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第56話 吾輩は猫である

 わたしは飛んだ。

 逃げ場としては良い選択だった。

 しかし――。


「うぅおおおおおおおぉおおおおっ!」


 叫んだ。腹の底から、心の中を、これ以上ないくらいの大声で。

 落下の風圧でわたしのひげぶくろがぶるんぶるんとたなびく。


 三十メートルの高さとは、こんなにも高いものなのか。

 ――これはまずい。


 このまま落ちれば、まるでトマトのように潰れ弾けるのだろうか。


 (いな)! 吾輩は猫である!


 身体のばねを利用すれば……。


 いやいやいや、高すぎる!


 どうにかせねば! どうにか――。


 地上に先ほどの幌馬車が見える!

 あの屋根に落ちれば助かるかもしれない!


「我が従士よッ! 聞こえるか!? わたしを受け止めよッ!」

 我ながら、実に無茶ぶりだと思った。


「伯爵殿ぉおおおおおおぉおおおおおおぉ!」

 しかし、それに応じて従士の猫も叫ぶ――。

 なんと心強いことか。


 地上が迫る。

 いくらわたしが猫とはいえ、さすがにこの高さは――。

 従士は必死に、幌馬車の馬に鞭を入れる。

 地面までもう間もない――。


 まずい。やばい。ああ、死ぬかも。


 その瞬間、幌馬車の屋根がぼわんと(たわ)んだ。

 幌を支える木製の骨が、まるで弓のように(しな)り、悲鳴を上げる。

 幌の骨は(きし)みながらもそのとてつもない弾力で、わたしは跳ね返されるように身を投げ出された。

 草むらを転がり、水気を帯びた土の上を転がり、ぬかるみを転がったところでようやくその勢いは止まる。


 生きてる――まさか成功するとは。

 しかし背中が痛い。腰も痛い。地上に打ちつけた(ひじ)や膝も痛い。全身痛い。


 わたしを受け止めた幌馬車はその速度を緩めることなく、かなり遠くまで行ったところで、ようやくこちらに引き返してくる。


「伯爵殿ぉぉおおおおおおぉおお!」


 せっかくの一張羅(いっちょうら)の白のスーツは、どろどろに土に(まみ)れ、ぼろ雑巾のように見える。

 わたしは痛みのする片足を(かば)いながら、立ち上がり幌馬車に向かって手を振る。


「おぉおおおおいいいいい!」


 向かってくる幌馬車の方へ足を引きずりながら歩く。

 幌馬車をそのままに飛び出してきた従士は、ボロボロと涙しながら駆けてきた。


「良かった、良かったです……よくぞ御無事で……」


 従士はわたしを抱擁し、背中をさすっては再会を喜んだ。


「よくもまぁ、タイミングよく現れてくれたな。助かったぞ」

「ほんとですよ! 私が偶然ここを通らなかったら、貴方は一体どうなっていたことやら……考えるだけで身震いがします」

「しかし、あいつを見たか? とんでもない化け物だったな」

「私もご老公を案内中に、あの化け物に遭遇し襲われました……それはもう突然に。しかもその時、いつもの幌馬車を失ってしまったので、先ほど城の北側の厩舎に寄って調達したばかりなのです。足がないと案内もままなりませんからね。でも、その帰りにたまたま北門近くを通り過ぎて、化け物に追っかけられている伯爵をお見かけして――」

「ハハハッ! まさに奇跡だ! 礼を言う!」

「勿体なきお言葉です……しかし伯爵。いつまでもここに留まっているのは危険です。良ければ安全なところまでご案内致しますが」


 その言葉でわたしはちらりと城壁の上に目をやった。

 まさかそう易々(やすやす)とこの城壁を越えられまい。

 だがしかし、あの巨大さと機敏さを考えると――確かに一抹(いちまつ)の不安がある。それに今はあの化け物に構っている暇はない。

 わたしは従士に急いで事情を説明し、幌馬車で西の研究施設へ向かうことにした。

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