日本の闇の主
あまりの衝撃に俺は呼吸を忘れそうになり、救出された海難事故の被害者のように荒々しく息をした。一体どういう事なんだ? あの一連の黒幕は鷲鷹重蔵氏ではないのか? 何故重蔵氏が死んでしまったのだ? 俺は狐につままれたような気がしてしまった。
「左京、聞いてるの?」
電話の向こうから、元同僚の平井蘭の声がまた聞こえて来た。俺は我に返り、
「ああ、聞いてるよ。今すぐに行った方がいいか?」
「ええ、そうね。あんたは一応重要参考人だから」
蘭の声は素っ気なかったが、その言葉の意味するものを俺は知っているので、自分の置かれている立場を瞬時に理解できた。要するに俺はもうすぐ容疑者に「昇格」する可能性があるという事だ。
「という事は、重蔵氏の死に不審な点があるんだな?」
俺は蘭から少しでも情報を引き出そうと思って言ってみたが、
「さあね。とにかく急いで、左京。遅くなればなるほど、あんたの立場は悪くなるんだからね」
蘭の声は相変わらずの素っ気なさで、まさに取りつく島もない状態だった。通話を終えた俺はポケットに携帯をねじ込み、ありさを見た。
「左京、疑われてるの?」
ありさは神妙そうな顔で訊いて来た。俺は肩を竦めて、
「さてね。重蔵氏すら只の演者だったのだとすれば、自ずと誰が真の黒幕なのかわかって来る。その人物が俺をどの程度邪魔だと思っているのかによるな」
「その人物なら、警視庁すら動かせるって事?」
ありさは目を見開いた。俺はテレビを消して、
「いや、政府すら動かせるのかも知れないぞ」
ありさの目が更に見開かれた。
「という事は、黒幕は……」
俺はそれには応えず、
「先生と土方さんを頼む。さっきの作戦は取り消しだ。お前には二人を守ってもらいたい」
背中を向けたままでありさに告げた。
「何無茶な事考えているのよ、左京! あんたには扶養家族がいるのよ。実質的にはヒモだとしても」
ありさは真剣なのかふざけているのかわからないような事を言った。俺はバカにされているのだろうか?
「わかっているよ。死ぬつもりはない。一つ懸けられる事があるとすれば、敵が俺を見くびっているかも知れないという事だ。そうすれば、勝機はあるさ」
「ああ、そうね。見くびっている方に千ゴールド」
更にふざけるありさを無視して、俺はリヴィングルームを出た。まだ夢の中の坂本龍子弁護士と土方歳子さんを起こす必要もないだろう。
「ああん、悪かったわよ、左京。ありさも頑張るからあ」
今更アピールしても遅いと思いながら、俺は廊下に出た。そして、純喫茶JINのマスターに電話をした。
「偉い事になったな、杉下さん」
いつも冷静沈着なマスターの声が興奮しているのがわかった。
「ああ。どうやら、真の黒幕はマスターの同級生らしいな」
「考えたくはないが、その選択肢しかないだろう。重蔵を死に追いやるとは、見下げ果てた男だが、考えようによってはそれくらいならやりかねない奴とも思える」
マスターの声は怒気を含んでるのがわかった。
「本当の息子ではないから始末させた、という事でもないと思うんだが?」
俺は廊下を歩きながらマスターに問いかけてみた。
「私もそう思うよ。奴はあくどい経営者だが、私怨で動く程器の小さい男ではない。そして、これだけの大掛かりな手段を講じたという事は、何か特別な理由があるはずだ」
マスターの考えは俺と同じだった。重蔵氏の父親の兵庫氏。その兵庫氏の奥さんは当時人気の美人女優。浮き名を流した事は数知れない恋多き女性だったようだ。そして、兵庫氏自身も奥さんの不貞を疑っていたという。だから、重蔵氏は自分の実子ではないと考えているとの事。だが、実の息子ではない重蔵氏を何故今になって死に追いやる必要があったのか? それについては、俺もマスターも明確な答えを用意できなかった。謎が多過ぎるのだ。俺はエレベーターを使うのをやめて、階段を下りた。何故か嫌な予感がしたのだ。これと言って根拠はないのだが。
一階まではさすがに辛かったが、それ以上に気になる事があったので、膝が笑う事はなかった。地下駐車場に降りると、車に向かって歩き出した。そこでまた嫌な予感がしてしまう。車に何か仕掛けをされている気がして来たのだ。俺は心の底から鷲鷹兵庫という人物に怯えている自分を認識した。警視庁の捜査一課に勤務していた時も、何度も凶悪犯と対峙した時があったが、今回のような恐怖は感じた事はなかった。過去を美化している訳ではない。そんな小悪党と次元が違うのだ。兵庫氏から感じるのは、闇。それも日本の闇の世界を取り仕切っているような途轍もない威圧感。本当の悪党というのは、自らの手を決して汚さない。重蔵氏の首つりも、土方さんの元上司の芝塚晋吾の偽装自殺も、坂本先生と土方さんを襲撃した設楽道茂と密会していた鷲鷹建設の営業の神流圭の転落死も、全て裏で糸は引いたろうが、直接関わってはいないだろう。兵庫氏に繋がるものは何一つないという事だ。まさしく唾棄すべき悪なのだ。
「くそ」
表通りに出てみたが、時間帯が悪いのか、全くタクシーが捕まらない。気ばかり焦ってしまい、俺は五反田駅へと走り出した。
「あ!」
その時、ある事に気づいた。
(警視庁までタクシーで行けるほど、現金の持ち合わせがない)
つくづく金と縁のない人生だと思い知り、俺はそのまま駅へと歩を進めた。大手町に行くにはどういうルートが一番早いのか、携帯で検索してみた。山手線で有楽町まで行き、そこから有楽町線で桜田門まで行くのが一番早いようだ。俺は携帯をしまうと、券売機に近づいた。その時もまた、背後が気になってしまった。
そんな警戒が取越苦労ではないかと思えたのは、警視庁の前まで来た時だった。何事もなく到着したので、自分の過剰反応に嫌気がさしそうになった。
「やっと来たわね。手間かけさせないでよね」
蘭が仁王立ちで出迎えた時の方がゾッとした程だった。てっきり容疑者扱いされると思っていたのだが、それも取越苦労だった。どうやら、蘭が俺の身を案じてそう言っただけのようだ。蘭に訊かれたのは、重蔵氏との会話の内容だけだった。一通り聴取を終えたところで、蘭はコーヒーを淹れてくれた。聴取に立ち会ったありさの夫の加藤も香りを楽しみながら俺をジッと見ている。
「もう完全にあんたの手に負える状態じゃないわね。そろそろ引き時なんじゃない、左京?」
蘭はニヤリとして得意顔だ。加藤は何か言いたそうだが、蘭が怖いのか、只黙って俺を睨んでいるだけ。
「そうだな。もうこれまでだろうな」
俺は話を早く切り上げるために全面降伏のフリをし、両手を上げてみせた。すると蘭はホッとした顔になった。こいつ、昔から天の邪鬼だからな。わかり易いと言えばわかり易い性格だ。
「独身時代の感覚のままでいたらいけないのよ。あんたには樹里と瑠里ちゃんの生活もかかっているのよ。もちろん、樹里の稼ぎの方がいいのは知ってるけどね」
そんなところだけありさと同じ感覚なのはいただけないが。
「蘭も結婚したから、守りに入っているという事か?」
俺は皮肉のお返しをしてみた。すると蘭は全然似合わないはにかんだ顔になり、
「守りに入ったというのとはちょっと違うけど、私の人生は自分だけのものじゃないと思うようにはなったわね」
「ほう」
俺はコーヒーをグイッと飲み干して頷いた。
それからまもなく、警視庁を出た俺は、決意も新たに地下鉄の階段を駆け下りた。今度こそ、黒幕に会いに行く。その真意を確かめるために。あの恐怖感は身体の中から追い出せたようで、何も気にならなくなっていた。




