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第52話 失われたモノ

 僕は一体、何者なんだろう。

 彼は僕のことを『弟』だと言った。

 僕はなんだか、とても必死な形相のその彼が怖くなった。

 そして何故だかわからないけど、とても悲しい気持ちになった。

 だから僕は、その彼から逃げるようにしてその場から離れた。


 どうして、僕はここにいるのだろう。

 皆の言う徳とは、一体何のために積むのだろう。

 どうして、僕は毎日舟を漕いでいるのか。

 何故、舟を漕ぐ必要があるのか。

 僕は何もわからないし、何故こうなったかも思い出せない。



 もう二年ほど前のことになるだろうか――。

 僕はあの時、気が付くと病室のベッドの上だった。

 カラダに異常はなかった……いや、ダルさはあった。

 ベッドの近くには白衣を着た、二本足で歩く白黒柄の猫がいた。

 僕は何が何だか分からなかった。夢を見ているのだろう。そう思った。

 でもなぜだか、その猫の話す言葉は理解できた。

 その白衣の猫の鼻の辺りには不思議な黒い模様があって、それがまるで髭みたいに見えた。


「具合はどうだ? 何か思い出したかい?」


 その白衣の猫はとても献身的で、僕の体調を気遣ってくれた。


「いえ、何も。ただ――たくさんの何かを失った――そんな感じがします」

「ふむ……それは、喪失感。というやつだな」


 白衣の猫はいつも、とても申し訳なさそうな顔で僕に面会に来た。

 そう、来る日も来る日も――だ。


「今日はコーヒーを持ってきた。ここの食事は味気ないだろ?」

「コーヒー……?」


 僕はその単語を聞いて、少し不思議な感覚になった。

 それはまるで大事なものを引き出しにしまったはずなのに、その引き出しを開くと何もない。そんな感覚だった。

 白衣の猫は水筒のようなものから、カップにコーヒーと呼ばれる茶色い液体を注いだ。

 それは不思議な香りで、どこかで嗅いだことがある、とてもいい香りだった。


「キミの失った記憶の所在について、現在も鋭意調査中だ」


 いつも彼はそれを、僕に報告をしに来た。

 まるで口癖のように。それは儀式のように。

 彼はそれを、日課にでもしているのだろうか。

 僕にはそれが一体何のことなのか、さっぱりわからなかった。

 でも彼は僕に退屈しのぎにと、様々な本を持ってきてくれた。

 僕はそれがとても楽しみになっていた。

 今日彼が持ってきてくれた本は、『海底二万マイル』という名のSF小説だった。


「この前、大臣が来ただろう?」


 彼はコーヒーという飲み物を(すす)りながら、僕に聞いた。

 この病室に彼以外の猫が訪れたのは数日前だが、その猫の事だろうか。


「大臣って……あの左右の瞳の色が違う猫のことですか?」

「ああ、そうだ。彼は大臣なのだよ」

「そうか、あの猫はとても偉い猫なんですね。でも彼は僕に『申し訳ない』と謝るばかりで……その、よくわかりませんでした。一体彼は何をしたんですか?」


 僕はそう言うと彼は、それこそ悲しそうな表情をして病室の窓から外を眺めながら語りだした。


「そうだな。私の責任でもあるのだが……キミは彼の部下の不手際によって、記憶を失ってしまったのだ」

「そう、だったんですね……」

「彼の部下は『非は無い』と主張してた。ちゃんと『説明も行った』と。だが結果として災害は起き、キミはそのせいで記憶を失ってしまった。上司である彼自身も、管理不行き届きだったと強く責任を感じているんだ」


 失った記憶。災害。僕は何も思い出せない。

 でも正直、僕はどうでも良かった。

 ただ、時々彼が持ってきてくれる本の続きがとても気になってた。

 僕は本さえあれば充分な気さえしていた。




 ある時、彼は言った。


「キミの失った記憶の所在がわかったぞ!」


 彼はとても嬉しそうだった。

 彼の話だと僕の失われた記憶は、現世(・・)という場所に散らばってしまったらしい。

 どうにかそれを回収するために、大臣が色々と調整を行ってくれてるそうだ。

 でも僕は、それを回収したところで一体何が変わってしまうのか、少し怖い気がした。

 失った記憶を取り戻すと、今の僕は僕で無くなってしまう――そんな気がしたのだ。

 僕はただ穏やかに、白衣の猫が持ってきてくれる本が読めれば、それでいいんじゃないか。

 そう思うようになっていた。

 だが彼は言う。


「喜びたまえ! 大臣の働きのおかげで王から許可も得たのだ! そしてキミのおばあ様も手を貸してくれると言ってくれた。キミは記憶を取り戻すことが出来るのだ!」

「そうですか……」



 僕はその日、病室を抜け出した。

 外にはとても不思議な光景が広がっていた。そしてたくさんの猫がいた。

 彼が持ってくる本で読んだ世界とは少し違っていたが、僕は自由になった気がした。

 僕はそこから駆け出した。

 僕は脱走したのだ。

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