第142話 まだ焼かない二枚
タクミは、最初の一枚をガレスの皿へ置いた。
「明日の飯は、これにするのか」
「はい。当番の皆さんが、休憩中に食べやすいものをと思って」
十六日目の夜。厨房には大鍋の火と、試作を焼くための小さな火が残っていた。
豆と穀物の焼き物は、片手でも食べられるよう小さくしてある。
冷めた時に固くなりすぎないか、ガレスとルッツに見てもらっていた。
ガレスが半分に割る。
「粉を少し減らせ。汁を飲む暇がない奴もいる」
「分かりました」
ルッツは冷ました方を食べた。
「香草は、少なめがいいと思います。冷めると、少し強く感じます」
タクミは粉と香草を減らして配合を書き直した。湯を少し足し、二度目を焼く。
今度は持ち上げる前に、縁が乾くのを待った。柔らかくしすぎれば籠の中で崩れる。固ければ、疲れた人が噛み切れない。
ルッツが一枚を布の上へ置く。しばらく触れずにいたが、やがてガレスへ顔を向けた。
「陛下が食べられるようになったら、何を用意すれば」
ガレスは鍋をかき混ぜる手を止めた。
「……まず、何なら食えるか聞く。それからだ」
いつもなら、次の指示がすぐに続く。今夜は、鍋の煮える音だけが残った。
ルッツは頷き、布の上の一枚へ目を戻した。
「冷めた方は、俺が見ます」
タクミは次の一枚を焼き始めた。
冷ました分を、ルッツが片手で持ち上げる。崩れずに噛み切れた。
「これなら、匙を持たなくても」
タクミは書き直した分量に丸をつけ、大きさと焼き時間も添えた。
自分一人で全部を焼く予定にはしなかった。明日は呼ばれたら厨房を離れる。
離れても食事が止まらないよう、誰でも分かる場所へ紙を留める。
ミアがイレーネと一緒に、空いた籠を運んできた。焼き上がったものを覗き込み、タクミに尋ねる。
「これ、籠に入れるの?」
「はい。明日の朝、当番の皆さんへ届ける分です」
「私も運べる?」
「籠に並べるのを、手伝ってくれますか。熱い鍋を運ぶのは、大人に任せて」
ミアは籠を卓へ置き、少し場所を直した。
邪魔にならず、誰でも手を伸ばせるところだった。
「陛下も、明日これ食べる?」
ミアの問いに、タクミは答えかけて口を閉じた。
イレーネがミアのそばへしゃがむ。
「明日すぐに食べられるかは、まだ分からないの。治療をしながら確かめるわ」
「……じゃあ、陛下の籠は、あと?」
「ええ。必要になったら、一緒に用意しましょう」
ミアは空の籠を見つめてから、小さく頷いた。
タクミも、明日には食べられると答えたかった。
中継鏡を片づける前に、エスペルたちからの伝言が届いた。
遺跡での実験記録の写しは、帝都の治療班へ送った。原本は帰る時に持っていくという。
続く文は、エスペルからだった。
『帰還の術式は、無理に動かしてない。そっちも、飯抜くなよ。明日のことが終わったら、声を聞かせてくれ』
返事を書こうとしたタクミへ、ガレスが皿を押した。
「先に、言われた通りにしろ」
タクミは試作の焼き物を口へ運んだ。縁は軽く、中は豆がほぐれる。
自分で思っていたより空腹だった。
食後、オルガが最終の確認表を持ってきた。
受け石と放流先の準備を終えた欄には、担当者の署名があった。治療班の配置にも、確認の印が並んでいる。
タクミは、自分が待つ隣室と、知らせに来る人の名をもう一度読んだ。
「オルガさんは、怖くないんですか」
オルガの手が、頁の端で止まった。
「怖い」
短い返事だった。
「陛下を保っている固定に、こちらから手を加える。間違えれば、取り返しがつかない」
タクミは顔を上げた。オルガは確認表を見たまま続けた。
「だが、このままでは目を覚まさない。……もう一度、陛下の望みを聞きたい。そのために、ここまで確かめてきた」
確認表には、何度も書き直した跡があった。治療班の署名の下にも、最後に範囲を狭めた修正が残っている。
最後の頁には、帝都の外の流路図も残っている。
タクミはその頁を閉じなかった。
「彼女を救えた後も、各地の流れを直す仕事は残るんですね」
「ああ。陛下を、魔力を受け続ける役に戻さないためにもな」
オルガは、流路図に各地から届いた観測紙を添えた。
タクミは厨房の向こうを見た。
明日の鍋は、ガレスたちが見てくれる。自分が呼ばれて出ても、火は消えない。
もう一度、彼女とこの場所へ来たいと思った。
「明朝、最初の確認に入る」
「はい」
オルガが確認表を閉じると、タクミは明日の分の粉を量り始めた。
◇◇◇
厨房をガレスたちに任せ、寝る前にシィルヴィアの部屋へ行った。
寝台のそばには、椅子が一つ置かれていた。明日は動かすので、今夜だけの場所だ。
タクミは座り、何も入っていない両手を見た。
今の彼女へ、食事を運ぶことはできない。
「明日、固定を解き始めます。一つずつ確かめながら、進めてもらいます」
彼女の表情は変わらず、指も動かなかった。
明日、彼女の声が聞けるかもしれない。
そう思うたび、嬉しさより先に、息が詰まった。固定を解けば、止まっていた傷も動き出す。
今こうして目の前にいる彼女を、失うかもしれない。
タクミは膝の上の両手を握った。
「……怖いです」
眠ったままの彼女へ、初めて口にした。
「でも、また、何が食べたいか聞きたいです」
返事を急かすようで、それ以上は言えなかった。
廊下から交代の声が聞こえるまで座り、少しずつ指を開いた。
「目が覚めたら、まず、ただいまって言わせてください」
その先に、食べたいものを聞く朝があってほしい。
約束した卵料理の、最初の二枚をどう焼くかも、その時に。
扉を閉める前に、タクミはもう一度だけ寝台を見た。
「おやすみなさい」
今夜は、眠るために自分の部屋へ戻った。明日、呼ばれた時に動けるように。
廊下の向こうでは、夜番が受け石の数値を読み上げていた。
読み上げた値を、次の当番が復唱した。
タクミは自分の部屋で、明日着る調理着を寝台の脇へ置いた。袖が裏返っていたので、直しておく。
横になっても、すぐには眠れなかった。廊下を誰かが通るたび、目を開けた。
それでも起き上がらず、布団の中で息を吐いた。明日、彼女のそばへ呼ばれた時に、ちゃんと立てるように。
もう一度、目を閉じた。
(第8章・了)




