エピローグ
◇
その平穏は、あまりにも唐突に、そして酷く不躾に破られた。
ある日の午後、館を囲む森の結界が、悲鳴のような鋭い音を立てて弾け飛んだ。
「なにごと……!?」
書庫で魔導書を読んでいたリリスは、異変を察知して即座に立ち上がる。背後に控えていたラファエルの顔から、一瞬にして全ての温度が消え、紺碧の瞳が冷徹な暗闇へと変貌したのを、リリスは見逃さなかった。
2人が館の玄関ホールへ向かうと、そこには結界を無理やり食い破って侵入してきた、数人の男女が立ち尽くしていた。
衣服はボロボロに裂け、泥と汗に汚れ果てているが、その生地自体は一目で最高級のものと分かる豪奢なもの――隣国の貴族たちだ。彼らは飢えた獣のような悲壮な顔で、狂乱寸前の目で辺りを見回していた。
「おい、お前がここの魔女か! 頼む、助けてくれ! 追手が来ているんだ、金を払えば結界の中に隠して――」
先頭の男がリリスに掴みかかろうと、汚れた手を伸ばす。
その瞬間、リリスが指先を動かすよりも早く、凄まじい風圧とともに一本の銀のナイフが男の足元へ突き刺さった。
「――それ以上、我が主に近づくな」
背後から響いたのは、これまでリリスが聞いたこともないほど、低く、冷酷で、背筋が凍るような声だった。
ラファエルが音もなくリリスの前に立ち、彼女を庇うように遮る。その手には、お茶を淹れる時のような優雅さで、別の投擲用ナイフが握られていた。
「なんだお前は、ただの執事の分際で私に――」
言いかけた男の言葉が、ひゅっと喉の奥で引き攣った。
男の背後にいた他の貴族たちが、ラファエルの顔を正面から見た瞬間、まるで地獄の閻魔でも見たかのように顔面を蒼白にし、ガタガタと歯の根を鳴らし始めたのだ。
「ひっ、あ、あああ、あ、お前、お前は……っ!!」
「何を怯えて――」
「違う、違うぞ、あいつはただの執事なんかじゃない! なぜ、なぜここにいる……! 数年前、我が国の王城をたった一晩で血の海に変え、上層部を一人残らず惨殺して国を滅ぼした、あの『血塗れの騎士団長』……!!」
悲鳴のような絶叫が、静かな館のホールに木霊した。
「え……?」
リリスは目を見開いた。血塗れの騎士団長? 国を滅ぼした?
「あの日、王族が『森の魔女を捕らえて兵器にせよ』と極秘命令を下した、その夜だ……! こいつはたった一人で反旗を翻し、城にいた者を全員、文字通りミンチにしやがった……! 国の『最高の栄光』と讃えられた男が、悪魔に魂を売ったんだ……!!」
男は涙と鼻水で顔を汚しながら、恐怖のあまり床にへたり込む。
「あいつが上層部を全滅させたせいで、国は崩壊した……! 統治者を失った国で、俺たちがこの数年間、暴徒や敵国にどれだけ追われ、狩られ、地獄を見てきたと思っている……っ! なのに、なぜ、お前がそんな、のうのうと魔女の執事なんかをやっているんだ……!!」
リリスの頭の中で、全てのピースが音を立てて繋がっていく。
数年前、この館の前に倒れていた彼の、あの無残な全身の傷。一国を相手にたった一人で負ったものだったなら、全ての辻褄が合う。
貴族たちが数年間地獄の逃亡生活を送る一方で、その元凶であるラファエルは、リリスの側で完璧な執事として幸福に暮らしていたのだ。
「ラファエル……、あなた、一体……」
リリスが震える声でその名を呼ぶ。
ラファエルはゆっくりとリリスを振り返った。その顔には、数年間リリスに向けていたあの「優しく穏やかな微笑み」が、何事もなかったかのように張り付いている。
「リリス様、少々、騒々しい羽虫が迷い込んでしまったようです」
ラファエルは優雅に一礼する。だが、その紺碧の瞳の奥にあるドロドロとした狂気は、もう隠しきれていなかった。
「お耳汚しをしてしまい、申し訳ありません。すぐに……あの日と同じように、片付けてまいりますね」
冷たい笑みを浮かべたまま、ラファエルが貴族たちへ歩み寄る。
数年間、信じて、頼って、愛してきた「優しい執事」の、それが隠されていた本当の姿だった。
◇
ラファエルが貴族たちを館の外――庭へと引きずり出し、彼らを結界の外へと完全排除するのに、大した時間はかからなかった。
再び、館に静寂が戻る。
ホールに残されたリリスは、あまりの衝撃に足が震え、壁に背を預けて立ち尽くしていた。数年間信じていた「穏やかで優しい執事」の、血塗られた真実。一国を壊滅させた男が、今、自分のすぐ側にいる。
パタパタと、いつも通りの軽やかな足音が近づいてくる。
戻ってきたラファエルの衣服には、返り血一つついていなかった。彼はいつも通りの美しい微笑みを浮かべ、リリスの前まで来ると、じわり、と距離を詰めた。
逃げられないように、リリスの頭の横の壁に大きな手を突く。物理的にも、精神的にも、数年間保たれていた穏やかなパワーバランスがひっくり返る――主従逆転の瞬間だった。
「驚かせてしまいましたね、私の可愛い主」
ラファエルは下から覗き込むようにリリスを見つめる。その紺碧の瞳は、ドロドロとした歪な狂愛に染まっていた。いつもなら優しく微笑むはずの唇が、妖しく吊り上がっている。
「あの日、私はあなた様に一目惚れしたのです。あなた様を捕らえ、実験体にしようと企んでいた薄汚い国など、私の『栄光』ごとあの日すべて踏み潰してきました。……私は最初から、あなた様だけの狂犬です。さあ、私の正体を知った今、私に怯えて、もっと私に依存してください……。あなたには、私しかいないのですから」
ラファエルは、リリスが恐怖に顔を歪め、泣きながら自分に縋り付くのを期待していた。数年間かけて、彼女が自分なしでは生きられないように甘やかしてきたのだから。拒絶されるか、あるいは恐怖に狂うか、どちらにせよ彼女を支配できると確信していた。
しかし――。
「――いい加減にしなさい、この莫迦犬!!」
バチン!!!
静かなホールに、乾いた凄まじい音が響き渡った。
リリスの右手が、ラファエルの美しい頬を完璧な角度で、全力で張り飛ばしたのだ。
「え……?」
ラファエルは叩かれた頬を押さえ、きょとんとした顔で硬直した。世界最強の騎士ともあろう男が、完全に動きを止めている。
予想していた「恐怖の悲鳴」はどこにもなかった。目の前にいたのは、肩を大きく上下させて激怒しているリリスの姿だった。
「な、リリス様……? 怖くないのですか……? 私は、国を滅ぼした人殺しで――」
「怖いわけないでしょ、あんたが私のために何をしたか、今ので全部わかったわよ!」
リリスの瞳には、恐怖ではなく、大粒の涙が浮かんでいた。それは、彼が自分のために、そんな恐ろしい大罪を背負って死にかけていたことへの、あまりの悲しさと愛ゆえの怒りだった。
「私がいつ『国を滅ぼして』なんて頼んだ!? 私は人間が嫌いだけど、あんたに人殺しの悪魔になってほしくて命を救ったんじゃないわ! なんで一人でそんな無茶苦茶なことして……死にそうになってるのよ、この大莫迦者……っ!」
ポロポロと涙をこぼしながら怒鳴るリリスを見て、ラファエルは完全に圧倒されていた。
恐怖されると思っていた。なのに、彼女は――自分の犯した罪ではなく、自分の「命」のために、本気で怒り、泣いてくれている。歪んでいたラファエルの狂気のフィルターが、リリスのビンタと涙によって、綺麗に粉々に叩き割られた。
「あ、うそ……リリス、様……」
ラファエルの目から、すう、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
壁に突いていた手が力なく落ち、彼の瞳は、あの日拾われた時の、ただの「リリスに救われたいだけの寂しい男」の目に戻っていく。
「私、は……あなた様に、嫌われたくなくて……ただ、あなた様を守りたくて……っ。私は、あなた様に捨てられたら、もう……」
一晩で国を滅ぼした伝説の騎士が、今や幼子のようにボロボロと涙を流し、その場に崩れ落ちるようにひざまずいた。リリスのドレスの裾を掴むその手は、小刻みに震えている。
「逃げるなんて許さないわよ」
リリスは涙を拭うと、ひざまずくラファエルの前にしゃがみ込み、その濡れた頬を両手で優しく包み込んだ。
「あんたの犯した罪も、その重すぎる愛も、全部私が一緒に背負ってあげるわ。……だから、もう二度と、一人で死にかけたりしないこと」
その言葉は、ラファエルが数年間の狂気の中で、一番欲しかった本物の「救い」だった。
◇
嵐のような一悶着が去り、館には再び、いつもの静けさが戻っていた。
けれど、2人の間を流れる空気は、数年前とも、さっきまでとも、全く違うものへと生まれ変わっていた。
ラファエルの歪んだ狂気は、リリスのビンタと、そして何よりも「一緒に背負ってあげる」という温かい言葉によって、綺麗に洗い流されていた。彼はもう、リリスを支配しようとする狂犬ではない。彼女の愛に魂を救われた、本物の騎士だった。
「ラファエル」
「はい、リリス様」
庭へと続くテラスの扉を開け、リリスは静かに外へ歩み出る。
後を追ってきたラファエルは、腫れの引いた頬を少し恥ずかしそうに緩めながら、いつも通りリリスの斜め後ろにピタリと寄り添った。
見渡す限り咲き誇る、高貴な紫色のトリカブト。
風に揺れるその花畑を前にして、リリスは振り返り、凛とした声で新たな命令を下した。これこそが、嘘偽りのない、2人の「本当の主従契約」だった。
「いい、ラファエル。これからは過去の罪も、その重すぎる愛も、全部私と一緒に背負いなさい。……そして一生、私の側で尽くすこと。分かった?」
リリスの男前で、どこまでも優しい宣告。
それを聞いたラファエルは、感極まったように美しい紺碧の瞳を潤ませると、迷いなくその場にひざまずいた。トリカブトの紫の絨毯の中に埋もれるようにして、リリスの足元へ傅く。
ラファエルは、足元に咲いていたトリカブトを一輪、今度は何の迷いもなく折ると、恭しく両手でリリスへと捧げ持った。
「――はい、我が主。生涯を賭けて、あなた様に御仕えします」
ラファエルはゆっくりと顔を上げ、かつてのような暗い狂気ではなく、心からの光を宿した瞳でリリスを見つめた。
「かつて、あなた様は死にかけていた私に『生』をくださいました。ですから今度は、私があなた様にすべてを捧げましょう」
ラファエルの紡ぐ低く美しい声が、紫の花畑に溶けていく。
「トリカブトのもう一つの花言葉は、――『あなたは私に死を与えた』。我が主、私の命も死も、すべてあなたのものです。この命が尽きるその瞬間まで、あなた様のお側でお守りすると誓います」
その言葉に、リリスはクスッと小さく笑みをこぼした。
「相変わらず、重たい男ね」
「お褒めに預かり、光栄です」
リリスは差し出された紫の花を受け取ると、愛おしそうにラファエルの銀の髪を撫でる。ラファエルは嬉しそうに目を細め、彼女の手に頬を寄せた。
人嫌いの魔女と、国を滅ぼした元騎士。
2人が紡ぐ日々は、これからもこの静かな森の奥で続いていく。猛毒のトリカブトが健やかに咲き誇る庭で、立場を超えた深い絆と、本物の愛に満ちた幸せな笑顔とともに。
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