第五章: 会議
佐久の実家で、アリスや雅臣と再会してから三日後。
北斗は日本地区の首都・東京の南西部に位置する羽田総合空港に個人所有のインター・セプター、CX‐V1E『ウイング』でやって来た。
空港管制官から着陸許可をもらい、Gエリアに位置する個人機・小型機専用ポートへと着陸した北斗はウイングにロックを掛けてから地面に降りる。
「東京も久しぶりだな」
先ほど、上空から見たときにはそれほど変わっているようには見えなかったが、地面に降り立つと羽田空港もかなり変化していた。
「さて、と」
北斗は通路を走り回っている無人連絡カートにひょいと飛び乗り、管制センターへと向かう。二分ほど走った後に辿り着いたセンター内の入国管理ゲートで、係官に身分証明のためのIDカード、空港利用料を払うためのクレジットカードを係官に渡すと、
「巳桜北斗様、ですね。現在のご職業は、第一次外宇宙探査船団はやぶさ所属、防御指揮官……えっ?」
空中に映し出されたエア・ディスプレイを確認していた係官が驚きの声を上げた。
「先日帰還して来た『はやぶさ』の?」
「ええ、そうです。ちょっとヤボ用が有って、僕だけ途中で降りましてね」
北斗はにこやかに微笑みながら、係官から二枚のカードを受け取った。
「検疫とかは軌道上で済ませましたし、あのインター・セプターは僕の個人所有機なんで」
あっけに取られている係官にウインクし、北斗は手荷物の入ったスポーツザックを背中に背負う。
「それじゃ、どうも」
北斗はポカン、としたままの係官にそういうと、さっさとセンターを後にした。
地球全体が一つの国家となっている現在では、通関などの手間はほとんど必要が無くなっている。
また、交通手段は内燃機関に代わって圧縮空気でホバーするエアカーや電磁石で滑空するリニアモーターカーがほとんどとなり、タイヤ付の自動車や通常の鉄道など地上を車輪で走るものはほぼ淘汰されていて、残っているのは趣味性の強いものか自転車など人力の類に限られている。
ただし、民生用のエアカーなどは地上数十センチ程度の高度以上は取らないよう義務づけられているので、道路網などは車輪時代のものが改良のみでそのまま使われている所も多い。
もちろん、民生用のものもリミッターを外せば数百メートルの高度を取ることが可能だが、災害などの非常時を除いて特殊な資格が必要であり、一般人は基本的に地面近くを走る事に定められている。
北斗は軍属時代に様々な特殊資格を取得している上、インター・セプターの個人所有資格まで認められている数少ない人間なのだった。
ただ、インター・セプターを個人で維持するには相応の費用と手間が掛かるのはもちろんである。
また都市部上空では、その大きさから規定空路の飛行もギリギリだし、停められる場所はこういった大規模な空港くらいしかないのでよほどの事がない限り乗り入れないのだが、今回は仕方がない。
北斗は着陸前のはやぶさから途中離脱した代わりに、連邦地球政府・東京支部に自力で来なければならなかったのだ。
ウイングを佐久に置いてリニアモーター長野線などの公共交通機関で来ても良かったのだが、私有地とはいえ万が一ウイングの周辺で子供が遊んで怪我でもしたら大事になるし、兵装解除はしてあるとは言えご近所さんから苦情が出る可能性もある。
幸いにも連邦地球政府・東京支部は羽田総合空港からそれほど遠くない場所、かつて「お台場」と呼ばれたエリアに有る。
余談ではあるが、今後、北斗はどこに住むかまだ決めていないが、ウイングの置き場に苦労しそうで頭が痛かった。
そんなわけでとりあえず、北斗は大人しく羽田からモノレールで支部へと向かった。
「ここも、10年ぶりか」
地上400メートル、75フロアを誇る巨大なビルディングを見上げ北斗がつぶやく。
最後にここを訪れたのは、出発直前の健康診断を受けるためだった。
時計を見ると午後1時ちょっと。集合時間は午後2時だから、余裕綽々だ。
「さて、みんな来てるかな? とりあえずカフェかなんかで時間潰すか」
北斗がぶつぶつと独り言をつぶやきながらビルに入り、カフェやレストランなどのテナントが入っている一階をブラついている、と……
「北斗ーーーっ!!」
10年間で良く耳に馴染んだ叫び声を上げ、怒りに燃えたフランス娘が淡い色合いの金髪を振り乱してすっ飛んで来るのが見えた。
「よう、パティ。お前ももう来てたか」
北斗は、目の前でキキーと急ブレーキを掛けたように停止し、ぜぇはぁと息を荒げているパトリシアに向かって気安くひょい、と右手を上げる。
「あーっ!! 『よう』じゃないよもう!! あれからボクがどんだけエラい目に遭ったか解ってんの!?」
お気楽な調子の北斗に一段とキレたか、息を整える間も惜しみ両手をブンブンと振り回して我鳴りだすパトリシア。
「うむ、パンツ丸見えだったな。白にイチゴだった」
だが、そんな様子を構う事無く北斗がしれっと言うと
「うわあああああっ! 見たの!? どこで!? なんで!? どうして!? バカなの!? 死ぬの!?」
パトリシアが更にブチ切れ、ヒートアップする。
「ああ。見た。テレビで観た。なんとなく観た。観てたら見えた。ああバカだ。だが死なない」
だが律義に、そしておちょくる様に返って来た北斗の言葉に
「だあああああっ!! バカにすんなぁっ!! もう絶対許さないっ!!」
完全に正気を失ったパトリシアがどーん、とショルダーアタックをブチかました。
「あう」
だが身長差十五センチ、体重差20キロの壁は厚く、ブチかましたパトリシアの方が情けない声を上げつつ跳ね飛ばされてポテ、と床に倒れ込んでしまう。
そのままぺたん、と座り込み、ダークグリーンの瞳を怒りに燃やし、うっすら涙さえ浮かべ「うー」などと唸りながら睨みつける娘を見て一つ溜息をついた北斗は、
「ほら、立てよ」
と優しく声を掛け、両脇に手を入れひょい、と抱えて立たせてやった。
「…………ばか」
ぐすん、と鼻をすすって小さな抗議の声を上げるパトリシアの頭を優しく撫ぜ、
「なんか食べたいものあるか?」
と声を掛けてやる。
「…………あれ」
すると、上目づかいに北斗を睨んだままパトリシアが人差し指をビっと差した先には
『はやぶさ帰還記念! スペシャルジャンボはやぶさパフェ』
景気の良い煽り文句とともに、可愛らしく擬人化されたはやぶさのイラストが書かれた立て看板が立っていた。
「あいよ、お嬢さま」
北斗は苦笑し、まだぐすぐすと鼻をすすっているパトリシアの背を押し、看板を出しているカフェへと向かう。
「……これだけじゃ許さないんだからね」
「へーへー、今度ちゃんとした旨いモノ奢ってやるから、今はパヘで我慢してくれよ」
「パヘじゃなくて、パフェ!」
北斗のボケに口を尖らせて突っ込んだパトリシアはぐす、と大きく鼻をすすり、
「じゃあ、レッツゴー!」
にぱっと笑って北斗の手を握り、ぐいぐいと引っ張った。
「なんだよ、もう笑ってるのか?」
呆れたように言う北斗に
「女の子はね、美味しいものや甘いものが目の前に有れば笑えるんだから! 覚えときなよ、朴念仁!」
んべっと舌を出したパトリシアは、すっかり機嫌を直していた。
「では、皆様お揃いの様ですので始めさせて頂きます」
午後3時ジャスト、進行役の連邦地球政府外宇宙探査計画ブロック長、カトレア・マーティフの艶っぽい声で始まったミーティングには、そうそうたる面子が参加している。
第一次外宇宙探査船団総長・天元命、連邦地球政府現総代表・ムガベ・ンドルワ、巨大企業国家フラビオン元首、および銀河系最大の企業集団神崎リヒト・グルーヴの総帥を兼ねる神崎雅臣の三巨頭をはじめ、地球各地区の代表者、各惑星国家の代表者や責任者など、まさに現在の人類社会を動かし、管理しているVIP中のVIPたちだ。
そんな大物たちの末席に、北斗とパトリシアは座らされていた。
開会の挨拶にはフラビオン総統の雅臣が指名され、その演説が朗々と流れる中、北斗は別段臆する風も無く退屈そうに聞いているが、パトリシアはガチガチに緊張しており心なしか顔色まで悪い。
「パティ、気分でも悪いのか?」
青い顔をして俯いているパトリシアを見かね、北斗が声を掛ける。
「ううん、ちょっと緊張してるだけ。大丈夫」
すると、パトリシアは気丈に微笑んだ。
わずか三分弱だったが中身のある挨拶が拍手に包まれて終わり、雅臣に続いて天元が帰着挨拶をこれまたきっかり三分に収め、盛大な拍手を貰う。
だが、二人の後に続いた連邦総代表、ムガベのスピーチが二十分ほどを過ぎ、そろそろ室内にウンザリとした雰囲気が漂い始めた頃、ずっと下を向いて気分悪そうにしていたるパトリシアが、右隣の北斗に顔を近づけて囁き掛けた。
「ねぇ、北斗……」
「ん?」
仮にも連邦政府の総代表がスピーチしているのだから私語などもってのほかのはずだが、北斗自身がこう言うお堅い席が苦手なのも有り、至って気楽にパトリシアに応じる。
「なんでボク、呼ばれたのかな?」
すると、パトリシアは周囲のそうそうたるメンツを見廻しながら窮屈そうに北斗に尋ねた。
「さあ、な。俺だってなんで呼ばれているか自分でも不思議なんだが」
「……いや、あなたは船団防御指揮官でしょーに。呼ばれない方が不思議だって」
北斗のボケにため息交じりに突っ込むパトリシア。
「いや、そうとも言えんぜ? 俺以外の船団各ブロックの責任者なんていないだろ」
だが、北斗の切り返しに、そういえば……、と首を傾げた。
「オホン」
と、北斗を挟んでパトリシアの反対に座っていた男性が小さな、わざとらしい咳払いをしたので、パトリシアは叱られたと思ったらしく慌てて北斗に近づけていた体を自席に引き戻し、下を向いて赤面した。
「パティ、気にすんな。今のは実にイヤらしいおっさんの当てこすりだから」
「え!?」
だが、北斗の苦々しげな呟きに、パトリシアは驚いて小さく叫んでしまった。会議室にパトリシアの良く通る声が綺麗に響き、VIPたちの鋭い視線がパトリシアに集中する。
「はわわ……」
可哀想なブロンド娘は思うさま取り乱し、真っ赤になってうつむく事しか出来なかった。
「すみません、自分が彼女に肘を当ててしまいまして」
「え……?」
突然のフォローに驚いたパトリシアが顔を上げると、北斗が左手を軽く上げ、周囲に向かって謝罪している。
「そうですか。お嬢さん、お気になさらず」
すると、すかさず北斗の右隣の、先ほど咳払いをした男性が、にこやかに室内の声を代弁した。
「す、すみましぇん……」
パトリシアが真っ赤になって俯いてから、チラ、と北斗の横顔を見上げると、いつになく苦々しげな顔をしている。
えへん、と咳払いの後、再び室内に響き出したムガベ代表の実の無いスピーチを聞き流しながら、もしかして北斗を怒らせちゃったのかな……と考え哀しくなってしまったパトリシアの瞳にうっすらと涙が滲んだ。
「パティ、気にするなよ。さっきも言ったが、悪いのは俺の右隣のクソオヤジだから」
「え……?」
静かに掛った優しい声にパトリシアが顔を上げると、北斗の大きな手がパトリシアの頭を優しく撫ぜる。
「あ……」
パトリシアは、北斗の手の温かさに頬をぽうっとピンクに染め、嬉しそうに瞳を閉じた。
と、くっくっく、と言う実に愉快そうな笑い声と共に、
「相変わらずの天然ジゴロだな。もっとも、自分の子供ほどの齢の娘限定なのも変わらんが」
と、侮辱一歩手前の言葉が北斗に向かって放たれた。
その悪意がたっぷりと籠った声に、パトリシアの頬を撫ぜていた北斗の手がピタ、と止まる。
「黙れ全宇宙全ての女性の敵」
そして、実に不機嫌そうな声で、北斗が声の主にまぜっ返した。
「……!?」
パトリシアは、北斗の手を頭に当てられたまま大混乱し、目が回りそうな錯覚に陥った。
だが、北斗に返された相手も簡単には引き下がらなかった。
「女の敵、ね。はは、お前にだけは言われたくないな」
「うるせぇ。インターセプターぶつけんぞ」
「ふん、ならば私はお前の好きな幼女でもぶつけてやろうか?」
「黙れ、幼女投げんなこの人でなしが」
「はっ、幼女好きの馬脚を現したか」
「なん……だと?」
一瞬、北斗が鼻白み言葉に詰まる。と
「ははは。この幼女愛好家め」
相手がここぞとばかりに畳み込んで来た。
「……今すぐその薄汚い口を閉じろ」
地獄の底から響く様な物騒な声色で北斗が吐き捨てる。
「ふっ……元々お前に勝ち目がないのは明白だが、最初から逃げ腰なのは感心せんな」
だが、既にイニシアチブは相手のモノだ。
「言わせておけば調子に乗りやがって、面白すぎんぞコラ」
とうとう追い詰められてしまった北斗がギロリ、と声の主を睨んで凄んだが
「ふん、まさにチンピラだな。所詮お前はその程度の男と言うことだ。これではとても私の大切な娘を任せる事は出来んな」
そんなものは恐くもない、とばかりに軽い調子で返されてしまった。
「上等だ、この後ちょっと面貸せ」
「いいとも。返り討ちにしてやろう」
本当に殴り合いでも始めそうな、不良少年の如き不埒で不穏なやり取りをぼそぼそとする二人に驚き過ぎて、パトリシアは石のように固まっている。
だが、二人のやり取りの中に混じった聞き覚えのある名前に気付き、
「え、今、アリスって……」
パトリシアが顔を上げ、北斗とやり合っている声の主を見る、と。
「アヒャ!?」
凄みの有る笑みを晒し、北斗と睨みあっている壮年の男性は、この宇宙で知らぬ人など居ない超巨大企業国家フラビオン総帥、神崎雅臣その人だった。
あまりの驚きにまたしても情けない叫びを上げてしまったパトリシアに、再び会場の視線が集中する。
あちこちから上がる含み笑いと、遠慮なく向けられる好奇の視線に耐え切れなくなり、
「……もう、やだぁ!」
ふるふると小刻みに震えながら発せられたパトリシアの絶望の叫びに、室内は爆笑の渦に包まれた。
その後、進行役のカトレア女史の機転で1時間の休憩となり、北斗とパトリシアは喫茶室でお茶を飲んでいた。
「パティ、気にすんなよ」
「あうう……」
退室時、スピーチを中断され少々おかんむりのムガベ代表以外の参加者から親しげに声を掛けられかえって落ち込んだパトリシアの肩にぽん、と手を置いて北斗が慰める。が、
「無理だよぅ……うう、穴が有ったら入りたい……てゆーかもう帰りたい……」
パトリシアはどよーんとした空気を全身に纏わせてぐずぐずと呻いている。
この喫茶室は最上階から一つ下の階に有り、利用する人間が少なく穴場的な店だ。今日は世間的には休日なので、北斗とパトリシア以外の客の姿は見えない。
だから、であろう。パトリシアは船団で北斗と二人の時に良く見せていた駄々っ子モードに突入していた。
「大丈夫だって。みんな、『愛嬌が有って可愛い娘だなぁ! そうだ、ウチの息子の嫁にどうだろう!』とか考えてるかもしれないぜ?」
ドス!
グキ。
「痛い!」
北斗のつまらない冗談に、一瞬でマジ切れしたパトリシアが北斗の腹に固く握った拳を叩き込む。が、悲鳴を上げたのは殴られた北斗では無く、パトリシアだ。
鋼の様に鍛えられた北斗の腹筋対ほぼもやしっ子のパトリシアの拳では勝敗は火を見るよりも明らかであったのだ。
「おい、大丈夫か?」
「うっさい! 馬鹿!」
痛めた拳を抑えてうずくまり、半泣きになっているパトリシアに北斗が声を掛けたが、涙目で舌を出してぷいっと顔を背けてしまう。
「まったくもう、まったくもうだよまったくもう!! 北斗が逃げたりしなければ、ボクがこんな所でこんな赤っ恥掻かなくて済んだのに!」
「いや、その理屈はおかしい」
上目遣いで北斗を睨み、完全に言い掛かりの恨み節を唱え始めたパトリシアに向かって、さすがに北斗がボソリと突っ込んだ。
「なんか言った!?」
「いや、別に」
だが、物騒な目付きでギン! と睨まれた北斗は、視線を逸らしてわざとらしく口笛を吹き始める。
「ふんとにもう! 大体、なんだって北斗と神崎総帥が子供みたいな口ゲンカしてんのさ! 意味解んないんだけどっ!」
そのわざとらしい行動がパトリシアの怒りに火を注いでしまったか、収まるどころか大延焼が始まった。
「いや、あのな」
顔を真っ赤にして詰め寄るパトリシアに閉口しつつ、北斗が口を開いた時。
「やあ、お嬢さん。先ほどは失礼したね」
いつのまにか、真後ろの席に座っていた男性が、楽しげに声を掛けて来た。
「は? いきなりなんなのよ……はわ!? か、神崎総帥!?」
悪態を吐きながらひょいと振り向き、唖然とした顔を晒して驚くパトリシア。
声の主は、先ほどの会議中にもパトリシアを叫ばせた張本人、神崎雅臣その人であった。
「……ちっ。いつの間に来てやがった」
固まっているパトリシアの後ろで、北斗がつまらなさそうに舌うちする。
「なんだ、態度が悪いな。お嬢さん、こんな男と付き合っているとろくな事にならないよ。そうだ、私の知り合いに息子さんの伴侶を探している人がいてね、お嬢さんの様に愛嬌が有って可愛らしく、しかも有能な娘ならうってつけだ」
すると、先ほどの北斗の言葉を当て擦る様に雅臣がにこやかにパトリシアの肩にぽん、と手を置いた。
突然現れた超VIPの本気か冗談か判断し難い言葉にあわうわと泡を喰っているパトリシアをひょい、と抱えて横に退け、
「黙れ人攫い。ウチの大事なスタッフにコナ掛けるんじゃねえ」
ぐるる、と唸りだしそうな勢いで北斗が雅臣に噛み付いた。
「ふん、人材調達は私の重要な仕事だ。邪魔しないでもらおうか」
「どこが人材調達だ。ただの見合いあっせん人じゃねーか!」
顔を突き合わせ、仇敵同士の如く鍔ぜり合う二人のおっさん。
すっかり固まっていたパトリシアが、その様子を見てはっと我に返り、
「……ねぇ、北斗。もしかして、神崎総帥とお知り合いなの?」
恐る恐る、北斗に尋ねた。
「あ? ああ、こいつはな……」
「うむ、聡明なお嬢さん。不本意ながら貴女の言うとおりなのだ。私とこの男は……」
「お前が答えんな! ああ、不本意ながらこいつと俺は知り合いだ。それ以上でもそれ以下でもないがな」
どう見ても喧嘩友達にしか見えない二人が揃ってパトリシアに迫る。
「あわわ」
可哀想なブロンド娘は、タジタジとたじろぎながら後ずさった。
だがその時、パトリシアに脳髄に電流が奔った。
「あ! そういえば、アリスちゃんの苗字って、確か……」
北斗から一度だけ聞いた事のある、あの可憐な少女の苗字。
それは、たしか……
「ほう、このお嬢さんにも話しているのか。お嬢さん、私がアリスの父、神崎雅臣だ。以後、お見知り置きを」
腹に右手を挟むように当て、優雅な、実に優雅な礼をする雅臣。
凄まじく『様』になっているその姿にパトリシアは育ちの違い、と言う巨大な格差を感じさせられつつ
「は、はい! こひらこそ」
思いっきり噛みながら頷いた。
「はは、そんなに緊張しないでくれたまえ。今はプライベートなのだから、私もこいつと同じただのおっさんだよ」
「一緒にすんな、気分悪ぃ」
(知り合いってゆーか、どう見ても友達だよね……)
パトリシアに向かってダンディな笑顔を見せる雅臣と、雅臣にぶつぶつと文句を言う北斗を交互に見比べていたパトリシアは苦笑いしつつ心の中で呟く。
「あ」
そして、ぽん、と手を打ちながら意地悪そうな表情で北斗を見詰めた。
「そういえばさー、北斗。前、ボクにアリスちゃんの事を話してくれた時さー、『親友』の娘、って言ってたよねモガっ!?」
パトリシアがニヤニヤしながら言い掛けた時、北斗が光の速さでパトリシアの唇を手でふさぎ、もがく小柄な体を横抱きにして抑え込んだ。
「むー! むー!!」
「ははは、だめだぞうパティ。なんだか記憶が混濁している様じゃないかあ」
ばたばたと手足をバタつかせて逃れようと暴れるパトリシアだが、体格・体力・技量など、肉体的に巨大な隔たりがあるためなんともならない。
「もがもがが! もががー!!」
「ふむ、『馬鹿北斗、離せー』とお嬢さんは言っているようだな」
「おま……なんで解読出来るんだよ?」
だが、パトリシアの発した異音としか言いようのない叫びの中身を正確に理解し代弁した雅臣に驚いた北斗が油断したとき。
がぶ。
「いってえ!」
並びの良いパトリシアの前歯で、手のひらの肉を思いっきり噛まれた北斗が叫んだ。
「あいててて! パティ、おまえ本気で噛んだろ」
北斗は慌ててパトリシアの唇から手を離し、噛まれた所を見る。とそれは見事な歯型がついており、一部にはうっすらと血が滲んでいた。
「北斗が変なトコ触るからっ!」
ぷんぷんと怒っているパトリシアの叫びを聞き、北斗がパトリシアを抱えた手元を見てみる。すると、パトリシアの豊かなバストが北斗の腕で潰され、淫媚な形に歪んでいた。
「ああ、こりゃすまん」
北斗はひょい、と手を持ち替えてパトリシアを立たせてから、
「だけど、血が出るほど噛む事ないじゃないか」
血の滲む手のひらを見せて文句を言う。
「あ……で、でも! 乙女の清らかな胸を締め付けるなんて、訴えられたって文句言えないんだからねっ!」
北斗の手の平に滲んだ血を見て一瞬たじろいだパトリシアだが、すぐに両手を振りまわしつつ抗議を返した。
「へーへー、悪うござんした」
肩を竦めた北斗が、滲んだ血をぺろっと舐める。
「あ……な、なに舐めてんのさ……」
それを見たパトリシアがカーッと頬を真っ赤に染め、語尾を消え去りそうにさせて俯いた。
「……? どうした、急に静かになって。すまなかったって。謝るから機嫌直してくれよ」
「ばか……知らない!」
ぷいっと横を向き、フンスと鼻を鳴らしたパトリシアだったが、ふと時計を見て
「あ、いっけない! 忘れてた!」
と叫び、ガタと椅子から立ち上がり、雅臣に向かってぺこりと一礼する。
「神崎総帥、私ちょっと用足しに行ってきますので、ごゆっくりしていて下さいね」
雅臣に向かって微笑んでから北斗をキッと睨みつけ、本日何度目かの見事なアカンベを見せた後、タタタと軽やかに掛け去って行った。
「うむ、良い子だな」
パトリシアを見送り、北斗に意味ありげな視線を向けた雅臣が愉快そうに言う。
「ああ、パティとはもう十年の付き合いだからな。あの子が十二歳ではやぶさに乗り組んでからの、な」
それに応えて僅かに笑いながら北斗が呟いた。
「そうか、付き合い年月の長さではアリスとほぼ同じ、と言うわけか」
「……そうだな、そうなるか」
言われてみれば、アリスとも生後すぐから北斗が旅立つまで、約十年の付き合いである。
北斗が、なんとなくしんみりと感慨に耽っていると、
「で、どちらが可愛いのだ?」
意地の悪そうな微笑みを浮かべ直した雅臣が、意地の悪い事を聞いて来た。
北斗はギロリ、と雅臣を睨みつけた後、
「お前、本当に性格悪いよな」
と吐き捨てる。
「む、褒めても何も出ないぞ」
「褒めてねぇ!」
自分の言葉に噛みつく北斗を右手を挙げて制し、
「で、どちらが可愛いのだ?」
雅臣は、先ほどと全く同じ問いをニヤリ、と笑いながら繰り返す。
「……比べられるものじゃないだろうが」
北斗の苦しい答えを聞いた雅臣は微笑みを消し、
「お前、彼女……パトリシアさんに同じ事を聞かれても、そうやって返しているのか?」
鋭い視線を向けて誰何して来た。
北斗は雅臣の鋭さにギクリ、としながら
「お前には関係ないだろ」
ふん、と鼻を鳴らし不貞腐れたように答えた。
「お前、学生時代から何も成長していないな。アンヌマリーに言われた事を忘れたか?」
「……」
雅臣の言葉に北斗は答えず、ぷいと横を向いて冷めかけたコーヒーをズズ、と啜る。
「やれやれ、アリスが苦労しそうで心配だよ」
そんな北斗を見てため息をついた雅臣も、ぶつぶつと呟きながらコーヒーカップに口をつけた。
北斗と雅臣が、黙って冷えたコーヒーを啜り出してからきっかり一分後。
「失礼してもよろしいですか?」
そろそろ間が持たなくなって来たのを待っていたかのように、艶と険が絶妙に配分された女性の声が掛かる。
「え? ……あ!」
そして、声の主に視線を投げた北斗が声を上げた。
「お久しぶりです。巳桜元少佐」
そこには、ビシ、と見事に決まった連邦地球軍の敬礼を北斗に向けた女性が立っていた。
腰まで伸ばした美しい銀髪と、髪と同じ灰色の瞳が印象的な美女だが、どこか冷徹な雰囲気を感じさせる。身長は百五十センチそこそこと小柄なのだが、それ以上に見る者を威圧する雰囲気を身に纏っているのは、服装が連邦地球軍の士官服、それもスカートではなく男性用のパンツタイプである事がそう感じさせる大きな要因の一つだろう。
「久しぶりだな、ベルクヴァイン大尉。いや、その階級章は大佐か。出世したな」
「はい、十年ぶりですね。任務達成、おめでとうございます。それと、昔通りドロッセルと呼んで頂いて構いません」
敬礼を戻したその女性は、少しだけ表情を柔らかいものに変えて北斗に答えた。
「ありがとう。まあ、なんとか帰って来たよ。雅臣、彼女は俺が軍に居た頃の部下だったドロッセル・フォン・ベルクヴァイン大佐だ。お前にも何度か話した事が有るよな。」
北斗の紹介に、雅臣が頷く。
「ドロッセル、この男は……」
「存じています。はじめまして、神崎雅臣総帥。自分は連邦地球軍統合作戦部所属のドロッセル・フォン・ベルクヴァイン大佐であります。よろしくお願いします」
続いて雅臣を紹介しようとした北斗の言葉を遮り、ドロッセルが雅臣に自己紹介する。
「君のうわさは聞いた事が有るよ、ベルクヴァイン大佐。相当な切れ者だ、とね」
「恐れ入ります」
雅臣は、深く腰を折って一礼したドロッセルを鋭い視線で射抜くと、
「だが、人が自分を紹介してくれている最中にそれを遮るのは感心しないな」
少し厳しい声で注意を促した。
「は、失礼しました」
雅臣の言葉にドロッセルは謝罪したが、その態度はどこか慇懃無礼なものを感じさせる。
「……ベルクヴァイン大佐、」
「まあまあ、雅臣。細かい事は気にするなよ。彼女とは何度も一緒に死線を潜った仲なんだ」
それを感じてか、さらに何か言おうとした雅臣を北斗が笑いながら宥めた。
「神崎総帥、お気分を害されたのなら謝罪させて頂きます。申し訳ありませんでした」
北斗の言葉を受け、ドロッセルが再び深々と礼をする。
「うむ……気にしないでくれ、大佐」
一瞬、何か言い淀んだ雅臣だったが、それを口に出すことはなかった。
「は、ありがとうございます」
「ところで大佐……いや、ドロッセル、何か用事でも有ったのかい?」
ドロッセルに向かい、北斗が尋ねると
「いえ、別にこれと言って用事が有ったわけでは有りませんが、私は明日の会議に出席するノリス提督の補佐として派遣されましたので、事前準備も兼ねて前日入りしたのです。が、ホテルのチェックインタイムより少し早く着いてしまったので、コーヒーでもと思ってここに来たら少佐……いえ、巳桜さんをお見掛けして、声を掛けさせて頂きました」
ドロッセルは大分柔らかくなった声と表情で北斗に答えた。
「なるほど、わざわざありがとう。あと、俺にさん付けなんてしないでくれ。北斗で構わない」
北斗はにかっと破顔し、そう言ってから
「そうか、明日は各国軍のお偉いさん達への外宇宙で遭遇した敵対行動者及び物体の詳細、対処と戦闘結果の報告会議が有ったっけ」
まるで人事の様に肩を竦める。
「当然、北斗も出られるのですよね? 貴方の軍属時代、そう言った会議にはいつも代わりに私が出されていましたが?」
細い腰に手を当て、座っている北斗を少し見下ろすような格好で訊くドロッセル。
旧い時代、そう、第二次大戦中のドイツ軍女将校を彷彿とさせるその仕草は、Mっ気のある男ならイチコロでひれ伏してしまうだろう破壊力を秘めている。
「そうだっけ? 記憶にないな」
だが、その気はないのか、北斗はキツイ灰色の瞳から逃れる様に視線を泳がせてすっトボけ、
「まあでも、今回はちょっと遠慮させてもらう事になっているんだ」
ピューピューと、ワザとらしい口笛を吹きながら呟いた。
「……北斗?」
その言葉を聞いたドロッセルが大きな切れ長の瞳を細め、責めるような、いや攻めるような視線で北斗を睨む。
「うんまあ、報告書自体は俺が一週間掛って作成したものを軍にも提出する予定だし、これからの会議でもほぼ同じ内容の報告をするし、明日の会議での報告は天元総長がやってくれるそうだし。だいたい、今日の会議にも軍から情報庁長官とか来ているんだから、明日同じ報告をするってのも二度手間だろ?」
「で、貴方は本日の報告会議終了後、どこに遊びに行くつもりなのですか?」
厳しい声で誰何するドロッセルは、さすがかつて死線を共に潜った仲だけあり、北斗の行動と思考パターンを完全に読んでいる。
「何を言う。大切な用事が有って仕方なく欠席するんだ」
北斗はなんとか誤魔化そうと重々しく言ったが
「納得出来ません。防御指揮官としての責任感が無さ過ぎませんか?」
ドロッセルは厳しい視線を向けたまま、ずい、と上半身を乗り出して引き気味の北斗に迫る。
真正面から向き合った二人の鼻と鼻との距離は十センチほどだ。
「た、大尉。近い近い」
北斗は思わず昔の階級を口にしつつ逃げるが、その背中はテーブルに突き当たり、それ以上は退がれなくなっている。
「おい、雅臣」
しかし更にジリジリと距離を詰めて来るドロッセルに慌て、北斗はテーブルの向こうの雅臣に助けを求めた。
「……あれっ?」
だが、頼みの綱の雅臣からの返事は無く、姿も掻き消えている。
北斗が慌てて周囲を見回すと、雅臣はカウンターでコーヒーのお代わりを貰いつつウエイトレスの娘と何やら談笑していた。
「何ナンパしてんだあのスケコマシ!」
その様子を見て北斗は毒づき雅臣を呪ったが、頬のすぐそばに熱い息遣いを感じ恐る恐る顔を正面に戻す。するとそこには、ドロッセルの灰色の瞳が数センチの距離まで、視界いっぱいに迫っていた。
「ちょ、大尉!」
あまりの近さに驚愕し、思わず叫んでしまったが
「……少佐、貴方はいつもそうだ。肝心な事はそうやって誤魔化し、逃げてばかり。貴方の闘いは勇敢で、怖れを知らない誇り高き真の騎士だ。だが、貴方は戦闘以外では意気地無しの根性無しの玉無しだ!」
「玉って……」
そんな事はお構いなしに、ドロッセルが更に迫り、北斗を弾劾した。ただし、相当熱くなっているらしく、こちらも北斗の事を昔の階級で呼んでいる。
(ヤベェ、このひとマジでキレてます)
北斗は心の中で頭を抱え、この危機をどうやって乗り越えるか、冷や汗を流して脳細胞をフル回転させた。
だがしかし、もう鼻と鼻が物理的接触する寸前まで迫っている状況では、良い策など何も浮かんで来るワケなどない。
冷汗から脂汗へとバージョンアップした液体が全身に噴き出すのを感じながら、北斗はもう一度、最後の望みを掛けてチラ、と雅臣に視線を投げる。
しかし、雅臣はウエイトレスの肩を馴れ馴れしく抱き、こちらを指さして楽しそうに笑っていた。
「あんのヤロー!」
それを見て怒りの余り思わず声を上げた北斗だが、
「どこを見ている!」
ドロッセルが叫び様に北斗の顔を両手で挟んで固定し、グキ、と正面に向き直させる。
「ぐえ」
情けない悲鳴を上げた北斗の鼻先に、ドロッセルのすらっとした高い鼻先がぴと、と触れ、ドロッセルが呼吸するたびにミントの様な香りのする息が北斗の鼻先に漂った。
「少佐……私は、私は……」
灰色の瞳をすっと細くし、うっすらと涙を滲ませて更に接近するドロッセル。
北斗はエビの様に頭を逸らして僅かな距離を稼いだが、ドロッセルの手が北斗の頬をしっかりと捕まえているので稼いだ距離は数センチ。焼け石に水、いやむしろ火に油であった。
「逃がさぬ。今度こそ……」
(これはいけません。このひと本格的にイっちゃってます)
ここに至って平和的解決を望むべくもない事をようやく理解し、やむを得ず実力での排除を北斗が決意した時。
「な、な、な、なにやってんのさーーーーー!!」
キンキンとよく響く叫び声とともに、すごい勢いでパトリシアが北斗たちの元へすっ飛んで来た。
「ちょっと! 北斗から手を離してよっ!!」
そしてその勢いのままドロッセルへと掴みかかる、が。
「あ痛たたたたたたっ!」
パリパリの職業軍人であるドロッセルに敵うべくもなく、机の上に上半身を組み伏せられて苦鳴を上げる。
だが次の瞬間、パトリシアは北斗の手によって解放され、今度はドロッセルが机の上に組伏せられていた。
「……少佐、何の積りですか」
組み伏せられた姿勢のまま、ドロッセルが地獄の底から響くような声で誰何する。
「なんの積りも何も、俺の現在の部下への暴力は見過ごせない」
だが北斗は意にも介さず答えた後、静かにドロッセルを解放した。
机から上半身を起こし、パッパと服を払ってからギン! と北斗を睨みつけるドロッセルに向かい、北斗の後ろに隠れたパトリシアがンベーっと舌を出す。
「……なるほど、今はその娘か」
しばらく北斗とパトリシアの顔を交互に睨みつけていたドロッセルが、ギリ、と音がするほどに奥歯を噛みしめつつ吐き捨てた。
「……おい、ドロッセル。なんだその言い方」
まるで北斗が女をとっかえひっかえしているかのような、そのあまりの言いぐさに鼻白んだ北斗が抗議の声を上げる、が
「まあ、いい。とにかく明日、あなたが出席しないと言っている事はノリス提督に報告させてもらいます。少佐……いえ、北斗。貴方とはまた近いうちに会うことになるでしょう」
ドロッセルは冷たく言い捨て、カツカツと軍靴の音を響かせて喫茶室から去って行った。
「ふう……なんなんだ、アイツ」
北斗は激烈に疲れた気分で首を数回振ってコキコキと鳴らし、ひとつ溜息をついてから
「パティ、大丈夫だったか?」
背中に隠れて「うー」とか唸っている娘を振り返って尋ねる。
「ねえ、今のおっかない女のひと誰なの?」
すると、ウシガエルもかくや、とばかりにほっぺたを膨らませたパトリシアがジト目で北斗を睨みつけた。
「俺の軍属時代の部下だよ。今じゃ昔の俺より圧倒的に階級が上だけどな」
肩を竦めながら答える北斗に、
「ふうん、そうなんだ」
パトリシアは少し安心したように頬の膨らみをすぼめはしたが、
「……おっかないけど、奇麗な人だったね」
今度は非難がましさを色濃く含ませた言葉を投げる。
「ああ、クール・ビューティーってヤツの見本みたいな女だったが……凄みが更に増していたな」
だが北斗は、先ほどのドロッセルの様子が、かつて何度か経験した覚えのある彼女独特の『発情』だったことはおくびにも出さずパトリシアに答えた。
「……で、なにやってたの? あんなに顔を近づけてさ。ボク、キスでもするのかと思ったんだけど」
だが、やはり女のカンは恐ろしいもので、過程は完全にすっ飛ばしているものの結果、と言うか状況は正確に把握していた。
「アホか。彼女も頑固な性格しているから、昔からいろいろ俺とトラブってんだ。十年ぶりに会って話をしていたら、なぜかトラブルも思い出しちまったみたいで突っ掛かってきたんだろうよ」
北斗はパトリシアの鋭さに内心驚きつつ、少々苦しく言い訳をする。
「……ふーん」
だが、先ほどドロッセルに実力で組伏せられた事もあり、一応納得はしたようで頬を再びぷくっと小さく膨らませる程度でパトリシアが黙った。
「それより、お前どこに行ってたんだよ」
蒸し返される前に話を逸らしておこうと北斗が尋ねると
「え? あ、そうそう! これ買いに行ってたんだよ!」
パトリシアはそう言って、入り口付近のテーブルに置かれた箱を取って来た。
「なんだ、これ?」
白い、正方形の上に屋根のように盛り上がった掴みが付いているその箱からは、甘い香りが漂って来ている
「えへへー、ほら!」
嬉しそうに笑ったパトリシアが箱を開けると、中には色とりどりに飾られたケーキが五つ入っていた。
「ほう、美味しそうだね」
いきなり北斗の横にひょい、と顔を出した雅臣が言う。
「……お前」
ギロリ、と雅臣を睨みつける北斗だったが、
「あっ! 総帥もいかがですか? このビルの二階にあるケーキ屋さん、すごく評判なんですよ! 営業時間が短くて品切れすることが多い、ってガイドに書いて有ったんで、開店するまで並んだんです! あ、でも、ここで食べるのはさすがにまずいですよね」
嬉しそうにペロ、と舌を出し無邪気に笑うパトリシアの前でケンカを始めるわけにもいかず、ムスっと黙った。
「うん、喜んで頂こう。持ち込みに関してはもう話をつけてあるから、心配しなくても大丈夫だよ」
「えっ!?」
「なんだと?」
雅臣の言葉に驚いた二人がバッとカウンターを見ると、マスターとウェイトレスがこちらに手を振ってウインクしている。
「すっごーい! 総帥、いつの間に?」
「相変わらず、いらん事だけ無駄に手際の良い奴だぜ」
純粋に驚き喜ぶパトリシアとぶつぶつと呟く北斗に向かい、
「じゃあ、頂こうか。私はモンブランが良いな」
正臣は最高の笑顔でウインクした。
次回更新は、明日2日(金)の予定です。
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