SP04 自分の意志で最初の一歩を踏み出してください
お仕事のための準備回。主人公はほんの一部だけでも自分の意志で動かせるように奮闘します。
その過程で、過去と未来が垣間見えます。
理事長が帰ったときにはマリトのフラストレーションは爆発寸前になっていた。
――いくらなんでも、重大なことを、相談もなく安請け合いしすぎてるだろう。
――落とし所のわからない高難度案件を社長や役員が取ってきたときみたいだ。
――最初からデスマーチ必至とわかっている案件なのに、やらないといけないという絶望の現場……
マリトがひとくさり文句を言おうと思っていたところ、
「お父さん、怒っていますか?」
「とてもイライラしているような気持ちが伝わってきています」
ラミーシャが不安そうに尋ねてきた。
「はい。ちょっと怒っていますね」
「きっといろいろアドバイスをくれていたんですね」
「わたし、理事長先生とお話するの、はじめてで、舞い上がっちゃって、本当はお父さんの意見を一番に聞かないといけなかったのに……」
「せっかく私のところに来てくれたのに、失礼なことをしてしまって、私のばかばか……、どうしていつもこうなっちゃうんだろう……」
今にも泣きそうな様子に、文句を言おうという気持ちは失せてしまった。
「怒ってはいるけど、それはとても自分にできなさそうにない、世界レベルの難題の解決を求められていることに対してであって、君に対してではないんです」
「ほんとですか?」
「あの、言い訳になるんですが……」
「頭の中の会話を把握するのには集中が必要なんです」
「まだ慣れてなくて、外の話の声が強いと、かき消されちゃうんです」
「きっと次の段階に入ると改善するんじゃないかと思っているんですが、やってみて良いですか?」
「いいですよ」と答えた。
ラミーシャがしゃべるのをやめて、しばらく静かな状態が続いたが、やがて頭の中に遠くかすかな声が聞こえているのかもしれないという感覚を覚えた。
聴力検査で、ピーピーという音が少しずつはっきり聞こえてくるのに似ている。
「・・・・・・・・・・か?」
「おと・・きこ・・・すか?」
最初は何かわからなかったが、少しずつはっきり聞こえてきた。
「お父さん、聞こえますか?」
ラミーシャが頭の中で、呼びかけているんだ、そう理解した。
「はい。聞こえます」
「面白いですね」
マリトも心の中で答えた。
「これって、内緒のひそひそ話してるみたいですね」
ラミーシャから心が弾む感覚が伝わってくる。
どうやら楽しくなってきたらしい。
◇
「あの、もう一歩、先に進んでみませんか?」
そう言うと、立ち上がり、手鏡を持ってきて、ベッドに腰掛け、自分の顔の正面に持ってきた。
「これから、お父さんに私の身体を預けますね」
「預けるというのは、私ではなくお父さんの意思で動かせるようにするということです」
「その状態で、まぶたを開けてみてください」
そう言って目を閉じた。
真っ暗になった。
この世界に来てマリトはまったく身体を動かせていない。
今朝、金縛りにあったときの感覚の再来だ。
ただ、手鏡を持って座った姿勢のままだというのはわかる。
――まぶたが一番最初に動く場所なのだな
そう思いながらまぶたを開こうとする。
しかし、そもそもどうすればまぶたが動くのか、その感覚が思い出せない。
まぶたを動かすための神経が通っていないかのようだ。
そっと静かに開こうとしてみたり、逆に、素早く開こうしてみたり、いろいろ試してみる。
しかし、どうやっても動かすことはできなかった。
何もできないと思った途端、それまで思い出せていなかった、この世界に来る直前の記憶が、突然フラッシュバックしてきた。
『たすけてください』と唇を動かす、血まみれの後輩の目。
任務を果たせずに倒れた女性士官のうつろに開かれた目。
その士官の手を離れた拳銃に手を伸ばそうとするが、恐怖で手が伸ばせない。その記憶が今と重なる。
そして冷酷な目の兵士が振り返り、拳銃をこちらに向ける。
酷薄な笑いと共に、『Good bye』と口元が動き、引き金にかけた指に力が入る。
――なぜ、いままで、ここに来る前のことを忘れていたんだろうか?
余計な思念を振り払いながら、まぶたを開くことに集中する。
しかし、どうしても動かない。
――なんて自分は無力なんだろう。
自分の無力さを改めて噛みしめる。
動かすことのできない目から、温かい涙があふれ出るのを感じた。
流れ落ちる涙が、顎から膝の上に落ちるのを感じる。
「お父さん、大丈夫ですか?」
ラミーシャの心配そうな心の声が聞こえる。
涙が流れ落ちているのは彼女も感じているはずだ。
その声と重なるように、もう一つのラミーシャの声が聞こえる。
心の中ではなくて前の方からだ。
乾燥した風が頬に当たるのを感じる。
ラミーシャの声のトーンが変わっている。
――泣いているのか?
「『お父さん』じゃないほうがよかった」
「どうして『お父さん』で良いって言ったんですか」
「どうして強く断ってくれなかったんですか」
――え、何を言い出すんだ?
理解が追いつかない。
「これまでありがとう。さようなら、お父さん」
そして、唇に柔らかいものが押しつけられるのを感じた。
――え、唇?
自分はラミーシャの中にいるので、前にいるのはラミーシャのはずがない。
驚いたマリトは、「ミーシャ?」と言いながら、目を見開いた。
手鏡の中に、ラミーシャの驚いて目を丸くした顔がこちらを見つめ返していた。
目は真っ赤に充血し、流れた涙で顔全体が光っている。
その表情が緩み、ラミーシャが身体の動きを取り戻したのがわかった。
手を伸ばして布を取り、流れるままになっていた涙を拭い、鼻をかんだ。
◇
「よかったです」
ほっとした気持ちで、頬は緩んでいるが、
それでも、涙は流れ続ける。
泣き笑いの状態だ。
「わたし、調子に乗って急ぎすぎて、お父さんに辛い思いをさせちゃったかと思って」
「なんてことしちゃったんだと思って」
「『目を開けられますように』って一生懸命祈ったんです」
「そうしたら、目が開いて、もう、わたし、ほっとして、うれしくて……」
もう何を言っているかわからない。号泣になっていく。
少し落ち着いてきたところで、マリトは気になっていたことを聞いてみた。
「あれは一体何だったんですか?前から君が顔を近づけてきて……」
ラミーシャは不思議そうに答える。
「え?お父さんは私の中にいるんですよ。そんな分身みたいなことはできないです……」
――あるいは魔法か?
「魔法で幻覚を見せるようなことはできるのですか」
「いえ、精霊さんにはそういうことはできないと思います」
――精霊?
「精霊という存在が魔法を実現しているのですか?」
「はい。魔法は世界中のいたるところにいる、精霊さんに頼んで働いてもらうんです」
「だから精霊さんにできないことはお願いしてもできません」
「物を動かしたりは?」
「できません。精霊さんは力持ちじゃないんです」
「ほんのちょっとしたことを大勢でやるような感じです」
マリトの脳裏に、窓の外の赤い灯りが一斉に白く変わっていく光景が蘇った。
「たとえば、部屋を涼しくしたりとかはできるんですよ」
「いま、部屋の中は魔法が効いているので快適ですけど、外に出るとすごく暑いんです」
「これは窓のところにいる精霊さんが、冷たい空気と温かい空気を選別してくれるからなんです」
「空気の選別って、どういう意味なの?」
「ええとですね、窓には、目に見えないちっちゃな扉があって――精霊さんはその扉に近づいてくる空気を見張っているんです」
「それで温かい空気が来たら扉を閉めて、冷たい空気だったら扉を開けて通すっていうのをやってもらっているんです」
マリトは小さな扉というあたりがどうにも理解できなかった。
ただ、なんとなく、似たような話をどこかで聞いたような気もしたが、思い出せなかった。
◇
いずれにしても、彼の目を開かせてくれた出来事は、ラミーシャ自身は知らないことのようだ。
顔を近づけてくるときに感じた熱も、押しつけられた唇の感触も、いまだに残っている。
ラミーシャは身体の感覚は共有していたはずだが、何も感じなかったと言っている。
マリトには幻覚や気のせいとは思えない現実感があった。
――『未来の記憶……』
脈絡なくそんな単語が頭に浮かんだが、意味を形作ることなく消えていった。
――彼女の強い祈りが引き起こしてくれた奇跡だったのかもしれない。
マリトはそう思うことにした。
諦めかけていた自分に力をくれた、その奇跡に、そして自分のことを真剣に気遣ってくれる優しさに、感謝しかない。
今回の気持ちの高ぶりは、相互作用によって相乗的に増大したのだと思う。
気持ちがシンクロして一体となった体験は、それまで経験したことのない感動を伴い、今も余韻を残している。
――この感覚はラミーシャも共有したはずだ。
彼女との心の距離が、それまでよりずっと近くなったように感じた。
マリトは心を決めた。
――召喚は間違いなのかもしれないし、自分の力は足りないかもしれないが、この世界でこの娘の想いに応えるために、持てる力のすべてを尽くそう。
このとき、マリトが動かすことができたのは、まぶたを開くための、たかだか1センチの距離に過ぎない。
しかしそれは、元の世界への帰還を果たすまでの長く続く彼の異世界の旅路へ、彼自身の意志で踏み出した最初の一歩であった。
そして、彼とラミーシャという異世界バディの心を固く結びつける決定的な一歩となった。
◇
「あの、お願いがあります」とラミーシャが口を開いた。
「これからは、『ミーシャ』って呼んでほしいんです」
「さっき、目を開いたときに、お父さん、私のこと『ミーシャ』って呼んでくれましたよね」
「お父さんが、わたしのことを家族だって思ってくれてる、って思って、それもわたし、すごく、うれしくって……」
「それと、話し方も家族に話すときみたいにしてくれるとうれしいです」
「わかったよ。ミーシャ」
「ありがとうございます!」
うれしい気持ちが伝わってくる。
――あれ?自分はどうして『ミーシャ』が愛称だということを知っていて、呼びかけたのか?
その疑問がマリトの頭をかすめる。
身体を動かす練習は、気長に少しずつ進めることになった。
努力してもまぶたが開かず、なぜ突然開くことができたのかについては、わかった気がしている。
まぶたを開けようと努力したのが間違いだったのだ。
まぶたを開く準備はすでに整っており、見ようという目的を果たそうとしたことをきっかけに、必要な筋肉への動作指示が無意識に送られたのだろう。
大切なのは見たいという動機や目的であって、まぶたを開こうとする手段だけに集中していたために解決できなかったのだ。
――手段にこだわって目的を見失うとは……。コンサルとして失格だな。
◇
ノックの音がした。
「入りますよ」という声と一緒に、ナースがワゴンに食事のトレイを載せて現れた。
「こちら昼食ですが、お部屋で食べられますか?」
「ご友人がお見舞いに来られています」
「体調が良いようでしたら、待合室でご一緒に食事をされてはいかがですか?」
ラミーシャは「ありがとうございます。待合室で食べます」と答えた。
「では、食事の方は、待合室に運んでおきます」
ナースはそう言いながら、ワゴンの下の段から衣類のようなものを取り出した。
それをラミーシャに渡しながら伝えた。
「こちらに運ばれてきたときに着ていた制服です。それと、替えの下着と濡れたタオルです」
ナースが部屋を去ると、ラミーシャは受け取った制服をベッドの上に置いた。
「お父さん、わたし、着替えるので、こっち見ないでくださいね」
「そんなことを言われても、ミーシャが見ているものは全部見えてしまうんだけど……」
「そのことは知っています」
「でも、そこは『わかったよ』って言ってほしいんです」
「お父さんが私の身体をいやらしい目で見るような人じゃないってわかってはいるんです」
「でも、ちょっと恥ずかしいんです」
マリトには、今ひとつ彼女の感覚はわからなかったが、見えているものを意識しないようにして、集中して別のことを考えることにした。
「わかったよ」
ラミーシャはベッドから立ち上がると、斜め上の方を見ながら手探りで、ガウンの帯を解く。
ガウンを脱いで後ろ手にベッドに投げるとショーツ一枚になる。
ショーツも脱ぐと、濡れたタオルを手に取って、最初に顔を拭いた。
冷たいタオルが気持ち良い。
それから、全身をくまなく拭き始めた。手探りのまま……
ヒロインの協力で一歩踏み出せた主人公。
次回はお着替えシーンからの制服姿の初公開。そして、共に戦う友人との親交を深めます。
※ブクマといいねで応援もらえるとうれしいです。




