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五話 三匹(後編)

 車は、市街地を走り続けた。

 助手席でお好み焼きを食いながらナビゲートするヨシオ兄さんの指示で、ランエボはどんどん、魔界の深い場所に近付いていた。

 うっかり、普通に運転していて、後から気が付いたが、後ろに居る丸っこい小型車が、普通にランエボに付いて来ている。

「何だ、あのちっちゃい車。速っ」

 鯖丸はつぶやいた。

「そら速いわ。あれ、アバルトやで」

 ヨシオ兄さんは言った。

「カリオストロの城で、ルパンがカーチェイスしとったやろ」

「ああ、あれ」

 なぜか鯖丸は知っている。

 マイナーコロニーでは、娯楽が少ないせいか、昔のマンガや映画やアニメが、けっこう配信されているのだ。

 リアルタイムの通信と違って、配信に時間がかかっても特に不都合はないので、意外と普及している。

「あの、ターボみたいなやつは、付いてるの?まくるぞーとか言う時の」

「それは、宮崎監督の創作やないかなー」

 ヨシオ兄さんは言った。

「よう知らんけど」

 関西人定番の言い訳を口にした。

 創作なのか改造なのか分からないが、後ろにいるアバルトは、別にターボブースターを発動したりはしないで、それでもランエボについて来る。

 魔界の深い場所に入ると、周囲の風景が変わった。

 もうここは、普通の街ではない。

 見捨てられ、廃墟になった住宅街と、胡散臭い連中が住み着いた繁華街が、モザイクの様に道路の両側に展開していた。

 外縁部に居た観光客も、もう見えない。

 胡散臭いプレイヤーと魔界人だけの、本当の魔界都市だ。

「この辺や」

 ヨシオ兄さんは、指示を出して車を止めた。

 境界からは、もう十キロ近く移動している。

 普通の魔界なら、中心地に入っている頃だが、日本最大の魔界では、まだ中間地点だ。

 ハンニバルの痕跡は、ジョン太にも分かった。

 船で会った時より、ひどい状態になっているが、魔界に入って魔力でコントロール出来る様になったせいか、想像していた程は、腐敗が進んでいない。

 ヨシオ兄さんの特殊能力「追跡」は、ジョン太の様な匂いを追う物理的な物とは違うらしく、左右に逸れているジョン太を無視して、直線コースを辿った。

 ジョン太も、ヨシオ兄さんの能力は分かっているらしく、自分の感覚はとりあえず無視して、後に続いた。

 後ろの車から、海老原さん達が降りて、追いついて来た。

 グレーのスーツを着た海老原さんと、キャバ嬢っぽいサリーちゃんが並んでいると、どこの同伴出勤かと思ってしまう絵面だ。

 魔法陣で車を隠していたエンマ君は、後から走って来た。

 以前魔界で見た、男のエンマ君になっている。

 外では、ざっくり着ていたワンサイズ大きい革ジャンが、ぴったりになっていて、中々かっこいい。

「この辺におるんか?」と、聞いた声も、外とは全然変わっている。

「そのはずやけど…」

 ヨシオ兄さんは、腕組みした。

「近距離の特定は、精度が落ちるから、後はジョン太に任すわ」

「分かった」

 ジョン太は、しばらくその辺をぷらぷら歩いていたが、ふいに手で合図して皆を止めた。

「見つかる。バラけて隠れろ」

「ううん、うちが隠す。集まって」

 サリーちゃんに手を握られたエンマ君と海老原さんの姿が、あっという間に視界から消えた。

 見えない場所から伸びてきた手が、トリコを掴んであっという間に消し去った。

 おろおろしていた鯖丸は、ぐいと後ろに引っ張られた。

 自分の体が、どんどん見えなくなって行く。

「ジョン太も、早よ」

 見えない手がジョン太を触ったらしかったが、微妙に半透明になってから、元に戻った。

「やっぱ、ジョン太は無理やったわ」

 近い場所から、声だけ聞こえた。

 ジョン太は、そんな事最初から分かっていたという顔をして、すっと物陰に隠れた。

 目線の先に、ハンニバルが居た。

 道端にごつい大型バイクを停めて、ぼんやりと空を見上げている。

 何が目的か分からなかったが、こちらに気が付いている様子もないし、寛いでいる感じだった。

 もう少し近付いてみたかったが、自分の体が見えないと、意外に行動が不自由だ。

 おそらく、サリーちゃんから離れると、見える様になってしまうのだろうが、肝心のサリーちゃんが何処に居るのかも、分からない。

 ハンニバルは、周囲をゆっくりと見回した。

 こちらに視線が来た時、ぞっとしたが、視線はそのまま素通りし、ぐるりとビル街を一巡りした。

 それで納得したのか、近くの店で、水と食料を少し買い込み、バイクに跨ってエンジンをかけた。

 死んでいても食事は必要なんだろうか…と、鯖丸は思った。

 殿が、酒を飲んだら酔っぱらっていた様に、何か概念的に必要なのかも知れない。

 ハンニバルが走り去ると、サリーちゃんは皆のステルスを解いた。

 青い顔をして、かすかに震えている。

 ハルオ兄さんが重傷を負わされた時、近くで見ているのだろう。怯えた表情だ。

「穴の方に行ったな」

 ヨシオ兄さんが、緊張した顔で言った。

「俺を乗っ取るのに、都合のいい場所を探してるのかも」

 鯖丸は言った。

「何か、操れる様な物や障害物が多くて、穴に近い場所」

「この先にあるなぁ」

 ヨシオ兄さんは、答えた。

「行ってみるか?」

 あまり気は進まない口調だった。


 更に奥へ進んだ所に、その場所はあった。

 既に大阪府から兵庫県に入っている。

 何か、大きな建造物を建てようとした形跡はあったが、全てが途中で放棄され、積み上げられた資材と、放置された重機が、組み上げられた鉄骨の周辺に点在している。

 目と鼻の先に、異界へ通じる穴があった。

 関西魔界の中心部だ。

 この地域が魔界に飲み込まれた時、工事が中断したのだ。

 魔界の周辺部なら、それなりに住民も居るし、観光価値もあるので工事は続けられただろうが、こんな穴の間近に残っている人間は、ほとんど居ない。

 普通の人間には、住めないからだ。

 魔力の高い人間の方が、魔法防御は低いが、異界に対する耐性は高い。

 それでも、かなりの違和感があった。

 このメンバーの中で、一番魔力が高いのは自分とトリコだという事は、分かっていた。

 自分が違和感を感じるという事は、他の人達は、もっと異常な状態にあるという事だ。

 一番魔力が低そうだったサリーちゃんは大丈夫だろうか…と、振り返って、本気で並外れて魔力が低いのは誰だか、やっと思い出した。

 ジョン太が大変な事になっている。

 元コンビニだった建物の壁にもたれて、変な感じで斜めになっていた。

「何だ、これ。真っ直ぐ立てねぇ」

 重力が、異界の穴にある様な姿勢になっている。

 そのままずるずる、穴に向かって微妙に引きずられていた。

 ジョン太の魔力が低い事は、もちろん分かっていたが、いつも魔力が高い人間以上の事を、さらっとやってのけるので、気を使ったり心配したりする習慣は無かった。

「大変だ」

 ジョン太の腕を掴んだが、ほんの少しずつ、じりじりと穴に向かって引きずり込まれる力は、止められなかった。

 魔力を通して、重力操作で引き戻そうとしたが、全く別の力が働いているのか、ジョン太の体は軽くなったが、止められない。

「トリコ、簡易接続って、どうやるんだ」

 ジョン太の体を抱えたまま、鯖丸はたずねた。

 一時的に魔力を上げれば、こんな状況は、楽に突破出来る。

「私がやろうか?」

 トリコは聞いた。

 鯖丸は、ちょっと考えた。

 実は、生理中の方が、魔力が上がるのだが、動作が安定しない。

 不慣れな自分が接続するのと、どちらが安全か分からない。

「どっちがいい?」

 一応、聞いてみた。

「それは、鰐丸わにまるにやらせるのが一番確実だが」

 トリコは、ジョン太にとって大変都合の悪い結論を出した。

「鯖丸だと腰が引けちゃうかも。私がやると、事故る可能性がゼロじゃないし」

「ダメだぁ。トリコでお願いします」

 ジョン太は泣きを入れて来た。

「安全第一。鰐丸、お願い」

 鯖丸は、がしっとジョン太を抱き留めたが、次の瞬間鰐丸に変わっていた。

「いゃーん、ジョン太から呼んでくれるなんてー」

「呼んでねぇー」

 叫んだ次の瞬間に、唇を塞がれた。

 鰐丸の存在を知らなかった本社の人達は、呆然と二人を眺めた。

 鯖丸と鰐丸の記憶は、どの範囲までだか分からないが、ある程度共通らしい。

 簡易接続した時の、トリコとジョン太の状況は理解しているらしく、同じ状態を再現している。

 当時の鯖丸は、理解していなかった様な事まで、鰐丸が把握しているのは、ちょっと驚いた。

 表層に接続して、繋いで引き上げる。

 やっている事は、トリコと同じだが、感触が全然違う。

 というか、同性に抱きかかえられてキスされているという、嫌な状況さえ無ければ、接続自体はトリコより簡単だ。

 あっという間に、以前殿と戦った時より高いレベルまで引き上げられていた。

 世界が一変した。

 穴に引かれる引力が消失し、周囲の空間に対する感性が、格段に鋭くなった。

 ジョン太は立ち上がろうとしたが、その場に膝をついて座り込んでしまった。

 両手で自分を抱えて、体をくの字に曲げたまま、俯いている。

「どうした、ジョン太」

 鰐丸が、ジョン太の肩に手をやって、顔を覗き込んだ。

 毛皮のせいで顔色は分からないが、辛そうな表情だ。

「気持ち悪い…」

 ジョン太は言った。

「そこまで?傷付くなぁ」

 鰐丸はつぶやいた。

「お前のせいじゃねぇよ。魔力が上がったから、たぶんすぐ治る」

 鰐丸に肩を借りて、無理に立ち上がった。

「大丈夫か?気持ち悪いなら吐いた方が楽になるけど」

 肩を貸したまま、ジョン太の背中をさすりながら、鰐丸は言った。

 何時になく嫌がられないでジョン太に触れるので、ワニ君大喜びなはずだが、本気で心配そうな顔になっている。

「断る」

 おぢちゃん見栄っ張りなので、これ以上人前でかっこ悪い所は見せたくないらしい。

 鰐丸の手を振り払って、普通に立ち上がり、周囲を見回した。

「二キロくらい向こうに、ハンニバルが居る」

 何だか把握出来ない状況になっていたので、呆然としていた本社の人達は、はっとした様子だった。

「あのバイクなら、二三分で来る。安全圏に出て、隠れよう。ここなら…」

 ジョン太は、周囲を見回し、離れた場所にある廃ビルの一つを指差した。

「あれがいい。先に行ってくれ。俺は、この辺ちょっと調べて追いつくから」

「ジョン太が言うならそうするけど、大丈夫なんか」

 ヨシオ兄さんは聞いた。

「行きましょう」

 海老原さんが皆をうながした。

「急がな、二三分ではあの場所まで行けませんよ。君も…」

 変わってしまった鯖丸を、どう呼んでいいのか分からないらしく、そこで言葉を止めた。

「一緒に来なさい」

「嫌だね」

 鰐丸は、ジョン太の腕をぎゅっと掴んだ。

「俺は、ジョン太と一緒に、後から行く」

「ハンニバルに見つからないで追い付けるなら、それでもええですよ」

 海老原さんは言って、皆を促して歩き出した。

 実際には、マイティーマウスの能力を使えば、二三秒で廃ビルまで着けるだろうが、全員を運ぶ力はないので、皆に合わせて歩いている。

 瓦礫や廃材で、周囲の地面は荒れている。

 直線距離を行けないので、本当に二三分かかりそうだ。

 ジョン太は、穴の周辺を素早く移動して、時折屈み込んで何かしていたが、ふいに立ち止まって聞き耳を立て、鰐丸の所まで戻って来た。

「すぐ来る。行くぞ」

 鰐丸を抱え上げて、移動しようとした。

「ジョン太、無理しちゃって」

 鰐丸は、自分からジョン太の手を離して、地面に降りた。

「普通なら、まともに立ってられないだろ、それ」

 心配そうな鰐丸の表情の向こうに、鯖丸がちらりと見えた様な気がした。

 意地を張るのは、止める事にした。

「腹の中掴んでかき回されてるみたいだ。けっこうひどい」

 普通に、状況を説明した。

「でも、お前一人ぐらい連れて移動するのは、無理じゃない。魔力が上がってる間に、これも回復出来る」

「分かった。でも、こっちの方が楽だろう」

 いきなり、抱き上げられた瞬間、加速した。

 鰐丸の魔法が、鯖丸とは全く違う事は、何となく分かっていたが、どう違うのかは理解していなかった。

 こいつの魔力は、ハンニバルや所長と同じ、物質操作系だ。

 個人的な特能としては、瞬間移動が使える。

 殿と戦った時には、まだ技術的に荒削りだったのか、普通に速い攻撃にしか見えなかったが、一緒に移動すると、空間がスキップされているのが分かる。

 あっという間に、先行していた皆に追いついた。

 皆の少し後ろでジョン太を降ろした鰐丸は、瞬間移動でちょっと変な風にねじれてしまった服を整えた。

 遠くで、大型バイクのエンジン音が聞こえた。

 もちろん、ジョン太にはとっくに聞こえていたのだが、普通の人間に聞き取れる距離になったのだ。

 けっこう近いはずだ。

「早く行こう」

 鰐丸は、ジョン太の手を取って、歩き出した。

 魔力が上がっているせいか、鰐丸の考えや感情が、微妙に繋いだ手から伝わって来る。

 ちょっとエロい事を考えている様子だが、大半は無条件の好意と信頼なのが意外だった。

 自分が、そんなに他人に好かれるタイプだとは思った事も無かったし、大体、鰐丸とはそこまでの接点もない。

 そんな事をぼやぼや考えていたら、歩みが鈍くなってしまったらしい。

 追い越して、顔を覗き込まれた。

「何、やっぱり抱っこして連れて行って欲しい?」

「絶対断る」

 ジョン太は、走り出した。

「もう、意地っ張りなんだから」

 鰐丸は、ジョン太の後を付いて走った。

「そこが可愛いんだけど」

「可愛いとか言うなー。お願いします」

 早速泣きが入った。

 皆で廃ビルに身を隠したほとんど直後に、ハンニバルが現れた。


「帰ってください、ほんとに」

 ジョン太は、鰐丸を拝んだ。

 元何かのオフィスだったらしい、二階の部屋で、皆はジョン太と鰐丸を囲んでいた。

 ハンニバルは、穴の近くにバイクを停めて、のんびりした感じで寛いでいる。

 キャンプ用のカセットガスストーブで湯を沸かして、わざわざ豆を挽いて入れたコーヒーを飲んでいる。

 くつろぎ過ぎていて、何となく憎い。

 こっちは、こんな場所で何時間も過ごす予定は無かったので、皆軽装だ。

 食料どころか、飲み水もほとんど持っていない上に、サリーちゃんは、タイツは履いているとはいえ、ミニスカートでハイヒールだ。

 関西魔界での仕事は、普段なら冬場でも、これで事足りるのだろう。

「いっぺん戻った方がええな。少なくとも、ここでハンニバルを長時間見張るのは、無理や」

 ヨシオ兄さんは言った。

「我々が、いずれは接触せざるを得ないのを知って、待っとるんでしょうが」

 海老原さんは、言った。

「もうちょっと離れたいですね。暗なったら、移動しましょか」

 それから、鰐丸に向かっていつも通りの冷静な口調で言った。

「早よ鯖丸君に戻ってもらわんと、困るんですが」

「勝手に呼んでおいて、用が済んだらすぐ帰れかよ」

 鰐丸はぶつぶつ言った。

「どうせ、ジョン太の簡易接続は、あと五分ぐらいで切れるから、それからでいいだろ」

「あ、しまった」

 トリコが、急に気が付いた様子で言った。

「簡易接続が利いてる間に、ここから離れないと、ジョン太がまた、大変な事になるぞ」

「早く言え、そう言う事は」

 一時的に魔力が上がって、違和感も不快感も感じなくなったせいで、本人もすっかり忘れていたらしい。

「車を隠してある場所に戻る。近くに会社の常宿があっただろ。あそこで連絡取れる様にしとくから」

「俺も行く」

 鰐丸が、刀を掴んで立ち上がった。

「囮のお前が別行動して、どうするんだ。皆と一緒に居ろ」

 ジョン太は、命令口調で言った。

 鰐丸は、ちぇっという顔をして、あっという間に鯖丸に戻った。

「えーと」

 皆が注視しているのに気が付いた鯖丸は、開き直った。

「まぁ、大体こんな感じなんで、俺」

「魔力が高いと、色々大変なんや」

 エンマ君はうなずいた。

「魔力の高さとは関係ないよ」

 同じランクSのトリコは、否定した。


 ジョン太が一人で、穴の周辺から離れてしまったので、皆はハンニバルの様子を見ながら、移動するチャンスを窺っていた。

 魔法を使えば、物音を立てないで移動する方法はいくらでもあるが、ハンニバルに感知されるだろう。

 魔法も使わないで、マンガの忍者みたいにほいほい移動出来るのは、ジョン太くらいだ。

「ちょっと困った事になりましたねぇ」

 海老原さんは、腕組みした。

「夜になったら、移動出来るやろ。幸いあいつ、身体能力は普通やし、夜は寝るからな」

 本社の人間だけで追跡している間に、それくらいの事は調べが付いているらしい。

 逆に言えば、多大な被害を出して、その程度しか分からなかったという事だ。

「移動手段の事やないです」

 黒縁の眼鏡を指先で押し上げて、海老原さんは言った。

「この場所にハンニバルが留まり続けたら、ジョン太が戦力外になってしまいます」

 ちょっとどころではない大問題だ。

「彼抜きで、あれと戦えますか?」

「無理」

 鯖丸とトリコは、同時に言った。

「囮になってあいつをこの場所から引き離すか、ジョン太の魔力を上げるか…どっちにしろ、お前がやるしかないが」

 トリコは聞いた。

「どっちがいい?」

 どっちも、出来ればやりたくない。

 鯖丸は、俯いて考え込んだ。

「ええんですよ。君一人でそない無理せんでも。出来んのやったら、皆で対策を考えますから」

 海老原さんは、鯖丸の肩をたたいて、妙に優しい口調で言った。

「出来るよ、どっちでも」

 鯖丸は即答した。

 海老原さん…何で今朝会ったばかりの、こいつの操縦方法を把握してるの…。

 トリコは、愕然として地味で小柄な男を見た。この人、ただ者じゃないな。

「では、気の毒ではありますが、ジョン太には魔法使いになってもらいましょ。その方が、全体の戦力も上がります」

「よっしゃー、一発びしっとやって来るぜ」

 鯖丸は、ガッツポーズを決めた。

「あーぁ、海老原さんにええようにあしらわれて…」

 サリーちゃんはつぶやいた。

「想像を遙かに超えるアホやな、こいつ」

 エンマ君はため息をついた。


 冬の日が落ちるのは早い。

 外界の都市部と違って、暖房を入れている駅や商業施設が周辺にないので、昼間から普通に寒かったが、夜になると急激に気温が下がった。

 田畑や森林のある田舎の方が、まだ気温の変化がゆるやかだ。

 穴を越えた神戸側の方向に、奇妙な灯りが点り始めた。

 ちらちらと瞬き始めたそれは、徐々に空へ向かって広がり、様々な色の光が、闇の中に絵を描き始めた。

「え…何、あれ」

 何か、不測の事態が起こったのかと思った鯖丸は、地元の人達にたずねた。

「ルミナリエ」

 ヨシオ兄さんが答えた。

「昔、震災があった年の年末に、外界でライトアップとか始めたんやけどな…」

 関西の魔界が出現するより前の話だ。

「街が魔界に呑まれてから、魔界側でもやろ云う事になって。電気が使えんから、魔法でやっとったら、どんどん変な方にエスカレートして、あんな事に…」

 遠くの夜空に、魔法の打ち上げ花火が、次々と展開して行く。

「観光客もようさん来とるし、離れてハンニバルを見張るなら、あっち側がええんとちゃいますか」

「そうですね」

 海老原さんはうなずいた。

「鯖丸君、一人でジョン太の所まで行けますか?」

「場所が分かれば」

 鯖丸は答えた。

 車を隠した場所は分かるが、関西の魔界は初めてなので、会社の常宿が分からない。

 海老原さんは、紙の地図を出して、ボールペンで印を付けてから寄越した。

 ネットの検索サイトが提供している地図に、後から魔界独自の情報を、手動で綿密に書き込んだ魔界地図だ。

 現在地と会社の常宿と車の位置が、丸で囲まれている。

「合流地点は、芦屋の常宿と言えば、ジョン太が知ってます」

 鯖丸は、地図を受け取った。

「あの…」

 気になるらしく、地図を持ったままたずねた。

「囮の俺が居なくなって、大丈夫なんですか」

「その辺は、少しの間ならどうにかするわ」

 エンマ君が、指の先で鯖丸に触った。

 見る間に、着ている物はそのままで、姿だけが鯖丸に変わった。

「おお、そっくり」

 本人だけはそう言ったが、周囲の人間には、少し違和感がある。

 鏡像なのだ。

 鏡でしか自分を見た事のない本人には分からないが、微妙に本物とは違っていた。

 それでも、ガチで殴り合ったとはいえ、大して付き合いのないハンニバルを騙すには充分だ。

 鏡像をコピーしたエンマ君は、一体どの辺まで正確にコピーしているのか分からないが、他人になってしまってそれなりに違和感があるらしく、部屋の隅に行って、何かごそごそ確認していた。

 それから戻って来て、微妙な表情でへらっと笑った。

「いや…すごいね、君」

「何が?」

「ジョン太、気の毒に…」

「うわ、それかよ」

 一応自覚はあるらしく、叫んだ。

「止めろ、どこまでコピーしてんだー」

「一応、外観は全部」

 エンマ君は答えた。

「悪いけど、調節は出来ん」

 声まで同じになっている。

「そうなんだ…」

 鯖丸は、がくりと肩を落とした。

「えーと、エンマ君って、外界では女の子だったけど、中身は男でいいんだよね」

 一応聞いた。

「うん」

「じゃあ、いいか…まぁ」

「いいんだ」

 エンマ君はうなずいたが、鯖丸はびしっと振り返った。

「でも、俺が居ない間に、勝手に使うなよ、それ」

「ちっ…」

「ちっ…て何だぁ。何かする気だろ。トリコ、見張っててこいつ」

「別にいいじゃないか」

 トリコは、めんどくさいので大雑把な事を言った。


 地図の通りに行こうとしたが、勝手の分からない薄暗い街では、難しかった。

 いいかげん迷った頃に、車を隠してあった場所にたどり着き、現在地を確認出来たので、やっと会社の常宿に着いた。

 入り口で尋ねると、ジョン太は出かけていると言うので、しばらく待った。

 三十分以上待った所で、ジョン太は戻って来た。

 両手に荷物を持って、割合ご機嫌な感じで歩いて来る。

 荷物が、アサルトライフルと延長ケーブルだという事は、すぐに分かった。

 ゲートまで戻っていた様子だ。

 入り口で鯖丸の姿を見付けると、え…?何で、という顔をしたが、すぐに、こいつがこんな所まで一人で来ている理由が分かったらしい。

 何だか諦めた感じでため息をついてから、まぁ、こっちに来いやと手招きした。

 さんざん道に迷った挙げ句、一人で待たされていて心細かったのか、鯖丸は嬉しそうな顔で駆け寄った。

 うわぁぁぁ、何そんな楽しそうにしてんだ、こいつ。これから何するか分かってんのかよ。

 道に迷った事も、三十分待たされた事も知らないジョン太は、満面の笑みのバカを見た。

「バカって無敵だなぁ」

「え…俺って無敵だけど、それが何か」

 最近、自分に都合の悪い事実は、聞き流す習慣が付いている。

 ジョン太が持っていた延長ケーブルを取って、肩から下げた。

 自分の荷物は自分で持つ事に決めているらしい。

「ここで泊まるんでいいの?」

 入り口の狭いカウンターで、宿帳を出してもらった鯖丸は、もうペンを握っている。

「ああ、いいけど…。俺もまだチェックインしてないから、書いといてくれ」

「分かった」

 特に、住所や電話番号は必要ないので、魔界で使っている名前と会社名を書き込んだ。

「部屋は一緒でいいんだけど、なるべく上の方の階にしてください」

 カウンターの中に居る、置物みたいなじいちゃんに、変な注文を付けている。

 普通なら、何かあった時に下の階の方が逃げやすいのだが、込み入ったビル街なら、重力操作で移動出来る。

 いつの間にか、自分に有利なポジションまで、ちゃんと考える様になっているなぁ…と、ジョン太は少し感心した。

「じゃあ、ちゃっちゃと済ませて、晩ご飯でも食べに行こうか」

 部屋の鍵を受け取った鯖丸は、先に立って階段を登り始めた。

「軽い。お前最近、トリコ並に軽いぞ」

 ジョン太は、後を追った。

「こんな事、重く考えてて出来るかよ」

「あ…ごめん」

 全然平気という訳でもないらしい。

「何か、迷惑かけて悪いね」

「だから、空気を重くするなぁ」

 おぢちゃん、若造に怒られてしまった。

 部屋は十階にあった。

 薄暗い廊下の一番奥で、非常口の真ん前だ。

 あのじいちゃん、こっちが魔界の便利屋だと知っているので、ゴルゴがチョイスする様な部屋をあてがってくれている。

 ジョン太は、一応習慣で、非常口が開くか確認した。

 非常口には嫌な思い出のある鯖丸は、更にドアを開けて階段があるか確認し、壊れないかどうか踵でがつがつ踏んで確かめている。

 そこまでせんでも、何かあったら飛んで逃げればいいだろうに…。

「もういいだろ。鍵開けてくれ」

 ジョン太が言ったので、鯖丸は部屋の鍵を開けた。

 入り口に、魔法をチャージすると灯る明かりのスイッチがあるので、指先で触った。

 魔力が高過ぎるのか、微調整が下手なのか、部屋の中は思い切り、パチンコ屋並みに明るくなった。

 狭いがこざっぱりした部屋の奥に、ダブルベッドが一個だけ置いてある。

 鯖丸の肩から、ぼとりとケーブルが床に落ちた。

「何勘違いしてんだ、あのじじい」

 暴言を吐き始めた。

「いや…勘違いはされてないだろ」

 どちらかというと、ジョン太の方が諦めはついているらしい。

 荷物を置いて、ガンベルトを外し始めた。

「嫌だー、この部屋チェンジ」

「もういいだろ。めんどくさい」

 バスルームがちゃんとあるのを確認したジョン太は、明かりを付けて風呂にお湯を溜め始めた。

 ああ…ジョン太も照明くらいは点けられる様になってたのか…と感心しかけた鯖丸は、風呂に入る気満々のジョン太を見て、我に返った。

「ええっ、風呂入るのかよ。もういいじゃん、嫌な事は早く済まそうぜ」

 言い切りやがった、こいつ。

「うるせぇな。綺麗好きなんだよ俺は」

 ジョン太は反論した。

「まずお前から入れ。昨夜ちゃんとした外界のホテルに泊まったのに、何で風呂に入ってないんだ。いつもあれだけ言ってるのに、またパンツも履き替えてないし」

「いいじゃん、冬なんだから。ジョン太、細かい」

 鯖丸は文句を言った。

「お前、時々洗ってない犬の匂いがする」

 ジョン太はぼそっと言った。

 鯖丸はうっとうなって固まった。

 普通に言われても厳しいが、犬型ハイブリットに言われると、よりへこむ。

「犬が言うな、犬が」

 お互い追いつめられているせいか、黒い部分が丸見えになっている。

 二人はにらみ合ったが、風呂が満杯になってあふれ出したので、ジョン太はあわてて止めに走った。

「もういいや、じゃあジョン太先に入って」

 鯖丸は妥協案を出した。

「湿った大型犬と色々やるのは、嫌だから、俺」

「どんだけ嫌な事は早く済ませたいんだ、お前。それくらい乾くまで待てや」

 ジョン太はその場で投げやりに服を脱ぎ、風呂に入ってしまった。

 鯖丸は、刀をベッドの背もたれに立てかけてから、ため息をついて座った。

「えーと、良く考えたら、何でこんな事になっちゃったんだ」

 それは、今まで何事も良く考えなかったからだ。

「暁が出て来なけりゃいいけど…」

 うろんな事を言い始めた。

「まぁ、いいか。どうにかなるだろ」

 その場のノリだけで生きて行くのは、止めた方がいいと思う。

 ジョン太が聞いていないのは、幸いだった。


 相変わらず、あっという間に風呂から出て来た鯖丸は、頭からタオルを被ったまま、ベッドの上であぐらをかいて、腕組みして何か考え込んでいた。

 バカなんだから考えるな…と、ベッドの端っこに小さくなって腰掛けたまま、ジョン太は内心思った。

 大体、何で前も隠さないで普通に座ってる訳、こいつは。

 元通り、きっちり服を着てしまっている自分の方がおかしい事に、おっちゃん気が付いていない。

「何でまた服着てるの」

 鯖丸にも指摘されてしまった。

「ええと…何となく」

 答えてから、付け加えた。

「脱がせて欲しいかな…とか」

「ジョン太の冗談は、笑えない」

 真顔で嫌そうだ。

「それ、ヨシオ君にも言われた」

 諦めたのか、とりあえず自分でシャツを脱いだ。

「それで、どうする」

 鯖丸は聞いた。

「え…」

「やる方とやられる方、どっちがいいの、ジョン太は」

 どっちも無理っぽい気がする。

「お前、決めてくれ」

 おっちゃん、相棒に決定権丸投げだ。

「じゃあ、俺やられる方ね」

 鯖丸は、あっさり即決した。いいのか、そんなで。

「お前、大丈夫なのかよ」

 バスタオルで、頭をがしがし拭いている鯖丸を、ジョン太は見た。

 たぶん、暁の事を言っているのだなと云うのは分かった。

「逆は気の毒かなと思って。ジョン太、男と寝た事なんかないだろ」

 お前はあるのかよ…と言いかけてから、気が付いた。

 あるんだ、そう言えば。記憶があるのかどうかは、分からないが。

「暁が出てる時の事は、あんまり憶えてないんだけど、あいつたまに、相手が気に入らなかったら、途中で帰ったりするからなぁ」

 うわ、それ普通にひどい。

 何でそんな事、さらっと話せるんだと思ったが、良く見ると表情が微妙になっている。

 いつも脳天気なので忘れていたが、そういえばこいつ、割と想像を絶するひどい目に色々遭って来ているはずだ。

「よーし、じゃあさくっと終わらせて、何か美味しい物でも食いに行くか」

 極力軽い感じで言って、残った服を全部脱いだ。

「それで、この後どうしたらいいんだ?」

「普通でいいよ、普通で」

「分かった、普通な」

 普通には、割と自信がある。

 とりあえず、相手が男だとか天然ボケのバカだとか言う事は、あまり考えない様にして、普通に抱き寄せて体に触って、キスをした。

 首の後ろに手を回すと、プラグの接続ソケットに触れた。

 一見、青緑っぽい金属光沢の縁取りが、人工皮膚で覆われた差し込み口の周囲を巻いていて硬そうに見えるが、触ると周囲の皮膚と同じ感触で、柔らかい。

 軍用とは、少し仕様が違うが、船外作業のプロが使う様な高性能ソケットだ。

 大体は同じ仕様なので、中央の人工皮膚解除キーを押して、差し込み口を露出させてから、舌の先で軽く触った。

 微電流が通る時の、ちょっと痺れる様な感触があって、鯖丸は妙に色っぽい声を出して、びくりと体を震わせた。

 ええっ、これ、エロい事にも使えるのかよ…。

 ていうか、ジョン太、普通とか言ってたくせに、何、マニアックなプレイに走ろうとしてるんだ。

 接続部分に異物が入ったくらいでトラブルが起こる様な安物じゃないし、まぁいいかと思ってされるままに任せる事にした。

 大体、普通って言ったのは、雑にちゃっちゃと済ませてくれという意味なのに、マジでキスまでしちゃって、このおぢちゃんは…。

 普通って、人それぞれで難しいなぁ…と考えていたら、こっちを触りながら、照明を落とそうとして、スイッチの方に意識を向けていたジョン太が、急にイライラした感じでガンベルトへ手を伸ばした。

「ああ、もう。何だ、このスイッチうざい」

 照明を操作出来る程は、魔力が高くないらしい。

 いきなり、銃を抜いてスイッチをぶち抜いた。

 狭い部屋の中に、銃声が響いて、鯖丸は両手で耳を塞いだ。

 普通から危ない人にジョブチェンジしてしまっている。

「ジョン太、普通は?」

 一気に暗くなった部屋の中で、鯖丸は聞いた。

「知らん」

 ジョン太は即答した。

「こんなくそ明るい所で、お前の顔見てたら、勃たねぇんだよ」

「当たり前じゃん。ゲイでもないのに、これでええ感じになってたら、引くわ」

 それじゃあ、けっこうええ感じになってるお前は何なんだと思ったが、接続部に触ると、変な感じの刺激があるのは知っていてやったので、反論はしなかった。

 普段の悪魔超人が、更に進化してしまっている。

「お前、悪魔将軍じゃねぇか、それ」

 つい、口に出してしまった。

「何だそれ。俺的には、魔界のプリンス、アシュラマンだったのに」

 絶対、悪魔将軍の方がかっこいいのに…。

 その辺は、キン肉マン芸人同士で後々争う事にして、リンクを繋ぐのに専念する事にした。

「ジョン太は、こういうの慣れてないんだから、要らん事しないでこっちに任せて」

 鯖丸的に普通な感じで触られた。

 そうじゃないかとは思っていたが、やっぱりお互い普通じゃない。

「お前、それは違うだろ。やめてやめて…あっ、口でするのとかマジで止めてー」

「うるさい、ちょっと黙れ」

 また怒られた。

 まぁ、こんなもんでいいか…とぶつぶつ言った鯖丸は、また何か考え込んでしまった。

「まいったな…来る途中で薬局あったのに。ローションとか買っときゃ良かった」

 リアルに嫌な話になって来た。

 しばらく考えていた鯖丸は、聞いた。

「ジョン太、ファーストエイドキットにワセリン入れてたよね。あれ出して」

「分かった」

 手を伸ばして、ベッドの背もたれに掛けてあるガンベルトの物入れから、赤地に白い十字が入ったポーチを取り出した。

 お前の方が近いんだから、自分で取れや…と思ったが、そう言えば照明を壊していた。

 窓から街の明かりが入っていて、充分明るいと思っていたが、普通の人間には物がはっきり見えない暗さらしい。

 ポーチからチューブ状のワセリンを出して、渡した。

 添加物も防腐剤も入っていない、普通の薬局とかでは、あまり見ないタイプだ。

「ジョン太、何でこんなのいつも持ち歩いてるの」

「お肌が弱いから」

 おっちゃん、変な事を言い出した。

「添加物が入ってるハンドクリームとか、ダメなんだ。アレルギーで」

 体は丈夫だが、お肌は弱いらしい。

 それ以前に、普通はハンドクリームとか持ち歩かない様な気もするが。

「ジョン太って、変な所で繊細だよね」

 鯖丸は、ごそごそ起き出して、ベッドから少し離れた。

「あ、それ塗るんだったら、俺がやろうか…」

 何となく、全部お任せにしてしまうのも悪い気がして、ジョン太は聞いた。

「うるせぇ、こっち見るな」

 めずらしく、鯖丸の方に泣きが入っている。

「ごめん」

 平気な訳はないか…と思った。

 暁が色々やってるとはいえ、本人はノーマルなんだし。

 背中を向けて、しばらく待つ事にした。

「よーし、準備オッケー」

 意外と軽い感じで、鯖丸は戻って来た。

「じゃあ、さくっと終わらせて、串カツ食いに行こう、串カツ」

 昨夜トリコに取り上げられていたが、余程食いたかったらしい。

 ジョン太は、ちらっと時計を見てから、時間を逆算した。

 ええと…今からリンク張って、その後出掛けるとしたら、十時は過ぎるし、夜中にそんなこってりした物食いたくない気がする。

 出来れば鍋がいい。水炊きとか湯豆腐とかであっさり終わらせたい。

 まぁいいか、先に串カツ屋に行って、十本くらいあてがっておけば…トリコには内緒で。

「分かった。串カツな」

 変な予定だけ、先に立ってしまった。


 接続までは、本当に簡単に済んだ。

 男相手に出来るのかとか、そういう心配以上に、こんなややこしい奴とリンクを張れるかの方が、実際は心配だった。

 鯖丸の方でも、ジョン太相手にセックス出来るかどうかより、魔力の接続が出来るかどうかの方が大きな問題だったのだ。

 今まで散々、リンクを繋ぐのに失敗しているという話を聞いていたので、もっと大変だと思っていたが、最初に表層を繋ぐまでは、トリコと初めてリンクを張った時より楽なくらいだ。

 何だか、見た事のない人の手が、表層に触れてから入り込んで来た。

 普通の人間の手に見えたが、ジョン太だという事は分かった。

 感触が柔らかくて、何の抵抗もない。

 あっという間に通り抜けて行ったので、全体は見えなかった。

 気が付くと、学校の廊下の様な場所に立っていて、前にここへ来た人が付けた道筋が、微妙に見えていた。

「ええと…所長とトリコと、後は、誰だ、これ」

 知らない感じではないが、魔界では見た事がない人の痕跡が付いている。

 けっこう魔力が高い人間の痕跡だ。

 背後から足音が聞こえたので、脇へ避けた。

 これ以上プライバシーを詮索するのも悪いし、中断して、周囲を確認した。

 異常に可愛いテディーベアの様な物が走って来る。

 何で、ぬいぐるみが生きて動いてるんだと思って良く見ると、毛色がジョン太と同じだった。

 うわー、昔はこんな可愛いかったんだ。時間の流れってひどい。

「こっち来るなー」

 ぬいぐるみ状の子供は、走りながら振り返って叫んだ。

「やめて、もうやめて」

 後ろから、同級生らしい子供達が追いかけて来る。

「お前こそ、もう学校来るな」

「犬は、首輪付けて犬小屋に居ろよ」

「帰れー」

 ああ、子供って、けっこうひどい事言うよなぁ…と思った。

 自分も、子供の頃、地球から来た転校生をいじめた事があるので、あんまり責められない。

「やめてよぅ」

 普通の子供には追い付けないスピードで逃げているので、距離はあっという間に開いた。

 絶対強いはずなのに、何で反撃しないんだろう。

「やり返せよ、あんな奴ら」

 声をかけてみた。

 子供のジョン太は、走るのを止めて、ぐすぐす泣きながら歩き出した。

「だって、僕が叩いたら、あの子達死ぬって、お父さんが…」

 立ち止まって、こっちを見た。

「ええ、おじさん誰?」

 ジョン太におじさん呼ばわりされるとは思わなかったが、ここでリンクを繋ぐ訳でもないのに、係わるのもまずい気がしたので、先に進む事にした。

 小さい頃に、何をされても反撃しない様に、厳しく躾けられていたらしい。

 何やってんだ、ジョン太のオヤジ…と思ったが、力の加減が出来ない子供の頃に、もし何かあって相手を殺してしまう様な事があったら、この程度のトラウマでは済んでいない。

 まぁ、これはこれで、どうにか最善だったのかも知れなかった。


 いきなり、縄手山の山中に居たので、ジョン太は驚いた。

 鯖丸のトラウマ映像に潜ったら、絶対コロニーをテロリストが襲撃したあの事件に遭遇すると思って、覚悟を決めていたのに、周囲は見慣れた風景だ。

 何でここに…と思った目の前に、かまいたちが居た。

 当社比で実物の十倍くらいのスケールだ。

「うわ、何だこれ」

 振り返ると、一年ちょっと前の鯖丸が居た。

 切り落とされた腕を押さえて、怯えた表情でこっちを見ている。

 思った以上に印象が子供っぽい。

 そういえば、最初はこんなだったな…こいつ。

 これ、俺が助けた方がいいのか?それとも、別の俺が助けに来る段取りになってるのか…

 決断する前に、視点が入れ替わった。

 鯖丸の視点に入ってしまっている。

 体中が痛くて怖い。

 目の前に居るごつい男が、銃を乱射してから、こちらに走って来た。

 ものすごくかっこいい犬だ。

 何だー、この当社比で十倍男前の俺は。

 抱き上げられて走り出した。

 記憶として辻褄は合っているが、俺はそんな、ドッグショーに出る様なびしっとした犬じゃないし、お姫様抱っことかしないで、普通に肩に担いでたし…ああ、何か微妙にいたたまれない。

「やめてー、この場面パス」

 叫んだ瞬間、暗闇の中に突き落とされた。


 良く考えたら、魔法を使い始めて四ヶ月しか経っていない素人が、あんなひどい目に遭ったら、トラウマ映像に加わっていても不思議ではない。

 ないけど、あれはないだろ…。めっちゃ恥ずかしい。

 軌道上の宇宙空間を落ちて行きながら、ジョン太は考えた。

 その割には、普段全然尊敬されてないよな、俺。別にいいけど。

 現在は完成している大規模コロニーが、建造中の姿で見えて来た。

 じゃあ、やっぱり行き先はR-13だ。

 下手に宇宙へ出た経験があるので、裸で宇宙空間に居るのは、怖かった。

 服くらいは着ているが、宇宙服ではなく、普通にさっき脱ぐまで着ていた服だ。

 息が出来なくてパニックになりそうだったが、ここは現実じゃないんだからと自分に言い聞かせて、どうにか正気を保った。

 R-13が近付いて来て、エアロックも通らず、中に吸い込まれた。

 一瞬で、光学兵器と血の臭いと、人が発する恐怖の匂いが漂って来た。


 ジョン太が、可愛い黒人の女の子と、ベッドで抱き合って眠っていた。

 これのどこがトラウマ映像か分からない。

 ジョン太本人も、女の子と大して変わらない年齢に見えた。

 たぶん、高校生くらいか。

 目を覚ました女の子が、にこりと笑った。すごく可愛い。

 どちらかと言うと、幸せな記憶だ。

「何だよ、ガキのくせに生意気だぞジョン太。おじさんそーゆーのは良くないと思う」

 さっきおじさん呼ばわりされたのが、尾を引いている。

 がつんとドアが開いて、幸せな光景が一瞬で地獄絵図と化した。

 普通なら、不届きなガキが娘に手を出したのを、オヤジが怒っている様な光景だが、オヤジ、ショットガンを装備している。

「えええーっ、マジでそれ撃つのかよ」

 本気で発砲された。

 さすがジョン太、全弾除けながら、服と靴を拾って、全盛期のジェット・リーの様なアクションで、窓の外に飛び出した。

「このバカ犬が、うちの娘に手ぇ出しやがって。死ねぇ」

 本気でショットガンを乱射して来た。

 トラウマ映像だという事を差し引いても、これはひどい。

 普通の人間だったら死んでいると思うが、たぶん普通の人間だったら、オヤジはここまでキレなかったんだろうなとは思う。

「うわー、可哀相に。何だよこれ」

 窓の外を本気のジョン太が逃げて行く。

 物凄い速さだ。

 戦闘用ハイブリットが、全盛期にどれくらい速く動けるか、トラウマ映像の中とはいえ、確認してしまった鯖丸は、愕然とした。

 反則だ、あれ。

 考えている間に、別の場所に放り込まれた。


 コロニーに居るのは分かったが、居住目的で造られた、地球の周回軌道上にある物とは、明らかに様子が違った。

 たぶん、木星の研究者コロニーだ。

 記録映像で見た事はあったが、思ったより照明も薄暗くて、何もかもくたびれて見える。

 廊下に、壊れた機械が放置されていたり、破れた壁が補修されていなかったり、けっこうひどい有様だ。

 のろのろと働いている人間も、くたびれた様子だった。

 怪我人も多い。

 かなりの期間、周辺宙域で戦闘が行われていたのだ。

 何度かは、コロニーの内部にも侵入されたはずだった。

 国連宇宙軍の記章を付けた兵士達が、慌ただしく走って来た。

 通路の向こうで止まって、一斉に銃を構えた。

 周囲の雰囲気から、戦闘状態は、もう解除されているはずだけど…と、ゆるくカーブした通路の奥を覗き込んだ鯖丸は、息を呑んだ。

「ひどい…」

 その場にぼんやりと立って、銃口を向けられているのは、何か、人に見えなくもない生き物だった。

 骨と皮だけになった体に、ほとんど抜け落ちてしまった白い毛皮の痕跡が、所々残っていた。

 バカみたいな顔で、うっすら笑ってこっちを向いているが、たぶん何も見ていない。

 ジョン太だという事は分かったが、ここまでひどい状態だったとは、思っていなかった。

 三叉路になった通路の両側から、狙撃兵が来た。

 十人以上のプロの兵士が、こんな死にかけの男を、用心深く遠巻きにしている。

「撃ちますか?」

 この集団の隊長らしき男に、隣に居た青年が聞いた。

「いや…残念だがあの子はもう、救出の必要が無くなった。出来れば説得したい」

 ジョン太の表情が、ゆっくりと正気に戻った。

 自分の足元に、視線を落とした。

 うわ、ダメだあのおっさん。重症のジャンキー見た事ないのかよ。

 もういいから、撃つなら早くやって楽にしてやれ。

 足元に、子供が倒れているのが見えた。

 小さな体をくの字に曲げて、横になって眠っている様にも見えるが、鼻と口から、大量の血が流れ出している。

 ジョン太は、しばらく子供を見た。

 それから、突然状況を把握したらしい。

 悲鳴を上げてその場から逃げ出した。

 狙撃兵の一人が、命令を待たずに発砲した。

 いい判断だが撃ち出されたのは麻酔弾で、効き始めるまでにタイムラグがある。

 当然、狙撃兵の囲いは、一瞬で突破された。

 負傷しているのか片足を引きずっているが、それでも速い。

 背後から、何発も麻酔弾が撃ち込まれ、やっと倒れた。

 ジョン太相手に実弾使わないなんて、ぬるい奴らだと思った。

 回復魔法の使える魔界でばかり戦っているので、鯖丸の考え方は、ちょっとおかしくなっている。

 倒れてくれて良かった…これ以上はもう、ひどい目に遭わなくて済む。

 ほっとして気を抜いた所に、いきなり暁の意識が割り込んで来た。

 意識を接続するまでの間に、一度も現れなかったので、大人しくしていてくれると思っていたのに…。

 今頃何しに来たんだ、こいつ。

「てめぇ、何で助けに行かないんだ。ジョン太が…ジョン太が死んじゃう」

 暁が、マジ泣きしながら、強引に表へ出て来ようとしている。

「お前が助けないから、俺がやる。そこ退け」

 いやいや…死なないから。ジョン太、今でもお元気に生きてるから。

 暁って、そこまでジョン太の事好きだったのかと、ちょっと驚いた。

 今まで、色々男遊びは繰り返して来ていたが、マジでお付き合いしていたのは、一昨年鉄砲玉に殺されたヤクザの幹部くらいだ。

 それだって、何処まで本気だったかは、良く分からないし、真面目に治療していたせいか、外界で暁が出て来る事も無くなってしまった。

 ジョン太の事は、俺の記憶でしか知らないはずなのに、一体何なんだよ、こいつ。

 実は、その辺が一番の原因なのだが、鯖丸本人は気が付いていない。

 何しろ、普段はカラオケ好きのダメなおっさんとか思っているくせに、本人が気が付いていない深層の記憶では、当社比で十倍男前の犬だ。

 暁を押さえ込むのに集中すると、接続が途切れる。

 両方のバランスを取るのが手一杯になってしまって、鯖丸はその場で固まった。


 R-13の内部には、無数の死体が転がっていた。

 生きて動いている者の気配は、もう、奥の方にしかない。

 いくら、宇宙船を大きくしただけの様なマイナーコロニーでも、意外に内部は広い。

 テロリストの集団は、雑に小型艇ごと壁を破って突入し、手当たり次第に人と物を壊しながら、奥へ向かっていた。

 たぶん、テロリスト側にもそこそこの被害が出ている。

 普通の作戦行動ではなく、特攻だ。

 無秩序な暴れ方から見て、恐怖心を麻痺させる類の薬を使っている。

 軍でも、似た様な効果のあるドラッグは、何度か支給された。

 思い出しただけで、吐き気がする。

 鯖丸が、人格が分裂してしまうくらいひどい目に遭ったのも、相手が正気ではなかったからだ。

 そうでなきゃ、あんな可愛くもなんともないガキを、寄ってたかって犯したりはしないだろろうなぁと思った。

 それとも、あいつバカだから、余程相手を怒らせる様な事を、やっちゃったのか…。

 どっちにしても、これから見る事になる状況を考えると、気が重い。

 ちょっとため息をついて、歩き出した。

 ふいに背後から腕を掴まれて、ジョン太は振り返った。

 暁だった。

 まだ、十代半ばの少年に見えるが、見覚えのある顔だ。

 というか、まぁ鯖丸と同じ顔だが。

 反射的に殴り倒しそうになった腕を、どうにか止めた。

「何でここに居るんだ、お前」

 現実の鯖丸の様子が、明らかにおかしい。

 接続が途切れそうだ。

「この先はダメだ」

 暁は、ジョン太の腕を掴んだまま、言った。

「頼むから、この先は見ないで」

「そう言う訳にもいかないんだが」

 歩き出そうとしたが、華奢な少年の腕が振り払えなかった。

 普通なら、そのまま引きずって行ける重さのはずなのに、根が生えた様に動かない。

「何やってんだ、くそっ」

 現実の方の鯖丸が怒鳴った。

 接続が突然切れて、ジョン太は現実に引き戻された。


 こう何回も魔力の高い奴相手に接続事故起こしてたら、俺、頭壊れるんじゃないのか…と、ジョン太はベッドの上に座り込んで、ぼんやり思った。

 またダメだったのか…と考えたが、頭がぼーっとして、何の感情も湧いて来ない。

 あ、俺今、ちょっとやばいな。

 ゆっくり、状況を確認しようとして、鯖丸がもっとヤバイ事になっているのに気が付いた。

 倒れたまま、全身が小刻みに痙攣している。

 急速に、正気が戻った。

「おおい、大丈夫か」

 伸ばした手が、凄い力で振り払われた。

「畜生、二度と出て来んな。帰れ!!」

 暴れ回る鯖丸を押さえ込んだジョン太は、しばらくじっと落ち着くのを待った。

「止められると思ったのに…」

 ひとしきり暴れて、少し気が済んだのか、鯖丸はジョン太にもたれ掛かって来た。

「いいから、ほら、落ち着け。な」

 ゆっくり両手で抱き寄せて、頭を撫でた。

「うん」

 こうして見ると、意外と可愛い様な気がして来た。

 それから、ふいに我に返った。

 いや、待て。何、ええ感じのゲイのカップルみたいになってんだ、俺ら。

 ジョン太は、慌てて鯖丸から離れた。

「やべぇ。何か新しいステージが開きそうだった、今」

「何が」

 いきなり突き放されて、不満そうな顔で鯖丸は聞いた。

 良かった…いつも通りのバカにしか見えない。

 当面、怪しい世界へ行ってしまうのは止められたが、肝心の問題が全然解決していない。

 ちょっとため息をついて、肩を落とした。

「やっぱり、無理だったな。リンク張るのは」

「何言ってんの」

 鯖丸は、ジョン太の正面に座り直した。

「そんなの、リンクが繋がるまでやるに決まってるじゃん」

 ええっ、何言い出すの、この子は。

「今のはちょっとヤバかったから、ポジション逆にしてみよう。いいよね、この際」

 まぁ、その辺は最初から覚悟していたから、別にいいけど、実物の悪魔将軍を見た後だと、けっこう引く。

「大丈夫、優しくするから」

 本気で嫌〜な事を言われた。

「お前は、存在自体が優しくない。特に下半身が」

 ジョン太はぶつぶつ文句を言った。


 意外と本当に優しくされたので、かえって辛い気分になった。

 そうか、嫌な事は雑にちゃっちゃと済ました方がましだな。

 おまけに、なんだかんだ言っても、結構上手い。

 この間まで、彼女居ない歴と年齢が一緒だったくせに、本当に何なんだ、こいつ。

 その辺から、さっき使ったワセリンのチューブを手探りで捜して、キャップを開けている。

 鯖丸がキレそうになっていた理由が、良く分かった。

 いや…本気で恥ずかしいわ、これ。

「もういいから、それ、自分でやるから寄こせ」

「ダメ」

 断られた。

「ジョン太じゃ、無理」

 無理って、何がと思ったが、何かコツがあるらしい。

 自分でも触った事がない様な奥の方まで、ゆっくり指を差し込まれた。

 ああ、俺、何か客観的にひどい事になってる…ここまでひどいと、もう、どうでもいい気がするけど。

「無理って何だ。いや…それ使い切るな。必要だから持ち歩いてるんだ」

 空になったチューブをその辺に放り捨てた鯖丸は、変な顔をした。

「明日、その辺の薬局で買えばいいじゃん」

「売ってねぇよ。普通の薬局には置いてないから、ネット通販で買ってるのに…。冬場はそれが無いと、指先の微妙な感覚が…」

 おぢちゃん、どこまでデリケートだ。

 鯖丸は、ちょっと呆れた顔をしたが、もういいから黙れという感じで、唇を塞いだ。

 それから、さっき暴れていた時に、八つ当たりしていた枕をあてがって、少し腰を浮かせてから、ゆっくり入って来た。

 絶対無理だと思っていたが、意外とやれば出来るもんだなと感心した。

 けっこう痛いけど、我慢出来ない程でもない。

 後は、さっき途切れた接続を繋ぎ直すだけだ。

 こちらから手を伸ばして接続をやり直そうとしていた途中で、がつんと意識が持って行かれた。

 胸ぐらを掴んで、絞め落とされたのに近い感覚だ。

 うわー、全然優しくないぞ。まぁ、その方がお前らしいけど。

 一瞬で、先刻接続が途切れた場所まで突き落とされた。


 上手く繋げなくて、最初からやり直す事になるかも知れないと思っていたが、先刻と同じ場所に居たので、少しほっとした。

 いや…場所は同じだが、風景は全く変化してしまっている。

 鬱蒼とした森の中に、正方形の檻があった。

 檻の中に、何かが居た。

 殿と戦った時、簡易接続したイメージの中に居た獣。

 あの時ははっきり見えなかったが、こうして間近で見ると、ジョン太本人とは全然違う。

 毛羽立った汚い色の毛に覆われた、醜い獣だ。

 それはまぁ、百歩譲って、ジョン太の事が嫌いな他人に、こんな風に思われているなら、まだいい。

 自分で自分を、こんなひどい姿で認識しているなんて、一体どういう事なんだ。

「出て来いよ。これは、ちょっとひど過ぎる」

 獣は、狭い檻の中にうずくまっていた。

 体中を、細いワイヤーで巻かれて、鋼鉄の床に括り付けられている。

「何で、こんな事になってんだよ。自分でも、これは違うって、分かってるだろ」

 檻の中の獣は、少し顔を上げた。

「うん、分かってる。でも、誰も俺を責めなかったから」

 獣は、言った。

「だから、俺は、ここに居るしかないんだ」

 獣を縛っているワイヤーが、どんどん増えながら、体を締め上げていた。

「バカだろ、お前」

 いつも言われている事を、言い返してやった。

「責められなかったなら、ラッキーじゃないか」

 獣は、こちらを見た。

「ガキを一人殺した事くらい、チャラにしてもらえるくらい、すごい事をしたんだよ、ジョン太は。だから、胸を張ってそこから出て来い」

 そんな事は、たぶん出来ないだろうと言うのは、分かっていた。

 出来るなら、とっくにやってるはずだ。

「出来ないなら、その檻、壊すからな」

 今まで意識していなかったが、いつも通り背中に刀を背負っていた。

 ゆっくりと抜いて、構えた。

 さっき追い返した暁の気配が、微妙に背後に在ったが、この状況なら、邪魔はして来ないだろうという確信があった。

 もしかしたら、協力してくれるかも知れない。

「大体、初対面ならともかく、知り合いでジョン太の事嫌いな奴なんて、居ないだろ。普通はそうじゃないんだ。自分がいい人だって、ええかげん分かれや、バカ」

 この場所で魔法が使えるのかどうか、分からなかった。

 それでも壊せる自信はあった。

 渾身の力で斬りつけると、檻の上半分が吹き飛んだ。

 残った鉄格子にヒビが入り、がらがらと崩れ落ち始めた。

 駆け寄って、獣を巻いているワイヤーに手をかけた。

 獣は、顔を上げてこちらを見た。

 指にワイヤーが食い込んだが、構わずに引き千切った。

 檻の中で自由になった獣は、しばらく戸惑って、それから立ち上がった。


 さっき居た廊下に立っていた。

 鰐丸はもう居なくて、嫌な気配だけが、奥から漂っていた。

 廊下の奥に、女が一人倒れていた。

 半ば入り口を塞ぐ様に、体を斜めにして倒れていたが、頑丈な扉は、既にこじ開けられた後だった。

 気の強そうな女だ。

 体格や筋肉の付き方は、どう見ても宇宙育ちの人間だったが、地球人のテロリスト相手に、死ぬまで立ち向かって行ったに違いない。

 体ごと、服までずたずたに切り裂かれて、辺りは血に染まっていた。

 見慣れた顔に、何となく似ているので、誰だか分かった。

 両親共殺されたと言っていたが、母親は確実に目の前で惨殺されている。

 ダメだ、これ。思ってた以上に、ひどい事になってる。

 扉の向こうに、その、テロリストらしき集団が居た。

 半数は、軽装宇宙服も脱ぎ捨てて、アンダースーツになってしまっている。

 軍でも、テロ組織でも、敵陣でそんな事をしていたら、バカ呼ばわりされるだろう。

 明らかに、様子がおかしい。

 こいつら、たぶん支給された薬の処方を間違えてる。

 皆、二十歳前後から二十代前半くらいまでのガキで、指揮官らしき人間も存在しない。

 全員素人だ。

 その、素人集団の間から、逃げようともがいている子供の手足が見えた。

「やっぱり、来たんだ」

 突然、隣で声がした。

 はっとして横を向くと、鰐丸が立っていた。

 暗い顔で、それでもこちらを真っ直ぐ見ている。

「ジョン太には、絶対見られたくなかったのに」

 その辺はお互い様だから、まぁ仕方ないんじゃないかと言おうとして、鰐丸が、全然別の話をしているのだという事に、気が付いた。

 何か、まずい事が起こるという意味だ。

 自分もそうだが、鯖丸も、リンクを張るのはそうとうむずかしい状態になっているはずだ。

 トリコだから、何事もなくやってのけたが、俺に出来るのか…。

「玲司の記憶が戻るかも知れない」

 鰐丸は言った。

「それでも、このまま続ける?」

 去年、かまいたちの事件で聞き込みをしていた時、鯖丸が言っていた言葉が甦った。

『思い出せるうちに思い出そう。俺みたいになったらダメだ』

「そうか、お前が玲司を守ってたんだな」

 鯖丸を本名で、それも下の名前で呼ぶのは初めてだった。

「でも、あいつはもう、子供じゃないし、充分強い」

 強過ぎて、ちょっと勘弁してほしいくらいだ。

「分かってる」

 鰐丸は、俯いた。

「でも、記憶が戻ったら、俺達が居る意味は無くなる」

 鰐丸の隣に、子供が居た。

 やはり見慣れた顔だが、まだ幼い姿で、鰐丸の手を握って、じっとこちらを見上げている。

 三人居るとは聞いていたが、こんな子供だとは思わなかった。

「待て、記憶が戻ったら、お前達が居なくなるみたいな言い方だが」

 その方がいいに決まっているのに、何だか寂しい気がした。

「どうなるか分からない。何事もなくこのままかも知れないし」

 暁は言った。

「最後まで見てれば、分かるよ」

「最後まで…」

 薬物の過剰摂取で、明らかにおかしくなっている連中に囲まれて、手足をばたつかせながら泣きわめいている少年を見た。

 やめてとか、許してとか言う類のセリフは、一切なかった。

 辛うじて聞き取れたのは「お前ら全員殺してやる」だ。

 昔から、こういう性格だったらしい。

 一人目か二人目辺りまでは、暴れながら叫び続けていたが、もう、そんな力も無くなったのか、ぐったりと動かなくなった。

「いや…無理」

 暁と、もう一人の子供を押しのけて、ジョン太は前へ出た。

「もう終わった事だって云うのは分かってるけど、こんなの最後まで見てられるかよ」

 助けるのは簡単だ。

 ただ、ここでそんな事をしたら、どうなるのか本当に分からない。

 もう一回接続事故起こしたら、俺、本気で壊れるだろうなと思った。

 無事に済んでも、リンクに失敗したら、鯖丸本人にめっちゃ怒られる。

 いや待て、リンクが繋がるまでやるとか言ってなかったか。

 そうなったら、悪魔将軍様に、やり殺されるー。

「くそっ、後の事なんか知るか」

 現実と同じ速さで動けた。

 子供を囲んでいる人垣を振り払い、両手を押さえつけている二人を、壁に投げ飛ばした。

 ああ、本気でひどい事になってる。

 寄って集って、薬物の処方ミスでオーバードーズになった連中にレイプされて、もう、現実を把握するのも諦めた子供が、虚ろな目で天井を見上げていた。

 いや、待て。こいつ、どんなひどい目に遭っても、そういうキャラじゃないだろ。

 ぼんやりと、宙を見上げていた鯖丸と、目が会った。

 ふいに、虚ろだった目に、暗い光が灯った。

 子供とは思えない様な、凄い表情で笑った。

 無防備になっているテロリストの背後で、中身が空の重装宇宙服が自立していた。

 開いたシールドの中から伸びたケーブルが、いつの間にか子供の首筋に繋がっている。

 確かに、トラブルがあった時の為に、ケーブルは在る程度伸ばせる仕様になっている。

 操作に慣れた者なら、着用していなくても、有線接続していれば、動かす事は出来る。

 こいつまさか、ケーブルを拾う為に暴れてたのか?何てガキだ。

 惨殺が始まった。

 今の今まで、テロリスト達を殺したのは、暁だと思っていた。

 本人も、周りの人間も、皆そう思っていたはずだ。

 実際は違った。

 有線接続のロボットと化した宇宙服が、格闘家の様な動きで、愕然としている男達を床に叩き付けた。

 熟練した動作だ。

 普段、子供同士でこういう遊びをしていたに違いない。

 悪ガキが好みそうなゲームだ。

 がつんと脇腹に衝撃があった次の瞬間、体が天井まで持って行かれた。

 背骨が折れる、嫌な感触があった。

 テロリスト側に視点が移ってしまったのか、玲司が見境無く暴れているせいなのか、もう分からない。

 床に叩き付けられた目の前に、滑り止めのラバーが付いた重装宇宙服の足の裏が迫った。

 頭蓋骨が潰れるのが分かった。

 まだ意識があるのは、現実ではないからだ。

 暁が、こちらに来ようとしていた。

「来るな。いいから、好きなだけ暴れさせてやれ」

 自分の体が、どこにあるのかもう分からない。

 床に座り込んで、狂った様に笑い続けている子供の姿が、全方向から見えていた。

 生きて動いている、最後の一人が倒れても、有線で繋がった重装宇宙服は、暴れるのを止めなかった。

 血の海の中で、もう生きていない相手を、引き裂いている。

「お前ら、よくもよくもよくもよくもよくも」

 もう、正気では無くなってしまった玲司が、俯いたままぶつぶつと唱え続けた。

「みんな死ね!」

 暴れるだけ暴れて、重装宇宙服が、やっと止まった。

 子供の視線が、入り口の方に向いた。

「お母さん…」

 動かなくなった女と、目が合った。

「嫌だぁ、独りになるのは、嫌だよぅ」

 呟いて、その場にばたりと倒れた。


 一瞬だったが、意識が途切れていた。

 次に目を開けると、視点が元に戻っていた。

 目の前に鯖丸が居た。

 もう、子供の姿ではなくて、現実の武藤玲司と同じ外見になっている。

 暁と、もう一人の子供がそばに居たが、二人とも、同じだけ年月を経た姿に変わっていた。

「そうか…お前達、一人じゃ現実に耐えられなかった玲司が創った、兄ちゃんと弟だったんだな」

 辛かった時に、兄弟が居たらいいなと思った事はある。

 一人っ子なら、たいがい一度くらいは思う事だ。気持ちは分かる。

「暁は俺の兄ちゃんで、ミツオは弟なんだ」

 鯖丸が言った。

「俺、ひどいよね。都合の悪い事は、全部暁に押しつけて忘れてたのに、暁なんか居なくなればいいと思ってた」

「忘れた方がいい事の方が、多いんだよ」

 暁は言った。

「お前が思い出したいなら、止めないけど」

 鯖丸は、うなずいた。

「うん、記憶は全部戻して。もう平気だから」

 暁が、優しい顔で笑うのを、初めて見た。

「じゃあ、行け。もう、戻って来るなよ」

 鯖丸は、ジョン太の手を握った。

「うん、今までありがとう、お兄ちゃん」


 獣の姿が、いつの間にか変化していた。

 ジョン太と、ほとんど同じ姿で、こちらを見ている。

「出て来なよ」

 鯖丸は言った。

「それとも、俺が引きずり出さないとダメ?」

「いや…」

 ジョン太は、首を横に振って、床だけが残った鉄の檻から、ゆっくりと外へ出た。

 森の中のやわらかい下草を踏みながら、二歩、三歩と歩いた。

「こんな暗い所、早く出よう」

 鯖丸は、先に立って歩き出した。

 前方に、明るい空が見えている。

「けっこう好きな場所だったんだけど」

 辛い事がある度に、ここへ来て泣いていた子供の姿が見えた。

「さすがに長く居過ぎて、飽きたな」

 少し歩くと、突然視界が開けた。

 森を抜けて川辺に出ている。

 明るくて、気持ちのいい風が吹いていた。

「そうか、現実ではこの場所、もう無かったんだよなぁ」

 懐かしそうな口調だ。

 鯖丸は振り返った。

 ダークブロンドの白人の男が、眩しそうに目を細めて川を見ていた。

 一見してハイブリットだという事は分かるが、普通の人間とあまり変わらないタイプだ。

 体格以外、外見に共通点は無かったが、ジョン太だという事は分かった。

 そうか、何かの具合で原型に近いタイプにならなかったら、こんな外見だったんだな。

 鯖丸は、ジョン太の方に手を伸ばした。

「リンク繋いで、戻ろう」

「ああ」

 ジョン太は、鯖丸の手を取った。

 すうっと、変わっていた外見が、元の姿に戻った。

 何の抵抗もなく、きれいにリンクが繋がって、二つの空間にラインが通った。

 接続事故とは全く違う、柔らかい抵抗感があって、二人は現実に戻った。


 現実で、自分がどういう状態になっているか、ジョン太はすっかり忘れていた。

 身体感覚が分からなくなる程、深い場所まで潜らなければ、お互いリンクを張れなかったのだ。

 鯖丸も、忘れていたらしく一瞬戸惑ったが、すぐに何事もなかった様に続きを始めてしまった。

「いや…待て。リンク張り終わったのに、続ける意味あるのか、お前。嫌ーやめてぇ」

 鯖丸が、全然お願いを聞いてくれないので、仕方なく終わるまで付き合う事にした。

 くそっ、調子に乗りやがってこのガキ。あとで絞める。

 普通に腕力で振り払って逃げればいいのに、おっちゃんもだいぶ変だ。

 結局最後までやって、二人で仲良くベッドに横になった。

 どう見ても、ええ感じのゲイのカップルだ。

「どんな感じ?」

 鯖丸は聞いた。

「最悪だ」

 ジョン太は答えた。

「魔法使えそうか、聞いてるんだけど」

 おぢちゃん、最初の目的も忘れるくらい、心身共にダメになっている。

「うーん」

 手の平を目の前にかざして、ぎゅっと握り込んで力を入れてみた。

 奇妙な手応えがあった。

「何となくやれそうだが、ここで思い切り使ってみるのも危ないしなぁ」

「別に、攻撃魔法使ってみなくてもいいじゃん。回復系とか」

「何が悲しゅうて、魔法使いになって一発目に魔法使う相手が、自分のケツなんだよ」

 ジョン太は、怒鳴った。

「ごめん、ついノリで」

 鯖丸は言った。

「嫌なら逃げるかと思って」

「そうだった…」

 今頃気が付いて、呆然としている。

 起き上がって、何か首をかしげながら一点に意識を集中した。

 暗い部屋の中で、魔法が発動する時の軽い振動があった。

 ジョン太は、ほっとため息をついた。

「ああ、使えるみたいだな」

 使えなかったら、バカがもう一回とか言いかねない。

「後は、明日確認しよう。今日はもう寝るよ、俺は」

 よろよろベッドを降りて、バスルームのドアを開けた。

 明かりは、さっき点けた時の様に力を入れなくても、指先で触っただけで簡単に灯った。

 ええー、晩飯は?とか文句を言っていた鯖丸は、ドアを閉めかけたジョン太に忠告した。

「中までよく洗っときなよ。後でえらい事になるから」

「嫌な忠告、ありがとうな」

 げっそりした気分でシャワーのハンドルを捻って、言われた通りによく洗っておく事にした。

 回復魔法をかけたので、痛みはないが、まだ異物感があって嫌な感じだ。

 もう一回乾かすのは面倒だが、全身に熱いシャワーを浴びて、さっぱりしてから寝たい。

 赤いマークの付いている方にハンドルを回した。

 いつまで経っても、ぬるま湯しか出ないので、熱い方に全開にしたが、温度が変わらない。

 外界と違って、安定してお湯を出すシステムが使えないのだろうが、今は、もうちょっと熱いお湯を使わないと、落ち着かない感じだ。

 そう云えば、俺の魔法って火炎系だったな…と、ジョン太はいらん事を思い付いた。

 温めればいいんじゃないのか、これ。

 シャワーを浴びながら、壁に付けられた金属の配管パイプを握った。

 ちょっとだけ…。

 力を込めた瞬間、失敗したのが自分で分かった。

 微調整が出来ない。

 いきなり熱湯が噴き出した。


 うぎゃーというジョン太の悲鳴が聞こえたので、鯖丸は飛び起きた。

 一体、何しでかしてるんだ、あのおっちゃんは…。

 手探りでバスルームのドアを開けると、眩しいくらいに明かりが点いていた。

 狭いユニットバスの中は、水蒸気が充満して、煙っていた。

 慌てて、ハンドルを捻って、水を出そうとしている男と目が合った。

「お湯にしたかったのに。熱い、最悪だ」

 壁に蹴りを入れて怒っている男を、ぼんやり見た。

「ええと、ジョン太…?」

 疑問形で言ったのは、見た事もない男が目の前に居たからだ。

 金髪で青い目の中年男が、水の出始めたシャワーを浴びて、ほっとした表情で肩を落としている。

 微妙に北欧系の顔立ちで、けっこうハンサムだ。

 初めて見る顔だが、なぜか見覚えはあった。

 ついさっき、リンクを繋ぐ時に見た、別の姿になってしまったジョン太だ。

 現実でもう一回見る事になるとは、思わなかった。

 そうか…拓真って、みっちゃんにあまり似てないと思ったら、父親似だったんだな。

「ああ、何かもうちょっと微調整出来ると思ったんだけど…」

「慣れたら出来るよ」

 鯖丸は言った。

「それより、ちょっと鏡見てみな」

 ジョン太は鏡を覗き込んだ。

 知らない奴が居たので飛び下がったが、様子を見て、鏡に向かって手を振ったり、変なポーズを取ったりして、鏡の中の男と自分が連動しているのに気が付いた。

「ええと…」

 しばらく考えた。

「疲れてるんだな、俺。幻覚が見える」

 バスタオルを持って、風呂を出た。

 無かった事にするつもりらしい。

 体を拭きながら、暗い部屋の中を二三歩あるいて、何かにぶつかって転んだ。

「ええ?何でこんなに暗いんだ。どうなってんだよ、これ」

 それは、自分で照明を壊したからじゃないかと言いかけて、鯖丸は止まった。

 確かに、普通の人間には暗いが、この程度ならジョン太には見えていたはずだ。

 まさか、身体能力まで普通になっちゃったのか?

「まぁいいか、一晩寝たら元に戻ってるかも知れないし」

 こんな暗い所でごちゃごちゃもめるのも面倒くさいので、自分もちゃっちゃとシャワーを使って、バスルームを出た。

 照明の点くバスルームのドアを開けっ放しにして、脱いだシャツとトランクスを拾った。

「ジョン太、ちょっとそこ避けて。俺ももう寝る」

「お前、晩飯は?」

 ベッドに座り込んで、ぼんやりしていたジョン太は聞いた。

「眠いから、もういい」

 一年中愛用している、一週間大丈夫なTシャツを着込んで、さっさと布団に入ってしまった。

 あっという間に寝息が聞こえ始めた。

 きっと、急に魔力が上がったから、何か変な感じがするんだな。うん、そうだ。そう言う事にしよう。

 ジョン太は、鯖丸の隣にごそごそ潜り込んで、寝る事にした。

 たぶん、中々寝付けないだろうと思っていたのに、意外なくらい早く、眠りに落ちた。


 翌朝、鯖丸はジョン太の叫び声で目を覚ました。

 自分の隣で、ジョン太がベッドの上に体を起こして、自分の両手を見つめたまま、英語で何か怒鳴っている。

 ああ、やっぱり昨日のままだなぁ…と、眠い目をこすりながら、鯖丸は思った。

 大体、ジョン太の奴、何で全裸で寝てるんだよ。

 絵面的には、本気でええ感じのゲイのカップルになって来た。

「どうなってんだ、これ。毛皮がねぇ。お前か?お前が刈ったのか」

「そんな訳ないだろ」

 鯖丸も、ごそごそ起き出した。

「まぁ、顔でも洗って、落ち着いたら?」

 昨夜から照明が点きっ放しのユニットバスに入って、洗面台を覗き込んだジョン太は、悲鳴を上げた。

「うわー、夢じゃなかったー」

 鏡の中をしげしげと見てから、自分の全身を確認した。

 東洋人に比べれば毛深いが、全然毛皮ではない。大体、毛の色も違う。

「えらい事になったなぁ、若い頃のじいちゃんそっくりじゃねぇか」

 何か、集中して元に戻ろうとしている様子だったが、鯖丸の方を見た。

「お前、あの鬼丸からさくっと元に戻るやつあったろ。あれ、どうやってるんだ」

「勝手に変な名前、付けるなよ」

 ズボンとトレーナーを着込んでいた鯖丸は、ぼやいた。

「ええと、何て言うか、内側に折りたたむ感じ…?」

 そんな説明じゃ、全然分からん。

 バカに聞くんじゃなかった。

「まぁ、自分で出来なかったら、後でトリコがどうにかしてくれるんじゃないの」

 そうかも知れないが、この姿でいきなり出て行って、俺だって分かるか?

 ジョン太は、とりあえずこの場は諦めて、顔を洗って歯を磨き始めた。

 だから、何で裸なんだよ、このおっちゃんは。

 色々ショックな事があって、気が回らなくなっているのか、普段の生活が丸出しになってしまっている。

 顔を洗って出て来たジョン太は、鯖丸を見て、あれ…という表情をした。

「お前、そんな顔だったかな」

「こんなだよ。ジョン太、昨夜暗い所で見えてなかったじゃん。目も悪くなったんじゃないの」

「いや…前より良く見える。何か、物が鮮明に見える。特に、近くの物がはっきりしてて、気持ち悪い」

 見慣れた顔を、しげしげと近くから見た。

「お前、抜糸しないで回復魔法かけるから、額の傷が変な事になってるぞ」

 鯖丸は、自分の額に触った。

「ええ、どうしよう」

「後で糸抜いてやるよ」

 そうか、遠距離射撃能力や暗視能力を上げる為には、視覚の別の部分が犠牲になっていたのかも知れないな…と、思った。

 鯖丸が、変な顔をしているのに気が付いたジョン太は言った。

「お前、俺が時々眼鏡かけてるから、老眼だと思ってただろう」

「うん、実は思ってた」

 鯖丸はうなずいた。

「ところでジョン太、そろそろ服着たら?」


 ジョン太が身形を整えて居る間に、鯖丸はいつも通り、素早く顔を洗って歯を磨いてヒゲを剃った。

 部屋に備え付けの安全カミソリを、ジョン太の方に寄越した。

「その、微妙な無精ヒゲは、剃っとく?」

 ジョン太は、自分の顔をなでた。

 顔の形が変わってしまっているので、けっこう違和感はあるが、顔の毛の事は、自分では気にならない。

「どうだろう。見苦しいならそうするけど、後で元に戻った時、この辺だけ毛が無くなったりしないかな」

「うーん、分からないけど、見苦しいという程でもないよ」

「じゃあ、いいか」

 髪の毛は、少し気になるのか、手櫛でかき上げてちょっと整えている。

 全体として、まぁきっちりしているとは言えないが、だらしない程でもない。

 ハリウッド映画に出て来そうな、ちょっとくたびれた感じの刑事とか、そんな感じだ。

 ガンベルトを手早く装備して、いつもの格好になったが、姿形が違うので、全然印象が違う。

「皆は、芦屋の常宿だって言ってたけど、場所知ってる?」

 鯖丸は聞いた。

「ああ、何度か泊まってる。けっこう距離があるから、車使おう。お前、ランエボのキー、持ってたよな」

 ヨシオ兄さんから、預かったままになっている。

 鯖丸はうなずいた。

「じゃあ、出よう」

 いつも通りに支度を終えて、二人は部屋を出た。


 受付には、若い娘が居た。

 置物の様なじいちゃんと交代したらしい。

 照明のスイッチ、壊したんだけど…と言うと三千五百円請求された。

 何を基準にした値段か、全く分からない。

 一応、領収証をもらってベルトの物入れに仕舞ったジョン太は、入り口の戸を開けて、外へ出た。

 あっという間に、まるでバリヤーにはじき返される様に、戻って来た。

「何だ!」

 鯖丸は、刀に手をかけて、外へ飛び出した。

 何事もない朝の光景があった。

 魔界とはいえ、けっこう都会なので、普通に出勤したり、仕事を始めている人々が行き交っている。

 クリスマスの飾り付けが所々にあるのも、外界と同じだ。

 出現したのが二十数年前なので、四国の魔界の様に、古いスタイルの生活は残っていない。

「何もないよ、ジョン太」

 鯖丸は振り返った。

「寒い」

 ジョン太はうなった。

「毛皮が無い奴って、こんなに寒いのか」

 そりゃあ、寒いだろう…と、鯖丸はジョン太の服装を見た。

 夏も冬も、全く同じシャツとズボンを身に着けているだけだ。

 おまけに、習慣でシャツの袖をこち亀の両さんみたいに捲ってしまっている。

「今年は寒波が来てるらしいよ」

 白い息を吐きながら、鯖丸は歩き出した。

 一年中適温のコロニーで育っていても、地球に来て六、七年も過ぎれば、暑さ寒さには慣れて来る。

 この場合の慣れるというのは、体が慣れるだけではなく、服装で温度調節する技術の向上だ。

「その辺で服買えば?」

「そうする」

 近所に、高架下の商店街があった。

 まだ、半数以上の店は開いていないが、早朝から営業している店も、ぼつぼつあった。

 昔ながらの、いかにも用品店という感じの店で、ジョン太は、サラリーマンのおっちゃんがスーツの下に着そうな、暗い灰色のセーターを手に取っている。

 もっと考えて選べよ…と思ったが、サイズが合うのはそれだけらしく、色は何色でも、どうでもいいらしい。

「上着も買えば?セーターだけじゃ寒いだろ」

「なるほど」

 世間体以外の理由で、服を着た事のないジョン太は、忠告に従った。

 地味なジャケットしか売ってないので、本格的に、うらぶれた渋い刑事物の主役みたいになって来た。

 じゃあ行こうか…と鯖丸は店を出ようとしたが、ジョン太は、下着関係のワゴンをじっくり見ている。

「なぁ鯖丸。腹巻きって暖かいかなぁ」

 うろんな事を言い始めた。

「知らないよ」

 ダメだ、こいつ本物のおっさんだ。

 おまけに、店のオヤジが、今時ステレオタイプのコントでしか見かけないパッチとシャツを出して来た。

 全部着用したら、立派なバカボンのパパが出来上がる仕組みだ。

「ジョン太…それはちょっと引く」

 某ユニクロのヒートテックタイツ(黒いやつ)でも着用は躊躇われる若者は、言った。

「うるせぇ、俺は今人生一寒いんだよ」

 おっちゃん、世間体とか気にしている余裕がない。

「そう…朝からあれだけど、うどんとか食って行く?ぬくいし」

 鯖丸は聞いた。


 服を重ね着して、きつねうどんをすすったせいか、ジョン太は急速に元気になった。

 走っている間に、車の暖房も効いて来たので、快適だ。

 うどんでは当然足りないらしく、いつの間に買い込んだのか、串カツをくわえたまま運転しながら、鯖丸は聞いた。

「ジョン太も要る?」

 袋の中に、ソースをかけた串カツが紙に包まれて無造作に入っている。

「お前、朝からよくそんな脂っこいもん食えるな」

 ジョン太は呆れたが、一本だけもらうわ…と言って、袋に手を突っ込んだ。

 さっくり揚がっているので、意外と食える。

「蓮根かよ。肉食えよ、肉」

 袋ごと寄越して来た。

 運転しながらなので、衣のかすをぼろぼろ食いこぼしている。ランエボ台無しだ。

 ヨシオ君が見たら泣く…と思ったが、そう言えばあいつもお好み焼き食ってたなぁ…と、思い出した。

 ダッシュボードと後部座席には、包み紙やコーヒーの空き缶が放り出されているし、灰皿には吸い殻が満杯になっている。

 だらしないなぁ、本社の奴らは。掃除しろよ…。

 ため息をついて、車内に落ちていたコンビニ袋にゴミを拾って入れているジョン太を、鯖丸は横目で見た。

 動作も言動もジョン太なので、特に違和感はないが、外見だけ見ると別人だ。

「やっぱり、変かな」

 本人の方が違和感があるらしく、聞いた。

「うーん、変じゃないけど、何て言うか」

 鯖丸は言った。

「ジョン太、本当に外人だったんだなぁ」

「最初からそう言ってるだろ」

 ジョン太はぼやいた。

「ちょっと聞いてもいい」

 指示された通り、穴の周辺を避けて、遠回りで芦屋方面に向かいながら、鯖丸は言った。

「何だ」

「何で、国連宇宙軍に居たのに、四国の田舎で便利屋やってるの。元々日本人だって言うなら、分かるけど」

「ばあちゃんが日本人だから」

 それは、前にも聞いた。

 説明になってないという表情をされたので、ジョン太は諦めて事情を話した。

「ほら、俺って退役する時、けっこう酷い状態になってただろ」

 リンク張ったんだから、見たはずだという口調だった。

「面倒見てくれる人が居ないと、日常生活もまともに出来ないから、じいちゃんとばあちゃんが居る所に移されたんだよ」

「あ…ご両親は居ないんだ」

 悪い事を聞いたという感じで、鯖丸は言った。

「居るよ。まぁ、忙しい人達だから、あちこち飛び回ってるけどな」

 今まで、突っ込んだ話を聞くのも何だか悪い気がしたので、その辺の話題に触れるのは止めていたのだが、そろそろ付き合いも長いし、リンクも張ったので、もういいだろうと思って、聞いてみた。

「ジョン太の両親って、何やってる人なの」

「うーん、バイオ関係の会社やってる。子会社もいっぱいあって、色々大変らしいよ」

 予想もしない事を、言い始めた。

「俺は、そういうの興味ないし、向いてないから家業は継がなかったけど」

「ええぇ、お坊っちゃまかよ、ジョン太」

 強面っぽく見えて、実はすごくいい人だったり、すれている様に見えてへたれだったり、微妙なキャラクターの理由が、ちょっと分かった。

「まぁ、そこそこ育ちはいいかな」

 社長の御子息が謙遜していらっしゃる。

「オヤジとお袋とは、もう何年も会ってないなぁ。美織が生まれた時に、見に来てくれたのが最後かなぁ」

「そうなんだ」

 どうコメントしていいか、分からない。

「お前こそ、何で四国に居るんだ。宇宙からの帰国子女が定住するには、微妙な場所だろ」

 逆に、ジョン太に聞き返された。

「叔父さんが居たから」

 言いにくい事らしく、微妙な表情になっている。

「父さんの弟で、親戚って、他に居なかったんだけど…俺もあの頃は悪かったし、暁も遠慮無く出て来てた頃だし」

 手に負えなかったらしい。

「高校までは、寮に入ってて、生活費も学費も、出してもらってたんだけど、もう面倒見きれないって言われて」

「よくそんなで進学しようと思ったなぁ、お前」

 何となく呆れた。

「どうにかなるかと思って」

 うちに面接に来た時には、ほぼどうにかならなくなってただろうが…この子は全く。

「お前って、何か将来大物になりそうな気がして来た」

 ジョン太は言った。

「ならないよ。普通に就職して、普通に家庭を持って、平穏に暮らす予定だから」

 大物が小市民を目指すと破綻するぞ…と内心思ったが、気の毒なので言わない事にした。

「そうか。まぁ、無理はするなよ」

 自分の事を普通だと思い込んでいる、変なおっちゃんに言われたくないなぁ…と、鯖丸は思った。

 お互い様だった。

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