表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

五話 三匹(前編)

 魔界の『穴』の周囲には、相変わらず風が吹き荒れていた。

 異界に繋がる深淵の中を、何かかゆっくりと登って来た。

 穴の縁に手をかけ、体を引き上げて、立ち上がった。

 長い皮のコートが風にはためき、ゴーグルをかけた日焼けした顔が、辺りを見回した。

 男の顔に笑みが浮かんだ。

 人間離れした笑いだった。

 薄く開いた口の中に、闇が広がっていた。

 それからふいに、男は人間の動作と表情に戻った。

 懐かしげに辺りを見てから、歩き出した。

 確信を持った足取りで、ゆっくりと魔界の外を目指して。


 



 鯖丸は、ふかふかのベッドの中で目を覚ました。

 綺麗に片付いた清潔な部屋の中に、朝日が差し込んでいた。

 自分がこんな場所に居る理由が、毎朝ちょっとだけ分からなくなる。

 隣をごそごそ探って、誰も居なかったので本格的に目が覚めた。

 布団から出るのが辛くなる季節だ。部屋には暖房は入っていない。

 昨夜脱ぎ捨てた下着とパジャマを急いで着て、上からセーターを羽織った。

 トイレに行って用を足して、顔を洗って歯を磨いてヒゲを剃るという一連の作業を片付けた。

 寝癖の付いた髪の毛は、いつも通りそのままでスルーした。

 台所に行くと、もうすぐ朝ご飯が出来上がる所で、小さな子供がもう、きちんと幼稚園の制服を着て、テーブルに着いていた。

「遅いよ、鯖くん」

 子供に注意された。

「お早う由樹」

 挨拶してシンクの方に行くと、出来上がった味噌汁を渡された。

「お早うトリコ」

「ああ、お早う」

 外見は小柄な中学生、実は三十二才子持ちの未亡人、如月トリコと同棲を始めて四ヶ月経っていた。

 毎朝大体こんな感じだ。

 幸せを絵に描いた様な光景だなぁ…と、毎朝思う。

「今日は資源ゴミの日だから出しとけよ。それと、買い物メモそこだから、忘れないで買っといて」

「はいはい」

 味噌汁を運んでごはんを盛りながら、鯖丸は言った。

 たぶん、彼の思う絵に描いた様な幸せは、通常と少し違う。

 自分の分は大盛りにして食卓に並べ、席に着いた。

「いただきまーす」

 三人で言って、食事を始めた。

「トリコ、今日はジョン太と二人で魔界だっけ」

 鯖丸は聞いた。

「そうだけど、日帰りだから晩ご飯作っといて」

「分かった」

「えー、またカレー」

 由樹が文句を言った。

「仕方ないじゃん。俺、カレーしか作れないもん」

 以前鯖丸が作った、カレー以外の何か得体の知れない物を思い出した子供は、黙り込んだ。

「いや…待て。たまには違う物を作ってみようかな」

「カレー大好きー」

 トリコと由樹は、同時に叫んだ。


 鯖丸が食器を洗っている間に、トリコは二人分の弁当を手早く詰めて渡した。

 由樹の鞄に入れて「残さないで食べな」と言った。

 それから鯖丸に弁当を渡して、言った。

「お前は、学校帰りに変なもん買い食いするなよ」

 小学生の様な小言を言われる二十一才児だった。

「ええっ、まるまるバナナメープルシロップ味、まだ食ってないのに」

「禁止。ほら、素バナナとおやつ」

 普通のバナナとジップロックに入ったおやつを渡された。

 中身は出汁じゃこと炒り豆だ。

「母ちゃん。おれもおやつ」

「そうだねぇ、由樹はいい子だから飴ちゃんも入れといてやろう。食ったら歯を磨けよ」

「はーい」

 鯖丸は愕然と、甘い物要素ゼロの自分の間食を眺めた。

 こんなのおやつじゃないだろう、毎度の事だが。

「いや…いいんだけど。俺が自分で言い出した事だし。それはいいよ。でも、袋にマジックで鯖丸って書くのやめて」

「書いとかないと、由樹のと間違うだろう」

 トリコは、自分も出掛ける支度を始めたので、鯖丸も部屋に戻って服を着替えた。

「普通に武藤って書けばいいじゃん。俺最近、部の後輩にまで鯖丸先輩とか言われてんだよ。外界げかいでこんな名前、普及させたくないよ」

「じゃあ、その袋が破れたら書き直してやるよ。とりあえず破れるまで使え」

 トリコは基本的に所帯臭い。

 鯖丸も貧乏性の上に本物の貧乏なので、使える物は捨てられなかった。

 ジップロックの耐久性は、意外と高そうだ。

 当分学校でも鯖丸として生きて行く事になりそうだった。

 資源ゴミを出してから、由樹を連れて幼稚園のバス乗り場に向かった。

 近所の奥さん達とも、すっかり顔馴染みになってしまったので、挨拶して子供連れの集団に加わった。

「由樹君、いつもお兄ちゃんに連れて来てもらって、いいわね」

 中々美人の奥さんに言われた。

「ううん、鯖くんは兄ちゃんじゃないよ。母ちゃんの彼氏」

 子供は、言わなくていい事実を、絶対口に出して言ってしまうのだ。

 さすがに世間体に無頓着な鯖丸にも、周囲が音を立てて引くのが分かった。

 うわ、俺超居辛い。

「あの…誤解してるかも知れないんで言っときますけど、俺、高校生とかじゃないですから。こう見えて、けっこういい年ですから」

 めずらしく言い訳を始めた頃にバスが来た。


「人付き合いは難しいねぇ、迫田」

 学食で弁当を食いながら、鯖丸は言った。

「何言ってんの。人を踏みつけてでも我が道しか行かないお前が」

 迫田は呆れた。

 最近山本が休学して、外国の山に行ってしまったので、迫田しかお友達が居ない状態だ。

「俺ってそんな感じかなぁ、やっぱり」

 多少自覚はあるらしい。

 しんみりした顔で弁当をつついている。

「わぁ、美味そうだけど何か、ばあちゃんが作る様な弁当だな、それ」

 迫田は弁当を覗き込んで、わざわざケータイで撮っている。誰に見せるつもりだ。

「うん、弁当はうまいけど、おやつは非道いと思う」

「出汁じゃこだもんなぁ」

 迫田もうなずいた。

「ああ、もうアイスとか買っちゃえ」

 ポケットから小銭を取り出した鯖丸は、椅子を立ちかけた。

「いや、ダメだー。迫田、俺を殴って止めてくれ。手が勝手にアイス買っちゃう」

「何やってんだ、お前」

 迫田は、止める代わりに自販機から出て来たアイスを取り上げた。

「おおい君ら、貧乏で有名な武藤先輩が、アイスおごってくれるって」

 食堂の隅でたむろっていた後輩三人に、声をかけた。

「ええ、あの、貧乏でケチで性格悪い武藤先輩が。しかも三人で一個」

「嫌なら返せ」

「いえ、いただきます」

 三人で、アイスに巻いた紙をむき始めた。

「お前、どういう事になってんの。健康診断で血糖値でも高かったのか」

「ううん、骨密度が普通より低い以外は、割と元気」

「まだ低いんだ」

 迫田は、知らなかったという顔をした。

「ここ四ヶ月でだいぶ上がったから、もうちょっとで普通になるんだけど」

 鯖丸は、辛い顔をした。

「食生活を完全に管理されてます。ああ、素じゃない方のバナナが食いたい」

「お前の彼女、すげぇな。こんな言う事聞かない奴を…大変だろうなぁ」

 迫田は、何か身に覚えがあるのか、ため息をついた。

「違うの、俺が自分でお願いして、管理してもらってるの。

 次こそは完璧な状態に仕上げて、秋本をぼこぼこにしてやる」

「ああ、広大の秋本君、急にすごい強くなってたよねぇ」

 地区予選で武藤君が一本取られた事など、今まで無かった。

 普段でかい口をたたいているだけに、面目丸つぶれだ。

「何かお前にだけ、殺すつもりみたいな気迫でかかって来たけど」

「全く、一体何があったんだろう」

 どうもこうも、自分が原因なのは、全然憶えていないらしい。

 素でひどい奴だ。

 後輩三人は、秋本の事より、武藤先輩に彼女が居るという話に、普通に驚いていたが、迫田にケータイの写真を見せられると「うわっ、犯罪者」と叫んだ。

「先輩、捕まる前に早く別れて。不祥事を起こしたら、俺らまで出場停止に」

「うるせぇ、今まで大丈夫だったんだから、平気だ」

 何の根拠もない事を言い切った。

 たぶん、いずれ捕まると思う。


 トリコは、予定より少し遅い時間に帰って来た。

 鯖丸は、台所のテーブルで、普通の学生らしく真面目に勉強していた。

「ただいま」と言って部屋に入ると「お帰りなさい」と言われた。

「由樹は?」

「さっき寝たよ」

 椅子を立ちながら鯖丸は言った。

 部屋中カレーの匂いがする。

「カレーにする?お風呂にする?それとも寝る?」

「三択かい」

 他に選択肢はないのか。

「じゃあカレー」

 カレーはすぐ出て来た。一応サラダらしき物が付いている。

 キャベツとレタスの千切りに、プチトマトが2個乗っているだけだが、まぁ作ってくれるだけでありがたい。

「今日はどうだった」

 仕事の事を聞かれた。

「普通かな。魔界経由で密輸入して来たパチもんトカレフの回収。ヤクザ屋さんと、ちょっと撃ち合いになったけど、ジョン太が居るし、どうって事なかったよ」

 最近、これくらいの乱暴な仕事は、普通になって来た。

「ジョン太、まだ魔法使えないの」

「うん、ありゃダメだな。ガード堅すぎて」

 トリコは、肩をすくめた。

「今度三人でやる仕事が入ったら、二人がかりで無理矢理犯っちゃおうか」

 ひどい事を言い始めた。

「ジョン太相手に無理矢理なんて、二人じゃ出来ないと思うけど」

 十人居ても無理かも知れない。

「いや、力ずくじゃなくて、私の超絶テクでこう、骨抜きにする方向で」

 何かいやらしい手つきをして見せた。

「そんなの俺にして欲しいわ。最近トリコ普通にするばっかりで」

 悪魔超人が、何か言い始めた。

「お前とは、一通り色々やったからなぁ」

 トリコは、遠い目をした。

「最近、普通が新鮮で」

 ただれたカップルの会話になって来た。

 カレーを食べ終わったトリコは、風呂に入って来ると言って、部屋を出た。

 普通は嫌とか言っていたくせに、鯖丸はうきうきした感じでパジャマに着替え始めたが、ふと止まった。

「いや、待て。どうせ脱ぐのに、何でこれ着るんだ。ああ、でも着てないと寒いし…」

 貧乏性なので、エアコンのスイッチを入れるという発想は無かった。


 トリコがゆっくり風呂に入って、髪の毛も乾かして出て来た時、考え過ぎて何かが一周半してしまった鯖丸は、一度着たパジャマを脱ぎ捨てて、コンドームだけ装着して、なぜか変なポーズで立っていた。

 うわ、これ突っ込まないといけないんだろうな、めんどくさい。

「何やってんだ」

 一応聞いた。

 本音は、君とはもうやっとられんわー、だった。

「ドラッグストアのワゴンセールで安かったから…」

 鯖丸は、自分の股間を指差した。

「適当なの買って来たら、こんなだったので」

 良く見ると、なぜか金色に光っている。

「うわ、最低だな、それ」

 売れなかったから、安かったに違いない。

「ゴールドクロスを装着した感じで、事なきを得ようとしてました」

「局部しか守れてないよ。何座だ、その悲しいセイントは」

 バカとの付き合いが長いので、いいツッコミになって来た。

「一応、ダイヤモンドダストのポーズで」

「その子、ゴールドセイントじゃないから」

 トリコは意外と詳しかった。

「ほら、ちゃんとゴールドセイントの技を出してみな」

 鯖丸は、ちびっ子の頃に読んだマンガを、全力で思い出しているらしかった。

「ええと、積尸気冥界波ー!!」

 なぜ、よりによってそれ。

「お前獅子座だろ。せめてライトニングボルトとかにしておけ」

 一番の解決策は、聖闘士星矢から離れる事だと思うが、嫌でもゴールドクロスが目に入る。

 まだ、普段の悪魔超人の方がましだ。

「もういい、やるならちゃっちゃとしよう」

 さくさくパジャマを脱ぎかけた。

「ダメー、それ、ちまちま脱がしたいから、着てて」

 いつも通り、細かい事を言い始めた。

「そうか、じゃあ、好きにしなさい」

 トリコは、パジャマを着たままで、ごそごそ布団に入った。

「お前って、割とめんどくさいなぁ」


 その頃ジョン太は、やはりトリコと同じ時間帯に帰宅したので、風呂上がり者になっていた。

 全身毛皮なので、中々乾かない。

 自分用のバスタオルに使っているタオルケットを体に巻いて、ぼんやりテレビを見ながら茶を飲んでいた。

「乾かさないと、風邪引くわよ」

 嫁のみっちゃんが隣に座って、タオルケットを頭にかぶせてごしごし拭き始めた。

 おまけに、貧乏性ではないので、エアコンのスイッチも入れられてしまった。

「平気だよ。ほら、俺ってシベリアンハスキーだし」

 実際寒い方が調子がいいのだが、何の根拠もない話だった。

 いや…雑種。この人絶対、原型はその辺の雑種犬。

 みっちゃんは、内心思ったが口には出さなかった。大人の対応だ。

 テレビは、スポーツ中継が終わって、ニュースになっていた。

 これが終わったら、みっちゃんの好きな、深夜の微妙なお笑い番組になるので、見るつもりらしく、自分も茶を持って来て、座った。

 いつもの事だが、暗いニュースの方が多い。

 相変わらず、あちこちで紛争が続いていて、宇宙でも地球の覇権争いがそのままロケットに乗せて撃ち出されている。

 明るい話題と言えば、まぁ、世界中で色々やったせいで、多少は環境が回復している事くらいだ。

『では、次のニュースです』

 国営放送のアナウンサーは、相変わらずしゃべり方が古くさい。

 民放のくだけ過ぎた感じより、ジョン太はこういうのが好きらしく、ニュースの時間は国営放送を見ている。

 実際には、もうほとんどの情報はネット経由なので、わざわざテレビで見る必要はないのだが、時間つぶしには丁度良かった。

 民放も国営放送も、情報弱者の為だという名目で、テレビでの放送を続けている。

 ニュースが終わったらチャンネルを変えようと思って、みっちゃんはリモコンを手に取った。

『六年前に行方不明になっていた、政府公認魔導士、如月海斗氏(仮名)が、関西の魔界で発見されました』

 どこかで聞いた名前だなぁ…と、ジョン太は思った。

 画面に、四角い顔をした男の写真が出た。

 どこかで見た顔だった。

「ええと…如月。如月って、どっかで聞いた…」

「何言ってるのジョナサン。これ、トリコさんの旦那さんでしょう」

 ジョン太は、飲みかけの茶を吹いた。

「ええ、ハンニバルか、こいつ」

 なぜ、みっちゃんの方が情報通なのかは、謎だ。

 無事発見され、元気な感じで帰還するハンニバルの動画が続いた。

「元気で帰って来て良かったけど」

「そうだなぁ」

 政府公認魔導士をクビになってまで、ハンニバルの遺品を取り戻そうとしたくらいだ。

 トリコは今でも、この男を愛しているに違いない。

「武藤君、どうなるのかしら」

「あっ…」

 バカの顔が脳裏に浮かんだ。

 バカだから、何をしでかすか分からない。

 急いで鯖丸のケータイに電話したが、出なかった。

 トリコも、圏内のはずなのに出なかった。

 何だかとても嫌な予感がした。


 ジョン太が心配して電話した頃、バカ二人は忙しかったので、テレビも見ていないし、ケータイもマナーモードで充電器に突っ込んだままだった。

 鯖丸に押し切られて、三ラウンド目に突入してしまったので、トリコはすっかり諦めていた。

「何でそんなに元気なんだ、お前は」

 生活態度から食事まで、全部改善してより元気にしてしまったのが自分なのは、気が付いていない。

 もうちょっと弱らせておいた方が、絶対良かったはずだ。

「だって、最近絶好調だもん」

 いい調子で飛ばし始めようとしていた鯖丸は、あれ…という顔でドアの方を見た。

 確か今、玄関の戸が開く音がした様な。

「今、玄関開いたよね」

 トリコに聞いた。

「そんな訳ないだろ。うちの鍵持ってるの、お前と大家さんだけだ」

 大家のばあちゃんが、こんな時間帯に起きている訳もないし、勝手に入って来る様な、変な人でもない。

「気のせいか」

 続きを始めようとしたが、廊下を足音が近付いて来る。

 さすがにトリコにも聞き取れたらしい。

「うわ、由樹か?やばい、鍵締めてないよ」

 鯖丸はうろたえた。

「ダメだー、入って来るな。子供が見るもんじゃありません」

「由樹じゃない。大人の足音だ」

 トリコは言った。

 言われて良く聞くと、その通りだった。

「じゃあ、誰」

「泥棒?」

 自分で言ってから、怖くなったのか、トリコは鯖丸にしがみついた。

「どうにかして。お前、外界でも腕っ節は強いだろ」

 実際、剣道の有段者で、魔法が使えない外界でも、結構強い。その点トリコは、魔力が高いだけなので、外では普通の女だ。

 しかし鯖丸は、思い切り首を横に振った。

「俺、竹刀とか、棒的な物持ってないと、ケンカは超弱いんだけど」

「棒的なあれなら、股間に一本付いてるだろ」

「これで出来る事なんて、そう多くないよ」

 鯖丸は、部屋中を見回したが、良く片付いた部屋の中には、棒的な物は一本も無かった。

 仕方ない。ここは男らしくトリコの代わりに侵入者に殴られよう。

 殴られるの前提なのが情けないが、意を決して布団を出た時、棚の上にある物に気が付いた。

 由樹が学芸会で使うと言って作ったハリセンだった。

 お前の所の幼稚園は、お笑いタレント養成学校かーと、突っ込んだのを憶えている。

「よし」

 ハリセンを手に取って、ドアの横で構えた。

 かちりとノブが回り、ドアが開いた。

 がっちりした体格の男が、部屋に一歩踏み込んだ。

「誰じゃあー、お前」

 天然ボケのくせに、いいツッコミだ。すぱーんと、ハリセンが男の顔面を直撃した。

 武器がハリセンなのに、男は廊下まで吹っ飛んだ。さすが武藤君。

 追い打ちをかけようと廊下へ飛び出した鯖丸を、トリコは止めた。

「待て!!」

 廊下で男が起き上がった。

「痛て、ひでぇな。何するんだ、坊主」

 鼻血をぬぐって、男はぼやいた。

「海斗…」

 トリコの表情が、ただ事ではなかった。

 鯖丸は、トリコと侵入者を見比べた。

 ええと…海斗って誰だっけ。如月海斗…。

「ああ、ハンニバル!!」

 自分がぶっ飛ばした男を指差して、鯖丸は叫んだ。

「相変わらずだなぁ、トリコ。また、こんな若い子引っ張り込んで」

 六年間行方不明だったトリコの夫は、あまり驚いた様子もなく、笑った。


 トリコの彼氏から間男に格下げになった武藤玲司は、むすっとした顔で、台所のテーブルに着いていた。

 何で、自分がテーブルのこっち側に一人で座っていて、向かいにトリコとハンニバルが並んで腰掛けているのか、訳わかんない。

 俺のポジションは絶対そっちだと言わんばかりの目つきで、ハンニバルを睨んだ。

「ええと、何から話していいか」

 ハンニバルは、古くさい名言を吐いた。

「恥ずかしながら、帰って参りました」

 自分で言っておいて、照れて笑った。

 四角い顔のおっさんのくせに、笑顔が可愛い。

 別に、帰って来なくても良かったのに…。

「それで?」

 鯖丸は、腕組みして鷹揚に聞いた。元々不利な立場なので、弱気になったら、絶対負ける。

 というか、この状況で、まだ勝つつもりでいるこいつが凄い。

「今頃帰って来て、何のつもり?」

「いや…色々あったんだが、大体君は誰だ」

 鯖丸が何か言う前に、トリコが説明した。

「今、民間で仕事してるんだ。彼はリンク張ったパートナーで、あと、もう一人とチームを組んでる」

「政府の仕事は辞めたのか」

 ハンニバルは聞いたが、すぐにうなずいた。

「そうだな…俺があんな事したら、お前の立場が悪くなるのは分かってた。済まん」

 ハンニバルが居なくなった時の状況は、聞かされていなかった。

 殿も関係していると思うが、そう言えば殿は、ハンニバルは恒久的に活動を停止させられたと言っていなかったか。

 人間界に慣れていない殿の言い回しは、時々おかしいが、普通に解釈すれば、死んだという意味だ。

 死んだ人が帰って来ている。

 何かおかしくないか、これ。

「君は、現在トリコのパートナーか」

 ハンニバルは聞いた。

「はい」

 鯖丸は答えた。

「名前を聞いていいかな」

「鯖丸です」

 普通に、魔界での名前を答えた。

「いや…、そっちじゃなくて、本当の名前を」

「武藤雄次郎です」

 眉一つ動かさずに、ウソをついた。

 ハンニバルが、本当にちゃんとした状態で外界に戻って来たなら、何バカなウソついてるんだ…と、トリコがツッコミを入れて来るはずだった。

 トリコは、俯いて、自分の膝をぎゅっと掴んだ。

 頼むから何か言って。

 返事はなかった。

 目の前のハンニバルは、とてもいい人に見えた。

 しかし、外界で魔法は使えないが、自分の勘が、何かがおかしいと告げていた。

 ふいに、リビングの向こう側にあるドアが開いた。

 ばたばたしていたので、由樹が起きて来ていた。

「ええ、何。このおじさん誰」

 目をこすりながら、こちらに歩いて来る。

「由樹のお父さんだよ」

 鯖丸は、ちらりとハンニバルを見て、説明した。

 ハンニバルは、何の興味もない物を見る視線で、由樹を見た。

 こいつ…!!

 それは一瞬で、次には形相を崩してにこりと笑った。

「そうか、あの時の。ごめんなぁ、ずっと帰れなくて。今更だけど、パパって呼んでくれる」

「知らないおじさん」

 由樹は、冷たい事を言って、鯖丸の隣に座った。

 子供なので、言う事がひどい。

「お前の本当のお父さんなんだけど…」

 それから気が付いた。

 子供の方が、絶対こういう勘は鋭いはずだ。

「あの…二人で色々つもる話もあるだろうし」

 自分でも、何を言っているのか分からなくなって来ていたが、どうにか必死でまとめた。

「今日は俺、帰るから。由樹は今晩家で泊めるけど、いいよね」

 もちろん、答えは聞いてない。

 トリコは、こちらを見た。すがる様な目付きだ。

 しかし、これ以上の事は出来ないのは、分かっていた。

「うん、頼む」

「何かあったら電話して」

 由樹と自分の、当面の着替えとか必要な物をデイパックに詰め込んで、鯖丸はトリコの家を出た。

 同棲しているのに、なぜか強固に週休二日を主張して、以前住んでいたアパートを解約させないのは、何かあった時の為だったのだと、今になって気が付いた。

 いつか、こんな事になると思っていたのか。

 でも、そんなの辛過ぎだ。

 由樹の手を握って、アパートの階段を下りた。

「鯖くん、痛い」

 強く握っていたので、文句を言われた。

「うん、ごめん」

 泣きそうだったけど、ここで俺が泣いたらダメだ。

「行こう、由樹」

 子供を抱き上げて、走った。

「わあ、鯖くん早い」

 由樹は無邪気に喜んだ。


 五日振りに戻る部屋は、殺伐としていた。

「鯖くんの家、汚いねえ」

 由樹は、正直な意見を述べた。

 これでも、以前よりはだいぶ綺麗になっている。

「明日はどうするの」

 幼稚園児に、現実的な事を聞かれた。

 鯖丸は、少しの間考えを回らせて、答えた。

「明日はお休みだ。兄ちゃんとどっか遊びに行こう」

「それでいいの」

 ぎくりとする様な事を聞かれた。

「母ちゃんが色々彼氏を変えるのは、いつもの事だけど、あのおじさんは変だよ」

 やっぱり、子供の目から見ても、変なんだ…。

 返事が出来なくて、黙り込んでしまった。

 しかし、言わない訳にもいかないので、説明した。

「あの人は、由樹が生まれる前に行方不明になってた、本当のお父さんだよ」

「へえ」

 軽い答えだった。

「おれ、鯖くんが本当のお父さんだった方が、良かったな」

 涙が出そうな意見だったが、それ、物理的に無理…。

 一瞬思ったが、逆算すると意外とセーフだった。

 十五才かぁ…物理的には可能だが、世間的に無理だな、これ。

「鯖くん、歴代母ちゃんの彼氏の中では、一番いいよ」

「誉めないで、辛くなる」

 俺で一番いいなんて、一体どういう奴らとどんな事を…。

「寝よう。明日の事は、明日考える」

 由樹を布団に押し込んだ。

「臭い、干してない布団の匂いがする」

 由樹は、文句を言った。

「黙れ。悪い環境でも平気で寝られる様になってこそ、一人前だ」

 変な理屈をこねて、鯖丸はあっという間に寝た。

 由樹は呆れて鯖丸を見ていたが、やはり子供なのですぐに寝てしまった。


 翌朝、鯖丸は、階段を登って来る足音で目が覚めた。

 隣のお姉さんが、また朝帰りでもしたんだろうと、目をこすって二度寝しようとした。

 足音が、自分の部屋の前で止まっていた。

 がちゃがちゃと、ドアノブを掴んで揺する音がした。

 鯖丸は飛び起きた。

 立て付けの悪いドアの隙間から、見覚えのあるコートの裾がのぞいた。

 ハンニバルだ。

 ドアがゆすられて、隙間が少し大きくなった一瞬、ハンニバルの顔がちらりと見えた。

 早朝から、他人の部屋に押しかけてドアをこじ開けようとしているくせに、その顔には何の表情も無かった。

 背筋が寒くなった。

 自分と由樹の靴を掴んで、布団の所まで戻り、部屋の中で靴を履いた。

 服は着たまま寝ていたので、ジャケットを羽織ってディバッグを背負った。

 由樹を抱き上げると、目を覚まして何という顔をした。

 子供の幼稚園鞄と靴とセーターを、もう一方の手で掴んで、窓を開けた。

 入り口のドア以外は、ここしか出口がない。

 下は、コンクリートの駐車場になっていた。せめて土の地面だったら…。

 子供の荷物を先に放り投げて片手を空け、なるべく低い位置から飛び降りられる様に、窓枠からぶら下がった。

「いいか、飛び降りた後、俺が動けなくなったら、一人で逃げて母ちゃんと…」

 少し考えて、一番頼りになりそうな人を思い浮かべた。

「いや…ジョン太にすぐ電話して、助けてって言うんだ」

 飛び降りた。

 足が痛かったが、普通に動けた。

 投げ降ろした荷物を拾い上げて、鯖丸は走り出した。

 普通に走れる。

「うわ、すげぇ。絶対どっか一本くらい折れると思ったのに」

 まさか、二階から子供を抱いて飛び降りて、無事だとは思わなかった。

 ありがとう、トリコ。もう、おやつが出汁じゃこでも、絶対文句は言いません。

 背後の窓から、ドアが破られる音が聞こえた。


「ジョン太、大変だー。トリコのダンナが帰って来たー」

 事務所に駆け込むと、ジョン太は机に向かって、普通にパソコンをのぞきながら茶を飲んでいた。

「知ってるよ。お前も色々大変だな」

 のんきな口調で言ってから、鯖丸のただならぬ様子にやっと気が付いた。

「何やってんだ、お前」

 うわー、バカがまた、何かしでかしてるぞ…と、内心思った。

「トリコのダンナが変なんだ。それで、由樹と逃げて来て…」

 いや、変なのはお前だろう。

「お前、それ、下手すると誘拐なんじゃないのか」

「そうかも」

『西瀬戸大三年の武藤玲司(21)が、幼児誘拐の容疑で指名手配されました。

 同棲相手の如月トリコさん(32)との、痴情のもつれが原因と見られ…』

 すらすらとやばいニュースの文面が浮かんで来た。

 ああ、こいつの顔って、今気が付いたけど、指名手配の写真が似合うなぁ…。

「そうかもじゃねぇだろ。すぐ返して来なさい。また警察に捕まるだろうが」

「だって、ハンニバルがおかしいんだ」

 あの、変な感覚を、言葉で説明出来ない。

「そうだ、トリコもヤバイかも。電話しないと」

「待て」

 ジョン太は、鯖丸を止めた。

「俺が連絡してみる」

 ジョン太はケータイを手に取った。

「おーい、トリコ。鯖丸がお前んちの子を誘拐して、こっち来てるけど」

「由樹は無事なのか」

 トリコの様子もおかしい。

 何か、切羽詰まった感じだった。

「ああ、ちょっと眠そう」

 鯖丸が抱いている幼児を見て、言った。

「何があった」

 ばたばたと階段を駆け上がる足音がした。

 乱暴にドアを開けて駆け込んだトリコは、壁にもたれて肩で息をした。

 どの辺から走って来たか知らんが、姐さん絶対運動不足だ。

「海斗が…」

 取り乱しているのか、まだケータイに向かってしゃべっている。

「いや、普通に聞こえるし」

 ジョン太は、電話を切った。

「海斗がおかしいんだ」

 鯖丸と同じ事を言っている。

「いや…あれ、海斗じゃない。体は同じだけど、中身は絶対違う」

 中身だけ別人って事もないだろう…と、ジョン太は思った。

「多重人格とか?」

 鯖丸の方をちらりと見て、言った。

「そんな普通の事じゃない」

 トリコは、首を振った。

「普通か?俺」

「たぶん、人間じゃない。それにあいつ」

 トリコは震えだした。

 ビーストマスターのトリコ姐さんを、ここまで怯えさせるとは、ただ事ではない。

「外界で魔法を使ったんだ」


 外界で魔法を使うのは、不可能だった。

 魔法は、穴の周囲から漏れ出している、異界の法則の上に成り立っているからだ。

 どんなに魔力の高い人間でも、魔界を出てしまえば、魔力はかけらも無くなる。

 それだけは、絶対に変えられない事実だったはずだ。

「逃げないと…もうすぐここへ来るかも知れない」

 トリコは言った。

「あいつ、急に由樹の行き先を気にし始めて、連れ戻して来るって。

 止めようとしたら、魔法を使って眠らされてた」

 良く見ると、額と頬に痣が出来ている。たぶん、他にも怪我があるだろう。

 眠らせるとか、そういう次元ではない。

「由樹をあいつに渡したら、大変な事になる」

「早く言え、そう言う事は」

 ジョン太は、いつも決断が早い。

 あっという間にロッカーからダッフルバッグを出して、出掛ける支度を終えた。

「所長、急ですが今から有給取ります。あと、車貸して」

「そんな変な奴相手に、どこへ逃げる気だ」

 所長は聞いた。

「あ、そうだ」

 鯖丸は、急に何か思い付いたらしかった。

 ポケットからケータイを出して、電話をかけ始めた。

「もしもし、秋本君。俺だけど」

 自称永遠のライバル、秋本隆一に連絡を入れている。

 この前地区予選でかっこ悪い負け方をした相手に、何の用だ。

「頼みがあるんだ。聞いてくれるか」

『お前が俺に物を頼むなんて、余程の事だな』

 電話の向こうで秋本は言った。

『分かった、話せ』

「殿と連絡を取りたい。今すぐ」

『すぐは無理だ。相手は魔界だから』

「人の命がかかってるかも知れない。何とかしてくれ、頼む」

 秋本は、少し黙り込んだ。

 あの、自信家で傍若無人で、自分を柱に括り付けてから、パンツ脱がして放置して行った、悪魔の様な男が、必死で頼み事をしている。

『西口のゲートまで来い。入り口で待ってる』

「ありがとう」

 鯖丸は、電話を切った。

「殿にかくまってもらおう。たぶん、世界一安全だ」

 異界の怪人に、子供を預けてしまおうという発想が、もう普通ではない。

 しかし、確かに安全だ。

「ジョン太、有給は却下だ」

 所長は言った。

「いつもの、殿の所への配達。お前らで行って来い」

「所長、男前」

 鯖丸は叫んだ。

「いいんですか」

 トリコは聞いた。

「ジョン太」

 所長は、机の引き出しから、デジカメを取り出して、投げて寄越した。

「倉庫にある、入出ファイル、それで全部撮影してから、焼き捨てて来い。

 後で、再生するまで、メモリーカードはお前が責任を持って保管しろ。これから、セキュリティーレベルを上げる」

 個人情報の入っている入出ファイルは、確かに見られたらヤバイ。

 ある意味、倉庫に入っている武器の類より、持ち出されると危なかった。

 所長は更に、あちこちに電話を入れ始めた。

「ああ、私だ。うちの会社のセキュリティーを、三段階上げる。協力しろ。ええ、出来ないなら、あの件公表するけどいいのか…さっさとやれよ」

 立て続けに次に電話した。

「あ、私。ちょっとお願いがあるんだけど。うん、いつも悪いね」

「所長って、どういう人?」

 鯖丸は、ジョン太に聞いた。

「ああ、謎の人かな」

 ジョン太は答えになってない事を言った。

 それからふいに、顔を上げて、聞き耳を立てた。

「そこまで来てる。行くぞ」

 戦闘用ハイブリットの身体能力は、魔界でも外界でも、同じ様に使える。頼もしい。

「俺、足止めした方がいいかい」

 今日は、唯一事務所に残っていたハートが聞いた。

 北斗の拳のハート様に似ているので、そう名乗っている巨漢だ。

「いや、無理するな。充分逃げられる。所長と斉藤さんを頼む」

 由樹を抱いた鯖丸と、トリコを裏口に押し込みながら、ジョン太は言った。

 事務の斉藤さんは、侵入者を煙に巻くつもりらしく、お茶を出す準備をしていた。


 裏口から地下駐車場に降りて、車に乗った。

 いつもの四駆は出払っているので、予備の軽四だ。

 いつも通り鯖丸がハンドルを握って、ジョン太が助手席に座った。

 トリコは、由樹を抱いて、狭い後部座席に心許ない顔で座っている。

 駐車場から道に出る時、階段を上がって行くハンニバルの姿が見えた。

 後ろ姿をちらりと見ただけで、普通ではないのがジョン太には分かった。

 一瞬、背中に通った視線に、ハンニバルが気付いた。

「気付かれた。そこの角を曲がれ」

 変な裏道に、車を滑り込ませた。

「これ、どこ行きだよ」

 鯖丸は文句を言ったが、元々空間把握能力が高いので、見当を付けて次の角を右に曲がった。

「ああ、次は左な。右は一通」

 カーナビより裏道に詳しいジョン太は、指示した。

 ハンニバルは、後ろが見えていた様な気がしてならなかった。

 それから、自分以外は気が付いていないだろう事実に、愕然とした。

 生きて元気に活動しているあの男から、かすかに漂っていたのは死臭だった。


 魔界のゲートで、秋本は皆を待っていた。

 中古の古い原付に乗って、ユニクロで買った様なダウンジャケットを着ているが、相変わらず男前だ。

「ええ、これトゲ男」

 トゲ男の素顔を見た事がなかったトリコは、驚いた。

「何ぃ、これがビーストマスター」

 外界のちっちゃいトリコを見て、秋本も驚いた。

 鯖丸が車の窓から首を出した。相変わらず憎らしい顔だ。

「悪いな、呼び出して」

 武藤とは思えない、普通の事を言い始めた。

「いや…」

 嫌味を言うつもりだったが、拍子抜けしたのでやめた。

 武藤の相方が、外界でも同じ姿だったのも、ちょっと驚いた。

 本物の先祖返りのハイブリットだ。

 こんな奴相手に戦わなくて済んで良かった。

 ビーストマスターが、小さい子供を連れている。

 普通の状況ではないのは、すぐに分かった。

 車と原付は、ゲートをくぐった。

 NMCこと西谷魔法商会の倉庫は、割合ゲートの近くにあった。

 倉庫に入るとすぐに、ジョン太は入出記録の撮影を始めた。

 トリコは、奥へ行って、服を着替えている。

 魔界に入ると体格が変わるので、同じ服は着ていられない。

 鯖丸は、自分の刀を装備してから、所長が使っている刀を取り出した。

「何かあったら使え。木刀じゃ頼りない」

 今日は、琵琶湖と草津温泉の木刀を持って来ていた秋本は、真剣を受け取った。

 どうやら、日本観光地焼き印入り木刀の収集が趣味らしい。

 あまり観光地が北上すると、某有名な血糖値の高いお侍と木刀がかぶってヤバイな…と、何となく思った。

 ジョン太が、ファイルを焼き始めた。

「真剣は重いから、左手も添えないで思い切り握って」

 竹刀を使う時との違いを指示された。

「勝手に貸し出すな」

 ジョン太は注意したが、それ以上は止めなかった。


 大人四人と子供一人で乗ると、スズキジムニーは超狭かったが、割合順調に走り続けた。

 隣に座った少女が、あっという間に巨乳のお姉ちゃんに変わるのを、秋本はびっくりして眺めたが、自分もダウンジャケットを脱いで、トゲ男に変わった。

 着たままだと、折角ユニクロのバーゲンで買った暖かいジャケットが、穴だらけになってしまう。

 トゲ男の変身を横目で見て、トリコはもったいない…と言った。

「折角綺麗な顔をしてるのに、どうしてそんな変な姿になるんだ」

「外見で評価されるのが嫌なんです」

 トゲ男は答えた。

 自分の男前に、変なコンプレックスがあるらしい。

 こいつも割とややこしそうなタイプだ。

「大体、俺の方が前の大会までは成績悪かったのに、専門誌ではいつも写真の扱いが大きくて。芸能誌か、剣道ジャパン!!」

「別に、記事の扱いは、俺の方がページ数多かっただろ。三位以内に一回も入ってないのに、マイナーコロニー出身っていうだけで、大きい扱いにしやがって。リハビリ大変だったでしょうとか聞くな、死ね」

 二人で、意気投合してしまった。

「君ら、基本的には最後に親友になるタイプだよ。少年マンガとかでは」

 ジョン太は指摘した。

「断る」

 二人は同時に言った。

 寝ていた由樹が、騒ぎで目を覚まして、辺りを見回した。

「うわー、変な緑色の人が居る」

 トゲ男を見て泣きそうになった。

「分かった、元に戻るよ」

 秋本君は、割合いい人だった。

「母ちゃん、あの人変」

 言いかけた由樹は、トリコを見て更に驚いた。

「どうしたんだ母ちゃん。急に老けたぞ」

 周囲の男三人には嬉しい巨乳が、子供にかかると単に老けたかい。

「うーん、魔界に入ると老けるんだよ」

 トリコは言い訳した。

「そうかー。これで姉ちゃんと間違われなくなって、良かったな」

 ふかふかの巨乳に顔を埋めた。

 ああー、そのポジションはぜひ替わってくださいー。

 野郎三人は、思わず心の中で叫んだ。


 殿の城には、トゲ男が居たのですぐ入れた。

 何回か、殿に頼まれていた品物を届ける仕事もあったので、もう顔も憶えられている。

 殿は、相変わらず天守閣でガラクタに囲まれて、カラオケに興じていた。

「殿、今日はお願いがあって参りました」

 ジョン太が言うと、殿はひらひら手を振った。

「ああ、無理に時代劇調にしなくていいから」

 久し振りに会った殿は、意外と人間臭くなっていた。

「何の用事だね」

 マイクを持ったままなので、声が辺り中に響いている。

「おお、鯖丸くん。先月のカラオケ大会は、楽しかったなぁ」

 殿は、ジョン太の知らない事を言った。

「お前、何時の間にそんな。俺も呼べー」

 カラオケ大好きなジョン太は、鯖丸の首を絞めた。

「ジョン太、法事で居なかったじゃん」

 鯖丸は、ジョン太を必死で振り払った。このおぢちゃんは、全く。

「じいちゃんの法事って、やっぱニセ外人かよ」

「嫁の方のじいちゃんだ。うちのはじじばば揃ってぴんぴんしとるわ」

 ジョン太は怒鳴った。

 ジョン太の家族構成も、何だか謎だ。

「迫田とまー君と、トゲ男も来てたよな。あと、所長とマダちゃんも」

「楽しかったなぁ」

 その辺の意見は一致するらしく、トゲ男は言った。

「お前は行かなかったの」

 ジョン太は、トリコにたずねた。

「カラオケ嫌い」

 トリコは答えた。

 うなずいたジョン太は、ふと、変な名前が混じっていたのに気が付いた。

「まー君って、あのまー君か」

「そうでーす」

 すっかりノリが変わってしまったまー君が、第二マイクを握って登場した。

「お前、あんな不良と付き合うんじゃありません」

「えー、前から時々会ってたよ」

 鯖丸は言った。

「こいつも、昔は悪かったらしいぞ」

 まー君は言った。

「悪かったのは鰐丸で、こいつじゃないから。そうだよな」

 鯖丸は、えへと笑って、あさっての方を向いてしまった。

「ジョン太、こんな境遇で全然グレない方が、どうかしてるよ」

「悪かったんだ…」

 初耳だ。

「怒るな、次は呼んでやるから」

 殿は言った。

 いいかげん、マイク越しにしゃべるのは止めて欲しい。

「で…今日ここへ来た用件を聞こうか」

「すいません。やかましいから、マイク離して」

 ジョン太は言った。


 ジョン太とトリコと鯖丸は、殿の前に座って、事情を説明していた。

 背後では、トゲ男とまー君と由樹が、アニカラを絶唱している。

 とても、真剣に話し合う雰囲気ではない。

「そうか、外側で魔法を…」

 殿はうなずいた。

「心当たりはある」

「あるんだ」

 三人は、聞き耳を立てたが、外野がうるさい。

「吾輩は、ずっと、互いの世界を、境界を越えて行き来する方法を思案していた」

 殿は言った。

「お前達の言い方では、そうだな、研究していた」

「殿は、向こうの科学者なんだ」

 鯖丸は聞いた。

「その言い方は、正確ではないが、近い」

 殿はうなずいた。

「君も、その様な方向を志していると聞いたが」

「細かい所は違うけど、大体そんな感じです」

 鯖丸は答えた。

 殿は、笑ってうなずいた。

「吾輩の…お前達の言い方で研究は、一通り完成したが、欠陥があった」

 よくある話だ。

「まず、お前達の世界に出て行く為には、こちらの世界に住む思考能力の高い生体が必要だ。生体内に、我々の世界の法則を内包させ、外界へ持ち出す」

「当てはまるのは、人間か」

 ジョン太はたずねた。

「その通り」

 殿は答えた。

「ただ、我々と人間はかけ離れた物だ。融合は出来ても、長い時間は活動を維持出来ない」

「殿の言う、長い時間は、俺らのとは違うよね」

 鯖丸は聞いた。

「左様、吾輩はお前達の時間軸で二千年程、この形態で活動している。それに比べれば一瞬だが、お前達の基準では、少し長いかも知れない」

「実際、どれくらい?」

「その生体が持っている、余命の半分くらい。お前達の平均寿命は、確か百五十年くらいだったな」

「そんなに長くないよ。毎年伸びてるけど、百二十年くらいだ」

「大して変わらん」

 殿は言った。

 人間にとっては、けっこうな違いなのだが。

「その間外側で活動する事は出来るが、融合した人間は死ぬ」

 どういう話か、だんだん分かってきた。

「むごい話だが、有り体に言おう」

 殿は、トリコの方を向いた。

「お前の配偶者は、我々の世界に来た時、死にかけていた。我が弟子は、それと融合して回復させたが、耐用年数が尽きかけている」

「じゃあ、あれは」

「記憶も肉体も引き継いでいるが、あれは吾輩の弟子だ」

 殿は言った。

「我々の世界に戻れば、生き続けられるが、ひどい罰を受けるだろう。戻らない為には、新しい体が必要だ」

「そんな事…」

 トリコは、両手を握りしめた。

 鯖丸は、背後で無邪気にアニソンを歌っている子供を振り返った。

「遺伝的に近い方が、乗り換えやすいんだね」

 ひどい事をさらっと言った。

「その通り。余命も長いし、あの幼体は最善だ。生きている間に繁殖すれば、次々体を乗り換えて行ける」

「貴様、よくもそんな事を」

 トリコは、殿の胸元を掴んだ。

「最悪なのは、その事ではない。お前の配偶者は、なぜ危険を冒してまで我々の世界に来た?」

 トリコは止まった。

「そんな人間が増えたら…」

 世界が壊れるとハンニバルは言った。

 向こう側の法則を引きずって、こちらに出て来る物が増えれば、二つの世界の境界は、どんどんあいまいになって行く。

 その先が融合か消滅か、誰にも分からないが、今あるこの世界は終わるだろう。

 だから、向こうに居る、話の分かる力のある物に、協力してもらわなければ、この事態は止められない。

「お前が…」

「そう、吾輩が、ハンニバルの要請を受けた」

 殿は答えた。

「お前達の言い方で、自分のケツを拭く為に、老体に鞭打ってこちら側に出て来たのだ」


 カラオケ大会から飲み会になってしまったので、酒に弱いジョン太は、早々に抜け出した。

 大体、殿は人間ではないし生き物かどうかも分からないのに、一緒に酔っぱらっている。

 どういう構造になっているんだ。

 反対に、いくら飲んでも全然酔わない鯖丸は、やけになって一人で歌い続けていた。

 無駄に音域が広いので、何でも歌えるが、残念ながら上手いとは言えない。

 ぐだぐだな宴会だ。

 廊下に出て夜風に当たっていたジョン太は、トリコが襖を開けて出て来るのを見た。

 眠そうにしていた由樹を、寝かして来たらしい。

 ジョン太と目が合うと、ちょっと片手を上げて挨拶して、広間に戻りかけた。

「あ、ちょっと待ってくれ」

 ジョン太は呼び止めた。トリコは立ち止まった。

「頼みがあるんだけど」

「めずらしいな。何だ」

 トリコは聞いた。

「いや…あの」

 言いにくい話なのか、少し口淀んだが、言った。

「これからリンク張らないか」

「いいよ」

 トリコは即答した。

「お前から言い出さなかったら、鯖丸と二人がかりで無理矢理やっちゃうつもりだったからな」

 それは最悪の事態だ。絶対避けたい。

「急にどうしたんだ。今まで逃げ回ってたくせに」

 トリコはたずねた。

 ジョン太は黙り込んでしまった。

「まぁいいや。こっち来な」

 適当な空き部屋の襖を開けた。

 殿の城には、使用目的の分からない部屋が無数にある。

 作った本人も、城というイメージだけでたくさんの部屋を配置したが、特に理由はないのかも知れない。

 部屋の中は、どれも同じ様な仕様で、襖の反対側は障子戸になっているが、開けると単に岩肌が見えるだけで、何の意味もない飾りだと分かる。

 部屋の隅には、座布団と座椅子、それに座卓が置いてあって、殿は、城と旅館を勘違いしているのが分かった。

 座卓の上に麻雀セットが積んである所を見ると、以前誰かが使った部屋らしい。

 押し入れには、布団が山積みに入っていた。どう見ても十組くらいある。

「何考えてるんだろうねぇ、殿も。この城、修学旅行の団体が二校分くらい泊まれるぞ」

 布団を引っ張り出しながら、トリコは言った。

「ほら、ちゃっちゃと敷いて。一組でいいか?やっぱり二枚敷いとく?」

「軽いなぁ、お前」

 ジョン太は、呆れた感じで言った。

「お前が深く考え過ぎだ。リンク張るだけだろ」

 トリコは、ジョン太に布団を渡した。

 ジョン太は、ええと…北があっちで…とか言いながら、床の間の方に頭を向けて敷き始めた。

 何、北枕とか気にしてんだ、こいつ。

「一応枕も要るかい」

 トリコは、枕を二個放って寄越した。

 広さと言い、内装といい、布団を敷き詰めて枕投げをしたくなる部屋だ。

 ジョン太は、枕を受け取ったが、両手に持ったまま、その場にしばらく立っていた。

 それから畳の上に座って、頭を下げた。

「頼む、魔法使える様にしてくれ」

 魔法が使えなくても、ジョン太は充分強い。

 今までも、それでやって来れたはずだ。

「突然だな。お前は、魔法使いにはなりたくないんだと思ってた」

 トリコは、ジョン太の向かいに座った。

「殿の弟子は、殿より強いんだぞ。今のままじゃ、何かあっても誰も守れない」

「それは、私の事情で、お前には関係ない事だと思うが」

 今だって、本当は仕事の範疇を越えている。これ以上迷惑をかける訳には…。

「関係あるだろう、パートナーなんだから」

 おっさんのくせに、何青臭い事を…と、トリコは思った。

 マジでいい奴だな、こいつ。


「これ、照明落とせないのか」

 どこに光源があるか分からないのに、昼間の様に明るい部屋の中で、服を脱ぎながらジョン太は言った。

「出来るけど…」

 服を脱いだらどうなっているのか、一応見てみたいので、トリコはそこで言葉を止めた。

「お前は暗くても物が見えるじゃないか。不公平だ」

「そうだな」

 納得している様子が気の毒なので、若干照明を暗くする事にした。

 天井のスイッチを指差して回すと、部屋の中が薄暗くなった。

 魔力の低いジョン太には、スイッチが見えていない。

 脱いだ服を、すぐに着られる様に側に置いた。

 枕元に置いたガンベルトは、グリップをこちら側に向けて、何時でも抜ける様になっている。

 リンクを張っている間、普通にセックスしている時より無防備になってしまう事が、充分わかっている玄人の対応だ。

 対応は玄人だが、体の方は、全身毛皮で、筋肉質で強そうと云う以外は、割合普通の人間だった。

 一応段取りとしてこちらを触って来たが、可もなく不可もない感じで、本気で普通だ。

 こっちから色々仕掛けた方がいいのかな…と、考えていたら、変な顔をしていたのが分かったらしく、言った。

「ええとね、割と勘違いされるから言っとくけど、俺、あんまり遊んでないから」

「そうなんだ」

 ずっと付き合うならともかく、こういうタイプのハイブリットに興味のある女は多いから、色々やってると思い込んでいた。

「リンク張る以外で寝た女はこんだけなんで…」

 指を三本立てて見せた。

「ああ、三十人だったら、少ない方だな」

 トリコはうなずいた。

「いや…それ、単位違う」

 ジョン太は言った。

「三百人なら少なくないぞ。私もそんなもんだ」

「お前の世界観はどうなってんだ」

 ジョン太は頭を抱えた。三百人って、それ、何の修行だ。

「ええ、三人。それは何だ…何かの修行なんだ」

「修行はお前だー」

 こんな時もツッコミは忘れない。

「普通なんだよ、俺は」

「そうか?」

 普通の接点が互いにずれてしまっているが、リンク張るのには支障はない。

 まぁ、普通という事は、特に下手という訳でもない。

 この程度の年齢で、嫁も子供も居る様な男だったら、こんな感じかなと思う。

 ハイブリットの耐用年数は、普通の人間より長いので、肉体的にはもう少し若い気がする。

 現在普及しているアンチエイジング治療も、元々ハイブリットの製造技術から派生した物だ。

 全然普通だが、素肌に毛皮が触れる感触は、ちょっと普通じゃなくて気持ちいい。

 繋げるまでは、本当に楽だった。

 以前の鯖丸の様な、リンクに関して全くの素人とは違って、やり方も知っているし、リンクを張るまでは行かなくても、経験もある。

 繋がった所で、トリコは迷子になった。


 ジョン太は、吹雪の中に立っていた。

 鯖丸から聞いていたので、これがトリコのトラウマ映像だと、すぐに分かった。

 こういうプライベートな事を、べらべら喋ってしまうのも、どうかと思うが、戸惑わなくて助かった。

 たぶん、気温はマイナス十度くらい。

 自分的には、まだ、服を着ていなくても生存には全然支障がない温度だ。

 赤い点が見えたので、雪をかき分けて近付いた。

 ラッセルが必要だとは、聞いていなかった。

 仮部員でもやはりワンゲル。ラッセルくらいは出来るらしい。

 新雪を踏み固めながら、赤い点に近付いた。

 あっという間だった。

 赤いコートを着たトリコが、こちらを見上げた。

「悪いけど…」

 ジョン太は言った。

「俺の方は、接続に時間がかかると思うから、少し待ってくれ」

 トラウマ映像の、トリコの隣に座った。

 赤いコートを着た少女は、同じように座って、膝を抱えた。


 細かいトラウマが多過ぎ…と、トリコは思った。

 どこから手を付けていいか、分からない。

 微妙な道筋が、何本か付いていた。

 一番明白な場所を選んで進んだ。

 以前、ジョン太とリンクしようとして、失敗した人間が付けた痕跡だ。

 学校の廊下の様な場所を、子供が走っていた。

 子供には、絶対出せないスピードだ。

 走っている子供は、普通の人間ではなかった。

 原型に近いハイブリット…というか、むくむくでふわふわの、ぬいぐるみの様に愛らしい子供だ。

 うわ、これジョン太か…これのどこをどういじくり回したら、今のふてぶてしいおっさんになるんだ。

 子供は、何かから逃げていた。

 追っているのは同級生らしい子供達だった。

 いじめられてるのか?こんなに可愛いのに。

 子供のジョン太が、振り返って何か言った。

 追って来る子供達も、何かを言い返した。

 トリコは愕然とした。

 こいつ、思考言語が日本語じゃない。

 良く考えれば当たり前なのだが、法事に行ったり、北枕を気にしたりする男が、日本人じゃない事を意識するのは難しい。

 外界で高等教育を受けていないトリコは、英語が全然分からなかった。

 これ、普通の意味とは別で、リンク張るのむつかしいかも。

 以前来た人間が付けた痕跡を辿った。

 おそらく高校生くらいのジョン太が、怖そうな黒人の男に、ショットガンを持って追い回される映像が過ぎった。

 やはり、何を言っているのか分からない。

 道筋は、色々迷って、ここで途切れていた。

 残った一本だけが、もっと奥に進んでいる。

 たぶん、この痕跡を付けたのは所長だな…と、思った。

 変な場所にたどり着いた。

 建物の中に見えたが、良く見ると明らかに違う。

 木星の軌道上にあるコロニーだという知識は、トリコには無かった。

 ただ、どこか宇宙にある人工的な空間だという認識はあった。

 廊下にぼんやりと佇んでいるのは、ジョン太らしき物だった。

 断言出来なかったのは、変わり果てた姿になっていたからだ。

 痩せ細って、毛皮がぼろぼろになっている。

 一体、何をどうやったら、頑丈なハイブリットがこんな事になってしまうのか、謎だった。

 ジョン太の足元に、子供が一人倒れている。

 鼻と口から血を流しているが、それ以外は綺麗な状態だった。

 ジョン太は、明らかに普通ではなかった。

 ぼんやりと、薄く笑いながら宙を見上げている。

 それから急に、両の目に正気が戻った。

 足元に倒れている子供を見て、体が震え始めた。

 悲鳴を上げて逃げ出した。

 三方から、取り囲んでいた狙撃兵が、銃弾を撃ち込んだ。

 通常弾ではなく、麻酔弾だ。

 何発も撃ち込まれて、やっと倒れた。

 倒れてはいるが、まだ意識がある。

 ふいに、倒れたジョン太の周囲に、何かが伸び上がった。

 鉄で出来た頑丈な檻が、周りを取り囲み、結合した。

 檻の中で起き上がったジョン太は、もう、人でもなければ、ハイブリットにも見えなかった。

 ただの醜い獣だった。

 檻の中央にうずくまり、そのまま動かなくなった。


 檻の周囲は、いつの間にか景色が変わっていた。

 鬱蒼とした森の中で、檻だけが、そのまま同じ場所にあった。

 檻の中に、先刻見た獣が座っている。

 背中を丸め、体を縮めて、何も見ない様に俯いたまま、微動だにしない。

 もしかして、ここから引っ張り出さなきゃいけないのか、これ。

 正方形の鉄格子で出来た檻は、格子の一本一本が、自分の腕よりも太い。

「おおい、出て来い」

 普通に、声をかけてみた。

 何の反応もない。

「お前、巨乳好きだろ。ほらほら」

 服をはだけて、会心の色っぽいポーズを取ったが、微妙に肩が動いたか動かないかというくらいの反応しか無かった。

 普段のジョン太なら「止めんか、この汚れ芸人がー」とか、的確なツッコミを入れつつ、胸の谷間だけはきっちり鑑賞するはずなのだが。

 良く見ると獣の体は、檻の中に居るのに、細いが強そうな紐でぎりぎりと巻かれて、その先は鋼鉄の床に打ち付けられていた。

 それは、色々辛い目に遭ったのかも知れないが、ここまで自分を追い込んでしまう理由が分からない。

「何なんだよお前は。大体トラウマ映像も逃げてる場面ばっかりじゃないか。いいかげんにして出て来い、このへたれが」

 鉄格子を蹴り飛ばして叫ぶと、獣は少し顔を上げた。

 こちらに向かって、小さな声で何か言った。

 ダメだ。やっぱり何を言っているか分からない。

「くそっ、とにかく触るだけでも」

 檻はあまり大きくない。

 思い切り肩まで腕を突っ込めば、指先くらいは獣に触れるかも知れない。

 鉄格子の間に差し込もうとした腕が、弾かれた。

 格子は見る間に太くなり、隙間を塞いだ。

 もう、檻ではなくスリットの入った鉄の箱だ。

「お前は引きこもりかー!!」

 トリコは一歩下がった。

 こうなったらそこからたたき出してやる。

 腕から滑り出た魔獣が、檻に襲いかかった。

 鉄の檻くらいなら壊せる自信はあったが、余程頑丈なのか、ここがトラウマ映像の中で、現実に魔法を使っている訳ではないせいか、びくともしない。

 檻がダメなら中身だ。

 水の魔獣なので、形はどうにでも変えられる。

 細いスリットの間から鉄の箱に滑り込み、獣を飲み込んだ。

 獣は、反撃もしなければ、檻を出て逃げる事もせず、無抵抗で食われるままになっていた。

 あの、脊髄反射で銃を乱射するジョン太とは思えない。

 魔獣の腹の中で、獣が少し身じろぎした。

 やっと、反撃するか脱出して来ると思ったが、単に食われて苦しいのでもがいているだけだ。

 自分が、ジョン太を壊しかけている事に気が付いたトリコは、急いで魔獣を引かせた。

 魔獣が離れる時、今まで分からなかった意識の断片が流れ込んで来た。

 逃げなきゃダメなんだ。向かって行ったら、みんな殺してしまう。

「そうだったんだ」

 魔獣を体に収納して、トリコは鉄の箱の隙間に指をねじ込んだ。

「いいだろ、そんな奴ら踏みつけて行けば。出て来い、リンク張るって言い出したの、お前だぞ」

 檻の中の獣は、顔を上げた。

 ほんの少しだけ、現実のジョン太に近い姿に変わっている。

 かすかに、笑った様に見えた。

「俺には無理だ」

 初めて、こちらに分かる言葉をしゃべった。

 それから、意識がぐいと引っ張られ、突然接続が切れた。


 ジョン太は、トリコの隣で俯せに倒れていた。

 うわ、壊しちゃったか、これ。

「おおい、生きてるかー」

 背中に手をやって、軽く揺すった。

「何とか」

 弱々しい声で、返事があった。

「良かった。けっこう乱暴な事したからなぁ」

 実際には、乱暴というより、ほぼ接続事故だ。

 これだけ魔力に差があると、低い方に相当な負荷がかかる。

「大丈夫か?こっち向け。これ、何本に見える」

 指を二本立てて、見せようとしたが、ジョン太はこちらに背を向けてしまった。

「どうしても、あそこから出られない」

 低い声で言った。

「最低だ、俺」

 背中が小刻みに震えている。

 何だ、泣いてるだけかよ。

「お前なぁ、いっぺんリンクに失敗したくらいで、泣くなよ」

 トリコは、ぽんぽんと背中を叩いて、軽く言った。

 一回や二回なら、こんなに悩む訳ないだろうが。

 ランクSの魔女に出来ないんだったら、たぶんもう、誰にも無理だ。

「次は絶対いけるって」

 次って何だ、次って。

「お前より魔力の高い奴なんか居ないだろ。どうやって…」

「居るじゃないか、近所に約一名」

 トリコは断言した。

「同じランクSでも、あいつの方がちょっと魔力高いからな」

 ええと…あいつって、あのバカの事ですかー。

 ジョン太はがばと飛び起きた。

「ええっ」

「こうなったらもう、意地でもお前を魔法使いにしてやる。覚悟しとけよ」

 トリコは、起き上がって服を着始めた。

「予定通り二人がかりで手加減無しだ。お前、前から後ろから、もう大変な事になるぞ」

「あのー」

 ジョン太のダメっぷりが、姐さんの闘争心に火を付けてしまった。

「ふふふ、気の毒にね。あんなもんケツに突っ込まれたらお前、内臓が口から出ちゃうかもよ」

「お前は平気なのかよ。ちっちゃい状態であんな悪魔超人とやりまくっといて」

 ショックの余り、ツッコミにキレがない。

 ああ、たぶんこの女、悪魔超人二号だ。

「とにかく、今日はもう寝る。おやすみ」

 廊下に出たトリコは、挨拶してからぴしゃりと襖を閉めた。

 ジョン太は、布団の上に座り込んで、深くため息をついた。

 なんだかんだで、トリコが笑い事にしてくれたのは助かった。

 今後の展望は、物凄く不安だが。

「待て、これ、鯖丸的にはOKな企画なのか?」

 姐さんが暴走しているだけにも見えるが、最近のあいつは、ちょっと分からない。

 いや…それくらいの覚悟を決めないと、本気で俺、ダメかも。

「くそ、もう何でもやってやらぁ」

 服を着て広間に戻ったジョン太は、殿がすすめて来た酒を一気に一口だけ飲んで、鯖丸からマイクを奪い取り『踊るダメ人間』をフルコーラス絶叫した後、その場にぶっ倒れて寝た。


 翌朝、ジョン太は派手な物音で目を覚ました。

 鯖丸とトゲ男が、向かい合って竹刀を構えている。

 ケンカではない様子なので、起き上がって目をこすり、ぼんやり見物した。

 二人とも魔法整形しているのは、防具の代わりなのだろうが、それ意外には魔法は使っていない様子だった。

 ああ、単なる朝練か、若者は元気だなぁ。

 トゲ男が、以前に比べて、物凄く強くなっているのが分かった。

 もう、ほとんど互角の勝負だ。

 真剣を振り回して戦っている時と違って、鯖丸が本気で楽しそうだ。

 お互い二本ずつ取った所で、二人ともジョン太が起きたのに気が付いた。

「あ、お早うジョン太」

「おはようございます」

 二人は同時に挨拶した。

「んー、おはよう」

 誰かがかけてくれた毛布を脇へやって、広間を見渡した。

 部屋の隅に、マイクを握りしめた殿が、前のめりに倒れている。

「あれ、そのままでいいのか」

 不安になって聞いた。

「いいんですよ。殿は本体に戻って寝てますから」

 トゲ男は言った。

「殿も寝るんだ…」

 ぼんやりと座ってつぶやいている、テンションの低いジョン太を、鯖丸は少し心配そうに見た。

「昨夜変だったけど、何かあった?」

「ええと…」

 ちょっと迷ってから白状した。

「トリコとリンク張ろうとして、失敗した」

「そうなんだ」

 それ以上は聞かないつもりらしく、竹刀を構えてもう一度トゲ男と向かい合った。

 ジョン太は、頭を掻きながらぼんやり二人を見て言った。

「鯖丸、お前な…」

「何?」

「上段から撃ち込む時だけ、一拍タメが入る。斬り合いじゃねぇんだから、一撃を重くしなくても、当てりゃいいだろ。お前の取り柄はスピードなんだから」

「ええ、そうなんだ。気が付かなかった」

「くそ、永遠に気が付かないで欲しかったのに。唯一のスキが…」

「トゲ男は、無駄な動きが多い。こんな早いだけの奴なら、防御の上からでも撃ち込めるくらい力はあるんだから、もっと丁寧に動け」

「どっちの味方だ、ジョン太」

「別にどっちでも…」

 テンション低いくせに、何で見る所はしっかり見てるんだ、このおっちゃんは。

「一旦外界に戻るから、準備してくれ」

 言ってから、立ち上がって広間を出て行った。

「あの人何者?」

 トゲ男はたずねた。


 由樹と一緒に、しばらく城に居るというトリコを残して、ジョン太と鯖丸は魔界を出た。

 境界を抜けてすぐに、ジョン太は会社に連絡を入れた。

 電話には所長が出た。

「ああ、別に何事も無かった。無事だよ」

 所長は答えた。

「トリコと…何だっけあの子の名前」

「由樹」

「それそれ。行き先を聞かれただけだ」

「何て答えたんだ」

 ジョン太は聞いた。

 めずらしく、所長に対してタメ口になっている。

「トリコの実家に行ったって」

 所長は答えた。

「ええ?実家って、それ何処?」

 ジョン太は聞き返した。

「知らん」

 所長は相変わらず大雑把だった。

「しかし、納得して帰った」

「おい、トリコの実家って、何処だ」

 ジョン太は、鯖丸に聞いた。

「詳しく知らないけど、東北の方」

 鯖丸は答えた。

 確か、小さな穴があった。

 年々規模が縮小しているので、今はもう、魔界とは呼べなくなっている。

 こういう、変動する魔界は意外と多い。

 トラウマ映像の、吹雪の風景を思い出した。

 殿の弟子は、体と一緒に記憶も引き継いでいると言っていた。

 ハンニバルは当然、トリコの実家くらい知っているだろう。

 ちゃんと騙されてくれているかどうか、その辺は疑わしかったが。

「それと、仕事が入ってるから、早く戻れ」

 所長は言って、電話を切った。

「仕事だって」

 ジョン太は、鯖丸を振り返った。

「こんな時に…」

 鯖丸はぶつぶつ言った。

 トゲ男がこちらに来るのが見えた。

 歩きだと時間が掛かるのか、ママチャリを転がしている。物凄く似合わない。

 境界の手前で自転車を降りたトゲ男は、歩きで境界を越えて来た。

 境界がぐにゃりと歪むのを見て、ジョン太は目をこすった。

「あれ…」

 今まで、境界が見えた事は無かった。

 リンクは失敗したが、ある程度は魔力が上がっている。

 境界を出たトゲ男は、秋本に戻って原付の方に歩き出した。

「おおい、今から帰りか」

 ジョン太は声をかけた。

「ええ、これから市内まで」

「お前、広大じゃん。何で市内に帰るの」

 鯖丸は不思議そうに聞いた。

 ちょっと待てえ。このバカ、しまなみ海道を渡らせて、秋本を呼びつけるつもりだったのか。

「鬼畜だな、お前」

 ジョン太はぼやいた。

「うーん、何でこんなに早く来れたんだろうとは思った」

 鯖丸は全く悪びれなかった。

「実家はこっちなんですよ」

 秋本は言った。

「向こうに居たら、さすがに来るかぁ、このバカ」

 鯖丸に怒鳴った。

「ごめんね、バカで」

 ジョン太が謝った。

 とはいえ、広島ナンバーの原付に乗っていると言う事は、これで実家に帰って来たという事だ。

 若者って、無謀でいいなぁ…何時間ぐらいかかったんだろう。

「何か、悪かったね、面倒かけて。送ってくから、乗りな」

 車を指差すと、秋本は首を横に振った。

「バイク置いてけないし」

「積めばいいよ、ほら」

 自転車を扱う様に、軽々と原付を持ち上げて、キャリーに括り付けてしまった。

「うわー、何だこのおっさん」

 秋本は叫んだ。

「ジョン太は大体、いつもこうだよ」

 鯖丸は、もう慣れきっていた。


 気の毒なのでメシはおごるからと言って、いつもの定食屋に入った。

 鯖丸の顔を見たパートのおばちゃんが「ごはん炊いて、早く」と言っているのが聞こえた。

 最近、以前ほど無茶な食い方はしなくなったが、体育会系二人がかりなので、テーブルの上が大変な事になっている。

 トリコが厳しく指導したせいで、栄養のバランスはちゃんと考える様になったらしく、おかずのチョイスが以前と違っていた。

 納豆とか、野菜の煮付けとか、今まで見なかった面子が混じっている。

 ジョン太は、ガタイの割に小食なので、若いもん二人が食いまくっている横で、簡素な朝定食をもそもそ食べていた。

 ハイブリットは燃費がいいのだ。

「秋本、何でこんな時期に実家に帰ってるんだよ」

 鯖丸は聞いた。

「冬休みだから帰るだろ」

 秋本は答えた。

「俺だって、色々あるんだよ。家庭の事情とか」

「まぁいいけど。その間に俺の方がさくっと強くなってるから」

 鯖丸は、メシを食いながら言った。

「来年の春で、終わりだし」

「何だよ、それ」

 秋本も、がしがしメシを食いながらたずねた。

「来年は学業に専念する。本当は春の大会も出ないつもりだったけど、勝ち逃げしたいからな」

 サンマを、むしらないで丸食いしながら、鯖丸は言った。

 秋本は、ショックを受けた様子だった。

「ウソだろ。俺は、お前をたたきのめすのを目標に…」

「そんなくだらん目標は忘れろ。お前、もっと上に行けるよ」

 鯖丸は言った。

「どっちにしろ、俺、お前より一コ年上だぞ。学生の試合には、最後まで付き合えないだろ」

「ええーっ」

 秋本とジョン太は、同時に驚いた。

「いや、ジョン太はいいけど、秋本驚くな」

 鯖丸は言った。

「別に、年下のくせにタメ口利きやがって…とか、思ってないし」

 絶対思ってる、こいつ。

「まあ、部活は止めても剣道は続けるよ。俺を負かしたかったら、お前も続けて一般の大会に出て来いや」

 メシを食い続けながら、武藤玲司は言った。

「二度と見られない面にしてやるから」

「それは、こっちのセリフだ」

 秋本は言った。


 コンビニで買い物して、市内に戻った。

 トリコに止められているせいか、鯖丸はまるまるバナナは買わないで、牛乳を買っていた。

 秋本は、弟と妹にお土産と言って、自費でポテチを買っていた。

 コンソメ味だ。

 国道を走り続けながら、牛乳を飲んでいた鯖丸は、突然車を止めた。

「やばい、腹痛い」

 本気でやばそうだ。

「冷たい牛乳一気に飲んだら、腹壊すんだった。忘れてた」

「忘れるなよ」

 ジョン太は、運転を代わる事にした。

「何で出汁じゃこ食わされてたか、本気で忘れてた。牛乳ダメなんだ俺」

「バカだろ、お前」

 ジョン太は言った。

 知ってたけど。

「ふはははは、気の毒にな。お前のライバルはバカ」

 鯖丸は、偉そうに笑った。

 そんな事言ってる場合か。ていうか、自分で言うな。

「次のコンビニまで、あと二キロー」

 秋本は、冷静に言った。

「ライバルがバカでも、俺、泣かない」

 言ったけど、微妙に嫌そうだった。


 西口のゲートは、西谷魔法商会の関係者らしき三人が出て行ってから、しばらく人通りが無かった。

 平日の昼間としては、珍しい事ではない。

 観光客の出入りする時間とも少し外れているし、魔界の住人が、外界に買い物や遊びで出掛けるにも、中途半端な時間帯だ。

 ゲート近くまで運行している、本数の少ないバスも、到着まで随分時間があった。

 国道からゲートまでの道を、徒歩の男がやって来た。

 多少不審だったが、魔界に出入りし居てる様な奴は、大体不審な輩が多い。

 こうして、正面からゲートを通ろうとしているから、少なくとも不法侵入のプレイヤーではないだろう。

 最近は、きちんとしたパスポートを取得して魔界に入った後で、無茶な事をする合法プレイヤーも居るが、それにしては年齢が高い。

 こちらでシノギをしているヤクザにも見えないし…と思案していると、パスポートを提示された。

 政府公認魔導士しか持っていない、どんな場合にどんな場所でもゲートを通過出来るフリーパスだ。

「通っていいかな」

 男は、人なつこい顔でにこりと笑った。

 政府公認魔導士なら、多少不審な行動をしていても不思議ではない。

 あの連中は、おかしな奴らが多い。むしろ、この男は好感が持てる方だ。

「どうぞ」

 ゲートの係員は、バーを上げるレバーを引いた。

「お仕事、ご苦労様です」

「ありがとう」

 男は、片手を上げて挨拶し、ゲートの向こうに歩み去った。


 所長は、二人が戻るのを待っていた。

 本当は、トリコも一緒だと良かったんだが…と言った。

「本社からの応援要請だ。ハンニバルの確保を依頼されて、失敗したらしい」

 そういう仕事なら、トリコも大急ぎで戻って来るはずだ。

「何で」

 鯖丸は聞いた。

「普通、政府公認魔導士の方でやる仕事じゃないですか」

「はっきりとは言わなかったが、たぶん政府の奴らも返り討ちに遭ったんだろうな。

 お前らみたいに、外界でも強い魔法使いなんて、あんまり居ないんだよ」

 ジョン太と一緒にされる程は強くないけど…と、鯖丸はつぶやいた。

「本社でも怪我人が出た。断るなよ。お前が怪我した時、応援に来てもらってるんだから」

「はい」

 たった一年前の話だ。

 もっと昔の事の様に思える。

「じゃあ俺、もう一回戻って、トリコ連れて来ますよ」

 ジョン太は、上着を手に取った。

 鯖丸のケータイが鳴った。

 普段、仕事中に私用の電話に出たりする奴ではないのだが、着信画面を見て、顔色を変えて話しかけた。

「ええっ、どうやって電話してるの」

「トリコか」

 ジョン太はたずねた。

「違う。殿だ」

「うそ。どうやって…」

 何で魔界から電話して来れるんだ。

 鯖丸は、耳元にケータイを当てたまま、外部スピーカー検索モードに入れた。

 程なく、一番近くで起動していた所長のパソコンから、音声が流れ出した。

「すまない、由樹が連れて行かれた」

 外界で聞く殿の声は、奇妙な違和感があった。

「トリコが我が弟子を追っている。早く助けに行ってくれ。どんな無茶をするか、分からない」

「分かった。殿も無茶しないで早く戻って。そんな事したら、死ぬかも」

「境界の外に出てるのか?」

 ジョン太は、鯖丸にたずねた。

「体半分出てるって」

 相当危険な状態だ。

「かまわん。だいぶ痛んだから、この体はここで捨てる」

 殿はあっさり言った。

 そう言えば、本体は別の場所にあると言っていた。

「いいか、良く聞いてくれ。体の乗り換えは、こちらの世界では出来ない。この場所から戻れる我々の世界では、吾輩の味方が守りを固めている。

 ここから一番近い別の穴に行くはずだ」

「関西だな」

 ジョン太は自分のケータイを出してトリコにメールを打ち始めた。

 ハンニバルが六年振りに現れたのも、関西の穴だった。

「うん、すぐにトリコと合流するよ。ごめん、迷惑かけて」

「吾輩の問題でもある。気にするな」

 そこで少しの間声が途切れた。

「この体では、発声が困難になって来た。もう切る。次は新しい体で会おう。さらば」

 電話は切れた。


 魔界の境界上に、何かがばさりと崩れ落ちた。

 境界の外側にあった部分は、あっという間に灰の様になって、四散した。

 内側に残った残骸の中から、何か形の定まらない物が飛び出した。

 しばらく宙を舞ったそれは、かすかに発光しながら城に向かって飛び去った。


 トリコからの返信が中々来ないので、業を煮やしたジョン太は電話をかけ始めた。

「待って、ハンニバルの後を付けてたりしたら、急にケータイ鳴ったらヤバイんじゃない」

 鯖丸は止めた。

「知るか」

 おっちゃん、ご機嫌が悪そうだ。

「あいつは大体、いつも一人で後先考えずに突っ走るんだ。チームを組んでる意味、分かってんのか」

 バイトの鯖丸と違って、常勤のトリコとジョン太は、二人だけで組む事も多い。

 天然ボケとはいえ、一応姐さんが暴走し始めたら止めるポジションの鯖丸が居ないと、一人でがんがん突っ込みがちだと、ジョン太は普段からこぼしていた。

「仕方ないよ。単独でやってた期間が長いんだし」

 この会社に来るまでは、政府公認魔導士として、単独の潜入捜査をしていたトリコと、単独の作戦行動はまずあり得ない元軍人のジョン太では、行動パターンが違いすぎる。

「それにきっと、ハンニバルの事で、他人を巻き込みたくないんだ」

 鯖丸も、ちょっとご機嫌悪くなって来た。

「くそっ、他人じゃないだろ。ていうか、あのおっさん、何で帰って来たんだよ。

 このままじゃ、親子三人で仲良く暮らして行く予定が台無しだ」

「お前も、何もかも間違ってるぞ」

 ジョン太は一応止めてから、くそ、出ねぇと言ってケータイを切った。

 次の瞬間、ジョン太のケータイが鳴った。

 どこからそんな物捜して来たのか知らないが、レトロな音楽と共にストリップ劇場の呼び込み音声が流れ始めた。

 おっちゃん、トリコ専用の着メロを『うぐいすだにミュージックホール』に設定していらっしゃる。

 本人が聞いたら、きっと殴られるだろう。

 所長と鯖丸は、顔を見合わせた。

 自分の着メロが心配になったのだ。

「遅い」

 電話を取るなり、ジョン太は怒鳴った。

『黙れ。今、JRに乗ってる。本当はケータイ禁止だぞ』

 昔の様に、電子機器やペースメーカーへの干渉は無くなったが、マナー違反なのは今も同じだ。

「ハンニバルを追ってるなら、無茶はするな。行き先を言え、すぐに合流する」

 ジョン太のケータイは、古い機種なので、スピーカーの外部検索モードが付いていない。

 鯖丸は、ジョン太のケータイに顔を近づけた。

「ハンニバル確保の応援要請が入った。仕事になったんだ。遠慮しないで何でも言って」

『このルートなら、瀬戸大橋経由で新幹線に乗り換えて大阪だ』

 トリコは言ってから、急に訂正した。

『いや…途中で降りる。東予港からフェリーだ』

 鉄道と違って、時間はかかるが途中下車の出来ない密室状態の移動だ。

 飛行機よりもセキュリティーチェックが格段に甘い上に、海上に相手を放り出してしまえば、証拠も残りにくい。

 追っ手を返り討ちにするには、最適な乗り物だ。

「オレンジフェリーだ。時刻表調べろ」

 ジョン太は言った。

「分かった」

 鯖丸が、ケータイのweb機能に接続する前に、所長が机の上にあったタウン誌を開いた。

「二時発大阪南港行きの便がある。車で行けば間に合うぞ」

 アナログ強い。

「関西本社出張でいいですね」

 ジョン太は、念を押した。

「いいぞ。お前らの装備は、こっちで配送手続きしておく。希望はあるか…あれ?」

 所長は、変な顔をして装備品一覧を覗き込んだ。

「武藤君、君、バイトなのに独断で備品の発注してるね。何だこの変換プラグと延長ケーブル十メートルって」

「あのー、これ魔界でも使えるってトリコが言うから」

 鯖丸は、自分の首筋に付いたインターフェイスを指差した。

「使ってみようかなって」

「うわ、安物。もっと抵抗の少ないいいやつ注文しろよ、相談してから」

 所長は言った。

「これで充分行けますよ。繋がればいいだけだから」

 鯖丸は答えた。

「何に使うんだ。そんな十メートルのケーブル引きずって戦うつもりかよ。汎用人型決戦兵器か、お前は」

 ジョン太が、めずらしくオタク系のツッコミを入れた。おっちゃん、思いの外守備範囲が広い。

「違うよ。有線接続すれば、魔界で作動しない機械が動かせるはずなんだ」

 元政府公認魔導士からの情報リークとしては、かなりいい部類だった。

 ゆっくり試している閑がないのは残念だ。

「車は古い方使え。あっちの港は駐車料金要らないから、置きっぱなしでいいぞ」

 さすが田舎、土地が余っているので太っ腹だ。

「じゃあ、行って来ます」

 二人は、挨拶して事務所を出た。


 港までは、高速を使えばあっという間だったが、三十年前のジムニーで高速に乗る事については、鯖丸はかなり不安らしかった。

「爆発するんじゃないの、この車」

「する訳ねぇだろ。車検も通ってるんだから」

 文句を言う割に、アクセルを床まで踏み込んでエンジンをぶん回している鯖丸を横目で見て、ジョン太は言った。

 ケータイで、予約センターにアクセスして、空席を調べている。

 予約しなくても余裕で乗れそうなので、乗船券は現地で買う事にしたらしかった。

「うちのゼミの倉田教授なら、これくらいの悪条件が揃えば、八割方爆発させるよ」

「その教授、ぼさぼさの白髪で、白衣着てて、眼鏡かけてるだろ」

「何で分かるの」

 鯖丸は驚いた。

 うわー、絶対その教授、マッド系だ。

 港に着くまで時間が空いたので、ジョン太はみっちゃんにメールを入れ始めた。

 急な出張で大阪に行くという内容の英文を、すごい速さで打っている。

「ジョン太、メールはいつも英語なんだ」

 横目でちらりと見て、鯖丸は言った。

「日本語は、変換がめんどくせぇ」

 ジョン太は言った。

「トリコは英語分からないから、日本語でメールしてくれたよね」

 鯖丸は、一応聞いた。

「え…?あいつ英文読めないのか」

 道理で、いくらメールしても、返信しないで電話がかかって来ると思った。

「読めないどころか、全然分からないから。外界の学校に行ってないし」

「えーと」

 そんなんでよく、リンク張る直前まで持って行けたなぁ…と思った。

 絶対、何がどうなっているか、分からなかったはずだ。

「トリコって、お前より魔力高い?」

 ジョン太は聞いた。

 本人は、鯖丸の方が魔力が高いと言っていたが、思考言語が理解出来ないのに、トラウマ映像の最深部まで潜れる奴は、普通居ない。

 自分は特にややこしい事になっているのは、知っていた。

「どうだろう…。攻撃力だけなら俺の方が高いけど、全体ではどっちが上か、良く分からない」

 別に、どうでもいいし、そんな事…と言った。

 車は、インターを抜けて、一般道に入っていた。

「この先、どっち?」

 鯖丸はたずねた。

「ああ、そこを右」

 人間カーナビのジョン太は答えた。

 海が近付いてきた。

 程なく車は、どこら辺からが乗船客用の駐車場なのか判然としない、雑な感じの港内に到着した。


 ハンニバルの居場所は、すぐ分かった。

 待合室の上にある食堂で、由樹と二人で丼物を食っていた。

 由樹が少し不安そうな顔をしている以外は、ごく普通の親子連れに見える。

 こうして見ると、よく似た親子だ。

 絶対に他人から不信感は抱かれないだろう。

「良かった。ちゃんとごはん食べてる」

 別に、ひどい目には遭って居なさそうだ。

「あー、でもカツ丼とチョコパフェを一緒に食うって、どうなんだ。それに薄着過ぎ。食堂はあったかいからいいけど、海の上は寒いじゃないか。何考えてんだ、あのおっさん」

 どっちが実の父親か分からない様な事を言い始めた鯖丸をシカトして、ジョン太はトリコを捜した。

 トリコは、土産物売り場の端の方で、食堂の入り口を窺っていた。

 近付いたジョン太を見ると、遅いと文句を言った。

「早いよ。高速で来たからな」

 ジョン太は、周囲を見回した。

 他に、不審な者は居ない。

「とにかく、お前が無茶しないで待っててくれて良かった」

 ほっとした顔で、ジョン太は言った。

 三人で組んでも、二人でも、リーダーはジョン太だった。

 昨晩、けっこうかっこ悪い別れ方をしたし、ジョン太の性格だと引きずってない訳はないのに、その辺はきっちり切り替えが出来ているのは、さすがだと思う。

 安心して、力が抜けた。

「殿がひどくやられたらしいな。お前は大丈夫か」

「どうにか」

 殿の事を思い出すと、体が震えだした。

「私を逃がしてくれた。死んだかも」

「大丈夫だ。電話して来たくらいだから」

 ジョン太は、出張用の財布をトリコに渡した。

「お前、まだ乗船手続きはしてないよな」

「ああ、海斗から目を離す訳にはいかないから」

 トリコは答えた。

「代わるから、三人分の乗船手続きして来い。別に、身分証の提示はないから、全員偽名でな。あと、隠れやすいから二等寝台取って」

「私は、中学生くらいに見えるから、お前か鯖丸に手続きしてもらった方がいいんだが」

 トリコは言った。

「別に大丈夫だと思うが…鯖丸に行かせよう。お前も行け」

 食堂の入り口近くに隠れている鯖丸に手招きした。

「ハンニバルに顔が知られてないの、俺だけだしな」

 ちょっとため息をついた。

「もっと目立たない容姿なら、良かったんだけどね」


 三人の中で一番目立たない容姿の鯖丸は、車から持って来たグラサンをかけてずさんな変装をしているせいで、かえって目立つ様になっていた。

 たぶん、平田が車に置きっぱなしにしていたやつだ。

「うわー、人相悪いなお前。どこのヤンキーかと思った」

 冬用の上着が、フードにフェイクファーの付いたジャケットなので、余計悪そうに見える。

 この上着、仕事用の装備としてはどうよ…と、いつも思っていたが、本人は暖かいので気に入っているらしい。

「外せ、可愛くない」

「ハンニバルに顔知られてるのに…」

 鯖丸は文句を言ったが、照明が本数の少ない昔の蛍光灯だけの港内では、割と見えにくかったらしく、サングラスをポケットに突っ込んで、乗船名簿に記入を続けた。

 見て来た様な嘘の名前を、何のためらいもなくすらすら書き込んでいる。

 そう言えば、海斗に名前を聞かれた時も、全くためらわなかったな…と、思い出した。

 魔界関係で、やばそうな相手には、本名は名乗るなと教えていたが、あんなにさっくり嘘をつく奴だとは思わなかった。

「あ、名字同じなんだ。どういう設定?夫婦とかでいいの」

「トリコの見た目で、そんな無理な設定にする訳ないじゃん。兄妹だよ」

 鯖丸は、案外冷静だった。

「冬休みに、二人でUSJに遊びに行く、閑な兄と妹。ジョン太は、親戚のおじさん。

 法事で四国に帰省してた、大阪のおじさんに誘われて、向こうで泊めてもらう予定」

 そこまで細かい設定を付ける必要あるのか。

「これから人前では、俺の事をお兄ちゃんと呼びなさい」

 何寝言言ってんだ、このくそアニキは…。

 文句を言おうとしたら、ポケットのケータイが軽く振動した。

「ハンニバルが動き出した。一階に移動する」

 ジョン太だった。

「後でまた連絡する。お前らは、見つからない様に隠れてろ」

 隠れるって、乗船客用の待合室と食堂兼土産物屋しかない、ただっ広い港内のどこにどうやって…。

 とりあえず、階段から丸見えのこの場所はまずい。

 チケットを買って戻って来た鯖丸の手を引っ張って、トリコは建物の外へ出た。


 乗船案内のアナウンスが流れるまで、二人は車の中でじっとしていた。

 周囲からは丸見えだが、大型トラックが停まっているので、目隠しになっている。

 助手席で不安げに黙り込んでしまったトリコの手を握って、鯖丸は周囲を見回した。

 乗船時間が近いせいか、外に出ている乗客は居ない。

「大丈夫だから。由樹の事は、ジョン太が絶対何とかしてくれるよ。ハンニバルだって、中に入ってる殿の弟子を追い出せば、元通りになるかも知れない。

 魔界に入ったら、俺があいつを叩き出してやるよ」

「そんな事しても…」

 殿は、海斗は死にかけていたと言っていた。

 殿の弟子を分離出来ても、元通りになる保証はない。

「あいつがどれくらい強いか、お前は見てないだろ。殿が負けたんだぞ」

「俺は負けないよ」

 どこからそういう強気な発言が出て来るのか、謎だ。

「ハンニバルが元に戻ったら、きっちり勝負付けてやる。トリコを六年も放ったらかしにする様な奴には、絶対負けない」

 握っていた手に、少し力が入った。

 ああ、こいつ何か大事な話をしようとしているな…と思った。

 何を言われるか、少し想像が付いた。

「俺、絶対勝つから。そしたら」

 ケータイが鳴って、話は中断された。

『ハンニバルが船に乗った。お前らも早く来い』

 ジョン太は、短く言って、電話を切った。

「行こう」

 鯖丸は、車を降りた。

 トリコはうなずいて、後に続いた。

 話の続きは、結局聞けなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ