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五話 三匹(完結編)

 芦屋の常宿に近付くと、街並みが変化した。

 放棄されて荒れた穴の周辺から、人が生活している暖かみのある風景に切り替わった。

 上品な感じの街で、現役で使われている様子の古い家も多い。

 昔から住んでいる愛着のある場所を、魔界になっても離れなかった人がけっこう居るらしい。

 フロントで部屋を聞いて階段を上がると、皆は一部屋に集まっていた。

 地形が高台になっている事もあって、窓からは穴が一望出来る。

 小さな点の様な状態だが、ハンニバルらしき動く物が確認出来た。

「ただ今戻りました」

 挨拶して部屋に入ると、皆がこちらを向いた。

「ご苦労様です。意外に早かったですね」

 海老原さんが、テーブルの上のポットから、紅茶を注いで渡してくれた。

「それで、どうなったんだ」

 トリコは、心配そうに聞いた。

 鯖丸は、にっと笑ってピースサインを出した。

「きっちり魔法使える様にして来た」

「すごいな、お前。大変だったろう、あいつとリンク張るの」

「うん、一回じゃ無理だったんで、リバースで二回」

 周囲がどん引きする様な事を、平気で言っている。

「うわー、さすがに引くわ、それ」

 自分と同じ顔のエンマ君に引かれると、ちょっと微妙だ。

「それで、ジョン太は?」

 鯖丸は、廊下の方を振り返った。

「実は、ちょっと変な事になってて…」

 背の高い、ごつい男が普通に部屋に入って来た。

「誰?」

 全員が聞いた。

「ジョン太」

「え…?」

 さすがの海老原さんも、手に持ったカップを取り落としそうになっている。

「鯖丸、君なぁ、なんぼあんなごっついもん見せられて、ジョン太が逃げたからゆーて、その辺のおっさん代わりに拾て来るなや」

 ヨシオ兄さんが、言った。

 ごついって何がだ。見たのかよヨシオ兄さん。

「こんな変なおっさんが、その辺に落ちてる訳ないじゃん。ジョン太だよ、これ」

 一見弁護している様で、実は酷い事を言っている。

「誰が、その辺に落ちてるおっさんじゃー」

 ジョン太は、鯖丸の首を絞めた。

「あ…ジョン太だ」

「うん、ジョン太やな」

 それで分かるのもどうか…。

「うわー、これ、ほんまもんのジョン太か?外人やん」

 ヨシオ兄さんは、しげしげとジョン太を見た。

「最初からそうだよ」

 あんなに何回も言ったのに、人の話聞いてないのか、このお笑い芸人は。

「目ぇ青いやんか。気色悪ー」

「それも最初からだ。殴るぞ、お前」

「えっ、そうだっけ」

 鯖丸にまで言われた。がっかりだ。

「もういい…トリコ、これ元に戻せないか」

「何だ、自分で戻れないのか」

 トリコは、ジョン太を眺めた。

「魔法使ったら、こんなになって。鯖丸は折りたたむとか、訳分からん事しか言わないし」

「うーん、折りたたむよなぁ、あれ」

「うん、たたむねぇ」

 サリーちゃんもうなずいている。

「そのままじゃダメなのか」

 トリコは聞いた。

「ダメに決まってるだろう。寒いわ、暗い所で物は見えないわ、鼻は利かないわで、もう散々だ」

「いやぁ、かっこええわージョン太」

 サリーちゃんは、ため息をついた。

「そのままでええやん」

「うん、ビジュアル的には、一人ぐらい男前が居た方がいいな」

 女性陣には好評だ。

「何ぃ、ジャニーズ系の俺より、そんなくたびれたおっさんがいいのか」

「わしも、お笑い芸人の中では男前や。勝負したるで」

「ホストクラブでバイトしても、全然バレなかった俺が相手になったるわ」

 ああ、バカが増殖している…。

 ていうか、エンマ君、外界では女だろ。ホストクラブでバイトすんな。

「すいません、海老原さんお願いします」

 バカ三人と男前大好きな女二人は諦めたジョン太は、海老原さんに頼った。

「僕も、昔は美少年やったんですけどねぇ…」

 海老原さんは、ため息をついた。

「オジサンになっても男前とは、羨ましい話です」

「あの…海老原さん?」

「しばらく、そのままで困ってなさい」

「ひどい、海老原さんまで。トゲ男があんな変な姿になってる理由が、今分かった」

「冗談ですよ」

 ティーカップをテーブルに置いた海老原さんは、ジョン太の顔を両手で押さえて、五つ数えた。

「はい、終わり」

「おお、本当にたたむんだ」

 感心しながら、あちこち点検して確認している。

 トリコとサリーちゃん以外は、全員ほっとした顔をした。

「大丈夫か?あれ」

 暑くなったのか、部屋の隅で服を脱ぎ始めたジョン太を、トリコは指差した。

「何か、微妙に弱ってないか」

「まぁ、その辺は色々大変だったし」

 鯖丸は、ぶつぶつ言った。

「俺の事も心配してよ。本当に大変だったんだから」

「うん、分かるよ。大変だったろ、あれ引っ張り出すの」

 仕事中は、プライベートは持ち込まないのが暗黙の了解になっていたのに、何だか今日は変に絡んで来るなぁ…とトリコは思った。

「それもあるけど…」

 トリコの手を握って、口ごもった。

 普通にしているが、肩が震えている。

「悪いけど、ちょっと外すな」

 皆に断って、鯖丸の手を引いて部屋を出た。

 隣の部屋のドアを開けて、入った。

 女の子二人部屋になっているらしく、トリコの上着と、サリーちゃんが着ていたフェイクファーのコートが放り出されて、荷物が散乱している。

「どうした」

 トリコは聞いた。

「本当に、大丈夫か?お前」

 ドレッサー兼机の前に置かれた椅子に座って、鯖丸は俯いた。

「全部思い出した。けっこうきつい、これ」

 リンク張っているので、何をどう思い出したのかは分かる。

 屈み込んで肩を抱いた。

「そうか、辛いな」

「忘れたままにしとくより、マシなんだけど」

 鯖丸は、トリコにぎゅっとしがみついた。

「ごめん、ちょっとの間甘えていい」

「いいよ」

 鯖丸は、トリコの胸に顔を埋めて、しばらく泣いた。

 肩を抱いて、頭を撫でていたトリコは、ふいにぴしゃりと後頭部をはたいた。

「こら、ついでに乳揉むな」

「だって…」

 外界では、散々エロい事をやり尽くして来たが、実は仕事中にいちゃいちゃしている訳にもいかないので、大きい方のトリコに触る機会は、あんまりない。

「お前もやっぱり、こっちの方がいいか?」

 トリコは聞いた。

 ロリ属性がない奴なら、大体そうだろう。

「別に、やれればどっちでもいいよ」

 ああーそうですか。

「最低だな、お前」

「どっちも好きだって、言ってるのに」

 鯖丸は、手の甲でごしごし顔をこすって、椅子を立った。

「顔洗って来る」

 洗面所に行って、水を出している音が聞こえた。

 ちょっと泣いたら気が済んだらしい。

 強い奴だなぁと思った。

「先に戻ってるよ。落ち着いたらおいで」

 トリコは、ドアを開けた。

「そこにある焼き饅頭、食っていいから」

 魔界で駅を降りた時、買っておいた菓子を指差した。

 サリーちゃんと二人でつまんだが、まだ半分残っている。

「やった。全部食っていい?」

「いいよ」

 トリコは、部屋を出た。

 洗面所から、タオルで顔を拭きながら出て来た鯖丸が、嬉しそうに饅頭に手を伸ばしているのがちらりと見えた。

 後ろ手でドアを閉めた次の瞬間、ガラスが破られる凄い音が背後で聞こえた。

 うぐっという、くぐもった叫び声が続いた。

 あいつ、一遍に二個以上口に入れやがったな…。

「鯖丸っ!」

 振り返って、今出て来たばかりのドアを開けた。

 部屋の真ん中に、ハンニバルが居た。

 窓ガラスの破片が散乱した部屋の中で、見慣れた皮のコートを着た、見慣れた顔の男が、全く見た事のない表情で立っていた。

 長く伸びた髪が、生き物の様にうねりながら、鯖丸の首を締め上げていた。

 一昨日の晩見た時は、短かった髪が、メドゥーサの様に伸びて動いている。

 こちらを見てにやりと笑うと、鯖丸を捕らえたまま、窓から空中に身を躍らせた。

 ハンニバルを見張る為に、見晴らしのいい部屋を選択したので、ホテルの最上階に近い階層だ。

 やばい。

 魔界でなら、この程度の高さから落ちても、鯖丸なら怪我もしないだろうが、それは、重力操作の魔法を使える状態での話だ。

 あのまま絞め落とされて意識を失ったら、いくらランクSの魔法使いでも、たぶん死ぬ。

 トリコは、窓に向かって走り、身を乗り出した。

 隣の部屋から、ジョン太が同じ様に身を乗り出していた。

 一部始終を聞いていたのだろうが、アサルトライフルと短機関銃まで身に着けた、フル装備の姿で、鯖丸の刀を左手に握っている。

 トリコと目が合った瞬間、一瞬のためらいもなく窓から空中に飛び出した。

「バカ、間に合わない」

 いつもながら、判断が速過ぎて、ついて行けない。

 魔獣を出して空中で拾えと云う事なのだろうが、あれは、鯖丸の攻撃魔法みたいに、一瞬で出せる物じゃない。

 割れた窓から飛び降りて、落下しながら魔獣を放った。

 飛び降りたジョン太は、鯖丸に向かって刀を投げた。

 牽制するハンニバルに、拳銃を抜いて撃ち込んだ。

 張られた結界は、立て続けに五発、全く同じ弾道で撃ち込まれた弾丸で緩んだ。

 ジョン太にはめずらしく、六発目は外した。

 投げた刀を、鯖丸が受け取ろうとして、手を伸ばした。

 紙一重の差で、刀は弾かれて下に落ちた。

 ハンニバルと鯖丸の姿は、地面に激突する直前に、かき消えた。

 追尾して来た魔獣が、空中でジョン太を拾った。

 魔獣に支えられて無事に着地したジョン太は、落下して来るトリコを見て、顔色を変えた。

「トリコ!!」

 いくら何でも、あの高さから落ちた人間は拾えない。

 それでもやるつもりらしく、手を伸ばして落下地点に駆け寄った。

 トリコの背中から、真っ黒で巨大なコウモリの羽根が伸び上がった。

 ばさりと風切り音を立てて、羽ばたいた。

 地面に墜落する直前で体勢を立て直し、空中に舞い上がった。

 そのまま、しばらく上空から周囲を確認して、降りて来た。

「そんな事も出来たのか」

 巨大な羽根が畳まれて、背中に消えるのを、ジョン太は驚いて眺めた。

「行動速過ぎだ、お前」

 魔獣を袖口から仕舞いながら、トリコは言った。

「この子はそんなに速く動けないんだから」

「すまん」

 ジョン太は、屈んで刀を拾った。

「見失った。穴に行ったんだろうが、早く追いつかないと…」

 また掠われやがった。どこのお姫様だ、あいつ。

「私が先回りしましょう」

 何時の間に居たのか、海老原さんが横合いから刀を手に取った。

「救出までは無理かも知れませんが、これを渡すくらいならやれますんで」

 外界でも魔界でも、何か棒的な物を持っていないと、鯖丸の攻撃力は格段に下がってしまう。

 今の状態では、捕らえられたまま手も足も出ないはずだ。

「お願いします」

 言い終わらないうちに、海老原さんの姿が消えた。

 一瞬遅れて、音速を突破する時の衝撃波が、周囲を薙ぎ払った。

 後を追って走り出そうとするジョン太を、窓から身を乗り出したヨシオ兄さんが止めた。

「待てや。なんぼジョン太でも、車のが速いわ。今行く」

 窓の中に引っ込んだヨシオ兄さんに向かって、トリコは魔獣を出して飛ばした。

 上の方から、ヨシオ兄さんの「食われるー」という叫び声が聞こえた。

 そのまま、腹の中に兄さんを収納した魔獣が降りて来た。気の毒に、兄さんよろよろだ。

「姉さん、気ぃ短いわ、ほんま」

 ポケットから、ランエボのスペアキーを出して、車の結界を解除しながら駆け寄った。

「急ぐんだ」

 トリコは、めずらしく、後部座席ではなく助手席に滑り込んだ。

「分かっとる」

 ジョン太が、後部座席に乗るのを確認して、ランエボは走り出した。

 カーアクション映画の様な、派手なタイヤの空回りも無ければ、テールスライドもさせない地味な走りだが、あっという間にスピードメーターが100キロオーバーに入った。

「お前が本気で車転がしてるの初めて見たけど」

 ジョン太は、感心した様に言った。

「マジで速いな」

「昔、六甲で走り屋やってん」

 いつになく真剣な顔でハンドルを握りながら、ヨシオ兄さんは言った。

「実家は豆腐屋」

 たぶん、これはボケだ。

「藤原豆腐店か、お前んとこ」

 一応突っ込むと、ご満足な顔をしたので、ボケていたらしい。

「一応、レーシングライセンスも持ってたんやけどな」

 魔界関係者のご多分に漏れず、この人も何か色々あるらしい。

 一応免許は持っているが、車について何の興味もないトリコは、もっと急げとか無茶を言い始めた。

 いや…これ以上急げる奴なんて、WRCとか、フォーミュラ何とかに出てる人くらいだと思うが…。

 この凄さを分かってもらえないとは、ヨシオ君気の毒に…と思いながら、ジョン太はベルトの物入れを開けた。

 使ってしまった弾を装弾して、更にごそごそ探っていたが、くそっ昨夜落として来たのか…とか言って物入れを閉じた。

「トリコ…ヨシオ君でもいいや。絆創膏持ってないか。出来れば指先に貼るやつ」

 普通は持ち歩いてないと思う。

「怪我でもしたのか」

 トリコは、後部座席を振り返った。

「いや、トリガー引く指に、ヒビが入っただけだ。どうって事ないんだけど、微妙な感覚が…」

 さっき、一発だけ少し外していたのを思い出した。

「見せて」

 100キロオーバーで疾走する車内で、トリコは後部座席に身を乗り出した。

 手の甲まで毛皮に覆われているが、指先と手の平は無毛で、皮膚が露出している。

 あまりじっくり見た事はなかったが、爪の形は普通の人間と同じだ。

 その、爪の周りと手の平が、ひどい事になっていた。

 がさがさに荒れて、爪の回りが何カ所かばっくり割れている。

 何だ、この、お肌が弱いベテラン主婦みたいな手は。

「ちゃんとハンドクリームとか塗っとけよ」

 トリコは呆れた感じで言った。

「いや…添加物入ってるやつ、アレルギーで」

 ジョン太は言い訳した。

「無添加のワセリンは、鯖丸が使い切っちまうし」

「何に使ったんだよ」

 分かっているくせに、トリコは意地悪で聞いてみた。

「後で鯖丸に聞け」

 不機嫌に言ったジョン太の指先を、トリコは手を伸ばしてぎゅっとつまんだ。

 ヒビの入っている指先をつままれたジョン太は、痛てぇと文句を言った。

 回復魔法が通って、あっという間にひび割れていた指先が、つるつるになった。

「自分でやれよ、これくらい。魔法使える様になったんだろ」

「あ、そうか」

 長年の習慣は、中々変えられない。

 指先の微妙な感覚が戻ったのか、ジョン太は窓から身を乗り出して、アサルトライフルを構えた。

 建設途中で放り出された鉄骨の向こうに、ちらりと人の姿が見えた。

 この距離から狙うのかと思う間もなく、銃声が響いた。

 道がカーブしている上に、路上に障害物が落ちている。

 ヨシオ兄さんは、ほとんどスピードを落とさないで避けたが、体が遠心力で思い切り振られた。

 トリコは、ドアの方に叩き付けられた。

「姉さん、シートベルト!」

 ヨシオは叫んだ。

 後部座席のジョン太は、何事もなかった様に踏み堪えて、更に撃った。

 鉄骨の間をすり抜けた銃弾が、かろうじて見える人影に吸い込まれて行く。

 誰をどう狙っているのかすら、普通の人間には分からない。

 銃弾は、当たった瞬間にはぜた。

 小さな爆発がいくつも起こり、人影は二つに分かれて飛んだ。

 一方が長い物を持っているので、鯖丸だと分かった。

 もう一人は、コートを着ている。ハンニバルだ。

 海老原さんが居ない。

 資材と重機を回り込んで、やっと穴の全容が見えた。

 鯖丸の背後に、海老原さんが倒れている。

 見た目の外傷はないが、動かない。

 穴の縁に立った二人は、油断無く睨み合った。

 鯖丸の上着が、何カ所も切り裂かれて、風に煽られている。

 首にはまだ、切り離した髪の毛が巻き付いている。

 ハンニバルが、ふいに腰の後ろに回していた腕を振り出した。

 ブーメランの様に湾曲した刃物が、変形しながら襲いかかった。

 鯖丸が空中に逃れ、反転して斬りかかった瞬間、ハンニバルの姿はかき消え、一瞬で背後に現れた。

 銃声が響き、ハンニバルの手から刃物が落ちた。

 走る車の中から、ジョン太が飛び降りていた。

 あっという間に体勢を立て直し、片膝を付いた姿勢で、両手に構えた拳銃を撃ち込んだ。

「ジョン太!!」

 振り返った鯖丸は、飛び下がり、海老原さんの襟首を掴んだ。

 魔力を通して軽量化し、思い切りジョン太に向かって投げつけた。

 いくら重力操作で軽量化しても、鯖丸の手を離れた時点で、元の重さに戻る。

 普通に受け止められるのは、ジョン太くらいだ。

 一瞬で銃を仕舞って、海老原さんを受け取ったジョン太は、振り返った。

 突っ込んで来たランエボが、めずらしくタイヤを滑らせながらジョン太の背後に回り込んだ。

 さすがヨシオ兄さん。良い位置にびたりと止めた。

 いいタイミングで、トリコが後部座席のドアを開けている。

 放り込んでから、今度はスコーピオンを抜いて、鯖丸に向かってフルオートで弾をばらまいた。

 味方に向かって発砲して、どういうつもりだ…と、トリコとヨシオ兄さんは思ったが、短機関銃の弾は、全弾命中せず、鯖丸の周囲に留まった。

 刃物を拾って、斬りかかったハンニバルの周囲で、空中に浮いた弾丸がはじけた。

 空中に待機した弾が、盾になって鯖丸を守っている。

 ハンニバルは、一旦後ろに下がり、ブーメランの様な曲刀を片手に提げて、思案した。

「海老原さん…大丈夫ですか」

 トリコは、座席に放り込まれた海老原さんを抱き上げ、回復魔法をかけた。

 黒縁の眼鏡を飛ばされ、びっちり七三に分けた髪の毛が乱れて、額に落ち掛かっている。

 あれ…この人、こうして見ると、意外と綺麗な顔立ちをしているな…と思った。

 自称、昔は美少年だったというのも、案外本当かも知れない。

「大丈夫です」

 海老原さんは、目を開けた。

「僕の事はええですから、早う鯖丸君を」

 残ったダメージは、あっと言う間に自分で回復し、背広の内ポケットから、予備の眼鏡を出して来て掛けた。

「何回も斬られとるはずです。自力で回復するのも、限界や」

「あいつ、回復魔法は苦手だからな」

 トリコは、車の外に飛び出した。

「回復させる。そいつ、もう…」

「分かってる」

 二人とも、鯖丸とリンクしているので、どの程度のダメージを受けているか分かる。

 よく、まともに立って動き回れるな…と感心した。

 体を乗っ取るのが目的なら、それ程痛めつけないだろうとタカをくくっていたが、死なない程度にはやるつもりらしい。

「俺がやる。援護しろ」

 ジョン太が、どの程度魔法を使えるのか分からなかったが、信用するしかない。

 鋭利な水の壁が、ハンニバルの前に地面から噴き出した。

 間髪入れず、魔獣が背後から襲った。

 ハンニバルは、全く意に介さず、前に踏み出した。

 水の壁を蹴散らし、背後の魔獣を後ろ手に叩き付けた。

 魔獣は、水滴になって四散した。

 海斗の記憶を持っているので、手の内はほとんど知られている。

 魔獣が打ち砕かれた瞬間に、トリコは後ろに飛び下がった。

 追撃は、来なかった。

 ジョン太が、鯖丸を抱えて移動していた。

 本気で、魔力を使わない身体能力だけでの移動だったので、魔法使い以外相手にした事のない殿の弟子は、反応が遅れた。

 たぶん、ハンニバルも同様だ。

 戦闘用ハイブリットというのは、その辺に普通に居る様な存在ではないし、魔界でうろうろしている奴なんて、更に稀少だ。

 魔法を使っていないので、追尾出来ない。

 味方まで、二人の存在を見失った。

 しばらく間を置いて、背後に佇む重機の向こうから、気配があった。

 回復魔法が発動した。

 熟練度は低いが、魔力は高い。

 あっという間に回復した鯖丸が、重機の運転席に飛び乗った。

「ヨシオ兄さん、ケーブルこっちに投げて」

 えええ、今のジョン太か?そんな魔力高かったんか、あいつ。

 後部座席に放り出されたケーブルの束を、車のドアを開いて投げつけた。

 運転席に座った鯖丸は、ポケットから出した変換プラグをインパネに差し込み、ケーブルに繋いだ。

 束ねたケーブルを解しながら、もう一方の端を、自分の首筋に差し込んだ。

 首に穴が空いている様な奴は、大体デジタルジャンキーだと思っていたヨシオ兄さんは、放置された重機が起動するのを見て、愕然とした。

「あいつジャンキーやのうて宇宙人か。あんなごっつい体して」

 魔界の深部では作動しないはずの重機が、有線接続で動いた。

 ジャックインプラグから、直接魔力を通されて二十数年振りに起動した重機が、腕を振り上げてハンニバルに襲いかかった。

 地面がえぐられ、砂埃が舞い上がった。

 後ろへ逃れるハンニバルに向かって、トリコが水滴に四散した魔獣を集めた。

「姉さん、そのまま」

 車から走り出たヨシオが、四散した水の魔獣に冷気を放った。

 鋭利な氷の刃物になった魔獣が、ハンニバルに襲いかかった。

 ハンニバルは、障壁で防いだ。

 惜しい。ヨシオ君とリンク張っとけば、もっといい感じで攻撃出来たのに。

 一瞬思ったが、相方が死にそうになっている奴相手に、そんな事出来る訳がない。

 ダメだこれ、職業病かも。

 重機が、更にハンニバルを襲った。

 鯖丸が、有線接続したまま、ケーブルを捌いて背後に回り込んでいる。

 こうして見ると、十メートルは短い。ぎりぎりだ。

 振り下ろされたパワーショベルの腕を、ハンニバルが片手で受け止めた。

 人間業ではない魔力が、金属を伝わって重機を浸食して行く。

 運転席まで伝わった魔力が、ケーブルに達した。

 ケーブルが、どんどん変形しながら浸食されて行く。

 首筋に届く直前で、鯖丸はケーブルを首から抜いて投げ捨てた。

「くそ、やっぱりこんなじゃダメか」

 もう少しくらいは、足止め出来ると思っていた。

 引き抜いたケーブルが、先端まで浸食され、空中を蛇の様にうねった。

 背後から斬りかかろうとした鯖丸が、弾かれて倒れた。

 立ち上がろうとした体に、ぎりぎりとケーブルが巻き付いて行く。

 ケーブルを通って、魔法が来た。

 ハンニバルの使う、物質系とも全く違う、見た事のない力が、発光しながらケーブルごと鯖丸を焼いた。

 魔力の高い人間が、障壁も張らないでまともに攻撃魔法を食らったら、ひとたまりもない。

 ジョン太が、重機に手を伸ばした。

 指先が近づいただけで、体ごと弾かれた。

 しまったという顔をして、魔力レベルを一気に下げ、運転席に飛び乗ってケーブルを引き抜いた。

 ケーブル沿いに攻撃魔法を通され、悲鳴を上げていた鯖丸は、ぐたりとその場に動かなくなった。

 まだ、魔力の通っている重機を投げ捨てて、ハンニバルが倒れた鯖丸に駆け寄った。

 トリコが、滑空しながら鯖丸を拾い上げ、上空へ飛び上がった。

 さっき見たコウモリだ。

 水の魔獣より、圧倒的に動きが速い。

 魔法だから、空力学的に飛んでいないのは分かっているが、70キロ以上ある人間を抱えて飛べるとは思わなかった。

 それでも、限界の重量はあるらしく、明らかにスピードが落ちた。

 ある程度離れた場所まで逃れたトリコは、羽を畳んで魔獣に乗り換えた。

「邪魔をするな」

 ハンニバル…殿の弟子が叫んだ。

「そいつの体を寄越せ。それとも、お前の息子を代わりに差し出すか?」

 トリコは、地面に降りた。

 鯖丸を乗せた魔獣を、後方に引かせて、ハンニバルの前に立った。

「二択は嫌い」

 三択も、もちろん嫌いだ。

「海斗の体で、そんな事言うな」

 トリコの周囲に、何本もの渦が巻いていた。

 地中と空中から集められた水が、竜巻の様に長く伸び上がって、獲物を狙っている。

「お前こそ、その体を出て、異界に帰れ」

 水の竜巻が襲いかかった。

 トリコが、魔獣以外の攻撃魔法を使うのはめずらしい。

 魔獣を出して鯖丸を確保したままなので、他に方法が無いのかも知れないが、さすがランクS、攻撃系は苦手なはずなのに、かなり強い。

 とは言え、殿相手に圧勝する様な異界の物に、勝てるとは思われない。

 鯖丸を逃がす為に、無茶をしている。

 乗っ取られたら終わりだ。

 身体能力と魔力の高い体に、殿の弟子が入ったら、この場に居る全員が瞬殺されるだろう。

 いつの間にか、ジョン太が、トリコの隣に立っていた。

 重機からここまで、一瞬で移動して来ているが、魔法ではない。

 身体能力だけで移動して、制止した瞬間に、一気に魔力を上げた。

 両手に、32口径と44口径の、標準装備の銃を構えている。

 ガンベルトの物入れから、弾丸が次々に飛び出して、空中で螺旋を描きながら装弾を待っていた。

 殿の弟子が、魔法を使った。

 周辺二十メートル近い地面が発光し、全体に魔力が通った。

 白い光が、無数に地面から噴き出し、穴の周辺を飲み込もうとしていた。

 本気でヤバい。

 攻撃を仕掛けようとしていたジョン太は、一瞬の判断で止めた。

 殿の弟子がハンニバル…いや、如月海斗に戻ろうとしている。

 何度も、綱引きの様な力のやり取りがあって、瞬間、異界の物が人間に戻った。

「逃げろトリコ。これ以上押さえるのは無理だ」

 如月海斗が叫んだ。

 殿の弟子が出しかけた攻撃魔法が、キャンセルされていた。

 ジョン太は、トリコの襟首を掴んで、全速力で魔法の攻撃範囲から逃げた。

 後方で、行き場を失った魔法が暴発した。

 これ、当たったら本気で死ぬ。

「うぉぉぉ、マジでヤバいー」

 ここまで死にそうな目に遭ったのは、軍を退役して以来だ。

 トリコを抱えて、100メートル七秒台の走りで逃げ出した。

 ていうか、この年になってまだこんなに速く走れたのがびっくりだ。

 安全圏まで逃れた時には、背後の地表が、深くえぐられたクレーターになっていた。


 鯖丸が目を開けると、建物の中に居た。

 見慣れた構造なので、遺棄されて荒れ果てていてもコンビニだと分かる。

「あ…ロー○ン」

「店名が分かる程、コンビニに通うな」

 こちらを覗き込んでいたジョン太が、的確にツッコミを入れた。

 飛び起きようとする鯖丸を、トリコが押し止めた。

「立つな。ゆっくり起きて座れ」

 言われた通りにして、全身を点検した。

 魔法で受けたダメージと、刃物で斬られた感触は、まだ残っていたが、もう外傷も痛みも無かった。

 ああ、やっぱりトリコの回復魔法は効きが違うな…と思ったが、トリコは無言で隣に居るジョン太を親指で指した。

 ええ、これやったのジョン太かよ。

「回復系、得意なんだ」

 何となく、そんな気はしていた。

「そうかも」

 ジョン太は言った。

「ちょっとぐらい練習させろっての。いきなり本番だよ、全く」

 文句は言っているが、冗談を言っている口調なので、だいぶ自分の能力は把握出来たらしい。

 気を失ってもしっかり握っていた刀を鞘に収めて、立ち上がろうとした所を、もう一度トリコに止められた。

「だから立つな。向こうに姿を見られたら、また距離を詰められる」

 宿の部屋で、いきなり襲われた事を思い出した。

 こちらからは、ハンニバルの姿が、辛うじて確認出来る程度だった。

 当然、向こうからもどうにか見えていたのだ。

「お前が一人になる瞬間を狙って来た。済まん、不注意だった」

 空間操作で距離を詰めて来るとは聞いていたが、あれほど離れた場所から移動して来るとは思っていなかった。

「ううん、俺も油断してた」

 改めて周囲を確認した。

 コンビニの、レジカウンターの中だ。

 バックヤードと、反対側にある、壊れたドリンク用冷蔵庫の向こうに、皆が居る。

 後から追い付いたらしく、エンマ君とサリーちゃんが、奥から手を振った。

「俺達がここに居るのは分かってるはずだけど、攻撃して来ないの」

 鯖丸は聞いた。

「ああ、空間操作は、相手が見えてないと出来ないらしい。奴の攻撃魔法は、威力があり過ぎて、お前の体ごと何もかも壊しちまうからな。

 お前が離れた瞬間に使って来たが…」

 ジョン太は、トリコの方をちらりと見た。

「殿が使う魔法に似てるな。威力は桁違いに高い」

「ハンニバルの魔法を使えばいいじゃん。物質操作で、こんなコンビニぶっ壊せるんじゃないの」

「海斗が止めてるんだ。たぶん、私が居るから」

 トリコが、ちらっと辛そうな顔をした。

「それに、これだけ魔力の高い人間が揃ってたら、うかつに手は出せない」

 ふうんと、鯖丸はうなずいた。

「じゃあ、俺とトリコにつかず離れずの位置が、安全圏なんだ」

 バカが何か考えているが、安全圏と言うには、だいぶ危険だ。

 それでもまだ、比較的危険が少ない位置ではある。

「ハンニバルの相手は、俺がやる。皆は安全圏内でサポートお願いします」

 バカなりに考えた結論がそれかい…と、ジョン太はツッコミかけたが、海老原さんが先にうなずいた。

「分かりました。好きな様にやってみてください。全力でサポートしますから」

 ああ、海老原さんまでバカになっている…。ジョン太は、ぼんやり考えた。

「ただ、あれの狙いは君ですから、この中では一番安全やけど、乗っ取られたらたぶん、死ぬよりひどい事になりますよ」

 今現在の、ハンニバルの状況がそれだ。

「そんな簡単には乗っ取られません。頭の中に自分以外の奴が居るのは、慣れてるから」

 異界の物が浸食して来るのと、人格が分裂しているのは、全く別の話だと思うが、妙に説得力はあった。

「お前一人前に出す訳にはいかない。私も…」

 トリコが言った。

 魔力が高い割に、今までトリコが積極的に前衛に出て来た事は無かった。

 同じチーム内に、鯖丸とジョン太が居れば、普通なら前へ出る必要もないだろうが…。

「トリコはダメだ」

 鯖丸は、即座に却下した。

「ハンニバルとはガチでやれないだろ。絶対ダメ」

「出来るよ。仕事だからな」

 トリコは言い返した。

「俺は無理」

 鯖丸は、トリコの手を取って引き寄せた。

 そのまま抱きしめて唇を重ねた。

 トリコは、少し驚いた表情をした。

 人前で…と云うか仕事中にこんな事する奴じゃなかったはずだけど。

「この仕事は、私情抜きじゃ出来ない。だって俺、トリコの事大好きだから」

 はい…?いや、知ってたけど、今する話か、それ。

「だから、ええと…」

「考えてからしゃべれ、バカ」

 トリコは、鯖丸にデコピンを入れてから、ちょっと考え直して軽くキスを返した。

「後で聞くよ、その話は」

「今聞いてくれよ。簡潔に二十文字以内にまとめるから」

 バカがぶつぶつ言いながら、文字数まで数え始めた。

「後でいいだろ」

 後頭部をぴしゃりと叩くと、あー三十二文字とか言っていた鯖丸が、きっとこちらを睨んだ。

「だって、今言っとかないと、俺、殿の弟子に乗っ取られて、戻って来れないかも知れないじゃないか」

「戻って来ない奴の話なんて、聞きたくない」

 トリコは言った。

「しっかりしろよ。無敵なんだろ、お前」

 鯖丸は黙り込んだ。

 根拠のない自信だけで勝てる相手ではない事は、ちゃんと理解しているらしい。少し安心した。

「私も、お前が好きだ」

 そんな事を口に出して言うのは、初めてだった。

 自分で気が付いて、ちょっと驚いた。

 鯖丸の方が、もっと驚いた顔をしている。

 繋いでいた手を、ぎゅっと握られた。

「うん…俺今、無敵になった。誰にも負けない」

 繋いだ手から、様々な感情と力が流れ込んだ。

 好意と愛情と欲望と、それから、孤独な人間だけが知っている、もっと切実で、身を切られそうな感情が…。

 寂しくて死にそうだ…誰か、誰か、助けて。

 結局同じなんだな…私らみたいなもんは…と、トリコは思った。

 繋いだ手を振り払う事も、握り返す事も出来なかった。


 コンビニの窓から向こうを窺って、数時間が過ぎた。

 遠方の視界が確かなので、見張りを買って出ていたジョン太は、肩をすくめた。

「動かないな…何かまた、コーヒー飲んでる。ジャマイカだ。一杯でいいからそれ寄越せ」

「缶コーヒーならあるよ」

 トリコは、上着のポケットから、自販機で買ったコーヒーを取り出した。

「微糖だけど」

「ああ、ありがとう」

 ぬるいコーヒーを飲んで、ジョン太はため息をついた。

「消耗戦になるのか…これ」

「海斗の体がダメになる程、こっちは有利になるだろうけど」

 トリコは言った。

「そこまで持ち堪えられないだろう、こっちも」

 俺は出来ると言いかけて、ジョン太は黙った。

 俺一人出来ても、意味がない。

「お前、どうするんだ」

 ジョン太は聞いた。

 トリコは、こちらを見上げた。

「鯖丸だよ。あいつ、自分の将来設計に、がっつりお前を組み込むつもりだぞ」

「知ってるよ、そんな事」

 トリコは答えた。

「何て言うか…思い込み激しいからなぁ、あいつ」

「そろそろどっちかに決めろよ」

 ジョン太は言った。

「いや…、どっちもダメでもいいけど、何か結論出しとけ」

「私だって、考えてるよ」

 トリコは、意外な事を言った。

「あんなバカと付き合ってたら、命が幾つあっても足りないって言うか…」

 言葉を止めて、ちょっと笑った。

「一生退屈だけはしないな」

「人生は九割退屈くらいで丁度いいと思うけど」

 七割方退屈でない人生を送って来たジョン太は、忠告した。

「まぁ、あれ、将来大物かも知れないから、今の内に確保しとくのも得策かもな」

 一応、付け加えた。

「退屈じゃないけど、幸せとは限らないぞ」

「どうでもいいよ、そんな事」

 トリコは言った。

「私はただ…」

 ジョン太は、ため息をついた。

「お前、あんなバカと本気で付き合ってたんだ」

「悪い?」

「いや…意外だっただけだ」

 ジョン太は言った。

「バカの暴走は、止める方向で行かないとな」

 トリコは、鯖丸の方をちらりと見た。

 いつも通りと言えばそうだが、この状況で熟睡している。

 確かに大物だ。

「あいつは甘い考えでいるけど、ハンニバルは壊すからな」

 トリコは、はっとしてジョン太を見た。

「穴に突き落として、うやむやにする事も考えたけど、どうせすぐ戻って来る。今入ってる体を、使い物にならないくらい壊して、異界に逃げる前に捕まえるしかない」

「うん」

「だから、お前は前へ出るな。たぶん俺、お前のダンナの体、ぐちゃぐちゃにするぞ」

「魔法使いになって一日も経たない奴に、そんな事出来るのか」

 トリコは聞いた。

「多分な、鯖丸と二人でやれば。俺、自分で思ってたより、魔力高いみたいだし」

 それはトリコも気が付いていた。

 魔力の高さが変動するので、上限がどの辺なのかは分からないが、かなり高い事は確かだ。

「さすが、トラウマだらけの元ジャンキー。伊達に暗い過去は背負ってないな」

「嫌な事言うなよ」

 ジョン太は、肩をすくめてちょっと笑った。

 それから、目を細めて遠くを凝視した。

「ハンニバルが動く。皆を呼んでくれ」

 トリコは、皆に声をかけてから、振り返った。

「二人じゃダメだ、三人で行こう。だって私らはチームなんだろ」

 ジョン太は黙ってうなずいた。


 ハンニバルが立ち上がって、こちらへゆっくり歩いて来るのが、窓から見えた。

 穴から離れない方が有利なのに、自分からやって来るのは、余程自信があるのか、或いはタイムリミットが近いのか、どちらなのか分からない。

 たたき起こされた鯖丸は、窓から外を窺いながら刀を抜いて、鞘をその場に投げ捨てた。

「縁起悪い事すなや」

 ヨシオ兄さんが、眉をひそめた。

「それやった奴が、巌流島で負けとるやろ」

「飛ぶ時、邪魔」

 鯖丸は即答した。

「帰りに拾うから、いいんだ」

 エンマ君とサリーちゃんが、持って来た荷物をバックヤードに広げていた。

 ジョン太は、50発入りの弾丸の箱を、無造作に四つ程掴んで、立ち上がった。

 本気で暴れるつもりだ。

 普段の仕事でこんなに弾を使っていたら、絶対所長に怒られる。

 確か、一発あたりの単価が、パチンコ玉の十倍くらいするとか言っていたはずだ。

「正面にコンクリートの塀があるだろ」

 ジョン太は、窓の外を見張りながら、皆に言った。

 鉄骨が組まれたまま放置された建造物の横に、半分崩れた低い塀があった。

「あの場所に昨日トラップを仕掛けてある。ハンニバルがあのラインを越えたら出るから、皆、自分のタイミングで付いて来てくれ。無理はするな」

 この仕事を仕切っているのは海老原さんだが、いざガチでやり合う場面では、元職業軍人に任せた方がいいと判断したらしい。

 指揮権がジョン太に移っている。

 皆は無言でうなずいた。

 エンマ君が、バックヤードからこちらへ来た。

 自分の革ジャンを脱いで、鯖丸に差し出した。

「君の服と交換や。一瞬くらいは目眩ましになるやろ。俺は、危ななったら、サリーに消してもらうし」

「君もバカだろ。ちょっと間違ったら死ぬよ、それ」

 鯖丸は、以前言われた事を言い返した。

 それからふと、気になっていた別の事を聞いた。

「エンマ君、何でヨシオ兄さんまで、俺の悪魔将軍の事、知ってるの」

 とうとう自分で悪魔将軍だと認めやがった。

 エンマ君は、へらっと笑った。

「使うな言うてたけど、見せるなとは言わなんだやろ。みんなのリクエストにお答えして、ご開帳を…」

「はい上着」

 鯖丸はあっさり、ぼろぼろになったジャケットをエンマに渡した。

「俺の代わりにボコられて来い」

「そんな、怒らんでも…」

 一度コピーした相手は、触らなくても再現出来るらしく、鯖丸の姿になって上着を着ながら、エンマ君はぼやいた。

「別に怒ってないよ」

 絶対怒ってる。

 受け取った革ジャンを着ようとした鯖丸は、サイズが合わないので諦めた。

 身長がそれ程違う訳ではないのだが、スリムなエンマ君と、それなりにごつい鯖丸では、体型が全然違う。

 着られなくはないが、これで刀を振り回すのは無理だ。

 代わりに、ヨシオ兄さんが予備で持っていたフリースを、勝手に着込んでしまった。

「ごめん、たぶんこれ、破くと思うけど貸して」

 ジャケットの下に着ていたトレーナーと、一週間大丈夫なTシャツも、ハンニバルに斬られてぼろぼろになっている。

「まぁええけど。ユニクロで千円やったし」

 ヨシオ兄さんはうなずいた。

 フリースジャケットのファスナーを上までびちっと閉めてから、鯖丸は刀を構え尚した。

 ハンニバルが境界線を越えた。

 踏み出した足元から、砂埃を舞い上げながら、ロープが飛び出した。

 びしっと何かが切れる音がした次の瞬間、頭上から鉄筋の束が降り注いだ。

 ジョン太が、窓から飛び出しざまに、発砲した。

 手に持った弾丸の箱を、無造作にその辺に放り投げ、両手に持った銃が空になるまでハンニバルに弾丸を撃ち込んだ。

 地面に放り出された箱から、弾丸が空になったシリンダーに吸い込まれて行く。

 鉄骨を障壁で防ぐ事に気を取られていたハンニバルの体に、十二発全弾が命中した。

 鯖丸が窓から飛び出し、トリコが後に続いた。

 海老原さんの姿は、衝撃波と共に消え去り、ハンニバルの背後に出現した。

 エンマとサリーが、姿を消したまま、右から回り込み、ヨシオ兄さんが左側に回った。

 あっという間に囲まれたハンニバルは、誰から先に倒すべきか、一瞬思案した。

 魔力の高い奴から減らして行くなら、鯖丸とトリコだが、鯖丸の体は、回復不能な程壊す訳にはいかない。

 トリコは、鯖丸にぴたりと付いているので、彼女だけを攻撃するのは、むずかしい作業だ。

 背後に居る動きの速い小柄な男か、正面の犬型ハイブリットか。

 一般的に速い奴の方が手強いので、背後の男に向かって魔法を繰り出そうとした瞬間、目の前のハイブリットがぐいと力を込めるのが分かった。

 やばいと感じて、体に食い込んだ弾丸を物質操作で排出したが、全部は手が回らなかった。

 体の中で弾丸が爆発し、胸の下辺りで、体が二つに割れた。

 上半身が、ぼとりと地面に落ちた。

 まさか、こんなに速い展開になるとは思わなかった。

 いや…こんな事で終わる訳はない。

 油断無く身構える皆の前で、吹き飛ばされた肉片が物質操作でかき集められ、元の形に固まった。

 上半身と下半身を繋ぎながら、ハンニバルは立ち上がった。

 殿と同じだ。

 生きていない奴は殺せない。

 鯖丸は、トリコの手を取って、ジョン太の前へ出た。

「ふん、いいざまだ」

 悪い顔をして、鼻で嗤った。

「どうせもう死んでるんだろ、お前」

 左手で、トリコの腰に手を回して抱き寄せた。

「トリコは俺がもらうから、そのまま死んどけ」

 抜き身の刀を、片腕で中段に構えた。

 わざと挑発しているのが分かったので、トリコは鯖丸の首に両手を回した。

「悪いね。何時までも戻って来ない奴を待ってる程、閑じゃないんだ、私も」

 ハンニバルの体が、微妙にぶれた。

 殿の弟子を押し退けて、如月海斗が出て来ようとしている。

 いくら、殿の弟子と融合しているとは云え、異界の物を相手にするより、如月海斗の方が余程勝ち目がある。

 怒らせて、海斗を表に出すつもりだ。

「ああ…戻って来れなかったのは、悪いと思ってるよ」

 ハンニバルは俯いた。

 何処から取り出したのか、あの曲刀を後ろ手に握っている。

「だからって、そんなバカそうなガキが俺の代わりかよ。考え直せ」

 顔を上げて怒鳴った。

 完全に、海斗が前に出ている。

 二人に向かって、一歩踏み出した。

 曲刀が変形する事を計算に入れれば、完全に間合いに入っている。

 こちらの刀の長さとリーチの差を考えると、攻撃範囲はほぼ拮抗していた。

「だって、仕方ないじゃないか」

 トリコは、海斗に向かって言った。

「こいつ、バカで食い意地が張ってて、すけべで性格も悪いけど」

 姐さん、いくら本当でも、それは言い過ぎ。

 さすがに鯖丸も、微妙な表情をしている。

「でも、一緒に居てくれるんだ。帰って来れない様な所に、一人で行ったりしない」

 気が付いたら涙が出ていた。

 ダメだ、挑発するつもりなのに、これじゃあ逆効果じゃないか。

 鯖丸は、自分の首に回されていたトリコの手を掴んで、ゆっくり解いた。

 それから、背後に回して、両手で刀を構え直した。

「お前、トリコを泣かしたな」

 洒落にならない構えだ。

 スキが全くない上に、魔法を使わなくてもたぶん、相手を両断出来る。

 それが、魔力を全開にして、刀の切っ先まで力を通している。

「三枚に開いて天日に干すぞ、コラぁ」

 どういう脅し文句だ、それ。

 鯖丸が斬りかかった。

 ハンニバルは、紙一重で避けた。

 こいつも、魔法使いには珍しく、何かの格闘技をかじっている。

 避けられた一撃が、轟音を立てて地面をえぐった。

 これだけの攻撃をかわされたら、普通はスキが出来そうなものだが、一瞬のためらいもなく、次の攻撃に移った。

 空中に飛び上がり、落下しながら頭上から斬り込んだ。

 空間操作で相手の背後に出現しようとしたハンニバルは、足止めされてその場に固まった。

 ヨシオ兄さんが、地面ごと、ハンニバルの足元を凍らせて、その場に釘付けにしている。

 重力操作で威力を増した一撃が、ハンニバルの頭上に振り下ろされた。

 ハンニバルは、曲刀で受けた。

 剣の湾曲度を変えて、そのまま攻撃を受け流した。

 鯖丸は着地し、刀を構え直した。

「偉そうな事言って、七人がかりかい、坊主」

 ハンニバルは、小馬鹿にした感じで言って、凍り付いた足を、地面から引きはがした。

 バカが挑発に乗りません様に…と、ジョン太は心の中でお祈りした。

 鯖丸は、意外に冷静だった。

「ハンデくれよ、こっちは生身の人間なんだから」

 最近、だいぶ人間離れして来たくせに、自分が普通の人みたいな事を言い切った。

 攻撃を受けた曲刀が、ぱきりと折れて、地面に転がった。

「いやー、やっぱ要らねっか、ハンデ」

 鯖丸は、にやーと悪い顔で笑いながら、左足を一歩前へ出した。

 完全に舐めた態度だが、踏み出した左足に体重が乗っていない。ジョン太にはフェイクだと分かった。

 一歩下がったハンニバルの指先に、先刻の鉄骨が触れた。

 一瞬で、鞘から引き抜く様に、曲刀が鉄骨の中から取り出された。

 元々こんな刀を持っていた訳じゃない。物質操作で、金属を変形させていたのだ。

 新しい刀が、空中で変形しながら斬りかかった。

 曲刀の上に、形が変化するので、太刀筋が読めない。

 鯖丸は、姿勢を低くして紙一重で避けた。

 そのまま、一気に懐に入り込んだ。

 これをやられたら、通常の人間なら、対処のしようがない。

 低い位置から、伸び上がる様に胴を斬りつけられたハンニバルは、ぐらりと体勢を崩した。

 がちんと堅い音がして、鯖丸は、しまったという顔で飛び下がった。

 肉を切った感触が、全く無かった。

 切り裂かれた服の下から、金属片の混じった地肌が見えた。

 体を再生する時、近くにあった金属を取り込んでいる。

「悪かったね、生身じゃなくて」

 曲刀が、長く伸びながら襲いかかった。

 完全に、斬られているタイミングだ。

 空中に逃れようとした鯖丸が、地面に落ちた。

 ジョン太が、更に斬りかかろうとする刀を、弾幕で反らせた。

 長く伸ばして厚みを失った曲刀は、簡単に弾かれた。

 一瞬の隙をついて、海老原さんが鯖丸を攻撃範囲から引きずり出した。

「君、見た目より重いですね」

 回復魔法をかけながら、海老原さんは言った。

「大丈夫か」

 ジョン太が駆け寄った。

「あれだけ伸ばしたら、刃も軽いし、大して切れてないよ」

 鯖丸は、起き上がった。

 ハンニバルの両手に、曲刀が握られている。

 ジョン太が、両手の銃を撃った。

 弾丸は、全て体に吸い込まれたが、爆発は起こらなかった。

 体に取り込まれ、支配下に置かれている。

 舌打ちしたジョン太が、普通に魔法を使った。

 手の平から繰り出された、白熱した火の玉が、ハンニバルに襲いかかった。

 ハンニバルは、障壁で防いだが、前に出していた曲刀が、真っ赤に焼けている。

 慌てて投げ捨て、新しい刀を補充した。

「次、合わせるぞ。行けるか」

 一発だけ取り出した弾丸を指先で摘んで、魔力を込めている。

 完全に変色した弾を、込め直して、かちりと撃鉄を上げた。

「いいよ」

 鯖丸は、刀を構えた。

 撃ち出された弾丸を追尾する様に、空気の鎌が放たれた。

 魔法の初心者だった頃に、自分で食らったかまいたちの技を、見よう見まねで使い始めた物だが、もう、本家も足元にも及ばない様な威力だ。

 それが、火炎系の魔法を込められた銃弾と同時に飛んで、融合した。

 リンクを張っているから使える、重合魔法だ。

 すさまじい爆発が、辺りを薙ぎ払った。

 爆心地にハンニバルが居た。

 障壁に包まれて、涼しい顔で立っている。

 シャボン玉の様に、ゆらゆらと表面が変化する障壁は、攻撃を防ぎ切ってから、ぱちんと割れた。

 いくら、魔力の高い政府公認魔導士でも、ここまで完璧な障壁を張れるはずがない。

 殿の弟子の魔法だ。

 ちょっとヤバイ気がして来た。

 ハンニバルは、一歩下がった。

 少し思案して、腕を振って何かを確かめてから、いきなり手の平をこちらに向けた。

 ジョン太が撃ち込んだ銃弾が、手の平から撃ち出され、襲いかかった。

 ジョン太は、鯖丸を抱えて、人間には出来ない速さで、移動した。

 避けたと思ったのは一瞬で、銃弾は追尾して来た。

 ジョン太は、飛んで来る弾丸に向けて発砲した。

 両手に持った銃から飛び出した弾が、追尾する弾丸を正確に捕らえ、撃ち落とした。

 ハンニバルは、なる程という顔をした。

 それから、左手に握った曲刀に、魔力を通した。

 曲刀を構成していた金属が、全て弾丸に変わるのを、ジョン太は呆然として見た。

 あれ、全部飛んで来るのかよ。

 いや…周りに金属はいくらでもある。あれだけじゃ済まない。

 ハンニバルが、物質操作で作り出した弾丸を飛ばした。

 ジョン太は、鯖丸を後ろに突き飛ばし、両手に構えた銃を撃った。

 44口径と32口径の銃が、地面に放り出された予備の弾丸を吸い上げながら、マシンガンの様に弾を吐き出し続けた。

 ハンニバルは、背後の鉄骨に手を伸ばし、更に弾を作り上げた。

 魔力を込められた弾丸同士が、大量に空中で激突し、きなくさい匂いと共に、周囲に煙幕がたちこめた。

 いくらジョン太が射撃の名人でも、ここまで来るともう、魔法を使わなければ不可能だ。

 自分の魔力レベルをどんどん上げながら、無数の銃弾を操作し、弾を空中からたたき落とした。

 双方の動きが止まり、煙幕が晴れた。

 手の届く範囲の金属を使い切ったハンニバルが、よろけて膝をついた。

 ジョン太が、戦っている最中に呼吸を乱しているのを、初めて見た。

 魔力を上限ギリギリまで引き上げたせいで、外見が普通の人間バージョンに変化している。

 数カ所被弾したらしく、シャツの脇と腕に、血が滲んでいた。

 鯖丸は、立ち上がろうとして、その場に座り込んだ。

 落とし切れなかった弾丸が、腹に食い込んでいる。

 自分でも驚いたが、鬼に変身した時の装甲が、内臓まで届くのを食い止めていた。

 他の部分は、人間のままだった。

 とっさに、必要な場所だけ無意識で強化していた。

 刀を杖にして立ち上がり、構え直した。

「トリコ、ジョン太が撃たれた!!」

 背後に向かって叫んだ。

「後、頼む」

「当たってねぇ。全部かっこ良く打ち落としただろうが」

 ジョン太が、寝言を言いながら銃を構えた。

 一瞬で、大量の弾丸が空中に浮き上がり、装弾を待って待機した。

「いや…当たってるから。俺も当たってるし」

 人間バージョンのジョン太が、どの程度の身体能力なのか分からない。

 敵が目の前に居る状態なら、嗅覚が衰えても不都合はないし、明るい状態での視覚なら、かえって今の方が鮮明なはずだ。

 ただ、聴覚と、反射速度と力が、どうなっているのか、判断が付かない。

 魔力を高い状態に保つ為には、今の姿で居るしかない様子だが、いくら鍛えたごついハイブリットのおっさんでも、戦闘用ハイブリットに比べたら、子供みたいなもんだ。

「ジョン太、それで今まで通り動けるのかよ」

「やってみないと分からん」

 心細い事を言われた。

「とりあえず寒い。腹巻きとパッチを脱がないで良かった」

 うわー、男前台無し。

 トリコが、どの辺に居たのか知らないが、上空からぶっ飛んで来て、強引にジョン太の前に着地した。

 腕を掴んで、容赦なく回復魔法をかけた。

 普段なら普通に回復させる所を、ハザマが使う様な根本治癒の魔法に切り替えている。

 内部損傷の治療はむずかしいので、時間をかけないで強引に回復させるつもりだ。

「痛てぇ、自分でやるから放せ」

 文句を言った時にはもう、完璧に回復していた。

 魔力が上がっているので、回復魔法の効きが、劇的にいい。

 弾丸が体内に残ったままなのは、後でどうにかするしかない。

「次、お前」

 トリコは、羽を畳みながら、鯖丸に手を伸ばした。

「そんなの後だ」

 ハンニバルが弱っている間にたたみ掛けたい鯖丸は、トリコの手を振り払って前へ出た。

「行くぞ、変身!!」

 特撮ヒーローの様なポーズを決めて、鬼の姿に変わった。

「お前、時々風呂場で練習してたの、それか」

 トリコは呆れた。

「それやらないと、変身出来ないのか」

「ううん、単にかっこいいから」

 寝言を言いながら、まだ膝をついているハンニバルに斬りかかった。

 ハンニバルが、地面から壁を出して返した。

 鯖丸は、壁を足がかりに宙へ飛び、工事半ばで放置された鉄骨を、重力操作で駆け上がった。

 ハンニバルが、空間操作で後を追った。

 ビルの骨組みだけで取り残された鉄骨の中を、二つの人影が、縦横無尽に飛び回った。

「バカが、あんな狭い所飛び回られたら、近付けないだろうが」

 トリコは、空中に飛び上がった。

 羽根が邪魔で、中に入れない。入り組んだ鉄骨から、少し距離を置いて、加勢する機会を窺った。

 海斗の魔法が物質操作系だと分かっていて、あんな中に飛び込むなんて、バカじゃないのか、鯖丸の奴。

 いくら、重力操作で飛ぶには、足場が必要だとは云え。

 いや…バカなのは知ってたけど、こういうタイプのバカじゃないはずだ。

 絶対何か企んでる。

 鉄骨の中を飛び回っていた鯖丸の姿が、一瞬かき消えた。

 入り組んだ鉄骨の中を、物凄いスピードで真上に飛び上がり、余った勢いを手足で殺しながら、てっぺんに取り付いた。

 ハンニバルが上を見上げた。

 目視してから距離を詰める空間操作は、一瞬のタイムラグが出来る。

 更に、体を縮めなければ通り抜けられない場所を、一瞬で飛び上がった鯖丸の後を追うのは、躊躇した。

 空間操作は瞬間移動ではないので、障害物には普通に当たる。

 まだ、使い物にならない程この体を壊す訳にはいかない。

 横に移動して、良い位置から距離を詰めようとした。

 その間、約4秒。

 鯖丸が、掴んだ鉄骨に魔力を通した。

「喰らえ!!十倍だ」

 ずしん…と、にぶい地響きがあった。

 巨大なビルの骨組みが、かすかにゆらいだ。

 風雨にさらされて劣化した土台に、亀裂が入り始めた。

 ビルの骨組みもろとも重力操作を食らったハンニバルは、その場に硬直した。

 自分の重さが十倍になって、いきなり動ける奴は居ない。

 立っているだけ、大したものだ。

 鯖丸は、自分だけ軽くしているのか、それとも補強しているのか、普通に立ち上がった。

 鉄の塊が崩壊を始めている。

 崩れ落ち始めた鉄骨の上で、両手に持った刀に力を通し、巨大な空気の刃に変えるのが見えた。

 そのまま、重量増加を解き、空中に飛び上がった。

 巨大な刃が、崩れ落ち始めたビルの骨組みを、真っ二つに切り裂いた。

 崩壊を続ける鉄の塊と、地面に転がった重機を足場に、鯖丸が着地した。

 少しよろけながら体勢を立て直し、瓦礫の山と化したビルの骨組みを、油断無く睨んだ。

「出て来るぞ」

 ジョン太が、銃を構えた。

「分かってる」

 肩で息をしながら、鯖丸は言った。

 重力操作で狭い場所を飛び回るのは、かなりの重労働だ。

 トリッキーな動きを続けている間は、ほぼ息継ぎ程度にしか呼吸も出来ない。

「持久力ねぇぞ、お前」

 どうにか呼吸を整えようとしている鯖丸に、ジョン太は言った。

「溝呂木に、もっとびしびし鍛える様に言っとかないと…」

 骨密度が低いので、あまり無茶なトレーニングは出来ないと以前溝呂木から聞いていた。

 全国大会でベストエイトに入っても、それ以上行けないのは、たぶんそのせいだ。

 最近、だいぶ普通に近付いたので、以前より五割り増しでしごいているとは言っていたが。

「うるさいな、もう」

 鯖丸は、刀を構え直した。

 どうにか、武道関係の奴が使う、実戦の時の呼吸法に戻っている。

 持久力はないが、回復は割と早い奴だ。

 瓦礫の山が振動した。

 一瞬、止まってから、いきなりはじけた。

 大量の瓦礫を巻き上げながら、ハンニバルが来た。

 鯖丸が空中に逃れるのを確認して、ジョン太は飛び交う鉄骨を避けて移動した。

 変身前と、ほぼ同じ速さで動ける。

「囲みを崩すな。そろそろ弱って来てる。攻撃は鯖丸に任せて、捕まえるぞ」

 瓦礫の崩壊を避ける為に、範囲は広がっていたが、皆はまだ、ハンニバルを包囲していた。

 上空で、トリコが結界の起点を作り始めていた。

 いくら異界の物が乗っ取った体でも、これだけ魔力の高い人間が寄って集って重合結界を巻けば、止められるはずだ。

 結界の中継点を次に渡す為に、トリコが空中で静止した。

 そこを狙って、攻撃が来た。

 まさか、意識がハンニバルの状態で、最初にトリコを狙って来るとは、誰も思っていなかった。

 重量鉄骨の直撃を食らったトリコが、短く悲鳴を上げて、落ち始めた。

 当然だが、この面子で、他に空中戦が出来るのは鯖丸だけだった。

 飛び上がり、トリコの腕を掴んだ。目の前にハンニバルが居た。

 曲刀が振り下ろされた。

 鯖丸が落下を始めた。

 咄嗟に重力操作を使ったのか、風に煽られて軌道が変わった。

 木の葉の様に変則的な軌道を描きながら、二人が地面に落ちた。

 落ちて来た軌道に、大量に吹き上げられた血が、重力操作を離れて、雨の様に降り注いだ。

 本気でヤバイ。

 次の瞬間、鯖丸とトリコが、その場から消えた。

「バーカ、こっちだよ」

 背後で声がした。

 振り返ったハンニバルの目の前に、鯖丸が居た。

 憎らしい顔で笑って、ふいと消えた。

 斬りかかった空中で、奇妙な手応えがあって、何かの魔法が使われている気配があった。

 地面に落ちる血痕だけが、じりじりと後ずさって行く。

 視覚では鯖丸に見えたが、感知される魔力が別人だ。

 ハンニバルは、元居た方向に向き直った。

 鬼の様な姿になった鯖丸が、その場に膝をついていた。

 こんな姿になっていた事を、忘れるくらい追いつめられていたのか。

 今までさんざん、空中を飛び回っていた奴が、地面にうずくまって腹を押さえている。

「てめぇ、トリコを囮に…」

 少ししゃべってから、咳き込んだ。

 腹を押さえた腕の間から、内臓の一部がずるりと漏れ出した。

 少し、ダメージを与え過ぎたかも知れないが、異界人の魔法を使えば、回復出来ない程ではない。

「お前が、庇いに出て来るのは、分かっていたからな」

 ハンニバルは、冷静に言った。

「もう諦めろ。その体は、俺が大事に使ってやるから」

「お前にやるくらいなら、ここで壊すわ」

 鯖丸は、刀を支えにして立った。

 体の一部を覆っていた鬼の装甲が、全身を浸食して行く。

 ばきばきと音を立てながら、開いた腹部の装甲が、漏れ出した内臓を拾い上げて、収納した。

 あまにりえぐい光景に、見えない場所で短く息を呑む声がした。

 斬られたエンマと一緒に消えていた、サリーちゃんだ。

 自分の内臓を拾い上げて収納した鯖丸は、その場で鼻と口から血を吐いてよろけた。

 駆け寄ったジョン太が、肩に手をかけた。

 常識では考えられない様な、回復系の魔法が発動し、周囲の空気が震えた。

 回復系の魔法が得意な人間は、割合多いが、重傷を負った、自分で体感出来ない他人の体を回復させるには、特殊な技術か医学知識が必要だ。

 リンクを張っていれば、ある程度体感の共有は可能だが、重傷を負った人間とそんな事をするのは、かなり危険だ。

 鯖丸が、咳き込みながらもどうにか立った。

 傍目にはもう、戦闘不能なダメージだ。

 何度か息継ぎしながら、ジョン太の肩を借りて体勢を立て直した。

 鬼の装甲が、ダメージを負った場所を、どんどん補強しながら、全身を覆って行く。

 もう、人間には見えない。

 最後に、ホッケーマスクに似た、骨の様な外装が、完全に顔面を覆った。

「よし、まだ行けるな」

 ジョン太は、鯖丸の背中を押した。

「うん」

 もう、人の姿をしていない鯖丸が、うなずいた。

「止めたれ。お前相方を殺す気か」

 ヨシオ兄さんが叫んだ。

「ここでこついが引いたら、殿の弟子が出て来て、俺ら全滅するぞ」

 ジョン太は言った。

「行け。いくらでもフォローしてやるから、女取り合って、ガチでケンカして来い」

「分かった」

 鬼の姿が、目の前から消えた。

 以前よりも動きが速くなっている。

 一瞬で、ハンニバルの前に出現した。

 凄まじい攻撃と防壁が、その場でぶつかり合った。

 周囲を薙ぎ払う爆風の中で、ジョン太は倒れているトリコの襟首を掴み、拾い上げた。

「何時まで寝てんだコラ、ちゃっちゃと結界巻くぞ」

 意識を取り戻したトリコが、子猫の様に吊されたまま、少しうめいた。

「何、この扱い。私って、ヒロイン的なアレじゃなかったのか」

「寝言云うな、こんな汚れオーラの出てるヒロインが居るか」

 トリコは、ジョン太の腕を掴んで、地面に降りた。

 自分で立ち上がったが、掴んだ腕は放さず、ジョン太を見上げた。

「お前、あんまり無茶するなよ。壊れるぞ」

「いや、無茶してるのは、あっちだから」

 爆風の中心で、風圧が螺旋状に巻き上がっていた。

 人外に変わってしまった鯖丸が、空気を圧縮して、ハンニバルを地面に押しつけている。

 爆風が、逆方向に吹き戻り始めていた。

「まぁ、お前がそう言うなら、いいけど」

 トリコは、ジョン太から手を離した。

「ちょっと飛び上がる自信がない。あの辺まで放り投げてくれ」

 上空を指差して言った。

「仕切り直しだ」

「構わんが、落ちて来ても拾ってやれんぞ、たぶん」

 見慣れない顔が、見慣れた表情で笑った。

「分かってるよ」

 自分より、遙かに魔力の高い相手とリンクして、限界まで力をぶん回しているのだ。

 無事な訳がない。

 もう一度、首根っこを掴まれて、空中に放り投げられた。

 翼を広げて滞空し、再び結界の起点を作った。

 今度は、時間をかけずに結界を展開する為に、周囲の五人に向かって、一度に中継点を渡した。

 空中を飛びながらここまで出来るのは、魔力の高さもあるが、相当な熟練度だ。

 それでも、まだ余力を残している。

 何をやるつもりなのか、大体の予想は付いていたが、もう誰も止めなかった。

 無茶な戦い方を見過ぎて、感覚が麻痺して来ているのかも知れない。

 ハンニバルが、空気の塊を押し返そうと、力を込めた。

 脱出しようと身をよじった時、上空で結界の起点を渡し終わったトリコと目が合った。

 一瞬、意識の中に根を張っていた殿の弟子が完全に引いて、クリアになった。

「それはダメだ、トリコ。止めろ」

 如月海斗が叫んだ。

 鯖丸が作った高圧帯を突き抜けて、上空に手を伸ばそうとした。

 五つに分割された結界点が、発光しながら地面に五芒星を描いた。

 描かれた線から、空中に向かって、光の束が伸び上がり、それから落ち始めた。

 無数のひも状に変化しながら、結界の対象物を巻き取ろうと、うねった。

 結界の起点を完全に手放したトリコが、光の束よりも先に落下を始めていた。

 頭から地面に突っ込んで来る奴なんて、鯖丸以外に居るとは思わなかった。

 翼を畳んで加速し、墜落すれすれで巨大な羽根を広げた。

 そのまま鯖丸の腕を掴んで強引に羽ばたき、転がる様に結界の外へ逃れた。

 結界の中で、ハンニバルが立ち上がろうとしていた。

 結界が完成する前に、出て来る。

 鯖丸を救出するタイミングが早かった。でも、これ以上遅れたら…。

「俺ごと封印すれば良かったのに」

 鯖丸が言った。

 地面に倒れたまま、刀を握った。

 まだやるつもりだ。誰が見ても、もう絶対無理なのに。

 トリコは、ハンニバルを振り返った。

 結界の中心には、まだ圧縮された空気の塊がゆらいでいる。

 ほんの一瞬迷ってから、言った。

「燃やせ」

 炎の塊を飛ばしたのはエンマだった。

 ダメージを負ったまま、魔法を使ったせいか、元の姿に戻っている。

 結界の内部で、圧縮された空気が一気に燃え上がり、爆発と障壁が同時に展開した。

 爆炎自体は障壁で防いだかも知れないが、確実に足止めは出来た。

 ハンニバルが、その場で倒れるのが見えた。

 成功したと思った瞬間に、何かが体から飛び出した。

 明らかに人の形をした物が、ぼろぼろになった体を捨てて、結界から出ようとしている。

 完成寸前の結界から、何かが外へ這い出した。

「ずらします。協力して」

 海老原さんが言った。

 そのまま強引に、自分の結界点を引きずったまま移動した。

 見かけによらず、とんでもない力業を使う人だ。

 いびつに変形した五芒星の中心に、異界の物が入り込んだ時、結界が完成した。


 全員が、倒れる様にその場へ座り込んだ。

 五芒星はもう消えて、残った中心部の五角形だけが、異界の物を閉じこめていた。

 少し離れた場所に、ハンニバルが倒れていた。

 着ている物も体も、見る影もない姿になっていたが、まだ、かすかに動いている。

 殿の弟子から分離した今は、もう敵ではないかも知れないが、皆はびくりと緊張した。

 鯖丸は、倒れたまま目を開けた。

 鬼の装甲は、もう無くなっていて、自分を庇う様に倒れ込んでいるトリコの、柔らかい感触が分かった。

 手足に力が入らない。

 それでも、これで終わったと思って口を開きかけた時、トリコが自分から離れて立ち上がった。

 少しふらつきながら、倒れているハンニバルに駆け寄り、しがみつくのが見えた。

「あ…」

 ハンニバルが、ゆっくり手を伸ばして、トリコの背中を抱いた。

「済まん、こんな事になって」

 今まで、聞いた事のない口調だった。

「お前が無事で良かった」

「いいよ、帰って来てくれただけで、もう…」

 背中に回されていた腕が、だらりと落ちた。

 死んだ体に残っていた意識が、急速に消えて行く。

 トリコはしばらくその場にぼんやりと座り込んでいた。

 それから、声を上げて泣いた。

 気が付くと、ジョン太に抱き起こされて、回復魔法をかけられていた。

 ジョン太も、元の姿に戻っている。

「大丈夫か」

 聞き慣れた、安心感のある声だった。

 どっと緊張が緩んだ。

「ああ…負けたんだね、俺」

 鯖丸はつぶやいた。

「いや、ギリギリで勝ったから」

 ジョン太は言ってから、鯖丸の視線の先を見た。

「そうか。お前、最初からそういう勝負だったな」

 鯖丸は、小さくうなずいた。

「何だろう、これ。何も考えられない。頭がぼーっとする」

 それはいつもだろう…と、ツッコミを入れかけて、ジョン太は止めた。

「少し休め。お前は良くやった」

 背後で、何かの気配が動いた。

 振り返った時にはもう、ジョン太は銃を抜いて撃ち込んでいた。

 相変わらず脊髄反射だが、魔法を使い始めて時間が経っていないせいか、とっさに普通の銃撃になってしまっている。

 結界の中で、殿の弟子が立ち上がっていた。

 体を歪めながら、ずるりと結界から踏み出した。

 一見、人間に近い姿の、華奢な若い男に見える。

 それが、空間操作で目の前に出現し、まだ放心状態の鯖丸を軽々と抱き上げた。

 次の瞬間には、穴の縁に居た。

 ジョン太が魔法弾で弟子の頭部だけを狙い撃ちにした所で、やっと皆が事態に気付いた。

「油断したね」

 殿の弟子が笑った。

「随分痛んでしまったけど、治せば当分使えそうだ。もらって行くよ」

 ひらりと、穴の中に身を躍らせて消えた。

 やばい、本気で乗っ取られる。

 今までさんざん、鯖丸の人間離れした暴れっぷりを見て来た皆は、凍り付いた。

 あれが、本当に人間辞めて襲って来たら…。

 ジョン太が、銃を構えたまま走り出した。

 穴の縁まで、障害物を跳び越えて一直線に突っ切り、何のためらいもなく穴に飛び込んだ。

「うわ、いい年して後先考えられないのか、あいつ」

 トリコは、呆然と穴の方を見た。

 動かなくなったハンニバルに、視線を戻した。

 そっと膝の上に抱き上げて、開いた瞼を指先で閉じて、地面に寝かせた。

 それから、急いで立ち上がり、セーターの袖でぐいと涙を拭った。

 背中から、コウモリの羽根が伸び上がった。

「いいか、私が十分経っても戻らなかったら、穴の周りに結界を張って、全速力で逃げろ。

 浅間に要請して、この辺一帯を封鎖させるんだ。最悪、関西魔界全体を立ち入り禁止にするしかない」

 鯖丸、とうとう怪獣扱いだ。

「後は任せたぞ」

 言うなり飛び立ち、穴の中へ消えた。

「姉さんこそ、後先考えぇや。戻って来れんやろ、それ」

 ヨシオ兄さんが、穴に駆け寄って覗き込んだ。

「言われた通りにするしかないんか?」

 エンマ君が、足を引きずりながら、穴に近付いた。

 あっという間だった。

 壮絶な決意を固める閑もなく、穴の中から派手な人影が飛び出して来た。

「待たせたな、皆の衆」

 小脇に、ジョン太と鯖丸を抱えた殿が、相変わらず演歌歌手の様にど派手な着物をはためかせて、穴の縁に着地した。

 困惑した顔のトリコが、あとからぱたぱたと飛び上がって来た。

「新しい体の調整に手間取ったが、吾輩が来たからにはもう、安心しなさい。見たまえ、この魔力を極限まで高める、特製の体を。車で言えばF-1…」

 さすがに、異界の物でも、周囲の白い空気が読めたのか、そこで止まった。

「何?お呼びじゃなかった」

 周囲を見回した。

「我が弟子は、どこで悪さをしておるのかな」

「それやそれ。お前がぶら下げとる奴」

 さすがに初対面でも、殿が人間ではない事は一目で分かるので、事態を把握したヨシオ兄さんが、鯖丸を指差した。

「えっ…」

 殿は、鯖丸とジョン太を、同時に取り落とした。

「確かに気配はあるが、薄い。本当か?」

「俺は、入る所見た」

 ジョン太が、頭を押さえながら立ち上がった。

 もう一方の利き腕に握られた銃口が、鯖丸に向いている。

 鯖丸が目を開けた。

 周囲をきょろきょろ見回し、立ち上がって、ぼろぼろになった服を、ちょっと引っ張って整えた。

 ダメだ、こいつ鯖丸じゃない。お終いだ。

 鯖丸だった物が、皆を見回して言った。

「あの…初めまして」


「うわ、行儀良うなっとるで、こいつ」

 ヨシオ兄さんが、一歩下がった。

「どうせ、そしてさようならとか言うんやろ。嫌な悪役の見本や」

「僕、殿の弟子じゃないです」

 鯖丸だった何かが言った。

「ええと、もしかしてミツオ…」

 ジョン太がたずねた。

「そうだけど、本名で呼ばないでください」

 ミツオが言った。

 言葉遣いは丁寧で礼儀正しいが、明らかに動作が子供っぽい。

 元々鯖丸も、実際の年齢より若く見えるが、今は外見と雰囲気にギャップがある。

「いいよ、ここに居るの俺らだけで、誰も聞いてないから」

 ジョン太は言った。

「名前あるんだったら、そう呼ぶけどな」

「考え中です」

 小学生か!! 確か、中学生くらいの設定になっていたはずだが。

「うんうん、中二ぐらいの奴って、色々悩んだ挙げ句、変に凝った痛い名前とか付けるよな」

「それ、オンラインゲームの話でしょう」

 ミツオは冷静に言った。

 ジョン太は黙り込んだ。

 ツッコミは、ツッコミ返されると弱いのだ。

「殿の弟子は、どこへ行ったんですかね」

 相手が子供だと判断した海老原さんが、優しい口調で聞いた。

「ここに居ます」

 ミツオが、自分の頭を指した。

「今、兄ちゃん達が二人がかりで、押さえ込んでる所です」

 兄ちゃん達というと、鯖丸と鰐丸だ。

 どういう事になっているのか、少し飲み込めて来た。

 殿の弟子も、まさか乗っ取った相手が三人居るとは、思わなかっただろう。

「そんな事が出来るのか」

 トリコが尋ねた。

 魔力の高い人間が、七人がかりで結界に閉じこめた相手だ。

 いくら怪獣二匹でも、そんな事が可能なのか…。

 殿が、ちょっと肩を揺すった。

 人間なら、ため息をつくのに近い動作だ。

「我々の弱点を公表するのは、気が進まないのだが」

 一応前置きして、言った。

「魔法を使うには、物理的な媒体が必要だ」

「魔法って、体がないと使えないのか」

「そうとも言う」

 魔法を使えなくなった、きゃしゃな異界の物が、凶暴な二人組にフルボッコにされる気の毒な映像が浮かんだ。

 きっと二人とも手加減しないだろう。特に暁が。

 ミツオが武藤玲司の体を使っている限り、三人とも肉体はない状態だから、たぶん、殿の弟子に勝ち目はない。

「弱らせたら、殿に渡すって言ってます」

 ミツオは、伝言した。

「鰐丸兄ちゃんは、めんどくさいからもう殺すって言ってるけど」

「そうか」

 ジョン太はうなずいた。

「鰐丸に、無事で良かったなって、伝えといてくれ」

「そういう事言うから、オカマが付け上がるんだぞ」

 トリコは、ちょっと止めた。


 弟子を、見た事もない形の小さな箱に閉じこめた殿は、異界へ戻って行った。

 帰る前に、トリコを呼び止めた。

「返す約束だ」

 自分の胸に、ずぶずぶ手を突っ込んで、石を取り出した。

「そうだったな」

 トリコは、石を受け取った。

 しばらく見つめて、手の中に握った。

「これが何だか、分かっているんだろう」

 殿に聞いた。

「只の耐熱ガラスだな」

 殿は言った。

「その通りだ」

 トリコは、うなずいた。

「海斗の遺品は、これだけしか残らなかったんだ。後は全部、証拠を消す為に、浅間が処分したから」

「良い想い出が入っていたな」

 殿が言った。

「初めて、二人で買ったマグカップ」

 トリコは、驚いた顔で殿の方を見た。

「お前は、人間の事を良く理解しているな」

「どうだろう。吾輩は人ではないし、そう見えるだけかも知れないぞ」

 殿は、空中に踏み出して、穴の上に浮いた。

 トリコは、小さな石を殿に差し出した。

「これは、お前が持っていてくれないか」

 殿は、怪訝な顔をした。

「それは、力を増幅するのに使えるから、有り難いが」

「私はもう要らない。大事な物は、他に沢山あるから」

「そうか」

 殿は、もう一度石を受け取った。

「では帰る。達者でな。たまには我が城に遊びに来なさい」

 殿は、弟子が閉じこめられた箱を、大事そうに抱えた。

 そう言えば、殿と弟子がどんな関係だったのかは、結局分からなかった。

 単なる師弟関係ではない様な気がするが、異界の物の事は、人間には理解出来ない。

 殿もきっとそうだろう。

「君の息子にも、よろしく言ってくれ。時々はじいちゃんの所に遊びに来てくれとな」

「じいちゃんだったんだ…」

 トリコはつぶやいた。

 殿は、そのまますうっと異界へ消えた。


 如月海斗の遺体は、その日の内に回収された。

 トリコは、皆と別れて、ずっとそれに付き添っていた。

 遺体を診た外界の医師は、この人は何日も前に亡くなっていると言った。

 魔界で、回復魔法をかけたにも係わらず、皆、外界で医師の診断と治療が必要なくらい疲れ果てていた。

 幸い、入院が必要な程重傷では無かったが、その日は死んだ様に倒れ込んで眠った。


 後始末のごたごたを片付けて、仕事はそれで終了だった。

 ジョン太が本当に、たちの悪い弁護士を呼びつけていて、浅間の悪事は表に出る事になりそうだった。

「相手の弱みにつけ込んで、金をゆすり取るのに最適な知り合いなら、いっぱい居るからな」

「何て言い草だ」

 自称、弱い者の味方の弁護士は言った。

「もうけ話があったら、また呼べよ」

 全然、弱い者の味方じゃない。

「学生の頃からの知り合いで…法学部に居た時の」

 ジョン太は言った。

 おっちゃんの経歴も、今更だが謎だ。

 鯖丸は、魔界を出てからも、基本的にぼーっとしていた。

 話しかければ返事はするが、後はただ、黙って座っているだけだ。

 それなりに、色々な事は考えている様子なので、放っておく事にした。


 全部片付いて、撤収の日が来た。

 ずっと別行動だったトリコが、由樹を連れて戻って来た。

 帰りの新幹線では、皆無言だった。

 由樹も、色々な事があって、子供なりに少しは状況が分かっているらしく、大人しく座って、車内販売の弁当を黙々と食べていた。

 岡山で在来線に乗り換えて、四国内に入ってからも、皆は無言だった。

 新居浜が近付いて来る頃に、やっとジョン太が言った。

「俺、港に置いた車回収するから、ここで降りて各駅に乗り換えるわ」

「ああ、そうだね」

 鯖丸は、やっとうなずいた。

「俺も行くよ」

 持って来たディバッグに手を伸ばしかけた鯖丸を、ジョン太は止めた。

「なぁ、由樹」

 屈み込んで、子供に話しかけた。

「お母さんと鯖丸は、大事な話があるから、おっちゃんと二人で海辺をドライブして帰ろうか」

 由樹は、しばらく考え込んだ。

 それから、無言で首を縦に振った。


 由樹が、ジョン太に連れられて途中下車してからも、二人はしばらく黙り込んでいた。

 最初に、トリコが言った。

「話があったんだろ。今、聞くよ」

「うん」

 鯖丸は、視線をそらせて、窓の外を見た。

 めずらしい。

 普通なら、大事な話がある時は、正面切って話しかけて来るのに。

「結婚しよう」

 窓の外を見たまま言った。

 そんな話をされるのは、前から分かっていたけど、きっとこの先は違う話になる。

「そう言おうと思ってたんだ。でも、ダメなんだろう」

 トリコは、黙ったままだった。

「何で、もっと早く言わなかったんだろう、俺。あの時なら、うんって言ってもらえたのに」

「そうだな、たぶんそう言ったと思うよ」

 トリコは答えた。

 二人はまた、しばらく黙り込んだ。

 景色が後ろに流れて行く。

 冬の海は、綺麗だが寒々しかった。

「俺じゃダメなんだ」

「分からないけど」

 トリコは、少し間を置いて続けた。

「たぶん私は、自分で思ってた程、軽くも器用でもなかったんだ」

「知ってたよ」

 鯖丸は、やっと窓の外から目を離して、こちらを見た。

 いつもすぐ泣く奴なのに、涙も出ていないのが、余計辛そうに見える。

「ごめんな。私も、お前の事は好きだけど、でも…」

 あの時とっさに、海斗の方に駆け寄ってしまったのは、本心だった。

 そんな事、気が付かなくても良かったのに。

「いいんだ」

 鯖丸は言った。

 無理矢理笑おうとするな。余計辛いだろうが。

「地球に来てからずっと、毎日こんなに楽しかった事なんてなかったよ」

 きっと、毎日辛い事の方が多かったんだろうなと思った。

 いつも脳天気な顔をしているくせに。

「今まで、ありがとう」


 駅に着いてから、トリコは電車で帰った。

 鯖丸は、いつも通り歩いて戻るつもりらしく、そこで別れた。

 調子に乗っている時なら、余裕で家まで走って帰る距離だが、背中を丸めてとぼとぼ歩いている。

 電車が鯖丸を追い抜いた。

 トリコは、窓からずっと、見送った。

 鯖丸は、こちらには気が付かないで、地面に視線を落としたまま歩き続けて、視界から消えた。


 元通りの毎日が始まった。

 バイトして、学校に行って、部で練習して。

 普通に過ごせているのが、自分でも割と不思議だった。

 あれから、魔界の仕事はまだ入って来ないので、トリコにもジョン太にも会っていない。

 その日は、数日前から始めたガテン系のバイトで、帰りは夜になっていた。

 体を動かしていると、何も考えなくていいから、楽だった。

 さすがに少し疲れたので、走らないで歩いていた。

 小雨がぱらつき始めた夜の街を、ぼんやりと何も考えずに歩いた。

 街がいつもより賑やかだ。

 十二月に入ってから飾られ始めたクリスマスツリーも、今日は少し華やかに見える。

 街を、サンタがうろうろしている。

 ああ、クリスマスイブだったのかとぼんやり思った。

 特に、何の感情も湧いて来ない。

 明日から、ケーキが安売りだから、一個買おうかと考えた程度だった。

 何も考えずに歩き続けていた鯖丸は、気が付いて立ち止まった。

 ぼーっとしていたので、トリコの家の方へ歩いて来てしまっていた。

「何やってんだ、俺」

 引き返そうと角を曲がった場所から、路地の向こうに見慣れたアパートが見えた。

 この方向から見える台所の窓に、灯りが点っている。

 きっと、フライドチキンとケーキか何かが、テーブルに乗っているんだろうなと思った。

 由樹は現実的な子供だから、たぶんサンタなんかは信じてないけど、プレゼントに何かもらえるのは、楽しみにしているだろう。

 トリコは、どうしているだろうか。

 あんな事があった後だから、そんなに元気じゃないかも知れないけど、こんな日くらいは楽しく過ごせる様に、小さなツリーを飾っているかも知れない。

 二人とも、笑っていたらいいなと思った。

 自分が泣いているのに気が付いた。

 どれくらいその場所に立っていたのかも、思い出せない。

 走り出した。

 通い慣れていた道を、全速力で突っ切った。

 ガソリンスタンドから、ここ数十年、クリスマスになるとヒットチャートに上がって来る、定番のクリスマスソングが流れてくる。

 歌の通りに、小雨が雪に変わっていた。

 楽しかった事を、色々思い出した。

 近所の公園で遊んだり、変な料理を作って嫌がられたり、一緒に洗濯物を畳んだり、買い物に行ったり。

 浮かんでくるのはなぜか、日常の些細な事ばかりだった。

 賑やかな通りを過ぎて、薄暗い線路脇の路地に入った時には、ほっとした。

 家賃が安い代わりに治安も少し悪くて、ライトアップしている様な洒落た住宅も無い地域だ。

 古い木造アパートの階段を、一気に駆け上がった。

 まだ壊れていて、鍵がかからなくなっているドアを開け、布団の上に倒れ込んだ。

 本当に、毎日が楽しかった。

 今まで、こんな事は無かった。

 ああ、そうかと気が付いた。

 彼女が居ないとか、それ以前に、俺、今まで誰かを好きになった事、一度もなかったんだ。

 こんなのが初恋なんて、あり得ないだろ…。

 物凄く辛い。

 どうしていいか分からない。

 布団に突っ伏したまま、声が出なくなるまで泣き続けた。


「鯖丸が掴まらないんだけど」

 その日、ジョン太が出勤すると、めずらしく一番早く来ていた所長が、声をかけた。

 クリスマスから数日が過ぎて、世間はもう正月モードに変わっていた。

 事務所の棚にも、そろそろ付けようかという注連飾りが置かれている。

「ああ、そう言えばメールも返信がないですね」

 しばらく、そっとしておこうと思っていたので、それ以来特に連絡はしていない。

「年明けに、二三日入ってもらおうと思ってるんだが」

 所長は、ジョン太の方を見た。

 どうにかして連絡を付けろと言う意味だ。

「分かりました」

 もう一度、メールを入れる事にした。

 送信が終わって、普通に仕事を続ける内に、昼前になっていた。

 仕事のメールなら、割合返信は早い奴なのだが。

 学校はまだ、冬休みだろうが、部活かバイトかも知れない。

 どちらにしても、この時間帯ならたぶん大丈夫だと思って電話をかけた。

 呼び出し音がしばらく続いてから、留守電に切り替わった。

「ジョン太です。年明けに仕事があるから、連絡下さい」

 短く用件だけ吹き込んで、電話を切った。

 夕方まで待ったが、何の連絡もなかったので、もう一度電話をかけた。

 今度は、留守電に切り替わる直前に、電話を取った様子だが、無言のままだ。

 しばらく、そのままの状態で、いきなりがたんという変な音と共に電話が切れた。

「何やってんだ、あいつ」

 背後で、遮断機の警笛がかすかに聞こえていた。

 確か、線路の近くに住んでいたはずだ。

「家には居るみたいです」

 ジョン太は言った。

「帰りに、様子見に行ってみますよ」

 口も利けないくらい落ち込んでるのか、あいつ。

 まぁ、ショックだったのは分かるけど。

「済まんが、そうしてくれ」

 所長は言った。


 実は鯖丸は、もっと大変な事になっていた。

 先日から体調が悪くて、ふらふらしながら帰って来て、そのまま寝てしまっていた。

 今朝になって起きようとすると、頭がくらくらする。

「ああ…辛過ぎて目が回って来た」

 そのまま倒れ込んで、もう一回眠った。

 次に目を覚ました時には、確実に事態が悪化していた。

 起き上がれない。

 頭ががんがんする。

 水が飲みたいのに、目の前にある流しまでたどり着けない。

 もうダメだ。

 俺きっと、失恋のショックで、死んでしまうんだ。

 それ、たぶん風邪かなんかだと、的確に突っ込んでくれる人が居ないので、倒れたまま一人でボケ続けている。

 元々頑丈なので、実は、生まれてこの方、一度も風邪をひいた事がないのだ。

 さすが、最強のバカ。

 何度か、携帯が鳴っているのは気が付いていた。

 何度目だか分からないが、どうにか手を伸ばして、適当な場所を押した。

 ジョン太の声が聞こえて来た。

 来年がどうとか言っているが、内容が頭に入って来ない。

「おおい、お前生きてるのかー」

 どうにか、そんなセリフが聞き取れた。

 死にそうだから助けてと言おうとしたが、声が出なかった。

 そのまま、携帯を取り落として、力尽きた。


 アパートの階段を、大きな荷物を背負った小柄な人影が登って来た。

「おおぃ、レイジ居るかぁ」

 ドアを叩いてから、鍵が壊れているのを見て、ドアを開けた。

「もう寝てるのかよ。お土産持って来たのに」

 鯖丸の、数少ない友達、山本弘が部屋に入って来た。

 入り口で少しもたついて、靴の紐を解いてから、勝手知った他人の部屋に上がり込んだ。

 以前より少し綺麗になっている部屋の中に、久し振りに会う友人がぶっ倒れている。

 何をどうしようとしていたのか、なぜかズボンは半脱ぎのままで、上半身だけ上着とフリースを巻き付けて、伸ばした手の先には、開いたままのケータイとコップが転がっている。

 ズボンは脱げかけだが、どう見ても、これから一発抜こうとか、そういう楽しい状態ではない。

「お前、何やってんだよ」

 子供ぐらいなら入りそうなザックをその場に下ろして、山本は屈み込んだ。

「あ…山本の幻覚が見える」

 ひどい声だ。聞き取るのがやっとだった。

「本物だ。お前これ、すごい熱じゃないか。医者行ったのか」

 返事がない。

「薬は…飲んでないな、たぶん」

「水…」

 飲むという単語に反応したらしい。

 コップに水を汲もうとして、力尽きていたのか…と、山本は状況を把握した。

 とりあえず、水を飲ませてから、部屋を見回した。

 どうせ、体温計なんか持っていないだろう。

 布団に押し込もうとして、少し呆れた。

 この布団、いつから干してないんだ…ていうか、毛布とか持ってないのか、こいつ。

 押し入れを開けたが、思った通り毛布や、もっと暖かそうな布団は入っていなかった。

 代わりに、キノコが生えた少年ジャ○プが出て来た。

 熱のせいか、体中汗びっしょりで、ズボン半脱ぎにしたまま、布団被らないで寝てたら、それは確実に悪化するだろう。

 押し入れに、無造作に放り込まれていたTシャツとジャージを引っ張り出して、無理矢理着替えさせた。

 ザックから、シュラフを取り出して、中に押し込んだ。

「暑い…」

「我慢しろ。お前、何か食ったか?」

 返事はないが、水も飲めないくらいだから、メシは食ってないだろう。

「薬あるけど、飲む前にちょっとでいいから何か食え」

 ザックから、非常食と、薬の入った袋を取り出した。

 湯を湧かそうとしたが、ガスが出ない。

 週二でしか戻っていなかったので、止めてしまっていたのだ。

「まさか、平地の室内で、こんな事する羽目になるなんて」

 絶対、室内では使わないでくださいと書いてある小型のバーナーに火を付けて、コッヘルで湯を湧かして非常食を調理した。

 鯖丸のくせに、半分も食べられなかったが、それで良しとして、市販の風邪薬を飲ませた。

「明日、絶対病院行けよ」

 山本は、念を押した。

「土産渡しに来たんだけどなぁ、俺」


 ジョン太が、鯖丸のアパートまで来た時には、もうすっかり辺りは暗くなっていた。

 市内電車の駅を降りて、人しか通れない急な坂を下ると、アパートはすぐあった。

 目の前を、線路と河川敷の土手が、二方向から塞いでいて、日当たりは悪いが、駅から徒歩一分で、繁華街も近い、便利な場所だ。

「何だ、けっこういい所じゃないか」

 場所は知っていたが、来るのは初めてだった。

 建物はぼろいが、思っていた程ひどくはない。

 アパートの階段を、降りて来る人影が見えた。

 小柄な青年が、自分より一回り大きい人間を背負って、急な階段を、確実な足取りで降りて来る。

 背負われているのが、ぐったりした鯖丸だという事は、目で見る前に匂いで分かった。

 体調が悪そうだ。

 落ち込んでるんじゃなくて、寝込んでたのか、こいつ。

 小柄な青年は、初めて見る顔だったが、山本だというのは、何となく分かった。

 休学して、外国の山に登りに行っているとか聞いていたので、もっとごつい男だと思っていた。

「山本君?」

 一応、声をかけてみた。

「あ、ジョン太だ」

 何で呼び捨てなんだよ、こいつ。前に電話で話した時も、そうだったな。

 まぁ、こんな名前にさん付けされてもなぁ…と、思い直した。

 本名はたぶん、知らないだろうし。

「鯖…武藤君、どうしたんだ」

「熱がひどいんです」

 山本は答えた。

「風邪だと思ったから、薬飲ませて様子見てたんだけど、悪くなってるみたいだから、病院に連れて行こうと思って」

 川の向こうにある救急病院が、まだ開いていて、診てくれるという話だった。

 歩いて十分くらいだし、救急車を呼ぶ程でもないと思ったので、連れて行く事にしたと説明した。

 何で、自分より重い奴を担いで、十分も歩こうと思ったんだ、山本君は。

「俺が連れて行くよ。そいつ、見かけより重いだろ」

 手足が長いので、細く見えるが、筋肉質なので意外と重い。

「もっと重い人を担ぎ下ろした事もあるし、大丈夫ですよ」

 山本は言ったが、素直に鯖丸をジョン太に渡した。

 本当に、ひどい熱だ。

「心が弱ると、体も弱るタイプだったのかなぁ」

 ジョン太はつぶやいた。

 山本は、ジョン太を見上げた。

 しっかりしていて頼りになりそうな青年だ。

「こいつ最近、ちょっと辛い事があってね」

 ジョン太は言った。

「めんどくせぇ奴だけど、まぁ、よろしく頼むわ」

 山本はうなずいた。

「ジョン太って、レイジのお父さんみたいだなぁ」

 やっぱり、そういうポジションだったのか、俺は。

「その割には、扱いが軽いんだよなぁ」

 ジョン太は少し愚痴を言った。


 病院に連れて行かれた鯖丸は、インフルエンザと診断されて、そのまま数日入院する事になった。

「こんなになるまで放っておいて…すごくしんどかったはずだよ」

 内科の医者は、首をかしげた。

 点滴されて、座薬の解熱剤をつっこまれた鯖丸は、ベッドに寝かされてぐったりしている。

 人間ここまでぐったりすると、座薬を入れてくれたのが、若くて中々かわいい看護師だったのも、特に何の感慨もない様子だった。

「しんどいのは、心の問題かと思って…」

 どうにか、声ぐらいは出る様になっている。

 気になったジョン太は、一応聞いてみた。

「お前、大阪の病院で、しばらくはなるべく安静にして過ごせとか言われてたけど、ちゃんと休んでたか」

「そうだっけ…」

 顔色を変えた医者が、大阪の病院から電子カルテを転送して持って来た。

「…で、その後帰って来て、剣道部の練習と、道路工事のアルバイトを…」

 ため息をついて、ジョン太の方を見た。

「彼はバカなんですか」

「バカです」

 ジョン太は言い切った。


 年明けに、所長から連絡が入った。

 すっかり元気になった鯖丸は、一応縁起物だというので、病院で出された雑煮を、物足りない顔で食っていた。

「お代わりって、もらえないのかなぁ」

 看護師に聞いてみた。

「カロリー計算しているから、ダメです」

 断られた。

「ケチ」

 文句を言っている所へ、所長からメールが入った。

 連絡をくれと短い文章が入っている。

 看護師のお姉さんに睨まれたので、パジャマの上から上着を着て、人気のない廊下の踊り場まで出た。

 最近のケータイは、病院でも問題なく使えるのだが、人前で話していると、あまりいい顔はされない。

 電話をすると、所長はすぐ出た。

「武藤君、あけましておめでとう」

 一応、新年の挨拶をしてから、たずねた。

「どう、調子は」

「随分良くなりました。明日退院です。色々、ご心配かけました」

 だいぶ、大人の挨拶が出来る様になって来ているが、新年の挨拶を忘れているのが片手落ちだ。

 あわてて、後からおめでとうございますと付け加えた。

 今年もよろしくと返してから、所長はちょっと声のトーンを落とした。

「実は、あまりおめでたくない話なんだが」

 仕事の話だと思っていたので、鯖丸は怪訝な顔で聞き耳を立てた。

「本社のハルオ君ね、今朝亡くなったんだ」

「え…」

 集中治療室で寝ていた、ハルオ兄さんの姿を思い出した。

 それから、ヨシオ兄さんの事も。

「明明後日葬式なんだ。私とジョン太は、明後日大阪に行かなきゃならんのだが、新年早々から、仕事が入っててね」

 自分が呼ばれている仕事は、まだ一週間程日程があるので、それまでにはインフルエンザも完治するだろうと考えていた。

 さすがに、明後日は無理だと思うが。

 変な間があいてしまったのは分かったらしく、所長は言った。

「いや…魔界に入ってくれと言ってるんじゃないよ。明後日と明明後日の四時から七時まででいいから、事務所で電話番頼めないか。

 斉藤さんは四時までだし、皆、仕事で出払ってるんだ」

 鯖丸は、少し考えた。

 三時間座っているだけでいいなら、出来そうだ。

「分かりました。やります」

「悪いね。行き帰りは、タクシー使っていいから、領収証もらっといてくれ。暖かくして、大事にするんだぞ。辛かったら、ソファーで寝てていいから」

 所長とは思えない様な、優しい言い方だ。

 俺、そんなひどい状態で、皆に心配かけてたんだなぁ…と思った。

 電話を切ってからも、何となく重たい気持ちは拭えなかった。

 別に、面識がある程度の知り合いだけど。

 そういえば、去年、縄手山で屋根の上に放り投げられていた時、声をかけてくれたのは、ハルオさんの方だったな…と、急に思い出した。

 なぜ、今になって思い出せたのかは、分からなかった。


 世間でも仕事始めの四日に、鯖丸は久し振りに事務所へ出勤した。

 医者にも、人混みには出るなと言われているので、厳重にマスクをして、言われた通りタクシーに乗った。

 症状はもうほとんど無いが、周りに伝染すなと厳しく言い渡されている。

 事務所には、黒いスーツを着た所長とジョン太が居た。

「悪いな、無理言って」

 今から出発なら、飛行機だろう。

 一時間足らずで大阪に着く。こちらと現地の、空港までのアクセスを足しても、二時間弱だ。

 所長と会うのは久し振りだが、ジョン太は、入院の手続きや、必要な物を揃えてくれたり、見舞いに来てくれたりしていた。

「ううん、色々迷惑かけてごめん」

 大げさなマスクを指差した。

「人前に出る時は、付ける様に言われてて。電話取る時は外すから」

 まだ、ちょっと声がおかしい。

「そうか、でもまぁ、だいぶ元気そうになったな」

 ジョン太は、少し安心した様子で言った。

 空いている机の横に、物置から引っ張り出して来たストーブが置いてあって、ヤカンがかかっている。

 椅子には、膝掛けとダウンジャケットが掛けてあった。

 大げさだけど、変に気が回るのがジョン太らしいなぁ…と思った。

 入り口が開いて、斑とトリコが二人で入って来た。

 二人の様子だと、今から魔界に入るらしい。

 鯖丸の姿を見つけて、入り口で止まった。

 今日、電話番に来るのは、聞いていなかったのかも知れない。

 事情は知っているらしい斑も、どういう態度を取ればいいか分からないらしく、隣で立ち止まった。

「久し振りだな」

 トリコの方から言った。

 関西から戻って、二週間ちょっと過ぎている。

 まぁ、久し振りと言えばそうだろう。

「うん」

 鯖丸は、うなずいた。

「元気そうで良かった」

「お前は、あんまり元気そうじゃないけど」

「だって、病気だもん、俺」

 普段通り軽口をたたいて、マスクをちょっとずらして笑って見せた。

 うわ、こいつ強っ。

 内心はらはらしていたジョン太は思った。

 トリコも、つられて少し笑った。

 関西から戻って来てから、トリコが笑っているのを初めて見た。

 斑が、手早く準備を整えて、入り口に戻った。

 ジョン太と所長も、時計を見て、ドアを出た。

「じゃあ行って来る。後、頼んだぞ」

 所長が言った。

「はい、行ってらっしゃい」

 そそくさとダウンジャケットを着込んで、膝掛けを腰に巻いた鯖丸は、皆に向かって手を振った。

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