後編
後編です。これで完結。
祖母の話は本当だった。確かにそのダムは存在し、以前はそこに村があったことも確認できた。それも『影を失くした男』の話の通り、祖母の住む町から山三つ谷三つ越えた所に、だ。それだけではない。新しい情報が手に入った。一つは祖母の祖母の――えぇい、面倒くさい。要は百五十年以上は前の人間がその『影を失くした男』の元になったとも言える事件を実際に目撃、もしくは伝聞と言う形で知っていたということだ。つまり、実際にあったという事だ。いや、確かに昔話とは得てしてそういうものだ。大昔、実際にあった事象を原型としていることがあるため、ある種の符合性というものは見て取ることは出来る。だがここまで実生活に当てはまるとは思っていなかった。そしてもう一つ、祖母の祖母は蔵の中で弥助を見たと言っている。これはどういったことなのだろうか。これは「弥助は生きている」という情報に繋がるものなのだろうか。だがしかし、しかしだ。どれもこれも謎が多すぎる。頭が混乱する。私自身はもう眠ってしまいたいのだが、駄目だ。月並みな言い方だが私はこの物語に魅入られてしまっているようだ。問題点を洗い出して一つ一つ解決してしまおう。
まず一つ、弥助を見たという事。これは一体どういったことなのだろうか。当事者はもういないため、あくまで私の推論という形になってしまう。簡潔に言ってエンメルトの法則を蔵の中で体験したのではないだろうか。それがもっとも論理的には正しいものだと思う。祖母の家にある蔵の中に以前入ったことがあるが、小さな窓が一つあるだけで薄暗い。それこそ天狗のお堂のような様子だった。その中で祖母の祖母がエンメルトの法則を体験したとしても何も不思議な点は無い。しかし、エンメルトの法則自体、蔵の中以外でも何処ででも体験することが出来るものだ。それこそ庭だろうが校庭だろうが何処でも、だ。そう考えると祖母の祖母は何故、「蔵の中」という限定した言葉を発したのか。推測にしか過ぎないが、私はこのとき祖母の祖母は私の知っている弥助とは違う、エンメルトの法則ではない「弥助」を見たのではないだろうか。ではその「弥助」とは何なのだ。『箸墓伝説』の大物主でもあるまいし、大昔の人物が蔵の中で本当の姿を見せるとでも言うのだろうか、馬鹿馬鹿しい。
次に弥助が生きているということだ。『影を失くした男』で弥助は、<そのまま影になってしまい、地面に染み込んでしまったそうな。>とある。言われてみれば、死んだとも書かれていないし、そして消えてしまったとも。正しくは「染み込んだ」ということだ。影が地面に染み込む、不思議な表現だ。まるで雨のようだ。ならば水溜りも影か。 まぁいい、死んではいないということだ。生きている、と表現される場合は、その存在が消滅していないということだ。いや、正しくは「死」という概念も元々は「消滅」と同質の概念ではなかったのだ。『古事記』にも見られるように、イザナミは死んで黄泉の国へ下り、黄泉大神と変化した。「死んで仏になる」と言った言葉もあるように、死は単に「変化」という一環にしか過ぎない。「消滅」とはその存在、起こした事象すら打ち消すことを指すのだ。ならば、<そのまま影になってしまい、地面に染み込んでしまったそうな。>が指す意味は純然たる変化なのだろうか。「生」という状態を保っての変化、大穴牟遅神が大国主神へ名を変えるようなものなのだろうか。状態を変化させずに性質のみ変化させる。これがおそらくこの問題、ひいては私の疑問の根幹の部分だろう。状態を変化させずに性質のみ変化させる、神話にはよく見られるが、現実世界ではどうだろうか。精神の崩壊? そんな安直な答えであるとは思えない。
私は思い切ってそのダムに沈んだ村の付近まで言ってみることにした。ネットで衛星写真を見てみたが、ダムは村だけでなく、森すら飲み込み形成されていた。大した情報は手に入らないかもしれない。庭の手入れを始めた祖母に夕方には帰ると伝え、車に乗り込む。私は一体何をやっているのだろう。明日からはいつもの生活が始まる。仕事にも行かなければならない。なのに、私は自分を止めることは出来ないようだ。
(父さんにも言われたなぁ。お前は母さんに似て細かいところにこだわるって……)
きっとそれは母方の血がそうさせるのだろう。黙々と雑草を毟り取っている祖母を見て思わず笑ってしまった。さぁ、行こう。
件の場所には想像より早く着いた。これなら、祖母に顔を見せたあと、どうにか夜には自宅へ帰ることが出来る。周囲は木々に囲まれ、目に付くものは森と巨大なコンクリートと鉄の塊だ。私が持っていたダムという先入観は常にナイアガラの滝のように水が流れているものだと思ったが違うようだ。ただ、暗い澱んだ水が溜まっているだけだった。これでは野晒しのバケツの中身と全く変わらない。少し拍子抜けだった。
ダムの姿が見える範囲を散策してみる。ダムの成り立ちが申し訳程度に書かれた表札以外、特に何も無く、村があったような痕跡は見て取れない。想像してはいたが、ここまで何もないとさすがに辛い。落胆し、ぼぉっとダムの中を覗いてしまう。
この暗い水の中に弥助の村が沈んでいる。暗闇に沈んだ村で弥助が立ちすくんでいる姿を想像し、私は身震いした。
(そんなことがある訳がない。だけど……)
私は思わずその水面に眼を凝らしていた。
願望とはその人の内面が如実に表されるものだ。病人なら「病気平癒」、貧乏人なら「商売繁盛」。それこそ、そこらの神社に行けば各々が自分の欲望を絵馬なり護摩に書き記すだろう。願望とは須らく苦しみからの解放だろう。夢分析が全て性欲に結びつくのと同じだ。全ては今の苦しみから解放されることを人は望む。その願いは最終的には「死」という変化からの脱却へと集束する。どんな聖人君子が悟ったようなことを言っていても「死」とは忌避される存在だ。それこそ、死後に涅槃なり楽園へいくことが約束されていなければ拒否されるに決まっている。何故人は「死」という変化を恐れるのか。それはやはり自己の喪失だろう。死後の自分が約束されていなから人は恐れる。だから前述したような楽園などを創りだす。これが愚かしいことだとは思わない。要は、人は「死」の変化がもたらすその「先」を知ることなど出来ないのだ。全く、全く当然だ。未知を恐れる、こんなことは小学生だって知っていよう。
しばらく水面を眺めていたが飽きてしまった。何の収穫もないまま帰るのも癪だな、そんなことを考えた私はもう一回だけ、付近を散策してみることにした。周囲の山は死んだように静かだ。
しかし人は天邪鬼なことに好奇心が未知への恐怖に打ち勝ってしまうことがある。分かりやすいもので言うと「見るなのタブー」だろうか。いわゆるカリギュラ効果というものだ。『鶴の恩返し』で機織をする娘を見ると、それは鶴だった。この物語で誰もが疑問に思うことは、「何故、そのような気付かれてしまうような方法を選んだのか?」ということである。これについては様々な解釈があると思うし、それで良いと思う。私は、怪しく思っても深く知ってはいけない、無視を決め込むべきものだという暗黙の了解が存在したということだと思う。つまり、ふすまの向こうの鶴なり、帰りがけにもらった玉手箱なり、それは知ってはいけないもの、知れば拒否をせざるを得ないものなのだ。ならば『影を失くした男』の話に強引に、だ。強引に当てはめると「見るなのタブー」は天狗の宝、見てはいけなかったものは提灯……違う。弥助自身の影だったということか。それならば全てに説明がつく! 影を見たことでそれを拒否……いや、違う。ならば『影を捨てた男』になるはずだ。失くした、ということは自発的な行動ではないのだ。本人の行動は伴わず、本人の意思も関係が無ければいけない。受動的な行為だからこそ「失くした」なのだ。では――影が弥助を捨てたというのか。
白い息を吐きながら考える。私の祖母の祖母の母は、自分の子孫が生まれ故郷を、自分が話した昔話が起因となって訪れることとなるとは思わなかっただろうな、と。それはそうだ。私だって、このノートが原因で遠い子孫が右往左往するとは思えない。私の祖先……と言うとどうも遠く感じる表現だが、その彼女は一体どんなつもりでこの話をしたのだろうか。単なる暇つぶし? 自慢の見聞録? それとも――何か後世に伝えたかったのか。
(……駄目だな。僕は話を複雑にしたがるきらいがある)
昔からそうだ。私は物事を複雑に考え、思考を廻らして有ること無いこと勘繰る癖がある。そうする必要性があるわけではない。ただ、私自身がそれを心地よく感じ、己の思考に酔うことが出来るのだ。以前はよく、現代文の試験で思考が飛躍してしまって酷い点数ばかり取っていたものだ。もちろん、その癖は『影を失くした男』を逃すことがなく、今こうして山間を彷徨う原因となっているわけだが……
「……ん?」
いま、草間の影に何かが覗いたような気がする。もしや、と思って近づいてみる。そこには所々欠け、風化した道祖神が鎮座していた。つまり、以前はこの周辺は道が通っていたということだ。道祖神は女神と男神が寄り添うように彫られた、双体道祖神と呼ばれる形式のものだった。その仲むつまじい夫婦のような道祖神を見ていて、私はあることに気がついた。
(<状態を変化させずに性質のみ変化させる>……! あるじゃないか! そうだ結婚だ!!)
こんな簡単なことに今まで気がつかなかった私は自分の間抜けさに声を出して笑ってしまった。ひとしきり笑ったあと、次はくまなく道祖神を調査した。通常ならば、この双体道祖神は彫られた年号と作者の名前が彫られる。胸が高鳴り、息が荒くなる。落ち着け、何処に、何処に彫ってある……?
(……あった! これだ!)
そこには、こう彫ってあった。
安政五年 ○×座中
――あぁ、違かった。
もしかしたら、と思った。もしかしたら「弥助」と彫られているのではないかと思った。しかしそこには全く関係の無い集団名が書かれているだけで、弥助の名前は書かれていなかった。だがせっかく掴んだと思った手がかりを惜しむようにもう一度確認した。もちろん、弥助の「や」の文字もない。それでも諦めきれず、思い切ってその道祖神をひっくり返して、地面との設置面を調べることにした。
「ごめんなさい」
一言、そう呟いてから体重をかけて押し倒す。重心がずれ、道祖神は自重によってズン、と倒れた。
設置面にこびり付いた土を手際よく払っていく。土は湿っており、粘土のように張り付いて面を覆い隠している。私はポケットからハンカチを取り出して磨くように土をこそぎ落とした。
「――あぁ」
最初はただの傷だと思った。しかしその周辺をハンカチで拭うと乱暴に引っかいたような傷跡が徐々に姿を現した。一見するとそれは只の直線の交差による模様にしか過ぎない。しかし私にはこう読めた。
――ヤスケ、と。
婚姻とは婿入り、嫁入りという言葉が示すように、一般的にはある集団に他の集団の者が入ってくることを意味している。それは、今まで所属していた集団から抜け、他の集団の中で別の役割と名を与えられて生活していくことである。他の集団の者など、普通は受け入れようとはしない。しかし、その人物に仕事を与えることで社会的認識を、名を与えることで精神的認識を、そこまですることでやっとその集団の仲間だと認識されるに到る。この現象こそ前記した<状態を変化させずに性質のみ変化させる>を満たしているものだ。
だからと言って『影を失くした男』の話が解決したわけではない。いや、たしかに核心へと近づいていることは間違いない。もう少しだ。もう少しでこの物語にも決着がつく。あとは祖母の家の蔵の中であることを確認できれば良いのだ。そうすれば全てのことは繋がるはずだ。
大急ぎで祖母の家まで帰ってきた私は祖母に蔵の鍵を借りた。祖母は昨日のように不思議そうな顔をして「おっかねぇ」とだけ言って鍵を貸してくれた。それほど私の顔は逼迫したものだったのだろう。もしくは狂喜に顔を歪ませていたのか。まぁ、どちらでも良い。
鍵を受け取った私は、蔵を開けて飛び込んだ。焦っているのではない。仕事のことなどとうの昔に蚊帳の外だ。私は乾き飢えたる餓鬼のように、あるものを求めていた。
(どこにある……! 弥助! お前は何処にいる!?)
ぐるりと蔵の内部を見渡す。駄目だ、見当もつかない。ただ、確かにここにあるのだろう。冬、しかも山間の町という地形のため夕日による光量も随分弱くなってしまっている。豆電球もついていない蔵を恨めしく思ったが、今は手元の懐中電灯でどうにかするしかない。
積んでいる荷物を下ろし、中身を確認する。この作業を何度も何度も繰り返す。汗が下着に染み込んで張り付いてきて不快だが、構っていられない。埃が舞い、気管支を狭める。息が、苦しい。ダンボールを開いて、中にある雑多ながらくた、紙切れに眼を通す。収納箱を開いて、衣服を一枚一枚確認する。そんなことを繰り返しているうちに日が暮れ、暗闇に包まれた。目に付くものは全て確認し、後は梯子を使わなければ下ろせない荷物だけになってしまった。
一人で下ろすには危険だがやるしかない。そもそも私は、自分の論理の正しさを証明するものがどのような形状であるかも分かっていないのだ。片っ端から調べてみるしかないのだ。
中身を確認するには床に下ろさなければならない。この手間がさらに時間を浪費させた。黙々と作業し続け、今が何時かも分からない。疲れが溜まって運動不足の体がギシギシと悲鳴を上げている。
「偏執狂……か。」
自嘲にも似た呟きが思わず零れた。「普通」を自称する者ならここまではしないだろう。では私は「普通」ではないのか。私は「異常」なのか。誰もが経験する、中学生特有の思考に三十路目前の自分が陥っていることに何処となく恥ずかしさを感じた。
果たして見つかるのだろうか。この不確定の存在を探すという行為は、高校生の頃の私を思い出させた。当時の私は、妖怪や神の実在を追い求めて神社を巡り、書物を読み漁り、果ては禁足地の探索まで行っていた。当然、そのような存在が見つかるわけもなかったが、今でもその情熱は、私の心を燻り続けている。なるほど、私は当時見つけられなかったモノの代用品を、こうして探し続けているのか。
もう何度目かになるか分からない、何の変哲のない籠を開けたとき、それはそこにあった。
漆を塗られた正方形の黒い箱。体が無意識にその蓋を開けた。そこには――提灯があった。
私は祖母の蔵の中で『影を失くした男』の話の真実を見た。いや、正しくは「見た」気になっているだけだ。何故なら真実を知るものは、もうこの世界にはいないからだ。全ては私の想像でしかない。しかし私は、その結論にそれなりに満足している。満足、か。つまりはもう、飢え追い求めることはないと言う訳だ。こんな私の心情などではなく、拙いながらも私の持論を書き記そう。
まず、道祖神についてだ。道祖神は本来、境を守り、悪霊の侵入をさえぎる存在だ。それは後に、猿田彦や地蔵と習合してしまい、辻を守護し、行路を守る性格や、増産農作の性格が加えられていったのだ。分かりやすくするなら「バリアー」と言ったものか。悪霊とは流行病、不作などだろう。それらの存在は悪霊、鬼と言った「名」を与えられ、道を通ってくるものだと考えられていたのだ。そうでなければ、鳥居も参道も神社には必要ないではないか。
私がダム付近で見つけた道祖神は何故か村のほうへ顔を向けていた。もし、本来の性質を正しく知っており、使われているのならば道祖神は背を向けていなければいけない。つまり、向いている方向が逆なのだ。当時の地図、と言っても信用できるものかどうかは甚だ不安だが、その道祖神が置かれていたと思われる道は、私の祖母の町へ到るものだった。そうすると、道祖神はまるで、この町を弥助の村から守るように鎮座していたということが分かる。
次に祖母の家の蔵で見つけた提灯についてだ。その提灯は煤塗れということもなく、蝋燭が無いのに明るいということもなかった。しかし、その折りたたまれた提灯を広げると、そこには墨で「弥助」、「トシ」と書かれていた。その提灯に火を灯すと夜の蔵をゆらゆらと照らし出した。影が揺れて、世界がどうも溶けて不安定なものに変わってしまったように見えた。
さて、結論だ。まず一つ、弥助と私の祖先は恋仲だったのではないだろうか。いや、恋仲でなくとも親しい間柄と言っても良い。「トシ」とは祖母の祖母の母の名だ。家系図に書かれていたものだから恐らく、正しいだろう。祖母の祖母の母……面倒だ。トシはこの村へ嫁いできたときにこの提灯を持ってきたのだろう。それほど大切なものだったのだろう。そのことから親しい間柄ということが推測できる。では、何故トシは『影を失くした男』の話をしたのか。私はこの話は全くのトシによる創作物だと思っている。それはこの話が全く何処にも見当たらないということが裏付けだ。トシがこの話を生み出し、私の家に代々語り継がれた。ただ、それはトシの意思であったかどうかは分からない。
ではトシはこの『影を失くした男』の話にどのような意図を込めて作り出したのか。これも全くの推測だが、弥助との別れを苦しんでのものだろう。天狗や影提灯など現実にはありえないものを登場させ、架空の「昔話」であることを強調している。この物語にはトシという存在は姿を変えて現れているものと思える。最初は「提灯」として登場する。しかし弥助が手放した途端、それは「提灯」から第三者の目、物語を眺める第三者へと変化する。つまり、不思議な言い方だが、「トシ」という眼から見て、「弥助」は影になってしまったということだ。<弥助はそのまま影になってしまい、地面に染み込んでしまったそうな。>これは両者がもう触れ合えないことを意味しているのではないだろうか。
次に、道祖神と弥助が生きているという話だ。道祖神は弥助がトシのことを思い、自分の村ではなく、トシの村を守ろうとしたのではないだろうか。そして弥助が生きているという話だが、これは私自身が蔵の中で提灯を灯したときに分かった。映し出された影は確かに生きていた。いまや火を照明器具として用いることは無くなった。この感覚は現代人には分からないことだった。影は揺らめく、一瞬として同じ形を保たない。祖母の祖母をこの情景を見て、「弥助は生きている」と発言したのではないだろうか。これらのことは全くの想像であり、こじ付けであるようにも思える。道祖神についても正直、納得いっていない。もっと深い意味合いがあるようにも思える。しかし今の私ではこれが精一杯だった。
では全ての結論であり、問題の根幹でもある「弥助は何故影を失くしたのか」について説明する。これまで、ノートには様々な考えを綴ってきた。そこには正しいものもあるし、間違っているものもある。まぁ、これらのことは一旦、置いておこう。
弥助は影になった。それを見ていたトシはもう弥助を触れることはできないだろう。では、弥助にとってはどうだろう。そうだ、弥助もトシに触れることが出来ないのだ。何故なら、弥助にとって影になったのはトシ自身なのだから。この『影を失くした男』では「影」という存在が非常に厄介だ。一口に「影」と言ってもその影が示すものは毎回同じものだとは限らない。「影」という言葉は一つだが、それが示す「影」は無数にある。例えば、だ。全ての人物を「人間」と呼んで生活できるだろうか、いや無理だ。この物語でも「影」は次々に指し示すものを変えている。
もう書いてしまおう。「弥助は影にされることで影を失く」したのだ。この「影」が指し示すものは二つだ。「弥助の村という共同体」と「トシ」だ。提灯を所持していたときの影は「トシ」である。しかし、手放して、弥助を取り込んだ影は「トシ」ではなく、「弥助の村という共同体」だったのだ。提灯を放した弥助は「弥助の村という共同体」の一員となってしまった。提灯をもう持つことが出来ない弥助は「トシ」という影を失くしてしまったのだ。私にはこれ以外思いつかなかったし、この結論に落ち着いてしまった。
勿論、他の解釈も考えられるだろう。弥助がトシを無理やり働かせていたとするもの、駆け落ちの瞬間とその失敗を意味するもの。今の私にはどれが正解かは分からない。しかし私には「弥助とトシの別離」とする考えがもっともしっくり来るものだったのだ。事実は小説よりも奇なり。それはきっと小説の中でしか起き得ないことなのだろう。トシがこのようなことを考えていたのか、そんなことは分からない。この私の考えだって殆ど想像による夢物語のようなものだ。事実は違うかもしれない。しかし、私は満足している。筆を置こう。次にこのノートが開かれるのはいつか。明日かもしれない、来年かもしれない。もしかしたら百年後かもしれない。
私はいま、祖母と一緒にみかんを食べている。あの後、祖母に私はこっぴどく叱られた。散らかった蔵の中で提灯に火を灯して笑っている私を見た祖母は、私の頭がおかしくなったと思ったらしい。大急ぎで蔵に入ってきた祖母に私が事情を説明すると、祖母は烈火のごとく怒り出し、思い切り拳骨を頂くことになった。祖母にとって私はいつまでも世話のやける子供らしい。
怒り冷めやらぬ祖母を宥め、仕事を理由に一旦自宅へ帰った。そして一週間経つとまた祖母の下へ向かい、蔵の片付けを行った。そして、今やっと全ての荷物を仕舞い終えて祖母と向かい合って炬燵に潜っているわけだ。
「ばぁちゃん、『影を失くした男』の話、やっと分かったよ」
「そうけぇ」
祖母は興味なさそうに答える。目線はテレビに釘付けだ。
「興味ないの?」
「ないなぁ」
あっさり言われてしまった。私もテレビに目線を映す。そこには大はしゃぎするタレントと子犬が映し出されていた。
「樹ぃ、知ってるけぇ。命は輝いちょるってことを。正しい生き方をすると眩しく、悪いことをすると暗ぅなるけぇ。ぁから、お天道様はあんな明るいんよ」
突然、祖母はそんなことを言いはじめた。
「どうしたの、突然」
「樹は、明るく生きんといかんよぉ」
祖母は微笑みながら言った。そしてみかんを私の口に押し込んでくる。
「……ぐむ」
「明るさが足りんかったら、ばぁちゃんの分をあげるけぇ、長生きすんよぉ」
祖母が押し込んできたみかんは、一際甘く感じた。
一気書きなため、誤字脱字が多々あると思いますが、脳内で補完しておいてください。
正直、未消化な作品なため、自分で納得できていません。今後とも精進していくつもりです。




