第1話 美少女AMロイド、天機学園に立つ
海の上に、街が浮かんでいた。
水平線の向こう、朝日に照らされた人工島が、青い海面を割るように姿を現す。島というにはあまりにも整いすぎていて、都市というにはあまりにも閉じている。中央には白銀の校舎群がそびえ、その周囲を研究施設、訓練区画、居住区、商業エリアが幾何学模様のように取り囲んでいた。
天機学園。
人工機械化システム――AMSの運用と開発を学ぶ、日本が世界に向けて掲げた海上浮島型の全寮制学園都市。設立から間もないにもかかわらず、その名前はすでに世界中の研究機関、企業、軍事関係者の間で知られている。
そんな場所へ向かう高速シャトルの窓際で、大原春奈は頬杖をついていた。
「やば。海の上に学校って、普通に映えるじゃん」
明るめに巻いた髪。整った顔立ち。制服の着こなしは校則違反ギリギリではないのに、妙に目を引く。指先のネイルは控えめなピンクで、耳元には小さなピアス風の認証デバイス。姿勢はだらしないようで、重心の置き方には妙な隙がなかった。
周囲の新入生たちは、ちらちらと春奈を見ている。
無理もない。大原春奈は、ただの新入生ではなかった。ファッション誌の表紙を何度も飾り、近未来型のAMSウェア広告にも起用されている、現役のカリスマモデルだ。動画広告では無邪気に笑い、撮影現場では完璧な角度でカメラを射抜く。十代向けのブランドでは、もはや知らない者の方が少ない。
「ねえ、あれ……大原春奈じゃない?」
「本物? え、天機学園に?」
「モデルって、AMSもできるの?」
「いや、ここ倍率えぐいって聞いたけど……」
小声のつもりらしいが、春奈の耳には普通に入っていた。
春奈は視線だけを動かし、にこっと笑って手を振る。
「やほー。本物でーす。写真はあとでね。今ちょい入学式前でバタってるから」
その一言で、シャトルの一角が小さく沸いた。何人かが慌てて視線を逸らし、何人かは顔を赤くし、何人かはスマートグラス越しに本人認証を確認しようとしている。
春奈は笑顔のまま、窓の外へ視線を戻した。
モデルだからAMSができない、という発想はわからなくもない。外から見れば、春奈は派手で、軽くて、よく笑う、いわゆる今どきのギャルだ。難関の天機学園にいるより、渋谷の広告塔の中にいた方がよほど似合う。
だが、それは外から見た話でしかない。
天機学園の入試は、学力、AMS適性、判断力、身体負荷耐性、AI同期反応、緊急時対応を複合的に判定する。見た目だけで潜り込める場所ではない。そもそも春奈に言わせれば、出雲孔雀の下で受けた訓練に比べれば、入試などまだ人道的だった。
あの人の訓練、マジで合法だったのかな。
春奈は頬杖をついたまま、口元だけで苦笑した。
その瞬間、右耳の認証デバイスに短い通知音が鳴る。視界の端に、天機学園の全体マップが投影された。中央学区、研究区、訓練区、医療区、商業区、港湾区、寮区。そして一部だけ、黒く塗りつぶされた立入制限区域。
春奈はその黒い場所を見て、半眼になる。
あー、孔雀先生の巣、あそこね。表向き存在しないラボを新入生用マップにうっすら残すなっての。
出雲孔雀。AMSの第一人者にして、世界で最も有名な変人科学者。春奈を今の身体にした張本人であり、春奈にとっては命の恩人でもある。恩人ではある。あるのだが、感謝だけで済ませるには、あまりにも余計な改造と余計な演出が多すぎる。
特にこの外見。
誰もが振り返るほど整った顔。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ体。本人の趣味なのか、孔雀の趣味なのか、今となっては考えたくもない。いや、九割九分孔雀の趣味だろう。
春奈は窓に映る自分の姿を見て、軽く前髪を整えた。
まあ、使えるものは使うけど。可愛いのは事実だし。
そう思えるようになっただけ、昔よりはだいぶマシになった。
シャトルが減速を始める。海上を走る誘導レールに沿って、車体が滑るように港湾区へ入っていく。ゲートの先では、すでに新入生たちが列を作っていた。制服の色も、髪の色も、肌の色も様々だ。日本人だけではない。英語、中国語、フランス語、聞き慣れない言語がいくつも混ざっている。
世界中から選ばれたAMS適性者たち。
そして、その中に。
春奈は無意識に背筋を伸ばした。
大野秋音。
その名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥に埋め込まれたAMSコアが、かすかに熱を帯びた気がした。機械的な異常ではない。エラーでもない。ただ、身体の中心が勝手に反応したような、そんな錯覚。
妹が、この島にいる。
火災以来、直接会うことができなかった妹。生きていることだけは知っていた。保護されたことも、成長したことも、天機学園に合格したことも、孔雀がどこからか拾ってきた資料で確認している。
でも、会ってはいない。
会えるはずがなかった。
今の春奈は、もう大野春太ではない。
シャトルの扉が開いた。
潮の匂いと、機械油に似た薄い匂いが混じった空気が流れ込んでくる。新入生たちが一斉に立ち上がり、ゲートへ向かった。春奈もキャリーケースを片手に、軽い足取りで降りる。
港湾区の床は白く、ところどころに青い誘導ラインが走っていた。上空には小型ドローンが巡回し、各言語で案内を流している。入学式の会場へ向かう新入生たちの列は、まるで観光地の入場ゲートのようだった。
だが、その空気の下には、厳しい管理の気配がある。
ゲートの両脇にはAMS認証用のスキャナ。壁面には非常時用の停止装置。天井には非殺傷制圧用の警備ユニット。学生を迎え入れる場所でありながら、同時に、暴走したAMロイドを即座に止めるための場所でもある。
春奈はそれを一瞥して、口の中で小さく呟いた。
「警戒えぐ。まあ、当然っちゃ当然だけど」
AMロイド。
AMSを利用して、一時的に身体を機械化する者たち。腕だけ、脚だけ、視覚補助だけといった部分展開から、全身を装甲で覆う完全展開まで、その運用は幅広い。労働、医療、介護、災害救助、警備。今では社会のあちこちに、AMSは入り込んでいる。
けれど、便利な技術には、必ず影がある。
暴走。同期不全。AIの誤認。出力制限の突破。人間の身体を守るためのシステムが、人間を傷つける可能性。
その全部を知っているから、天機学園は美しいだけではいられない。
春奈がゲートに学生証をかざすと、透明な認証パネルが淡く光った。
『新入生登録を開始します。氏名、大原春奈。所属予定、第一学年。AMS適性ログ照合中』
無機質な女性の声が響く。
周囲の生徒たちは、ただの案内音声として聞き流していた。けれど春奈だけは、ほんの少し目を細める。
アリア。
天機学園、そしてAMSシステムの中枢を統括する管理AI。出力制限、同期管理、緊急停止、適性者保護。学園におけるAMS運用は、ほぼ全てアリアの承認を通る。
表向きは、ただの高性能AI。
だが春奈は知っている。あの声が、本当はただの機械音声ではないことを。
『照合完了。大原春奈、認証を許可します』
そこまでは、他の生徒と同じだった。
けれど次の瞬間、春奈の右耳にだけ、小さな音声が割り込んだ。
『ようこそ、春奈。余計な騒ぎは起こさないように』
春奈は笑顔を崩さないまま、口元だけで返す。
「うっわ、信用なさすぎじゃん」
『過去データに基づく妥当な判断です』
「ひど。あたし、今日は清楚系新入生でいく予定だったんですけど?」
『清楚の定義を再確認しますか』
「やめて? 普通に傷つくから」
もちろん、周囲には聞こえていない。春奈の認証デバイスを通じた限定通信だ。傍から見れば、春奈が少し独り言を言った程度にしか見えない。
それでも、近くにいた男子生徒が目を丸くしていた。
「あの、大原さん、今のって……」
「ん? あー、ごめん。独り言多いタイプなんだよね、あたし。緊張すると喋るやつ」
「緊張、してるんですか?」
「してるしてる。マジでしてる。心臓バックバク」
春奈は軽く胸元に手を当てて見せた。
嘘ではない。
ただし、理由は入学式ではなかった。
認証ゲートを抜けると、視界が開けた。目の前に広がる中央広場には、巨大なホログラム掲示板が浮かんでいる。新入生の案内、寮分け、クラス分け、式典会場までのルート。情報量は多いが、整理されていて見やすい。
その中央に、寮分けの項目があった。
陽極寮。
陰極寮。
天機学園の学生寮は、大きく二つに分かれている。電気の極性を元にした名称で、陽極は出力型や機動型の適性者が多く、陰極は制御型や解析型の適性者が多い傾向にある。もちろん絶対ではないが、学園側は適性、性格、運用傾向を総合して所属を決める。
春奈は掲示板の前で立ち止まり、自分の名前を探した。
大原春奈――陽極寮。
「まあ、そりゃそっか」
ギャルで、モデルで、目立って、出力型。外から見れば、陽極以外に入れようがない。中身の事情を知っている者からすれば、陽極どころか分類不能でもおかしくないが、そこは学園側がうまく処理したのだろう。
問題は、春奈の名前ではない。
指先が、わずかに止まった。
視線が、別の欄へ移る。
陰極寮。第一学年。制御適性上位者欄。
そこに、その名前はあった。
大野秋音。
春奈は、息を忘れた。
たった四文字。
何度も見た名前だ。資料でも、合格者名簿でも、適性検査の結果でも確認した。生きていることは知っていた。ここに来ることも知っていた。今さら驚くことではない。
それでも、掲示板に刻まれたその名前は、春奈の胸を奥から掴んだ。
秋音。
生きている。
同じ場所にいる。
同じ学園の、同じ一年生として。
「……マジか」
声が漏れた。
その声は、いつもの春奈より少し低かった。
すぐに気づいて、春奈は軽く咳払いをする。近くの新入生がちらりとこちらを見たので、いつもの笑顔を作った。
「いやー、知り合いの名前あってさ。びっくりしただけ」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。
掲示板の表示が切り替わり、寮ごとの集合場所が案内される。陽極寮は中央広場の右手、陰極寮は左手。新入生たちがそれぞれの誘導ラインに沿って動き出した。
春奈は陽極寮の列へ向かおうとした。
その時だった。
左手の人波の中に、ひときわ静かな少女がいた。
黒に近い落ち着いた髪。背筋はまっすぐで、表情はほとんど動かない。周囲の新入生たちがざわめく中、その少女だけが音から切り離されたように立っている。必要最低限の荷物を持ち、掲示板を一度確認すると、迷いなく陰極寮の集合場所へ歩き出した。
大野秋音。
春奈の視界が、そこだけ鮮明になった。
昔の秋音は、もっとよく笑う子だった。春太の後ろをついてきて、何かあるたびに「兄さん」と呼んで、嬉しい時は顔いっぱいに出して、嫌な時はすぐ頬を膨らませた。頑固で、甘えん坊で、妙に負けず嫌いで、いつか兄さんのお嫁さんになるのだと真顔で言っていた。
目の前の秋音は、笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、凍ったような顔で前を見ていた。
春奈の指先が震える。
声をかけたい。
秋音、と。
久しぶり、と。
生きていてくれてよかった、と。
兄ちゃんだよ、と。
喉元まで出かかった言葉を、春奈は奥歯で噛み殺した。
言えるわけがない。
今の春奈は、妹を庇って死にかけた兄ではない。大原春奈という名前で生きる、体内にAMSコアを宿した規格外のAMロイドだ。見た目も、声も、身体も、何もかもが変わっている。
そんな女が突然現れて、自分は兄だと言ったら。
秋音は、どうなる。
あの子は、やっと立っているのかもしれない。笑わなくなって、感情を閉じ込めて、それでも努力だけでここまで来たのかもしれない。春奈が何も知らない顔で近づくだけでも危ういのに、真実をぶつければ、今度こそ壊れてしまうかもしれない。
だから、春奈は笑った。
いつも通り、軽く。
何も背負っていない美少女モデルみたいに。
「……うん。大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いて、春奈は陽極寮の列へ歩き出した。
けれど、足は一度だけ止まる。
秋音が、ほんのわずかにこちらを向いた気がした。
目が合ったわけではない。たぶん、ただの偶然だ。大原春奈という有名人の気配に、周囲と同じように反応しただけかもしれない。
それでも春奈の心臓は、馬鹿みたいに跳ねた。
秋音の瞳は、昔よりもずっと静かだった。
その静けさが、痛かった。
「……やっば」
春奈は小さく笑う。
「妹、可愛すぎん?」
軽い言葉で誤魔化さなければ、立っていられなかった。
陽極寮の集合場所では、すでに何人かの新入生が春奈を待つように見ていた。声をかけたそうな者、遠巻きに眺める者、興味を隠さない者。春奈はその全員へ向けて、いつもの笑顔を向ける。
「やほー。大原春奈でーす。まあ、同じ寮っぽいし、仲良くしてくれると助かる的な?」
場が一気に和む。
誰かが笑い、誰かが緊張を解き、誰かがスマートグラスの録画を慌てて止めた。春奈はその空気を器用に受け流しながら、陽極寮の列に並ぶ。
けれど、心だけはまだ左側に残っていた。
陰極寮へ向かう秋音の背中。
もう小さな妹ではない。春奈が知っている秋音より背が伸びて、雰囲気も変わって、近づきがたいほど静かになっている。それでも、歩き方の癖だけは少し残っていた。右足を出す時、ほんの少しだけ重心が内側に入る。幼い頃、春太が何度もからかった癖だ。
間違いない。
秋音だ。
春奈の妹だ。
そして、今の春奈が一番会いたくて、一番会うのが怖かった相手。
『心拍数の上昇を確認。呼吸が浅くなっています』
耳元で、アリアの声がした。
「うっさい。わかってるし」
『必要であれば、感情安定プログラムを提案します』
「いらない。こういうのは、機械でどうにかするやつじゃないっしょ」
『同意します』
その返事は、ほんの少しだけ、無機質なAIらしくなかった。
春奈は小さく息を吐いた。
海風が、制服の裾を揺らす。遠くで入学式開始のチャイムが鳴り、中央広場のホログラムが式典会場への移動を促した。新入生たちが列を整え、天機学園の門をくぐっていく。
春奈も歩き出す。
大原春奈として。
カリスマモデルとして。
今どきのギャルとして。
天機学園の新入生として。
そして、胸の奥に焼け残った名前を抱えたまま。
大野春太。
大野秋音の兄だった名前。
今の大原春奈が、二度と名乗れないはずの名前。
それでも春奈は、左手の人波の先に消えていく妹の背中を見つめながら、声にならない言葉を胸の中で呟いた。
秋音。
兄ちゃんは、ここにいる。
けれど、その声は海風にも乗らず、誰にも届かなかった。
天機学園の門が、静かに閉じていく。
人間とAI、機械と心、その境界線の上に作られた学園都市で、大原春奈の新しい日常が始まろうとしていた。




