【短編】魔法インク職人の辺境工房 ~「インクを混ぜているだけ」と嘲笑した家族ですが、私がいなければ魔法も商売も成り立たないようです~
大広間の中央で、銀色の鳥が羽ばたいた。
光でできた翼が広がり、無数の羽根が舞い落ちる。
羽根は床へ触れる前に小さな花へ変わり、招待客たちの周囲をきらきらと飛び回った。
「まあ……!」
「なんて美しい魔法なの」
「さすがは天才魔術師、マリエル嬢だ」
広間のあちこちから歓声が上がる。
その中心で、妹のマリエルは杖を掲げていた。
腰まで伸びた蜂蜜色の髪。明るい緑の瞳。
光を受けた華やかなドレスが輝き、まるで彼女自身が魔法の一部になったようだった。
私は、その光景を会場の隅から見ていた。
正確には、マリエルを見ていたわけではない。
彼女が握っている杖を見ていた。
白い木で作られた杖には、細い銀色の線が刻まれている。
私が三日前に書き直した術式だ。
光の鳥が大きく旋回する。翼の形は崩れていない。
魔力の流れも安定している。
杖に施した増幅用のインクも、正しく働いているようだった。
「……よかった」
小さく息を吐く。
マリエルの魔力は強い。
ただし、流れが荒く、普通の杖や魔導書では制御しきれない。
だから私は、彼女の魔力に合わせた専用インクを作ってきた。
余分な魔力を逃がし、必要な部分だけを増幅する。
杖に刻まれた術式も、少しでも薄くなれば私が書き直した。
今夜の魔法も、失敗すれば広間の装飾を吹き飛ばしていたかもしれない。
けれど、問題はない。
銀色の鳥は最後まで美しい姿を保ち、マリエルの杖へ吸い込まれるように消えた。
大きな拍手が広間を満たす。
「見事だ、マリエル!」
父が誇らしげに声を上げた。
「今の魔法は、娘が自ら改良したものです。新たに開発した魔力軽減の技術も使われております」
「お若いのに素晴らしい」
「エルフォード家には、まさに天才が生まれたのですな」
客たちの称賛を受け、マリエルが嬉しそうに微笑む。
父も母も、満足そうだった。
私が作った魔力軽減用インク。私が改良した杖の術式。
私が何度も失敗し、材料の割合を変えながら完成させた技術。
そのすべてが、今夜もマリエルの功績として紹介された。
いつものことだった。
初めて消えかけた魔導書を復元した時も。
保存箱に使う生活用インクを開発した時も。
家の商会で販売された商品には、天才魔術師マリエルの名がつけられた。
私の名前は、どこにもない。
この世界では、魔法の威力や安定性は、術式を書くインクによって大きく変わる。
正しい術式があっても、インクが合わなければ十分な効果は出ない。
魔力を無駄に消費し、最悪の場合は暴発する。
だから魔法インク職人は、術式や使い手に合わせてインクを調合する。
けれど、私たちは裏方だ。
誰も、光の鳥を支えているインクまでは見ない。
目に映るのは、美しい魔法を使った者だけ。
それでも私は、この仕事が好きだった。
材料を混ぜる時間も。少しずつ色や粘度が変わっていく様子を見ることも。
効果を失った魔導書が、再び淡く光り始める瞬間も。
すべて楽しかった。
誰にも名前を知られなくても、家族の役に立てるなら。
私が作ったもので、誰かの生活が少し楽になるなら。
そう自分に言い聞かせてきた。
だから、祝いの輪へ入ることもなく、会場の隅から魔道具の発動を見届けていた。
私の役目は、それで終わりだった。
パーティーが終わり、最後の客が帰った頃。
私は父に呼ばれ、屋敷の応接室へ向かった。
部屋には父と母、マリエルがいた。
そして、私の婚約者であるセドリックも。
マリエルは先ほどの華やかなドレスのまま、セドリックの隣へ座っていた。
距離が、少し近い。
「リネット、話がある」
父が言った。
「お前とセドリック殿の婚約を解消することになった」
「……婚約を?」
「ああ。そして、マリエルとセドリック殿が婚約する」
私はしばらく、二人を見た。
セドリックは気まずそうにしながらも、マリエルの手を握っている。
どうやら、私の知らないところですべて決まっていたらしい。
「悪く思わないでくれ、リネット」
セドリックが口を開いた。
「君は真面目だが、私の妻になるなら、マリエルの方がふさわしい」
「なぜですか?」
「彼女は天才魔術師だ。華やかで、人々を惹きつける力がある」
セドリックは、うっとりとマリエルを見る。
「今夜の魔法も素晴らしかった。工房に籠もって、インクを混ぜているだけの君より、彼女の方が私にふさわしい」
インクを混ぜているだけ。
その言葉が、妙に胸に残った。
幼い頃から、私は工房で働いてきた。
手を染め、指先を傷つけ、眠る時間を削ってインクを作った。
それらはすべて、ただ混ぜているだけに見えていたらしい。
「仕方ありませんわ、お姉様」
マリエルが優しい声で言った。
「セドリック様は、私の魔法を誰よりも理解してくださっていますもの」
理解している?
マリエルの魔法を一番理解しているのは、私だろう。
当人のマリエル以上に、私のほうが詳しい。
「リネット。お前も納得したな」
父が言った。
「婚約の件は以上だ。それより、来月の王宮での発表に向けて、マリエルの専用インクを用意しておけ」
私は父を見る。
「……私が作るのですか?」
「当然だろう」
「婚約者を妹に譲った後も?」
「それと仕事は別だ」
父は少し苛立ったように眉を寄せた。
「お前はこれまで通り工房で働けばいい。マリエルを支えることが、お前の役目だ」
「そうですわ、お姉様」
マリエルも頷く。
「お姉様には、魔法を使う才能がないのですもの。これまで通り、私を支えてくださればいいでしょう?」
……この人たちは、本当に私を一人の人間だと思っていない。
マリエルを輝かせるための職人。商会の商品を作るための手。
婚約者を奪われても、功績を奪われても、黙って働き続ける便利な娘。
私はずっと、そういうものだったらしい。
「――お断りします」
部屋が静かになった。
「……何だと?」
父が低い声を出す。
「もう、マリエルの専用インクは作りません」
「お姉様?」
「婚約者も、これまでの功績も差し上げます」
私はマリエルを見る。
それから、セドリックと両親を順番に見た。
「ですが、私の技術まで差し上げ続けるつもりはありません」
「馬鹿なことを言うな!」
父が机を叩いた。
「お前の技術は、エルフォード家のものだ!」
「工房も、商会の配合帳も、家のものです」
私は静かに答える。
「ですが、私が自分で考えた技術と研究は、私のものです」
「誰に育ててもらったと思っている!」
「ですから、今まで働いてきました」
十分すぎるほどに。けれど、もういい。
私は自室へ戻り、荷物をまとめた。
服を数着。自分で買った筆と調合道具。個人で記録してきた研究帳。
それから、これまで個人で受けた仕事で貯めてきたお金。
家の商会から受け取ったものではない。
私が自分の技術で稼ぎ、少しずつ蓄えてきたものだ。
玄関へ向かうと、父が追ってきた。
「本気で出ていくつもりか」
「はい」
「この家を出て、お前に何ができる」
その言葉に、足が少し止まった。
家も、身分も、工房も失う。不安がないわけではない。
けれど私は、もう振り返らなかった。
「今ここを出るなら、お前を勘当する!」
父の怒鳴り声が背中に届く。
「泣いて戻ってきても、二度と家には入れんぞ!」
「承知しました」
私は屋敷を出た。
その日のうちに、王都を離れる乗合馬車へ乗った。
目指すのは、辺境にある職人街。
腕さえあれば、身分を問わず仕事を得られる場所だと聞いている。
窓の外で、王都の街並みが遠ざかる。
家族はきっと、私がすぐに戻ると思っている。
残してきたインクもある。配合帳もある。
だから私がいなくても、何も変わらないと考えているのだろう。
私は膝の上の鞄へ手を置く。
怖い。けれど、それ以上に胸が軽かった。
今まで私は、誰かを輝かせるためにインクを作ってきた。
これからは違う。
「今度こそ」
馬車が王都の門を抜ける。
私は遠ざかる街を見ながら、小さく笑った。
「私の作ったものを、私の名前で世に出そう」
私を閉じ込めていた屋敷は、もう遠い。
何も持たない私は、ようやく自分の人生を始めようとしていた。
それは少し怖くて――けれど、新しいインクを作る時のように、胸が高鳴ることでもあった。
辺境の街へ着いたのは、王都を出てから五日後だった。
長かった。乗合馬車の座席は硬く、道も途中からひどく揺れた。
最後の一日は、眠ろうとするたびに頭を窓へぶつけた気がする。
それでも、馬車を降りた時には少しだけ息が軽くなった。
「ここが、グランフェルト辺境領……」
目の前には、高い石壁に囲まれた街がある。
王都ほど華やかではない。
けれど城門の前には多くの馬車が並び、荷物を抱えた商人や旅人たちが行き交っていた。
職人の姿も多い。
腰に金槌を下げた鍛冶職人。
木材を積んだ荷車を押す大工。
背負い籠から薬草を覗かせている女性もいた。
王都ではあまり見なかった光景だった。
少なくとも、ここでは職人が隠れるように歩いてはいないらしい。
それだけで、少し気分がよかった。
「次の者」
門兵に呼ばれ、私は荷物を持って進んだ。
身分証と商業ギルドから発行された紹介状を見せる。
「王都から来たのか」
「はい。こちらで工房を開きたいと思っています」
「職人か。最近は珍しくもないな」
門兵は紹介状を確認し、私へ返した。
「入っていい。商業ギルドは中央通りを真っすぐだ」
「ありがとうございます」
私は書類を鞄へ戻し、城門をくぐった。
その時だった。
「……ん?」
足を止める。
門の内側に刻まれた大きな術式が、淡く光っている。
街全体を囲む防護結界の一部だろう。
魔獣や外敵の侵入を防ぎ、異常な魔力を感知するためのものだ。
術式そのものに問題はない。
線の太さも、魔力の流れる方向も正しい。
けれど、一部だけ色が違っていた。
私は少しだけ近づいて見る。
元の術式は、青みを帯びた黒色。
補修された部分は、わずかに白く濁っている。
高純度の銀鉱粉を使った、高価なインクだ。
王都の工房でも、上級品として扱われていた。
けれど……。
「合っていない……」
小さく呟く。
この土地は王都より寒い。
ここへ来るまでにも、雨が何度か降った。
空気にも湿り気があり、石壁は少し冷たい。
補修に使われたインクは、乾燥した温暖な地域で使うものだ。
品質が悪いわけではない。むしろ非常にいい。
ただ、この土地には向いていない。
寒さで顔料と魔力を留める樹脂が分離し始めている。
そのせいで、術式の流れが補修部分だけわずかに滞っていた。
「どうした?」
門兵に声をかけられた。
私は術式から視線を外す。
「すみません。少し気になることがあって」
「結界か?」
「はい。ただ、今ここで触れるようなものではありません」
防護結界は街の重要な設備だ。
気になったからといって、知らない職人が勝手に手を出していいものではない。
「すぐに消えるわけではないと思います。でも、強い雨か吹雪が来れば、補修部分が耐えられない可能性があります」
「結界はずっと正常に動いているぞ」
「今は動いています」
私はもう一度、濁った部分を見る。
「ただ、魔力の流れが弱くなっています。すでに一部の効果が落ちている可能性もあります」
門兵は眉を寄せた。
私の顔と術式を交互に見る。
当然だろう。
今この街へ着いたばかりの女に、街の防護結界がおかしいと言われたのだ。
すぐに信じろという方が無理がある。
「商業ギルドへ行くので、そちらから正式に報告します」
「あ、ああ。よくわからんが、そうしてくれ」
私は軽く頭を下げ、その場を離れた。
気にはなる。けれど、私にできるのはここまでだ。
街の中へ入ると、石畳の道が続いていた。
王都より建物は低く、看板には工房や商店の名前が多い。
金属を打つ音。木を削る音。
どこかから漂ってくる、焼きたてのパンの匂い。
賑やかだ。
華やかではないが、街全体が働いているような音がする。
「悪くないかも」
私は鞄を持ち直した。
商業ギルドは、教えられた通り中央通りにあった。
二階建ての大きな建物で、正面には商人や職人らしき人々が並んでいる。
受付で紹介状を出し、工房を開きたいと伝えた。
「魔法インク職人ですか」
受付の女性が、少し珍しそうに私を見る。
「はい」
「王都では、エルフォード商会の工房に?」
「以前は」
私はそれだけ答えた。
受付の女性は何か察したようだったが、それ以上は聞かなかった。
「道具と作業場所があれば、開業自体は可能です。ただし、危険物を扱う場合は申請が必要になります」
「わかりました」
「店舗はもう決まっていますか?」
「まだです。できれば住居が一緒になっているところを探しています」
「予算は?」
私は金額を伝えた。
受付の女性は少し黙った。正直な反応だった。
「街の中心は難しいですね」
「やはり」
「外れなら、いくつかあります。古くてもよければ」
「古いのは構いません。雨漏りさえしなければ」
「そこが最低条件なのですね」
「インクに水漏れは困るので」
受付の女性は、少しだけ笑った。
それから物件の書類を用意してくれる。
私は必要な申請を書き終え、最後に城門の結界についても報告した。
「防護結界のインクが?」
「補修部分だけ、この土地の気候に合っていません。すぐに壊れるとは言い切れませんが、確認した方がいいと思います」
「あなたは結界技師でもあるのですか?」
「いいえ。魔法インク職人です」
「では、なぜわかるのです?」
「インクの状態ならわかります」
受付の女性は半信半疑の顔をしていた。
まあ、そうだろう。
「記録には残しておきます。報告が上がるかは、担当部署の判断になりますが」
「それで構いません」
必要なのは、私が正しかったと証明することではない。
街の誰かが確認してくれることだ。
報告を受理してもらい、私はギルドを出た。
それから数日、街の宿に泊まりながら物件を見て回った。
ようやく借りられそうな店を見つけたのは、街へ着いて二日目だった。
職人街の外れにある、小さな二階建ての建物。
一階が店舗と工房。二階には、寝室と狭い台所がある。
壁は少し煤け、床には埃が積もっていた。
棚も何年使われていないのかわからない。
「……悪くない」
私は店の中央に立ち、辺りを見回した。
窓は大きい。昼なら十分に光が入る。
雨漏りもない。鼠も、今のところは見当たらない。
十分だった。
契約を済ませ、鍵を受け取る。
それからは掃除の日々だった。
床を掃き、壁を拭き、棚を磨く。
使えない家具は外へ運び、残った机を何度も拭いた。
工房で働くことには慣れている。
けれど、工房そのものを作るのは初めてだった。
腕よりも腰が痛い。
「職人になる前に、掃除屋になれそうね……」
一人で呟いてみる。
屋敷では、工房に籠もっていても外から誰かの声が聞こえた。
ここには私しかいない。
静かで、息苦しくはなかった。
持ってきた道具を作業机へ並べる。
実家の工房にあったものと比べれば、あまりにも小さな設備だ。
それでも、すべて私のものだった。
最後に、店の前へ看板を出した。
自分で作った黒いインクを筆へ含ませる。
木の板へ、ゆっくりと文字を書く。
『リネットの魔法インク工房』
書き終えてから、しばらくその名前を見つめた。
私の名前だ。
商会の商品にも、研究の発表にも書かれなかった名前。
それが今は、店の一番目立つ場所にある。
「……少し恥ずかしいわね」
誰も見ていないのに、そんなことを呟く。
けれど、消そうとは思わなかった。
そして、店を開けてから数日。
残念ながら、客が押し寄せることはなかった。
一日に一人来ればいい方だ。
初日に来たのは、子ども用の練習魔導書へ使うインクを買いに来た母親だった。
二日目は、安価な火属性インクを一本。
三日目は、誰も来なかった。
店の前を通り過ぎる人はいる。看板を見る人もいる。
ただ、中へは入ってこない。
当然か。どこから来たのかもわからない職人が、突然開いた工房だ。
信用も実績もない。
王都で何を作っていたと言っても、それはすべてマリエルや商会の名前で発表されている。
リネットという職人を知る者はいない。
私は商業ギルドから、小さな仕事を受けることにした。
報酬は多くない。
最初から大きな仕事が来るとは思っていない。
私の名前で、一つずつ実績を積めばいい。
そう思いながら、作業机で魔導書を開いていた時だった。
扉につけた鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
二人の男性が入ってきた。
一人は、銀灰色の短い髪をした長身の男。
簡素な黒い上着を着ている。身なりは派手ではない。
けれど姿勢がよく、淡い青の瞳には鋭さがあった。
その後ろにいる男は、側近か護衛のように見える。
二人とも、普通の客とは少し雰囲気が違った。
銀灰色の髪の男は店内を見回す。
そして、私を見た。
「城門の結界について報告した職人は、君か?」
低く、落ち着いた声だった。
私は持っていた筆を置く。
「はい。私です」
銀灰色の髪の男は、私の返事を聞いても表情を変えなかった。
ただ、淡い青の瞳で私を静かに見ている。
「私はルーカスだ」
名乗ったのは、それだけだった。
家名も役職もない。後ろに立つ男も何も言わない。
おそらく、領主館の役人か、結界を管理している騎士なのだろう。
少なくとも、ただの客ではなさそうだった。
「リネットです」
「店の看板を見ればわかる」
「ああ、そうでした」
店の前には、私が自分で書いた名前がある。
名乗る必要はなかったらしい。
少し恥ずかしい。
ルーカスはそんな私を気にする様子もなく、まっすぐ本題に入った。
「城門の結界について、詳しく聞きたい」
「わかりました」
「報告には、補修に使われたインクが土地の気候に合っていないとあった」
「はい」
「術式そのものに問題はないのか?」
「ありません」
私は作業机の上に置いていた紙を一枚取った。
それから、城門で見た術式を簡単に書き起こす。
「術式の構造は正しいです。線の太さも、魔力を流す順序も問題ありません」
筆先で、補修されていた部分を示す。
「ただ、ここだけ魔力の流れが悪くなっています」
「なぜだ?」
「寒さでインクの成分が分離し始めているからです」
ルーカスは紙へ視線を落とした。
「分離?」
「補修に使われていたのは、高純度の銀鉱粉を混ぜたインクです。品質はとてもいいと思います」
「王都から取り寄せたものだ」
「やはり」
王都では高価なインクだ。
乾燥した地域で使うなら、長く安定した効果を保てる。
「ですが、この土地は王都より寒く、雨も多いです。インクに含まれている樹脂が冷えて固くなり、顔料と魔力を留める成分が分かれ始めています」
「そのせいで、魔力が通りにくくなっているのか」
「はい。今はまだ完全には途切れていません。ただ、長い雨や強い吹雪があれば、効力がさらに落ちる可能性があります」
少し考えてから、続ける。
「あるいは、すでに一部の効果が落ちているかもしれません」
ルーカスの目が、わずかに細くなった。
「北門付近だけ、魔物避けの効果が弱まっている」
「やはり、そうですか」
「ここ一月ほど、街の近くまで小型の魔物が寄ってくることが増えた。結界が消えているわけではないが、以前よりも距離が近い」
ルーカスは淡々と話す。
「魔力の供給量も増やした。だが、効果は上がらなかった」
「供給量を増やしても、インクが魔力を正しく通せなければ意味がありません」
「むしろ負担になる可能性もあるか?」
「あります」
魔力が通りにくい場所へ、さらに多くの魔力を流す。
水の通りが悪い細い管へ、無理に水を押し込むようなものだ。
「今の状態で供給を増やし続ければ、補修部分から術式が傷むかもしれません」
「結界管理官は、魔力炉の出力不足だと考えていた」
「術式の光だけを見れば、そう思うかもしれません」
「君は、門を通っただけでそこまでわかったのか?」
「インクの色が濁っていましたから」
私は答える。
ルーカスはしばらく私を見た。
「それだけで?」
「それだけではありません。流れている魔力も、補修部分だけ少し遅れていました」
「普通の人間に見えるものなのか?」
「インク職人なら、わかると思います」
たぶん。
少なくとも、私はずっとそうしてきた。
妹の杖も、魔導書も、色と光の変化を見て状態を確認していた。
ルーカスは何も言わず、店の中へ視線を向けた。
棚に並べた小瓶を見る。
火属性の赤いインク。
水属性の青いインク。
魔力を安定させる灰色のインク。
生活魔法用の安価な黒いインク。
まだ数は多くない。
けれど、少ない道具で作れるものは一通り並べていた。
「ずいぶん種類が多いな」
「そうでしょうか」
「一人で作っているのか?」
「はい」
ルーカスは棚へ近づく。
瓶を勝手に触ることはせず、札に書かれた説明だけを読んでいた。
「魔力消費軽減。耐水。耐寒。魔力拡散防止……」
「必要なものを少しずつ作っています」
「王都では、属性ごとに職人が分かれていると聞いたが」
「大きな工房では、そうかもしれません」
「君はすべて扱えるのか?」
「材料があれば」
ルーカスの後ろにいた男が、わずかに眉を上げた。
何か変なことを言っただろうか。
実家の工房では、必要なものは私が作っていた。
妹の魔力はその日の状態によって変わるため、一種類だけ作れればいいというものではなかった。
ルーカスは次に、作業机の上へ視線を向けた。
そこには、商業ギルドから預かった古い魔導書が置かれている。
子ども用の初級魔法書だ。
表紙は擦れ、何ページか術式の文字が薄くなっていた。
「これは?」
「修復の依頼です」
「インクの補充か?」
「いいえ。消えかけた術式を復元しています」
私は魔導書を開いた。
薄くなった文字の横に、新しく書き直した線がある。
まだ半分ほどしか終わっていない。
「元のインクの跡と、紙に残っている魔力から配合を調べています。同じ性質のインクを作ってから、欠けた部分を書き直します」
ルーカスは魔導書を覗き込んだ。
「……待て」
「はい」
「魔導書の修復は、普通のインク職人にはできないはずだ」
「そうなのですか?」
「そうなのか、ではない」
初めて、ルーカスの声に少しだけ困惑が混じった。
「それは魔導書修復士の仕事だろう」
「インクを作って、消えた文字を書き直すだけですよね?」
「その『だけ』ができないから、別の職業として扱われている」
「でも、インク職人なのですから、できて当然では?」
「……」
ルーカスは黙った。後ろの男も黙っている。
二人とも、何とも言えない顔で私を見ていた。
「……何かおかしいでしょうか」
「君の中のインク職人は、仕事の範囲が広すぎる」
「便利でいいと思います」
「自分で言うのか」
「便利なのは本当ですから」
ルーカスは小さく息を吐いた。
呆れているのかもしれない。
ただ、口元がほんの少し緩んだようにも見えた。
彼は魔導書へ指を近づける。
すでに修復した部分へ指を近づけた。
触れてはいない。
ただ、そこに流れている魔力を確かめているようだった。
「安定している」
「まだ乾燥の途中なので、完全ではありませんが」
「それでも、修復前の部分より魔力の乱れが少ない」
どうやら、ルーカスは結界術だけでなく、術式そのものにも詳しいらしい。
ただの役人ではないのかもしれない。
結界管理官。あるいは、領主館に仕える魔術師だろうか。
「城門の結界を直せるか?」
ルーカスが尋ねた。
私はすぐには答えなかった。
門を通った時に見た状態だけなら、おそらく修復できる。
けれど、防護結界は小さな魔導書とは違う。
街全体を囲む大規模な術式だ。
「近くで状態を確認しなければ、断言はできません」
私は正直に答えた。
「ただ、私の見立て通りなら修復可能です」
「どの程度の時間がかかる?」
「劣化している範囲によります。補修部分だけなら、半日ほどで終わると思います」
「結界を止める必要は?」
「完全に止める必要はありません」
私は先ほど描いた術式へ、いくつか線を書き加える。
「結界を区画ごとに分け、魔力を繋ぎ直しながら作業します。修復する部分だけ魔力を弱め、他の区画で流れを維持します」
「そんなことができるのか?」
「結界の流れを理解している方が協力してくだされば」
「どの程度、理解していればいい?」
「私が説明した時に、眉間に皺を寄せない程度でしょうか」
「……随分と曖昧だな」
「説明してもわからない方は、だいたい途中から眉間に皺が寄るので」
ルーカスの後ろにいた男が、小さく咳き込んだ。
笑いを誤魔化したらしい。
ルーカスは今度こそ振り返った。
「何か?」
「いえ、何も」
「そうか」
短いやり取りだった。
けれど、後ろの男は少しだけ楽しそうだった。
「結界管理官で足りるか?」
ルーカスが再び尋ねる。
「結界全体の流れを理解していて、細かく魔力を調整できる方なら」
「わかった」
ルーカスは迷わず頷いた。
「明日の朝、北門へ来てくれ」
「明日ですか?」
「ああ。必要な人員はこちらで揃える」
話が早い。
「報酬については?」
「修復できると確認してから、正式に決める」
「わかりました」
「不満はないのか?」
「直せるか確認する前に金額を決めても、どちらかが困るだけですから」
「君は金に執着がないのか?」
「あります」
私は即答した。
「工房を借りたばかりなので、かなり」
「……正直だな」
「ただ、できない仕事でお金をいただくほど困ってはいません」
「では、できる仕事なら?」
「遠慮なくいただきます」
ルーカスはわずかに目を細めた。
今度は、たしかに笑った気がした。
「必要な材料はあるのか?」
「インクをこれから配合して、今日中に揃えます」
「不足があれば、商業ギルドを通して申請してくれ。代金はこちらが受け持つ」
「ありがとうございます」
ルーカスは頷き、店を出ようとする。
その前に、一度だけ振り返った。
「明朝、日の出から一時間後だ。遅れないでくれ」
「はい。寝過ごさなければ」
「寝過ごす可能性があるのか?」
「今夜、インクを作るので」
「……必ず来てくれ」
「努力します」
「必ずだぞ」
「はい」
二人が出ていくと、工房は急に静かになった。
私はしばらく閉じた扉を見ていた。
「……少し変わった人だったわね」
おそらく、向こうも同じことを思っているだろう。
私は店の札を裏返し、営業中から準備中へ変えた。
修復中の魔導書を布で包み、作業机の端へ移す。
それから、必要な材料を書き出した。
寒さでも固まりにくい樹液。
水を弾く性質を持つ魔獣の脂。
魔力を安定させる灰色の鉱石粉。
王都で使われている補修インクとは、材料を大きく変える必要がある。
この土地の寒さと雨に耐えられるもの。
それでいて、元の術式の魔力を邪魔しないもの。
私は上着を脱ぎ、すぐに作業へ取りかかった。
樹液を弱い火で温める。
魔獣の脂から不純物を取り除き、細かく砕いた鉱石粉を少しずつ混ぜる。
量が多すぎれば、魔力が重くなる。
少なすぎれば、流れを安定させられない。
硝子棒を回すたび、液体の色が黒から深い青へ変わっていく。
冷たい窓辺へ少量を置き、固まり方を確認する。
「……悪くない」
私は少しだけ息を吐いた。
これなら使える。
夜遅くまでかけて、必要な量のインクを作った。
完全に同じものを二瓶。
少し粘度を下げたものを一瓶。
現地で状態を見て、使い分けるためだ。
翌朝。私は道具とインクを鞄へ入れ、指定された北門へ向かった。
北門へ近づくと、人影が見えた。
昨日のルーカスと、後ろにいた男。
それだけではない。鎧を着た騎士が何人もいる。
厚い書類を抱えた結界管理官らしき者たちもいた。
門の周囲は封鎖され、通行人は別の入口へ案内されている。
「……思っていたより、大がかりね」
私は足を止めた。
昨日は簡素な服装だったルーカスも、今日は騎士たちの中央に立っている。
周囲の者たちは、彼の指示を待つように姿勢を正していた。
ただの役人ではなさそうだ。
少なくとも、私が考えていたより、ずっと高い立場の人間らしい。
「来たか」
ルーカスが私に気づいた。
「はい。寝過ごしませんでした」
「それは何よりだ」
彼は真顔だった。やはり冗談を楽しむのは苦手らしい。
それは私もだけど。
「必要なものは用意しました」
「では始めよう」
彼は当然のように城門の内側へ向かう。
そこには、結界へ魔力を送るための制御盤があった。
普通なら、結界管理官が扱うものだろう。
けれどルーカスは迷いなく、その中央へ手を置いた。
淡い青の光が広がる。
城門に刻まれた術式が、呼応するように明るくなった。
昨日まで滞っていた魔力が、ゆっくりと別の区画へ流れていく。
正確で、無駄のない制御だった。
私は思わず、ルーカスを見る。
彼は制御盤へ手を置いたまま、こちらへ視線を向けた。
「私が魔力の流れを維持する」
低く、落ち着いた声が響く。
「君はインクの修復に集中してくれ」
私は城門の内側へ近づき、術式の前にしゃがみ込んだ。
昨日は通りすがりに見ただけだった。
けれど、間近で見ると状態は思っていたより悪い。
補修された部分の表面には、ほとんど傷がない。
問題は、その内側だった。
銀色の顔料の下に、細かなひびが何本も走っていた。
「やはり……」
「どうだ?」
制御盤へ手を置いたまま、ルーカスが尋ねる。
「予想通りです。以前の補修に使われたインクが、内側からひび割れています」
後ろにいた結界管理官が息を呑んだ。
「そんなはずはありません。使用したのは、王都でも最高級とされる結界用インクです」
「はい。品質はとてもいいと思います」
「では、なぜ」
「品質が悪いわけではありません。この土地に適していないだけです」
私はひび割れた部分を指した。
「王都のような温暖で乾燥した場所なら問題ありません。でも、ここは寒くて雨も多い。低温で樹脂が硬くなり、顔料との間に隙間ができています」
管理官は、少し悔しそうに眉を寄せた。
「私の判断が間違っていたと?」
「いいえ。高価な外套でも、真夏に着れば暑いです」
「……外套?」
「外套が悪いのではなく、季節が合っていないだけです」
少し離れた騎士が俯いた。
笑ったのだろうか。
「例えとしてはわかりやすいな」
ルーカスが言った。
「だが、今は冬だ。季節的にはわかりにくいな」
「では、外套の話は忘れてください」
「自分から出した例えだろう」
「もう例えの役目は終わりました」
ルーカスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「結論として、管理官の判断だけに問題があったわけではないのだな」
「はい。王都から品質を保証されれば、選んでしまうのも無理はありません」
私は鞄から、昨夜作った深い青色のインクを取り出した。
「修復を始めます。劣化した部分を取り除く間、魔力を別の区画へ逃がしてください」
「わかった」
ルーカスが制御盤へ魔力を流す。
城門全体を巡っていた光が形を変え、補修部分だけが弱くなった。
滑らかで、無駄のない制御だった。
「やります」
私は細い刃を差し込み、古いインクを少しずつ削った。
一度に剥がせば、術式そのものを傷つける。
薄く、慎重に。ひび割れた層だけを取り除いていく。
「思ったより深いな」
「はい。表面だけ塗り直しても、すぐに同じことが起きたでしょう」
下地を整え、新しいインクを筆へ含ませる。
深い青の線を、元の術式へ繋げていく。
筆を動かすたび、インクが淡く光った。
「粘度は問題ないか?」
「今のところは」
「今のところ?」
「実際に効果が現れるまでは、完全にはわかりません」
「君は本当に断言しないな」
「インクはたまに職人を裏切りますから」
「人間のように言うな」
「人間より正直ですよ。合わなければ、すぐに濁るので」
後ろで、また誰かが咳き込んだ。
寒いからだろうか。
作業は半分ほどまで順調に進んだ。
その時だった。
術式の光が、不意に揺れた。
「止めてくれ」
ルーカスの声が飛ぶ。
私はすぐに筆を離した。
次の瞬間、城門に刻まれた線の一部が激しく明滅する。
「右側の区画が不安定です!」
管理官が声を上げる。
「わかっている」
ルーカスはすぐに魔力の流れを変えた。
強く押さえ込むのではなく、乱れた魔力を外側へ逃がしていく。
光の揺れが少しずつ収まった。
私は修復したばかりの線を見る。
術式との相性は悪くない。
ただ、城門の石が予想以上に冷えていた。
「インクが少し柔らかすぎますね」
「調整できるか?」
「できます」
私は小さな器へインクを移し、灰色の鉱石粉を加えた。
「その場で配合を変えるのか?」
「予想より石が冷たいので」
「失敗しないのか?」
「失敗しない量だけ入れます」
「それがわかるのか?」
「わからなければ、今頃やめて工房に逃げています」
「逃がすつもりはない」
「逃げるつもりは今のところないので問題ありません」
「なら成功させてくれ」
「そのつもりです」
硝子棒で混ぜ、粘度を確認する。
先ほどよりわずかに重い。
これなら広がらない。
「もう一度、魔力を流してください。先ほどの半分ほどで」
「わかった」
ルーカスが魔力を調整する。
私は新しいインクで線を繋ぎ直した。
今度は滲まない。魔力も均一に流れている。
「安定しました」
管理官の声にも、少し安堵が混じっていた。
「続けます」
そこからは大きな問題もなく進んだ。
ルーカスが術式全体の魔力を維持する。
私が古いインクを取り除き、新しい線を書く。
私が筆を止めれば、彼は魔力を弱める。
線を繋げれば、少しずつ流れを戻す。
余計な説明をしなくても、次に何をするのか理解してくれていた。
仕事がしやすい。
最後の文字へ筆を入れる。細い線を引き、元の術式と繋げた。
「終わりました」
ルーカスがゆっくりと魔力を戻す。
深い青のインクへ、光が走った。
次の瞬間、城門全体が、澄んだ青白い光に包まれた。
術式を駆け抜けた光が、石壁の向こうへ広がっていく。
空気がわずかに震えた。
「魔物避けの効果が、本来の範囲まで戻っています」
管理官が驚いた声を上げる。
「魔力の消費量も、以前の七割ほどです」
周囲の騎士たちから、安堵したような声が漏れた。
私は筆を置き、息を吐く。
「無事に直ってよかったです」
「それだけか?」
ルーカスが言った。
「何か他に?」
「もう少し喜んでもいいと思うが」
「喜んでいます。内側では、かなり」
「そうなのか、わかりにくいな」
「表に出すと疲れるので」
ルーカスは小さく息を吐いた。
呆れているのかもしれない。
けれど、その表情は少し柔らかかった。
私は修復した術式を、もう一度確認する。
「同じインクを使った箇所は、他にもありますか?」
「いくつかあります」
管理官が答えた。
「すべて点検した方がいいです。それから、この土地向けの補修インクを常備してください。冬用と雨季用で粘度を変えると安心です」
「他には?」
「補修履歴を残してください。場所、日付、天候、使ったインクの配合まで」
管理官が少し黙った。
「配合までは、残していませんでした」
「これから残せば大丈夫です」
失敗したことより、同じ失敗を繰り返さない方が大切だ。
ルーカスは修復された城門を見上げた。
「今日直すだけではなく、今後の管理まで考えるのだな」
「また壊れれば、困るのは街の方々ですから」
「君の仕事が増えるかもしれない」
「それはそれで、報酬をいただきます」
「やはり金には執着があるらしい」
「今はかなりあります」
工房を借りたばかりだ。
正当な報酬は大切だった。
「だが、必要のない修理を増やすつもりはない」
「はい、もちろん」
ルーカスは短く頷いた。
「その考え方も含めて評価する」
評価……その言葉が、少しだけ胸に残った。
家では、私が働くのは当然だった。
けれど今は、私の仕事も考え方も、きちんと見てもらえている。
「ありがとうございます」
私は道具を鞄へ戻した。
「では、報酬についてはギルドの担当者へ確認すればよろしいでしょうか」
「その必要はない」
「では、どちらへ?」
「依頼したのは私だ」
「はい。それはわかっていますが」
「報酬を決めるのも私だ」
私はルーカスを見る。
周囲の騎士たちは、誰も驚いていない。
驚いているのは私だけらしい。
「まさか……」
「名乗るのが遅くなった」
ルーカスは静かに言った。
「この地を治める辺境伯、ルーカス・グランフェルトだ」
私はしばらく黙った。
昨日、簡素な服で工房へ来た男性。
結界に詳しい役人か騎士だと思っていた。
まさか、領主本人だったとは。
「……看板を見れば私の名前はわかったのに、ご自分は家名を隠していたのですね」
「そこを気にするのか?」
「少しだけ不公平です」
後ろにいた男が、また咳き込んだ。
やはり笑っている。
「肩書きを先に出せば、君が率直に話せないかもしれないと思った」
「変わらなかったと思います」
「今なら、そう思う」
ルーカスは否定しなかった。
「修復には正式な対価を支払う。それとは別に、領地公認の魔法インク職人にならないか」
「公認、ですか?」
「ああ。領主館から仕事を回し、素材の仕入れも支援する」
工房を開いたばかりの私には、ありがたい話だった。
それでも、すぐに頷くことはできない。
「とても嬉しいです」
「なら」
「ですが、今はもう少し自分でやってみたいです」
ルーカスが私を見る。
「せっかく、自分の名前で工房を開いたばかりなので」
誰かの名前の下ではなく。
まずは、自分の名前だけで仕事をしてみたい。
「ただ、公認の話をいただけたことは、本当に嬉しく思います」
「……領地公認の話を完全に断るわけじゃない、と?」
「今すぐではない、ということです」
「わかった」
ルーカスは無理に勧めなかった。
「では、まずは仕事を依頼する形にしよう」
「はい」
私は鞄を持ち、工房へ戻るため歩き出した。
「リネット」
呼ばれて振り返る。
ルーカスは修復された城門の前に立っていた。
「これからも君の力を借りたい」
淡い青の瞳が、まっすぐ私を見る。
「仕事として――まずは、そこから」
「……はい」
私は頷き、再び歩き出した。
仕事として。そこまではわかる。
けれど。
「まずは、って何かしら……」
少しだけ気になった。
まあ、今はまだ仕事の話なのだろう。たぶん。
◇
リネットが屋敷を出てから、十日ほどが経っていた。
その日、王宮では若い魔術師たちによる披露会が開かれていた。
広間の中央に立つマリエルは、いつものように華やかな笑みを浮かべている。
腰まで伸びた蜂蜜色の髪。宝石を散りばめた杖。
周囲には、彼女の魔法を楽しみにする貴族たちが集まっていた。
「マリエル嬢の新しい魔法だそうです」
「先日の銀色の鳥も見事だったわ」
「さすがは天才魔術師ですな」
称賛の声を聞き、マリエルは満足そうに目を細めた。
少し離れた場所には、婚約者となったセドリックもいる。
彼は期待に満ちた目で、マリエルを見つめていた。
すべて、いつも通りだった。
ただ一つ。
マリエルの手にある杖へ施されたインクだけが、以前とは違っていた。
「本当に、これで大丈夫ですの?」
披露会の前。
マリエルは控室で、父オズワルドへ尋ねていた。
机の上には、小さなインク瓶が置かれている。
リネットが残していった、マリエル専用のインク。
残りは、瓶の底にわずかにあるだけだった。
「問題ない」
オズワルドはそう言って、別の液体を瓶へ注いだ。
色の薄い、魔力をほとんど含まない補充液だった。
「少しくらい薄めても、効果は変わらん」
「でも、お姉様は配合を変えるなと言っていましたわ」
「リネットは何事も大げさなのだ」
オズワルドは苛立ったように言った。
「ただのインクだ。減ったなら増やせばいい」
随分と単純な話だった。
マリエルも、それ以上は何も言わなかった。
自分の魔法は、自分の才能によって生まれている。
インクは、少し手助けをしているだけ。
ずっと、そう思っていたからだ。
「では、始めます」
広間へ戻ったマリエルは、杖を掲げた。
空中に、淡い銀色の光が集まっていく。
本来なら、その光は無数の花びらとなり、大きな白い竜へ変わるはずだった。
マリエルが新たに考えたことになっている魔法。
実際には、リネットが術式を調整し、専用インクを作っていたものだ。
光が広がる。花びらが生まれる。
けれど、その数は以前より明らかに少なかった。
「……あら?」
誰かが、小さく声を漏らした。
花びらは空中で揺れた。
形が崩れ、一部が光の粒となって消えていく。
マリエルは慌てて杖へ魔力を注いだ。
しかし、注げば注ぐほど術式は不安定になった。
やがて花びらは無理やり一つに集まり、小さな鳥のような形になる。
だが全く竜には見えない。
その光も、広間を一周する前に消えた。
静寂が落ちる。
以前なら、すぐに大きな拍手が起きていた。
今日は違った。
「……せ、繊細な魔法でしたわね」
一人の令嬢が、気を遣うように言った。
繊細。威力が弱い時に使われる、便利な言葉だった。
「その、今日は少し体調が悪かったのです」
マリエルはすぐに笑みを作った。
「本来なら、もっと美しい竜になるのですけれど」
「そうだったのですね」
周囲も一応は頷いた。
けれど、先ほどまでの熱気は戻らない。
セドリックも拍手をしながら、わずかに眉を寄せていた。
彼はマリエルの魔法を何度も見ている。
体調が悪いだけにしては、あまりにも威力が落ちていた。
それから数日後。
エルフォード家へ、王宮から一冊の古代魔導書が運び込まれた。
古い保存魔法について記された、貴重な魔導書だった。
何ページか文字が消え、術式の一部も欠けている。
「天才魔術師マリエル嬢なら、修復できると聞いております」
王宮の使者はそう言った。
マリエルは一瞬だけ黙った。
これまで魔導書を修復していたのは、すべてリネットだ。
マリエルは、完成した魔導書を受け取っていただけだった。
「もちろんですわ」
それでも、断ることはできなかった。
天才魔術師として知られている自分が、できないとは言えない。
マリエルはリネットの残した配合帳を開いた。
そこには材料の名前と分量が書かれている。
「この通りに混ぜればいいのでしょう?」
何度か失敗したものの、黒いインクらしきものは完成した。
マリエルは細い筆へインクを含ませる。
消えた文字の上へ、見よう見まねで線を書き足した。
次の瞬間、インクが紙の上で大きく滲んだ。
「えっ」
黒い染みが広がっていく。
隣の文字まで飲み込み、残っていた術式の一部さえ見えなくなった。
「どうして……」
マリエルは青ざめた。
配合帳の通りに作ったはずだった。
けれど、そこに書かれていたのは材料と大まかな分量だけだ。
紙に残された魔力の読み方。
古いインクの性質。混ぜる温度や順番。
リネットが手元で調整していた細かな違いまでは、どこにも書かれていなかった。
「そ、そんな……なんで!」
マリエルの悲鳴が、工房に響いた。
異変は、それだけではなかった。
エルフォード商会には、保存用インクを購入した客から苦情が届き始めていた。
「三月は効果が続くと聞いていたのに、一月も持たなかったぞ!」
「保存箱の術式が消えて、中の食料が駄目になった!」
「以前の商品とは、明らかに品質が違う!」
商会の応接室には、怒った客たちの声が響いていた。
リネットが残した保存用インクも、すでに残り少ない。
オズワルドは、それを補充液で薄めて販売させていた。
色はほとんど同じだった。瓶へ入れれば、見分けもつかない。
ただし、効果まで同じになるわけではなかった。
「職人たちは何をしている!」
オズワルドは机を叩いた。
「同じ配合帳があるのだろう! すぐに同じものを作らせろ!」
「それが……何度試しても、以前と同じ効果になりません」
「ではリネットを呼べ!」
工房の責任者が、困ったように顔を上げた。
「リネット様は、旦那様が勘当なさったのでは?」
「そんなことはわかっている!」
「では、どちらへ行かれたのかご存じですか?」
オズワルドは答えられなかった。
リネットがどこへ向かったのか。
どこで暮らしているのか。
誰も知らなかった。
「すぐに探せ!」
「どちらを?」
「……まずは王都の外だ!」
随分と広い範囲だった。
セドリックは、少し離れた場所からそのやり取りを聞いていた。
王宮での魔法の失敗。古代魔導書の修復。商会の商品への苦情。
すべて、リネットがいなくなってから始まっている。
「まさか……」
セドリックは、隣にいるマリエルを見た。
「これまでの魔法も、魔導書の修復も……すべてリネットの仕事だったのか?」
「違いますわ!」
マリエルはすぐに声を上げた。
「魔法を使っていたのは私です。お姉様は、少しインクを調整していただけですもの」
「少し、か」
「そ、そうですわ」
マリエルの声は強かった。
けれど、顔色は悪い。
オズワルドも苛立ったように首を振る。
「リネット一人に、それほどのことができるはずがない。ただ、あれしか知らない細かな調整があるだけだ」
「……そうですか」
部屋の中に、重い沈黙が落ちる。
誰も認めようとはしない。
けれど全員が、同じことを考え始めていた。
リネットがいなくなった。
ただ、それだけで。
今まで当然に動いていたものが、次々と止まり始めている。
一方、辺境の職人街。
リネットは朝の光の中で、自分の工房を見上げていた。
『リネットの魔法インク工房』
少し不格好な文字。けれど、誰かの名前ではない。
自分の名前だ。
扉の前には、一通の封書が届いていた。
グランフェルト辺境伯家の紋章が押されている。
中を開く。
領地の古い倉庫から発見された魔導書。
効果を失い、文字の半分ほどが消えているらしい。
その修復を依頼したいと書かれていた。
「古い魔導書……」
リネットの口元が、自然と緩んだ。
難しい仕事になりそうだ。
だからこそ、楽しみだった。
誰かの功績にされることはない。
完成した魔導書には、修復者としてリネットの名前が記録される。
自分の技術を、自分の名前で使える。
それだけのことが、今は嬉しかった。
リネットは鍵を取り出し、工房の扉を開ける。
棚に並んだインクが、朝の光を受けて淡く輝いた。
「さあ、今日も仕事を始めよう」
誰かを輝かせるためだけではない。
度は、自分の人生を作るために。
リネットの新しい一日が、静かに始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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