終章(後編) ずっと、これからも
調理実習室を後にして廊下を歩いていると、窓の外でサッカー部が元気に練習をしているのが見えた。
見学の女子たちが黄色い声援を送るのは、エースストライカーのヤヒロ先輩だ。額の「肉」の文字も消えて、まるで憑物が落ちたみたいな爽やかな笑顔で、ただがむしゃらに走っている。
横の花壇に目を転じると、女子生徒に混じって巨大な鬼……いや鬼首先輩が草むしりをしていた。後で知ったことだけど、鬼首先輩は卒業後は造園業の道に進むらしく今も園芸部に所属しているのだとか。
それぞれが新しい明日に向かって歩き始めていた……。なんて、何かの歌のようなフレーズが頭を過ぎて、思わず僕はわくわくした気持ちになった。
◇
明るい午後の日差しが廊下に差し込んで、まるで光の回廊のように見えた。
やがて図書館に辿り着いた僕は、息をひそめて中を覗き込んだ。
ここ数日の陽気で更に漂いだした古書のインクの香りが鼻をつく。開け放たれた窓で白いレースのカーテンが揺れている。
入り口脇の受付は空席で、あの無口な娘の姿は無かった。
僕の力が消えたことで、鶯崎の式神であった「塚井麻子」は消えてしまったのだ。
悲しい別れかと思われたが、修行して霊力を溜めればいつかまた会えると、鶯崎は笑っていた。
「天乃羽アキラ。そろそろ来る頃だと思っていた」
不意に、嬉しそうな声が書棚の奥から響いた。
ふわりと風が巻き上げたレースのカーテンの向こうに、少女が見えた。
肩に届くほどの長さの黒髪が風に揺れている。
鶯崎ソラ。図書館の君。紺碧のガラス細工のような瞳が僕に向けられる。
相変わらずの女子制服。だけど派手だったウィッグを外し、もともと長めだった自前の髪を整えた姿だ。図書館に張られていた結界の力は失われ、その姿はあえなく衆目に晒されることになった。
鶯崎ソラはしばらくの間、いや正確には今も学校中の注目の的だ。
「まったく、見物人と冷やかしが多くて困る、お前は違うだろうな?」
ため息交じりで僕にじろりと視線を這わす。
「僕たちは……戦友じゃん?」
「フッ。そうだな。それでこそ天乃羽アキラだ」
押し殺したような笑いに肩を揺らす。僕に向けられた眼差しは柔らかい。
鶯崎は静かに詩を諳んじた。
「――恋愛と情熱とは消え去ることがあっても、好意は永久に勝利を告げるだろう。……ゲーテ『温順なクセーニエン』第三集、だ」
口元がにっと持ち上がる。
つまりは、そういうことだった。
情熱的で盲目的な愛する気持ちを失っても、ずっと僕と友達でいてくれる。その詩はそう謳っていた。
「そうだ! 鶯崎、先日相談した同好会参加の件、考えてくれた?」
ゆっくりと切り出したその時、外で悲鳴が聞こえたかと思うとガラリと扉が開き、鶯崎ソラの使い魔娘――ざしきわらしの使い魔が現れた。
悲鳴は、走り去ってゆく男子生徒達が発したものだった。
「追い払ってくれたのか?」
「…………」
使い魔娘はこくりと頷き、鶯崎ソラにむけて静かに微笑む。
だけど彼女は次の獲物を僕に定めたらしく、鋭い眼光で睨みつける。
「えっ!? あれ? もう霊力の修行が終わったの!?」
「フハハ、私を誰だと思っている? 私は天才だ!」
「あ、あぁ、そう」
消えたと思っていた塚井も復活していたようで、僕は安堵する。
「そ、それでさ。鶯崎にもぜひ参加してほしいんだよ。頼むよ」
「天乃羽アキラがそこまで頼むなら、さ、参加してあげても……いいんだからね」
「鶯崎! キャラがブレてるよ!?」
「黒髪ロングで白ワンピと麦藁帽子が似合う、そんな女の子を目指している最中だからな」
しれっ、と言い放つ鶯崎ソラにジト目を投げかける僕。お前、何処に逝く気だよ?
「そ……それは確かに憧れるけどさ、やめてくれ……マジで」
「ふんっ。そのうち振り向かせてやるんだからね」
ちょっと拗ねたような自然な表情と仕草が結構可愛い。あ、頭がどうかなりそうだ。
バージョンアップを繰り返し進化する……恐るべき改造美少女・鶯崎ソラ。そのアップグレードは留まる事を知らないらしい。
「で、鶯崎も参加はしてくれるんだよね?」
「天乃羽アキラは……私をくんずほぐれつ密着指導するつもりなのね?」
頬を赤らめてもじもじとする鶯崎。
「変な言い方すんな! あとその上目遣いやめい! またどうにかなりそうだよ!」
◇
「アキラ……友達増えたね」
同好会申請用紙の向こうから、にゅっと顔を出した優菜。その瞳には嬉しさと驚きが浮かんでいる。
「ま、僕もいろいろあったからね」
帰り道、初夏の日はまだ高い。青々と育った稲の草原を渡ってくる風が、むせ返るような夏の草木の匂いを運んでくる。
夏色のリボンを結んだツインテールが躍る。
「これから楽しくなりそうだね!」
優菜が白い歯を見せて笑う。
そういえば『超護身術同好会』を作るにあたり記載要綱がもう一つ。
「……代表は言い出しっぺの優菜でよい?」
「ダメ。それは、アキラがやるの!」
びし、と僕の鼻を指し、優菜が眉を少し上げる。
「僕が?」
「そう。だってみんな……アキラだから集まってくれたんだよ?」
優菜は手に持った申込用紙を眺めると、嬉しそうに胸に抱きしめた。
一歩踏み出した僕が知ったこと。
それは自分が変わろうとすれば、歩きだして進めば、手を伸ばせば。見えてくる世界や、掴める可能性は目の前にいくらでも広がっている、ということなんだ。
「……そうだね。僕がやる」
僕はもう一歩進む。
「一緒だから、なんとかなるよ」
えへへ、と笑う優菜を見ていると何故だか平気な気がしてくる。
多分、この先にあるどんな事だって。
「ちなみに『護身術部』の代表の仕事って何?」
「うーん、とりあえずは、今度の文化祭で、実演」
「え? いきなり実演て、皆の前でかっこよく技を見せるとか?」
「そうそう!」
「で……僕は?」
「もう題目は決めてあるの。晶は……痴漢役ね!」
優菜が淀みなく答える。
「なにそれ酷い!」
「美波くんに襲いかかって、手首を捻られて転がるだけの、簡単なお仕事です」
「なんで僕がそんな役なんだよ!」
「このメンバーの中で、他にその役目が出来る人いる?」
びし、と僕に突き出された申込用紙をあらためて眺める。
クラス委員長で皆の憧れの美少女弥花里さん。
女の子と言っても通用する小柄で可愛い美波。
学校中の注目の的、改造美少女・鶯崎Ver2.0。
結構可愛いのに、最強の攻撃力を誇る、優菜。
あまり取り柄もないけれど、代表宣言した僕。
「って、あれ?」
あぁ……僕ですね、わかります。
「とりあえず変態さんの練習から始めてみる?」
あはは、と楽しそうに身体をくの字に曲げ笑う。
「わかった今から練習する! ……ぱんつよこせ!」
「へ、変態だ――!?」
『痴漢注意』の看板の前で悲鳴を上げて逃げる優菜を追いかける。
結局、僕達はあまり変わっていなかった。
一緒に走って、一緒に笑って、一緒に泣く。
それは多分ずっと、これからも。
「きゃっ!?」
短い悲鳴をあげて石に躓いた優菜の手を、僕は咄嗟に掴んだ。
「ごめん……、ふざけ過ぎた」
「いいの。だって晶は必ず助けてくれるし」
優菜が微笑み、僕の手をぎゅっと握り返した。
そういえば、以前と変わった事がひとつだけあった。
帰りの道で手を繋ぐ、そんな時間が増えたこと――。
二人で見上げる空はとても青くて、夏はすぐそこまで来ていた。
<おわり>