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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
日本の闇の主
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対峙

 俺はマスターに鷲鷹建設の場所を聞き、今度は躊躇う事なく自分の車を使った。あれ程のワルが、俺如き小者を警戒して何か仕掛けてくるとは思えなかったからだ。結果はまさしくその通りで、スタートから二十分ほどしても、異常はなかった。取越苦労をして電車を使い、愛する妻の樹里に借金までしたのが本当に恥ずかしくなった。

 鷲鷹建設は官庁街に隣接する大企業の本社が林立している区画にあった。ビルの正面は全面ガラス張りで、目に悪いくらい太陽光を反射している。貧乏性なので、発電パネルでも着ければいいのになどと余計な事を考えてしまう。位置的に警視庁からそれ程離れていない。あのまま直行してもいいくらいだったが、それはまた無茶というものだ。


 純喫茶JINを出る時も、マスターと土方ひじかた歳子さいこさんは何も言わなかったが、ありさと坂本さかもと龍子りょうこ先生が大騒ぎしたっけ。

「ご家族の事を考えてください、杉下さん!」

 坂本先生に涙声でそんな事を言われると、以前とは違ってドキッとしてしまうが、

「生命保険の受取人は私にしといてよね。あんたが死ぬと、お給料もらえないから」

 憎まれ口を叩くありさは相変わらず可愛くなかったが、目が潤んでいたので、ちょっとだけ感動した自分が情けなかった。

「死ぬつもりはないので、ご心配なく」

 俺は泣き出しそうな先生にそう告げて、ありさを店の外に引っ張り出した。

「な、何よ、左京? 死ぬ前に私といい事したい訳?」

 照れ臭そうにそんな笑えない冗談を言うありさに呆れかけたが、

「そんな事したら、鷲鷹建設から生きて帰れても、加藤に殺されるだろ?」

「マスミンは、左京と一回だけだったら許してくれると思うよ」

 上目遣いでアヒル口になり、ありさが更にバカな事を言う。こいつ、一回脳の検査を受けさせようと真剣に思った。ちなみに「マスミン」とは芳香剤の名称ではなく、ありさの夫の加藤真澄の事だ。あまりに顔と合わない名前なので、時々忘れてしまう程だ。

「あの作戦を少し変更を加えて決行しようと思う」

 俺は真顔になってありさを見た。するとさすがにこのバカ女もふざけている場合ではないと悟ったのか、変顔をやめて俺を見上げた。

「どう変更するの?」

 俺はありさに作戦の変更点を説明し、準備を頼んだ。

「はいな」

 ありさは何故か投げキスをして、店に戻って行った。もちろん、俺はそれを素早くかわしたが。


「うん?」

 俺は鷲鷹建設の年配の小柄な警備員が俺に向かって手招きしているのに気づいた。何だろうと思い、車を路肩に寄せて停止すると、その警備員が駆けて来た。

「杉下左京さんですよね? そのまま地下駐車場へお入りください」

 にこやかな顔で告げられたので、俺は顔が引きつってしまった。来るのがわかっていたのか? 背筋に冷たい汗が流れる。

「それはどうも……」

 嫌な予感がするのを振り払い、俺は車を発進させてビルの前の緩やかなスロープを下った。やがて太陽光が射し込まない辺りまで来ると、天井の照明が路面を照らしている空間に行き着いた。そこはビルの地下とは思えないほど広大で、駐車している高級外車をどければ、少々四角いコンクリート製の柱が邪魔だが、十分サッカーの試合ができると思われた。慎重に車を進めていくと、今度は大柄の若い警備員が二人で行く手を阻んだ。ここで「始末」されるのかと思ったが、

「こちらへどうぞ」

 指し示された方を見ると、眩い光を放つエレベーターホールに続くエントランスがあった。

「お車は自分が所定の位置にお駐めします」

 運転席のドアを予告なく開けられた時はちょっとビビッてしまった。俺はその警備員に愛想笑いをし、もう一人の警備員の先導でエントランスを通り、エレベーターの前まで歩いた。階の表示を見上げると、五十階まであった。もし展望エレベーターなら、扉を見ていようと思った。高所恐怖症ではないが、恐ろしい気がしたのだ。

「どうぞ」

 警備員に促され、箱の中に足を踏み入れた。恐らく大人二十人が悠々と乗れる大きなものだ。警備員がボタンを押して扉を閉じると、あの独特のフワッとした感覚に見舞われた。これも好きではない。事務所があるビルのエレベーターとは速度が違うせいか、身体にかかるGが大きいような気さえした。

 不安は的中した。エレベーターは全面ガラス張りの壁面に沿って上昇していた。中から見ると何もないように見えるほどの透明度で、足が竦みそうだ。こういう時は隣の建物を見るのがいいらしいので、俺は向かいにあるビルを見た。だがそのビルはこちらのビルより遥かに低いため、全く効果が見込めず、たちまちその先に見えるミニチュアのような街が視界に入って来た。

「着きました」

 抑揚のない声で警備員が言ったので、俺はホッとして振り返った。開いた扉の向こうには、長い廊下がある。両側の壁には、俺には全く価値がわからない絵画が飾られている。

「ここからは私達が案内致します」

 エレベーターを降りると、そこにはまるで警視庁警備部警護課の要人警護専門の連中と見間違えそうな屈強な身体の黒スーツの男が二人立っていた。何者だろうか? ふと振り返ると、警備員がお辞儀をし、扉を閉じようとしていた。俺は乗り損なった乗客のように見えなくなっていく彼の姿を見ていた。

「どうぞ、こちらへ」

 屈強な男のうち、坊主頭の方が言った。もう一人は角刈りだ。如何にもというオーラを出しているという事は、元警察官、しかも警護任務に就いていたのだろう。鷲鷹建設が何故警察OBと深い繋がりを持つようになったのかはわからないが、彼らの立ち居振る舞いを見ると、想像以上に根深いと思えた。

「お待ちください」

 俺が目の前にある重厚な作りの大きな木製の扉のノブに手をかけようとした時、今度は角刈りが言った。

「何でしょう?」

 俺はできる限りの笑顔でそいつを見た。すると角刈りは、

「入室される前にポケットの中身を全てお渡しください」

 無表情のままそう言った。何となく癇に障ったが、逆らっても仕方がないと思い、ウィンドブレーカーのポケットから携帯電話と薄汚れたハンカチ、使用後か未使用かわからないティッシュの塊を出した。

「失礼致します」

 次に角刈りと坊主頭が二人がかりで身体検査だ。そこまで触るか、こいつらそっちの世界の住人かと思うくらい至る所をまさぐられた。

「では、お入りください」

 坊主頭がノブを回して引くと、重々しい音を立てて扉が開いた。すると部屋の中にまた部屋があるような作りになっていて、訪ね人である鷲鷹兵庫はその中にいた。そこは茶室のような作りで、畳が敷かれており、今まさに兵庫がお茶を立てているところだった。

「杉下左京様をお連れしました」

 角刈りが告げると、兵庫は茶筅ちゃせんを動かしていた手を休め、顔を上げた。一瞬肉食獣のような鋭い目つきをしたと思ったが、すぐにそれは鳴りをひそめ、柔和な顔になった。

「やっと来なさったな。トシは元気ですかの?」

 老人とは思えない程の声量に身が竦みそうになった。決して兵庫は威圧的な態度ではないし、声も恫喝するような調子ではないのだが、何故か縮み上がるような感覚に囚われてしまった。

(畜生、また呑まれそうだ)

 そんな事を思ってしまったが、ふと問いかけの内容を思い出した。「トシ」というのは誰だ?

「そうか、奴は貴方に自分の名を教えていないのですね」

 そこまで言われて、ようやくそれがマスターの事だとわかった。言われてみれば、確かに俺はマスターの本名を知らなかった。

「訊くまでもなく、奴は元気なのでしょうな。だからこそ、貴方はこうして私のところに来たのでしょうからね」

 兵庫はそう言いつつ、立てた茶を高価そうな碗に淹れ、置いた。

「そんなところに立っていないで、こちらに来てください。私は別に貴方を獲って食おうと思っている訳ではないのですから」

 兵庫は微笑んでそう言ったのだが、俺にはそれが笑顔に見えなかった。何でもお見通しという事なのだ。悪くすると、俺ばかりではなく、マスターにまで害が及ぶかも知れない。

「わかりました」

 俺は意を決して兵庫に近づき、靴を脱いで畳に上がり、置かれた碗の前に正座した。

「ここへいらしたという事は、何かを掴んだという事でしょうな?」

 兵庫はお茶受けの和菓子を載せた趣きのある色合いの黒い皿を俺の膝の前に置く。今は亡き重蔵氏の車に同乗した時より口の中の水分がなくなっているのを改めて知った。

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