プロローグ
◇
(人間なんて、みんな死んでしまえばいい。)
深い深い森の奥、外の世界を拒絶した黒い館で、魔女リリスはいつもそう思って生きていた。
人間は身勝手だ。都合の良い時だけ魔女の力を求め、恐ろしくなれば「化け物」だと石を投げる。そんな醜い生き物たちに差し出す温もりなど、リリスは一滴も持ち合わせていなかった。
だからその夜も、ただの気まぐれだったのだ。
激しい雷雨が森を叩きつけていた、数年前の、ある鬱陶しい夜のこと。
森の境界に張った結界が微かに震えた。侵入者——それも、ひどく弱り切った何かが冷たい泥の中に転がった気配がした。
「……放っておけば、明日の朝には獣の餌ね」
リリスはふん、と鼻を鳴らした。いつもなら無視するはずだった。けれど、窓を叩く雨の音が妙に騒がしく、寝付けなかったリリスは、本当にただの退屈しのぎに、館を出た。
ぬかるむ泥を踏み越え、森の境界へたどり着いたリリスは、思わず小さく息を呑んだ。
「これは……傑作ね。一体何と戦えば、人間がこんな姿になるのかしら」
そこに倒れていたのは、一人の男だった。
漆黒の甲冑は無残に砕け、隙間から覗く白い肌は、肉を裂くような剣創や、何か強力な魔術に焼かれたような酷い火傷で埋め尽くされている。銀色の髪は血と泥にまみれ、呼吸は今にも途絶えそうなほど浅い。
どう見ても、死に体の男だった。
けれど——その凄惨な傷だらけの姿にあっても、男には隠しきれない高貴さと、息を呑むような美しさがあった。
リリスは男の傍らにしゃがみ込み、冷たくなった頬に指先で触れる。
人間は嫌いだ。今すぐここで息絶えてくれた方が、世界はほんの少しだけ綺麗になる。
「……でも、これだけ綺麗な男がただの肉塊になるのは、ちょっと癪だわ」
それは、人嫌いの魔女が、生涯で初めて起こした気まぐれだった。
リリスは指先から淡い緑色の魔力を紡ぎ出し、男の胸に這わせる。彼女の特技である、薬草と癒やしの魔術。普通の人人間なら、当てられただけでその濃密な魔力に狂って死ぬが、この男の魂は、なぜか魔女の魔力を拒まず、むしろ渇望するように吸い込んでいった。
館へ連れ帰り、寝台に寝かせ、傷口を洗い、何重にも包帯を巻く。
男の熱が下がり、死の淵からこちら側へ戻ってきたのは、外の雨が上がり、静かな夜明けが訪れた頃だった。
長い睫毛が微かに揺れ、男の瞳がゆっくりと開かれる。
現れたのは、深い夜空のような、吸い込まれそうなほど美しい紺碧の瞳だった。
「……ここは……」
掠れた声が、静かな寝室に響く。男は、枕元に座って冷淡な目を向けているリリスの姿を捉えた瞬間、その美しい瞳を大きく見開いた。まるで、奇跡そのものを目撃したかのように。
「気がついたなら、さっさと出ていって。ここは魔女の家よ。命を救ってあげた恩は、二度と私の前に現れないことで返して」
リリスは冷たく言い放ち、立ち上がろうとした。
しかし、男の動きの方が早かった。
包帯だらけの体であるはずなのに、男は一切の迷いなくベッドから滑り落ちると、冷たい床の上に美しくひざまずいたのだ。
そして、リリスの黒いドレスの裾をそっと掬い上げ、恭しく頭を垂れる。
「……行き場所など、どこにもありません」
男の声は、驚くほど澄んでいて、どこか優雅だった。
「国を追われ、死を待つだけだった命です。……ですが、今、あなた様に拾われた。この溢れるほどの温かい魔力で、私を癒やしてくださった」
男はゆっくりと顔を上げ、リリスを見つめた。その紺碧の瞳の奥に、ドロリとした、熱病のような光が宿っていることに、当時のリリスは気づかなかった。
「私の名はラファエル。あなた様に救われたこの命、これからはすべて、あなた様のために使いたい。どうかここで、あなた様に傅く執事として、私を雇ってはいただけませんか」
「はあ? 執事? 面白いこと言うのね。こんな山奥で、私を守る敵なんていないわよ」
リリスが呆れたように鼻で笑うと、ラファエルはふっと、酷く美しく、酷く穏やかに微笑んだ。
「では、お茶を淹れる係でも、庭の雑草を毟る係でも。あなた様の視界の端に置いていただけるなら、なんでもいたします——我が主」
——まさかこの時、この男が「自分を害しようとした一国」を一晩で血の海に沈めてきたばかりの狂犬だとは、リリスは夢にも思っていなかった。
こうして、孤独な魔女の館に、一人の美しい執事が居座ることになった。
2人が紡ぐ、数年間に及ぶ、嘘と穏やかさに満ちた日々の始まりだった。
◇
数年の歳月は、驚くほどあっさりと流れた。
「リリス様、朝食の用意が整いました。今朝はあなた様のお好きな、ハチミツをたっぷり添えた焼きたてのスコーンでございます」
カーテンから差し込む柔らかな光とともに、聞き馴染んだ心地よい低音が耳をくすぐる。
リリスが薄い絹の毛布から顔を覗かせると、そこには数年前と変わらない、むしろさらに磨きのかかった美しい笑みを浮かべたラファエルが立っていた。
泥まみれで死にかけていた男は、今や非の打ち所がない完璧な執事だ。
彼の淹れる紅茶は一級品で、館の隅々まで埃一つなく磨き上げられている。何より、極度の「人嫌い」であるリリスが、彼にだけは寝顔を見せても眉一つ動かさないくらいには、心を許しきっていた。
「……ん、ラファエル。あと五分」
「おやおや、珍しく甘えん坊ですね。ですがスコーンが冷めてしまいます。それとも、私が口元までお運びいたしましょうか?」
「結構よ、子供扱いしないでちょうだい」
リリスはふくれっ面で起き上がると、手際よく着替えと髪の手入れを手伝ってくれるラファエルの大きな手に身を委ねた。
彼の指先がリリスの黒髪に触れるたび、どこか愛おしそうな熱が伝わってくる。リリスはそれが、数年間を共に過ごした「家族」のような愛なのだと、何の疑いもなく信じていた。
朝食を済ませた後、リリスは館の裏手にある美しい庭園へと足を向けた。
そこは、数年前にラファエルが「あなた様にお似合いの花を」と言って耕し、大切に育ててきた場所だった。
今では庭一面に、深みのある高貴な紫色の花が、まるで見渡す限りの絨毯のように咲き誇っている。
「相変わらず物讐な庭ね。よりによって、こんな猛毒の草を一面に植えるなんて」
リリスは、茎の先に兜のような形の紫の花を咲かせた植物——トリカブトを見下ろして苦笑した。魔女であるリリスは、この植物の根に、ほんの数グラムで象をも殺す猛毒が含まれていることをよく知っている。
リリスの背後に音もなく付き従っていたラファエルは、花を愛おしそうに見つめながら、静かに微笑んだ。
「お気に召しませんか? 確かにこれには触れれば死に至る毒がございます。……ですが、だからこそ、人間を嫌うあなた様の庭にはふさわしいかと。この花言葉は『人嫌い』そして『厭世家』ですから」
「私のための当てつけじゃない。よく言うわ」
「滅相もない。私にとっては、もう一つの意味の方が重要なのです」
ラファエルはリリスの前に一歩踏み出すと、紫の花を一輪、折らないように優しく指先で撫でた。
「この花には『騎士道』、そして『栄光』という花言葉もございます。数年前、あの日死にかけていた私を、あなた様はその手で救ってくださいました。私の心は、あの瞬間からずっと、あなた様のためだけに咲く騎士の兜なのです」
ラファエルの紺碧の瞳が、じっとリリスを見つめる。
その瞳の奥にある熱があまりにも深く、純粋で、リリスは少し照れくさくなって視線を逸らした。
「ふん。騎士ねえ……。こんな山奥に引きこもっている魔女に、守るべき敵なんていないわよ。あんたのその優秀すぎる剣の腕も、ここでは宝の持ち腐れじゃない?」
からかうように言ったリリスに、ラファエルはいつものように、どこまでも穏やかで優しい笑みを返した。
「いいえ。あなた様の平穏を守るためなら、私はどんなことでもいたします。私の『栄光』は、この場所であなた様にお仕えすること、ただそれだけですから」
(ええ。あなた様を脅かす不届き者は、私がすべて消し去ってきましたからね)
ラファエルは、心の中でだけそう呟き、深く頭を垂れた。
リリスがこの数年間、一度も人間の襲撃に怯えず、静かに「人嫌い」を貫けていた本当の理由を、彼女はまだ知らない。彼がときおり「買い出し」と称して館を空ける度、森の境界に近づく人間の兵士たちを、その手で跡形もなく処理していたことなど、夢にも思っていないのだ。
「……まぁ、いいわ。ラファエル、お昼はあのハーブを使ったスープにして。あんたの作るスープ、好きなの」
「かしこまりました、リリス様。お望みのままに」
◇




