳士が倒れていた。




