第九章: シャングリラ
その後はこれと言ったトラブルも無く、航海は平穏かつ順調に進み、北斗たちはフラビオンのメインコロニー『シャングリラ』に到着した。
『シャングリラ』は企業国家フラビオンの中核を成すコロニーで、全長6000キロ、直系1200キロと言うサイズの巨大な円筒形型オーソドックス・タイプだ。
全長6000キロという数値は地球の半径とほぼ同じくらいなので、その巨大さが解るだろう。
超巨大企業国家群『フラビオン』は、このシャングリラを中心に、大小六つのコロニーと二つの小惑星で成立している。
シャングリラの内部には、フラビオンを構成する主要な企業の本社や、主にその社員と家族のための住居や商業施設が立ち並ぶビジネス・一般居住エリアの他に、もちろん人工では有るが海や山、河川、湖もあり、普通に生活するには地球上よりも快適なほどだ。
コロニー内の中央を縦に貫く自発光式電磁ネオン管は最大光量二十万ルクスを誇り、夏季の晴天設定時には地球上に注ぐ太陽光とほぼ同程度の光をコロニー内の地表にもたらす。
また、日本州の四季を参考にした気候変化が設定されていて、季節の移り変わりを実感出来るのだ。
自然災害を再現する必要は無いので極端な大雨や大雪、台風や突風などは排除されているが、四季に沿ってきちんと雨、雪も降るし、爽やかな風も吹く。天候の設定は全て前もって国民に通知され、事情により急に変更される場合も国民一人一人に配られている端末に1時間前までには配信される。
これらは全てフラビオンのシステムを統括管理するハイパーコンピューターネットワーク『アントワ=ネット』により精密にコントロールされ、シャングリラで暮らすフラビオン国民に快適な環境を提供しているのである。
シャングリラには地球の様なオープンタイプの空港や宇宙港は存在せず、コロニー内を飛行する航空機も宇宙からやってくる宇宙船も内面地殻と外壁の間に多数設置されている宇宙港に発着する。
宇宙港には大きく分けて民間港と軍事港、そして政府専用港の三種があり、それぞれコロニー各所、複数の場所に設置されているが、総帥である雅臣はそのどれとも違う専用港をいくつか所有している。
スペースクルーザー・セイリングは雅臣のプライベートクルーザーなので、専用港の中の一つに入港し、ドックに接岸した。その直後、マリア以外の三体のアンドロイドはメンテナンスを受けるという事で港に併設されている工廠に向かい、北斗、アリス、雅臣、マリアがフラビオンへと入国した。
総帥一行の入国、と言うか帰国なだけに型式だけの入国審査が行われるが数分で終了し、北斗は久しぶりに懐かしいフラビオンの地を踏みしめる。
青春時代を雅臣やアンヌマリーたちと過ごしたこのコロニーは、北斗にとっても第二の故郷とも言える。そして、学生時代の北斗が下宿していた雅臣の実家は、この専用港から徒歩でも十数分の位置に有る。それでも、疲れているだろうからエアカーで移動しようか、と雅臣が提案したが、北斗はせっかくだからのんびり散歩しながら行く事を希望し、アリスもそれを支持したのだ。
「ここも、10年ぶりか」
アリスと手を繋ぎ、港出口からすぐの位置に有るプロムナードを歩く北斗がしみじみと呟いていると、
「さて、帰ったらとりあえずお茶でも飲んでゆっくりしようか」
と雅臣から声が掛かった。
「ああ、そうだな。あ、雅臣、そう言えばパティは……」
どうしてるんだ? と北斗が雅臣に言い掛けるのと同時に
「北斗―っ!!」
プロムナードの向こうから、元気なブロンド娘の声が響いて来た。
「お、居たかおたんこ娘が」
北斗が苦笑しつつ声の主を探して周囲を見回すと、ぶんぶんと手を振りながら駆けて来るパトリシアの姿が視界に入った。
「よう、パティ。迎えに来てくれたのか」
タンクトップにショートパンツと、かなりラフな格好で走って来るパトリシアに向かって北斗が手を上げると
「よう、じゃないよ! 全然連絡くれないから心配したんだよ? 会議はどうなったの?」
パトリシアがぜぇはぁと息を荒げたまま矢継ぎ早に訊いて来たので、
「ああ、メンド臭かったがなんとか終わった。心配かけたな」
北斗はそう答え、パトリシアの頭を空いた方の手で撫ぜてやる。
「もう、それならそれで連絡してよね……」
嬉しそうな顔で撫ぜられていたパトリシアだが、北斗のもう片方の手が繋がった先の、可憐な美少女に気付いてはっとした顔で固まった。
「パトリシアさん、はじめまして。私は神崎アリス・リヒトフォーフェンと言います。北斗からあなたのお話は色々と伺っています」
パトリシアの視線に晒されたアリスは、北斗から手を離してにっこりと微笑みかけながら礼儀正しくお辞儀する。
「……」
だが、パトリシアはアリスを見つめたまま微動だにせず、
「おい、パティ」
「ひゃいっ!?」
北斗にとん、と肩を叩かれて我に返った。
「パトリシアさん? どうかしましたか?」
アリスが心配そうな顔でパトリシアの様子をうかがうと、
「いえっ! 大丈夫です! ボク長女だからっ!!」
などと、意味不明な事をのたまいながらペコペコとコメツキバッタの様に何度もお辞儀し始めた。
「何を言ってんだ、お前は」
再び北斗に突っ込まれ、
「あ……はっ! ご、ごめんなさい! ボクはパトリシア・ボナパルトです! アリスさんの事は、北斗から宇宙一可愛いって聞いてました! ボクは二番目でだいじょーぶですっ!」
更に慌てたのか、もう自分でも何を言っているのか解らない状態に陥った様である。
「……あー、ごめんなアリス。コイツちょっと舞上がってるみたいだ」
そんなパトリシアの様子を見た北斗が、やれやれとこめかみを押さえながらアリスにフォローを入れる。と、
「く……くすくす……あは、あはははは! パトリシアさんってば、面白いですね! やだ、もう!」
プルプルと震え出したアリスが、とうとう我慢出来なくなって笑い出してしまった。
「……笑って頂けてなによりでふ」
お腹を押さえてコロコロと笑い転げるアリスをボーゼンと見詰め、ぼそりと呟いたパトリシアに
「芸人か、おまえは」
北斗が静かに、突っ込みを入れる。
そんなやり取りを少し離れて眺めていた雅臣が、
「やあ、もう二人は仲良くなったのか。やはり私の睨んだ通りだ」
と満足げに頷く。だが、
「マスター、その判断はまだ早計だと思いますが」
とマリアに言われてしまい
「そうなのか? ふうむ……」
難しげな表情で顎に手を当てて考え込む。
笑い転げて腰砕けになったアリスを支えつつ、横目でそれを見ていた北斗が
「こっちでボケ突っ込み、あっちで夫婦漫才。フラビオンは今日も平和だ」
と、肩をすくめた。
雅臣の実家に辿り着いた一行は、玄関前でビシッと整列したメイドさんの列に迎えられた。
居並ぶメイドたちに頷きながら平然と通り過ぎる雅臣と、その後をしずしずと進むマリア。
ニコニコと輝く笑顔をメイドたちに投げ、「御苦労さま」と労うアリス。
北斗も、顔見知りの古株メイドさんと再会を懐かしんでいる。
「……」
だが、パトリシアだけはビクビクオドオドしながら、前屈みになって最後尾を歩いていた。
「パティ、何でそんな小さくなってんだ?」
ふと、振り向いた北斗がパトリシアに声を掛けると
「だって……着いた時もそうだったけど、こんな盛大にお迎えされた事無いからビビっちゃうよ」
物凄く小さな声で、上目遣いに北斗に答える。
「なるほど、気持ちは解らんでもないが……」
北斗自身も久しぶりで、多少気恥ずかしさを感じていたのでパトリシアの気持ちも理解は出来た。
「ま、そんなに気にせず適当に流せば良いのさ」
「気楽に言わないでよ、まったくもう」
ブツブツと文句を言いながら、北斗は自分の着ているベストの裾を摘まんでちょこちょこと付いて来るパトリシアに苦笑した。
だが、これはもう慣れるしかない。パトリシアも、正式にフラビオンで仕事と生活をする様になれば、恐らくセレブリティな生活をする事になるだろう。雅臣が自分自身で引き抜いた人材を無碍に扱う事は有り得ないし、パトリシアには間違いなくそれだけの価値があるのだから。
一行は大きな両開きの引き戸を潜り、八畳ほどもある玄関で靴を脱ぐ。
軽井沢の別邸は大正ロマン溢れる洋館だったが、この本宅は重厚な造りの日本邸宅となっている。
靴を脱いで上がってもスリッパなどの履物は用意されていないが、板張りの廊下は塵一つ無く磨き上げられているので裸足の方が心地良い程だ。
雅臣と北斗は靴下履きで、マリアとアリスはストッキングのまま普通に上がり込んで行く。パトリシアはラフな服装に合わせてすらっとした長い脚には何も履かず、先ほど北斗たちを迎えに出た時もサンダルを突っかけただけだったので、用意されている湯桶で軽く足を洗って拭くと裸足のまま上がり込んだ。
雅臣が、玄関から数えて三つめの右側の部屋のふすまを開けると、そこは二十畳ほどの畳敷きの客間だった。部屋の中心に置かれた見事な座卓は月桂樹製で、熟練職人の手作りである。
「さ、パトリシアさんはこちらへ」
「は、はい」
雅臣に促され、床の間を背負った最上座に座らされるパトリシアを見て北斗はプッと小さく吹き出しかけたが、辛うじて堪えてパトリシアの隣に座る。
「……北斗、今なんか吹き出しかけてなかった?」
すると、それを目敏く見ていたパトリシアがジト目で北斗を睨みながら誰何して来たので
「いや別に」
北斗はパトリシアからささっと目を逸らし、自分の逆隣にちょこんと座ったアリスの金髪を撫でた。
嬉しそうに北斗へ微笑みかけるアリスを、じーっと羨ましそうに見たパトリシアが
「……そう言えばさ、北斗ってボクも含めて廻りの女の子とすごく自然にスキンシップするよね」
だけど嫌がられてるの見たこと無いし、などと少し非難めいた口調でぶつぶつと呟くと
「そうなんだ、パトリシアさん。この男は昔からそうやって何人ものいたいけな少女をその毒牙に掛けて来たのだよ」
と雅臣がパトリシアに耳打ちする。
「えっ……」
それを聞き、パトリシアが愕然とした表情で北斗を凝視した。
「パティ、そいつの言う事を真に受けんな。雅臣、それはお前の事だろうが。人の悪口は自己紹介、とは良く言ったもんだぜ」
だが北斗は少しも慌てず、余裕でさらっと切り返した、が。
「何を言う。お前がそんな態度だからアンヌマリーに愛想を尽かされ捨てられたんだろうが」
「な……お前さらっと何言ってんだ? 意味不明な事言ってんじゃないよ」
次の瞬間、雅臣が続けた言葉に思うさま狼狽し、喰って掛かった。
「え……お父さま、どう言う事なの?」
二人の会話を苦笑しながら聞いていたアリスが、雅臣の言葉に驚いて誰何する。
「実はね、アリス。アンヌマリーは最初、北斗と恋仲になったんだよ。だが、北斗があまりにも他の娘と仲良くするものだから、呆れ果てて……」
「待てこら黙れ! 真実を歪めてアリスに伝えるんじゃない!」
アリスに向かって滔々と話し出した雅臣に、腰を浮かした北斗が掴みかかろうとする。が、
「ボクも興味有るなー。やっぱ北斗って昔からそんなだったんだ?」
北斗の手を遮る様にしてパトリシアが上半身を座卓の上に乗り出し、それを阻止した。
「そうか、パトリシアさんも興味が有るようだから、詳しく話そうか。さっきも言ったが、アンヌマリーを巡ってライヴァルだった私たちだったが、最初にアンヌマリーが選んだのは北斗だったんだ。その理由は、まず私があまりにも良い男過ぎて気が引けたのと、北斗が半泣きで鼻水垂らして『付き合って下さいよほほほ』と迫ったので、そのあまりの情けなさに優しいアンヌマリーが哀れに思い、仕方なくお情けで付き合ってやったのだ」
ふふん、と北斗を見下ろし、得意げに雅臣が始めた解説のあまりの内容に北斗の顔が怒りで染まる。
「おま、雅臣! ちょっと待てコラふざけんな!」
今度こそ許せない、と立ち上がり掛かる北斗だったが、
「マスター? 悪ふざけはその辺になさいませ」
お茶とお菓子の乗るお盆を持ったマリアがすっと入室してきて、ぞくりとするほど冷たい声で雅臣を制した。
「む……そうだな、この辺にしておこうか。今のは冗談だから、アリスもパトリシアさんも気にしないでくれたまえ」
マリアの声を聞いてピタ、と動きを止めた雅臣も表情を引き締め、座布団の上で正座する。
「皆様、お待たせ致しました。お茶とお菓子をお持ちしましたので、お召し上がりくださいね」
雅臣に向けた先ほどの冷たさを霧散させ、マリアが微笑みながら卓の上でお茶を淹れて配る。
「……頂きます」
北斗は、にこやかに微笑むマリアに、どこか空恐ろしいものを感じて恐る恐るお茶を飲んだ。
「さっきは笑っちゃってごめんなさい。パトリシアさん、よろしくお願いしますね」
「い、いえとんでもない! こ、こちらこそよろしくお願いします!」
お茶を飲み、一息ついてからアリスがパトリシアに改めて挨拶をすると、パトリシアが両手をぶんぶんとバイバイするように振りながら返す。
にっこりと笑うアリスを見て、パトリシアは頬が赤く染め、下を向いて頭を掻いた。
「なに照れてんだよ、パティ」
その様子を見て苦笑した北斗に言われ、
「だって、アリスちゃんがあんまり奇麗で可愛くて、なんかボク恥ずかしくて……」
上目遣いで北斗を睨みながらブツブツと呟く。
「そんな事ないですよ! パトリシアさんこそ凄く綺麗で、私も驚きました」
すると、アリスも頬を紅く染め、先ほどのパトリシアと同じ動作でぶんぶんと両手を振った。
「うむ、アリスもパトリシアさんも可愛いし美しいな。眼福眼福」
二人を見ていた雅臣が、愉快そうに言うと
「……まあ、そこは同意しておくか」
北斗が少し含み気味に同意する。すると、雅臣も意味ありげな微笑を浮かべた後、
「さて、落ち着いたところで……まず、北斗に伝えておこう。パトリシアさんは、正式に我がフラビオンの新技術複合解析部門に所属して、仕事をしてもらう事になった」
と、北斗に向かって言った。
「そうか。パティ、良いんだな?」
それを聞き、北斗はパトリシアの瞳をひた、と見つめて尋ねる。
「……うん。北斗を待ってる間、フラビオンの色々な所を見学させてもらってたの。それで、ボクはここで働きたい……ここで、新しいボクになって新しい事をしたい、と思ったんだ」
北斗の視線をまっすぐに受け止め、パトリシアははっきりと答えた。
「本当は北斗にも相談しようかって思ったんだけど……でも、これはボクが決めるべきボクの人生だから、だから、一人で決めてみたんだ。ごめんなさい……」
そして、少し俯き、小さくなっていく声で北斗に詫びる。
「何謝ってんだ、パティ。良く一人で決めたな。お前が悩み、決めた事なら俺はどんな事でも支持して応援する。がんばれよ!」
北斗はパトリシアの肩をぽん、と叩き、ニヤリと笑いながら親指を立てた。
「……うん! ありがとう!」
それを見て、ぱあっと輝く笑顔を見せてパトリシアは破顔した。
「……ちょっと、妬けちゃうな」
そんな二人のやり取りを見ていたアリスが、微笑みながら小さく呟いた。
この日はそのまままったりと午後を過ごし、みんなで夕食を食べた後。
すっかり打ち解け、仲良くなったアリスとパトリシアが一緒にお風呂に入ると言って浴場に向かった。
もしかしたら二人の間に確執が生まれるのではないかと心配していた北斗は、キャッキャと楽しげに風呂に向かった娘たちの背中を見送り、ほっと胸を撫で下ろした。
「どうした、なにやら満足そうだな」
スコッチ・ウイスキーとクリスタルアイスが入ったグラスを北斗に渡し、からかうように言う雅臣に
「あ? まあな。アリスもパティも良い子で良かったぜ」
北斗は、繕う事無く破顔した。
「うむ、そうだな。だが、まだパトリシアさんにはアリスとの事をすべて話したわけではないのだろう?」
雅臣が自分のグラスをすい、と突き出したので、北斗はチン、とグラスを合わせてウイスキーを一口含む。
「ふーっ、旨いな。ああ、パティにはまだ話してない事も多い。だが、俺は心配してないよ。もうあの子は俺の手を必要としないだろうしな」
そして、少しだけ寂しげに、だが嬉しそうに呟いた。
「ふっ……お前も父親の気分を疑似体験出来たようだな。巣立つ娘を見送る、父親のな」
「ははっ……そうだな、ありがたい事だな」
北斗は雅臣と笑い合うと、グラスを傾け琥珀色の熱い液体を喉の奥に流し込んだ。
アリスとパトリシアが風呂から出る頃には、二人のオヤジはすっかり出来あがってしまっていて、また長旅で疲れているだろうから、と早々に休むこととなり、雅臣とパトリシア、アリスは自室に戻って行く。北斗もこのまま寝てしまおうかと思ったが、それでも、とシャワーだけ浴びてから与えられた部屋に向かった。
「うん、なんだかんだで結構疲れたな」
入室してベッドに倒れこみ、深く呼吸をしてから北斗は部屋を見廻した。
「懐かしいな……あの頃のまま、残しておいてくれたのか」
この部屋は、学生時代の北斗が下宿していた時に使っていた部屋である。また、その後も北斗が遊びに来るとここを使う事が当たり前になっているので、もうほとんど北斗の部屋と言える。
「歯も磨いたし、あとは寝るだけだな」
ベッドに横になったまま瞳を閉じ、これからどうするかをふと考えてみるが、あまり考えがまとまらない。その内、酔いも完全に覚めてしまったが
「ま、焦る事はないか」
北斗はそう、独り言を呟き、瞼を閉じた。
チッチッチッチ……
静かな闇の中で、古風な掛け時計の秒針の音だけが響く。照明を消してからかなり時間が経ったが、北斗はまだ眠りにつけていなかった。
(なんか、眠れんな)
別に興奮しているわけでもないがどうしても眠れず、北斗は何度も寝返りをうつ。
(ダメだ、こりゃ)
しばらくゴロゴロとダブルベッドの上を転がった後、北斗は眠る事を諦めて照明を点けた。
「午前1時、か」
壁に掛った時計を確認すると、ベッドに入ってからほぼ1時間。眠れはしていないものの、頭は幾分すっきりしていた。
「ん……?」
ふと、窓際に置かれた机の上に視線を投げると、小さなフォトスタンドが置かれているのに気付く。北斗はベッドから起き上がり、そのフォトスタンドを手に取ってみた。
「こりゃ、骨董品だな」
フォトスタンドに収められた写真は、デジタル処理されたものではなく、クラシックな、紙に焼かれた本当の意味での『写真』である。
「あ……この写真は」
そして、その写真には、北斗とアリス、それに一頭の仔ライオンが写っていた。
「このライオン……確か……」
北斗が、古い記憶の引き出しを探り始めた時。
コンコン
静寂を破り、控え目なノックの音が部屋に響く。そして、ノックの主が誰なのか、北斗は直観的に理解した。
「はい、起きてるよ。入っておいで、アリス」
北斗の声に促され、ドアが静かに開き
「お邪魔します。こんな夜更けにごめんなさい」
北斗の予想通り、金髪の天使が密やかに入室して来た。
「北斗、起きてたの?」
愛らしい水色のネグリジェ姿で、おずおずと尋ねてきたアリスに
「ああ、なんだか眠れなくてね。アリスもかい?」
北斗は笑い掛けながら、ネグリジェを強力に押し上げている豊かな胸の存在感に視線を吸いつけられ、慌ててアリスの顔に戻した。
「うん……」
と、アリスはなぜか少しはにかむ様に、手を後ろに組んで俯いてしまう。
「どうしたんだい?」
北斗はそう言うと、フォトスタンドを机の上に戻してから、ベッドに座った。
「おいで、アリス」
そして、アリスを手招きして、自分の隣に座らせる。
「うん」
とさ、と隣に座ったアリスの頭を撫ぜてやると、アリスは嬉しそうに目を瞑った。しばらくの間、アリスのしなやかな金髪の感触を楽しみながら頭を撫ぜていた北斗だったが、
「どうかしたのかい?」
と優しい声で尋ねてみると
「……北斗は、パトリシアさんの事をどう思ってるの?」
アリスは少し戸惑った後、しっかりと北斗の目を見つめて聞き返して来た。
「パティの事?」
「うん、パトリシアさんは北斗の事を……すごく大切に思ってるよ。あの人にとって、北斗は……」
そこまで言い掛け、少し戸惑いを見せてアリスの唇がふと、止まる。
「……父であり、兄であり、家族であり……そして、恋しい男。かな」
北斗は少し待った後、アリスの言い掛かっているであろう言葉を引き継いだ。それは、この娘の父親から言われた事のリピートでもある。
「……気付いてたんだね」
北斗は、雅臣から、アリスから言われるまでも無く、パトリシアから寄せられる想いは全て気付いていた。
「ああ、一応ね。パティとも10年の付き合いだからね。長さだけなら、君とほぼ同じさ、アリス」
最近同じことを雅臣と話したな、と思いながら、北斗はアリスの深蒼の瞳を見詰める。
「パトリシアさんの想いを、どうするの?」
アリスは戸惑わずにもう一歩、父よりも深く踏み込んで来た。自分にはそこまで踏み込む資格が有る、と主張するように。
静かに北斗の言葉を待つアリスの瞳には、様々な感情が揺れている。北斗はその一つ一つを全て受け止め、自分の中に落としてから
「どうもしない」
とだけ、答えた。
「え……」
アリスが驚き、蒼い瞳を大きく見開く。
「パティはもう大人だ。彼女の想いを処理出来るのは彼女本人だけさ。もし彼女が俺に想いを告げて来たなら、俺は彼女に答えを渡す。だが、彼女が告げて来ないのであれば、俺は何もしない。俺を酷い男だと思うかい、アリス?」
北斗はアリスに向かってゆっくりと、一つ一つの言葉を確かめるように話しつつ、
(まるで、雅臣みたいな物言いだな)
そう、心の中で自分自身に苦笑した。
アリスはす、と瞳を閉じ、豊かな胸に両手を重ね当てた。そしてしばらく、美しい彫刻の様に動かなかったが
「……ううん、思わないよ」
瞳を開け、北斗を見詰めながら可憐に微笑んだ。
「で、だ。アリス、君への答えはもう99パーセント出ている。だけどもう少しだけ、待っていてくれ」
北斗は、この流れだと恐らく向けられるであろう、アリスの望みを先んじて封じる。
雅臣に伝えた通り、答えはもうほぼ出ている。だが、もう少しだけ。
そう、あと少しだけ時間が欲しかったのだ。
己の情けなさを重々承知しながら、北斗はアリスに向かって頭を下げた。
「北斗、顔を上げて。大丈夫、10年待ったんだから、あと少し待つくらいなんでもないよ。それに……私もまだ、北斗に話さなきゃいけない事が有るし」
「俺に、話さなきゃいけない事?」
北斗は、頭を上げてアリスの顔を見ようとした。だが、
「それはまた今度、私の中でまとめ終わってから話させて下さい」
優しく、だが少しだけ哀しさを含ませた声で言って、アリスは上がりかかった北斗の頭をそっと抱き締めた。アリスの豊かな胸に包まれながら、北斗は重ねて己の情けなさを噛み締める。
5分ほどだろうか、アリスに抱かれたまま北斗が自己嫌悪のようなものに浸っていると。
「あ……」
アリスの口から、小さな呟きが漏れた。
「どうしたんだい?」
呟きとともに緩んだアリスの優しい拘束から逃れ、頭を上げた北斗に
「この写真、覚えてる?」
ベッドから立ち上がったアリスが、机の上のフォトスタンドを手に取って聞いた。
「ああ、さっきも見ていたんだ。それは確か、君が七歳の時の写真だね。写ってるのは君と俺と……」
そう、あのライオンの仔。名前はなんだったか……
アリスの唇が、ライオンの名を発音しようと小さく動く。
桃色の、形の良い唇が頭文字の形を取り掛かった時。
「エ、……そうだ、エルザ、だ。君と俺とエルザ。君が育てた、あのバーバリーライオンの仔……」
北斗は、記憶の引き出しから、その名前を探し当てた。
次回更新は、明日6日(火)の予定です。
よろしく!




