第6話 氷の妹は笑わない
陰極寮の朝は、静かだった。
陽極寮のような明るいざわめきはない。ラウンジに集まった生徒たちは、それぞれの端末に目を落とし、今日の講義資料やAMS基礎データを確認している。会話はあるが、声は低く、必要な情報だけを交換するような空気があった。
大野秋音は、その中で一番早く支度を終えていた。
制服に乱れはない。髪もきちんと整えられている。机上の端末には、すでに今日の講義資料、寮内ガイダンスの要点、基礎制御理論の予習メモが並んでいた。朝食前に済ませる予定だった自主トレも、予定より十二分早く終わっている。
秋音は端末の画面を閉じ、静かに息を吐いた。
「……まだ足りない」
誰に聞かせるでもない声だった。
陰極寮の生徒たちは、すでに秋音の名前を知っていた。入学試験総合成績トップ。AMS制御適性、解析適性、継続展開時間、いずれも一年生上位。特に展開可能時間は、入学時点で約一日。一般学生が数時間で限界を迎えることを考えれば、異常と言っていい数値だった。
だが、秋音にとって、それは誇るためのものではない。
一日展開できるから何だ。
一日戦えたところで、守れなければ意味がない。解析できたところで、原因に届かなければ意味がない。制御できたところで、大切なものを奪った相手を止められなければ意味がない。
順位に価値はある。評価にも意味はある。上に行かなければ、知れない情報がある。近づけない場所がある。だから秋音は、誰よりも勉強し、誰よりも訓練し、誰よりも結果を出す。
ただ、それだけだった。
ラウンジの端で、数人の生徒が小声で話している。
「大野さん、もう予習終わってるって」
「昨日入寮したばかりだよね?」
「制御適性、トップらしいよ」
「話しかけてみたいけど……ちょっと、空気が」
聞こえている。
けれど秋音は反応しなかった。
嫌っているわけではない。誰かと話すのが苦手というわけでもなかった。昔は、むしろよく話す方だったと思う。嬉しいことがあればすぐ顔に出て、嫌なことがあれば兄に文句を言って、からかわれれば本気で頬を膨らませていた。
けれど今は、表情の動かし方が少しわからない。
笑う必要がない時間が長すぎた。
泣いても戻らないものが多すぎた。
秋音は席を立ち、食堂へ向かおうとした。その時、廊下の窓に映った自分の顔が目に入る。整った髪。乱れのない制服。表情の薄い顔。
自分でも、知らない人のように見える。
昔の自分は、もっと兄に似ていた。よく笑って、よく喋って、何かあるたびに兄の後ろをついて回っていた。兄さん、兄さんと何度も呼び、そのたびに春太は面倒くさそうな顔をしながらも、必ず振り返ってくれた。
秋音は目を伏せる。
記憶の中の兄は、いつも少し軽かった。
『兄さん、私、大きくなったら兄さんのお嫁さんになります』
『はいはい。まずは宿題終わらせてからな』
『流しましたね』
『流してない流してない。超真剣に受け止めた結果、現実的な第一歩として宿題を提案した』
『兄さん、そういうところがあります』
あの時の自分は、本気で怒っていた。
そして本気で、そうなれると思っていた。
子どもの言葉だと、周囲は笑ったかもしれない。けれど秋音にとって、兄は世界で一番近い人だった。優しくて、少しふざけていて、いざという時は絶対に手を離さない人。
その手が、火災の夜に離れた。
秋音は、無意識に自分の手を握った。
熱。煙。赤い光。壊れたAMロイドの機械音。兄の背中。強く握られていた手。そして、最後に突き飛ばされた感覚。
兄は秋音を逃がした。
自分の代わりに、炎の中へ残った。
「……兄さん」
声は小さかった。
誰にも聞こえないほど小さく、けれど秋音の胸の中にははっきり響いた。
兄は死んだ。
両親も死んだ。
残ったのは秋音だけ。
だから秋音は、止まれない。あの火災を事故で終わらせるつもりはない。AMロイドの暴走で片づけられた記録の奥に、必ず何かがある。兄のような人を、もう増やさない。そのために天機学園へ来た。ここで上に行き、情報へ近づき、火災を起こしたものに辿り着く。
許すためではない。
終わらせるために。
陰極寮のガイダンスは、予定通りの時間に始まった。
寮監を務める教官は、落ち着いた女性だった。声は低く、説明は簡潔。陰極寮の新入生たちは、誰も騒がず端末に必要事項を記録している。
「陰極寮は、制御型、解析型、調律型の適性者が多く所属する寮です。陽極寮と比べ、出力よりも安定性、精密性、継続性を重視する傾向があります」
秋音は端末に目を落としたまま、要点だけを拾っていく。
無許可展開は禁止。全身展開は教官または管理AIアリアの許可が必要。長時間展開後は必ず同期負荷チェックを受けること。装甲損傷時の海水接触は重大エラーに直結するため、海上演習時は緊急停止手順を徹底すること。
どれも予習済みだった。
だが、知っていることと、現場で使えることは違う。秋音は説明を流さず、一つずつ頭の中で再確認する。
「本日午後には、陽極寮との合同基礎講義があります。初回はAMS管理システムと部分展開の基礎確認です。実技は軽度ですが、適性値の高い者ほど過信しないように」
陽極寮。
秋音は、ほんのわずかに視線を上げた。
昨日、入学式の後に見た少女の顔が浮かぶ。
大原春奈。
カリスマモデル。明るく、派手で、誰とでもすぐに話せるタイプ。秋音とは、おそらく正反対の人間だ。周囲の視線を集めることに慣れていて、笑い方も自然で、天機学園の中にいても浮いているのに、不思議と場に馴染んでいた。
関係ない人のはずだった。
それなのに、視線が勝手に追っていた。
秋音は自分の指先に力を込める。
違う。
あの人は兄ではない。
兄さんはもういない。
午前の準備を終え、陰極寮の生徒たちは中央学区へ向かった。
陽極寮側の生徒たちとは、講義棟前の広場で合流することになっていた。遠くからでも、陽極寮の生徒たちはわかりやすい。声が明るく、動きが大きく、集団の空気が外へ広がっている。陰極寮の整った静けさとは違う。
その中心近くに、大原春奈がいた。
「合同講義って、陰極の子たちも来るんだ。へー」
春奈の声が聞こえる。
軽い。けれど、耳に残る声だった。
周囲の生徒に囲まれながら、春奈は笑っている。昨日の広告で見たモデルの笑顔とも少し違う。作られた完璧な笑顔ではなく、人との距離を軽くするための笑い方。相手を緊張させないように、わざと少し崩しているような笑い方。
秋音は立ち止まりかけた。
胸の奥が、変にざわつく。
昔、兄もそんなふうに笑っていた。自分の緊張を誤魔化す時も、誰かを安心させる時も、少しふざけたように笑っていた。何も考えていないように見えて、実は相手の顔色をよく見ている。
大原春奈の笑い方は、それに似ていた。
違う。
秋音は、また自分に言い聞かせる。
髪も違う。顔も違う。声も違う。性別も違う。兄さんではない。兄さんであるはずがない。
それでも、春奈がこちらを見た瞬間、秋音の呼吸が一拍遅れた。
目が合った。
ほんの一瞬だけ。
春奈の表情は変わらなかった。周囲に向けていた明るい笑顔のまま、視線だけが秋音を捉えた。けれどその目の奥に、説明できないほど深い安堵のようなものが見えた気がした。
初対面の相手に向ける目ではない。
秋音はそう思った。
春奈はすぐに視線を戻し、近くの生徒に話しかける。
「いやー、緊張してきたかも。陰極の子たち、みんな賢そうじゃん」
「大原さんも天機に受かってる時点で十分賢いでしょ」
「そう言ってくれるの優し。モデルだから脳みそ空っぽ扱いされがちで泣く」
周囲が笑う。
春奈も笑う。
秋音は、その笑顔を見つめていた。
胸の奥のざわめきが消えない。兄を思い出すことは、今までもあった。けれどそれは記憶の中だけの話だった。写真、声、手の感触、火災の夢。そういうものが秋音を過去へ引き戻すことはあっても、目の前の誰かを見て兄を感じることはなかった。
まして、兄以外の誰かに心が揺れるなど。
あってはいけない。
秋音は視線を伏せる。
兄さん以外に、そんなことを思うはずがない。
講義棟の前は混み始めていた。陽極寮と陰極寮の新入生が合流し、案内ドローンが講義室への入室を促している。人の流れはゆっくりだが、初回講義ということもあり、全員が少し落ち着かない。
秋音は人混みの端を選んで歩いた。
不意に、前方の生徒が足を止める。隣から押された誰かの肩が秋音にぶつかり、体勢がわずかに崩れた。大きくよろめいたわけではない。自力で戻せる程度だった。
だが、その前に手が伸びていた。
春奈の手だった。
「あ、ごめん。大丈夫?」
春奈の指先は、秋音の腕に触れる直前で止まっていた。支えようとして、けれど触れていいのか迷ったような、半端な位置。秋音は自力で体勢を戻し、その手を見る。
その動きに、見覚えがあった。
昔、階段で足を踏み外しかけた時、兄が同じように手を伸ばした。先に支える準備をして、でも秋音が自分で立て直した時には、少し照れたように手を引っ込めた。心配しているくせに、大げさにしないよう誤魔化す癖。
目の前の少女が、同じことをした。
「……問題ありません」
秋音は短く答えた。
声が普段より少し硬い。
春奈は一瞬だけ安心したような顔をした。すぐに軽い笑みに戻したが、秋音はその変化を見逃せなかった。
「そっか。ならよかった」
ならよかった。
その言い方も、少しだけ引っかかった。
初対面の相手への言葉にしては、温度がありすぎる。誰かを本気で心配して、無事だと知って息を吐く時の声だった。
秋音は春奈を見る。
春奈は目を瞬かせた。
「えっと、なに?」
「いえ」
秋音は視線を外す。
「何でもありません」
「そ、そっか」
春奈の声が、ほんの少しだけ不自然に揺れた。
秋音はそのまま講義室へ入った。
席に着き、端末を開く。講義資料が自動で表示され、受講者一覧が端に流れた。陽極寮、陰極寮、第一学年合同基礎講義。名前の羅列の中に、大原春奈の文字がある。
秋音は、その名前を一度だけ見つめた。
「違う」
誰にも聞こえないほど、小さく呟く。
あの人は兄さんではない。
兄さんは、あの火災で死んだ。
秋音を庇って、炎の中に残った。
だから、大原春奈に兄の面影を感じるのはおかしい。あの人の笑い方に胸がざわつくのも、手の伸ばし方を覚えている気がするのも、全部ただの錯覚だ。
そうでなければ、困る。
兄さん以外に安心するなんて。
兄さん以外の誰かを目で追ってしまうなんて。
それは、兄への裏切りのように思えた。
秋音は端末を閉じる。表情は動かない。姿勢も乱れない。周囲から見れば、いつも通り冷静な大野秋音にしか見えないだろう。
けれど胸の奥は、静かに波立っていた。
少し離れた席で、春奈が陽極寮の生徒たちと話している。明るく、軽く、何も背負っていないように笑っている。
秋音は無表情のまま、その横顔を見た。
あの人は、兄さんじゃない。
そう言い聞かせても、胸のざわめきは消えなかった。




